車たちの行き先
足元を流れる車たちを眺めながら飲むお酒は、いつもよりちょっぴり美味しく感じた。理由はよくわからない。ただ、なんだか美味しく感じてすいすいと喉を流れていく。
「もう一本いっちゃう?」
師匠の手には今夜三本目のボトルがあった。
「いっちゃいましょう!」
「そうこなくっちゃ!」
いい具合に酔っ払った私たちは、けらけらと笑いながら夜空から高速道路を眺めつつ、お酒を飲み続けた。高速道路は相変わらず交通量が多く、光の河は止まることなく流れ続けている。こんなにたくさんの車が動いているのに渋滞にならないなんて、この世界の運転手たちはみんな運転が上手いようだ。
「この車たちはどこに行くんでしょう?」
三本目のボトルが残り半分になった頃、標識や分岐もなく、ただただ前へ前へと伸びる高速道路を見ていると、この車たちはどこへ向かっているんだろうと気になった。ここからでは見えないだけで、出口やパーキング、サービスエリアなんかもあるのだろうか?
「どこって、そりゃあここじゃないどこかでしょ」
からん、軽い音とともに師匠からの返事が来た。隣を見ると、いつの間にか師匠は大きな丸い氷が入ったグラスでウイスキーをロックで飲み始めている。どうやら今の一瞬で残っていたワインは飲み干され、ボトルは片付けられていたようだ。
師匠がウイスキーを飲んでいるのを見て思わず「あ、いいなー」と言うと、師匠は満面の笑みで指をパチンと鳴らし、私の分のウイスキーも出してくれた。
「ありがとうございます」
私がグラスに残ったワインを飲み干しウイスキーを受け取ると、師匠はまた指を鳴らしてワイングラスをすっと消して片付けてくれた。こういう時魔法って便利だなあと思う。
ウイスキーを少し口に含む。するとレーズンやバニラのような甘い香りがふんわりと口に、そして鼻の奥に広がるのを感じた。普段あまり飲まないけれど、ウイスキーもやっぱり美味しい。
「おつまみにナッツなんてどう?」
「あ、それもいいですね」
「でしょう?」
師匠と私は顔を見合わせてからけらけらと声を上げて笑った。笑ったことに特に理由なんてないけれど、なんとなく愉快な気持ちになった私たちは笑わずにはいられなかった。ひとしきり笑ってから、師匠は白くて丸い小さなお皿にマカダミアンナッツとピーナッツ、それからレーズンを注いで私たちの間に浮かべてくれた。
師匠が出してくれたおつまみはウイスキーにぴったりだった。
「ここを走る車たちはさ、みんなそれぞれ行きたい場所に向かって走ってるのよ」
二杯目のウイスキーを飲んでいると、師匠が足元の高速道路を眺めながら言った。
「行きたい場所ですか?」
「そう、行きたい場所。まあ、目的地ね。例えば今さっき真下を走って行ったワンボックスカー。あの車は売れないロックバンドのリーダーが運転しててね、機材や自分達のグッズ、バンドメンバーを乗せて次のライブ会場へ向かってるの」
師匠が「ほらあれよ」と指を差すけど、私にはもうどの車か見分けがつかない。でも、たぶん走っていく車のどれかがそうなんだろう。
「あのバスは夜行バスだから次に向かう場所なんて事前に決まってるわよね。因みに右の窓際で前から五番目の席に座る若い男性は、社会人一年目であまりお金がなくて実家に帰るためにあのバスに乗ってるの。それから、あのトラックには数日後に始まる展覧会に並べるための芸術作品がたくさん積んであって、ドライバーのおじさんは連勤が続いてて疲れてるんだけど緊張しながら運転しているわ」
師匠は楽しげに足元を流れる車たちに乗っている人、そして彼らがどこに向かっているのかを次々に教えてくれた。
「みんな目的地があるんですね」
ただただ流れているのではなく、みんな目的地があった。高速道路なんだし当たり前か。でも当たり前のことなんだけど、走っていく車たちをずっと眺めていると、なんだか私だけが取り残されているような気がして少し胸がざわついた。
「私は進めてるのかな」
不安になりどうしても口にせずにはいられなくなった。口にすれば「進めてるよ」とか、「大丈夫よ」みたいな優しい言葉をかけてもらえるんじゃないか、そんな打算が少しだけだけど頭の中で蠢いていた。そんな自分に自己嫌悪になりつつも、私は優しい言葉に縋りたくなった。
でも、師匠は私の求める言葉をかけてくれなかった。師匠は私に向かって「どこに?」と聞いた。曇りのない目で真っ直ぐ私を見つめて。
「どこって言われても……」
「進むってどこか向かいたい場所があるから進むんでしょ? ハルはどこに行きたいの?」
わからない。どこに向かえばいいのかわからないけれど、進めていない自分に焦りが募る。
「進んでないといけないの?」
わからない。でも、何かに向かって進んでいないとダメな気がするんだ。早くスタートを切らないとって思ってしまう。
「早く進まないといけないの?」
それもわからない。早ければ早い方がいい気もするけれど、何も考えずに走り出しても意味がない気もしていて結局私は進めていない。
「そこまでわかってるんならいいんじゃない?」
「え、いいんですか?」
私は思わず身を乗り出しながら師匠を見た。それと同時にさっきまで師匠は私の心を読んで会話をしていたことに気がつく。
「ちょっと、勝手に人の心を読まないでくださいよ」
私は思わずむっとなって少し口を尖らせてしまう。師匠はそんな私を見て「ごめんごめん。でもさ、自分でわかってるじゃない」と優しく笑いながら言った。わかっている? 私が? 何を? 思わず首を傾げる。
「ハルはさ、ちゃんともがけてるよ」
「もがけて……ますか?」
「うん、もがけてる。進まなくちゃいけないって焦りながらも自分がどうなりたいかを考えていて、進むために、変わるためにもがけてるよ」
もがけてる。私の中に「もがく」という感覚がなかったので師匠の言葉はなんだか新鮮に感じた。まだ進めていないけど、変われていないけど、もがくことはできている。なんとなくわかるような、わからないような、でも、なんだか胸にすっと言葉が入ってきた。
「もがいていたら人はそのうち変わってるものよ、本人は気づいてないことが多いけどね」
「そういうものですか?」
もがき続けていたら変われる。それなら私もいつか変われるのだろうか?
「変われるんじゃない。それに……」
「それに?」
「もがいている人は輝いてるのよ」
改めて師匠を見る。師匠は優しい目で私を見つめていた。口には出さないけれど『大丈夫』と言ってくれているような気がして、胸の中の焦りが徐々に落ち着くのを感じる。
「私、輝いてます?」
「眩しいぐらいね」
「本当ですか?」
「本当だってば」
一瞬の沈黙の後、なんだか照れ臭いやら可笑しいやらで、私たちはけらけらと声をあげて笑った。高速道路の上空に女二人の笑い声が響く。
「私、変われますかね」
「変われるわよ、もがき続けていればね。魔女は長生きなんだから、時間はたっぷりあるわよ」
「え?」
驚いて思わずグラスを落としそうになった私を見て、師匠はけらけらと声を上げて笑った。まったくこの人は……思わずため息がつきたくなったけど、笑う師匠の顔を見て、この人の弟子で良かったなあと思う自分もいた。