第九章 騎士の条件
第九章 騎士の条件
海風に吹かれながら、サラディンは西の海の向こうにうっすらと見える島影を見据えていた。
「---------」
その視線の果てには、彼の故郷がある。彼が生まれ、育ち、そして父の墓に復讐を誓った地が。
しかし今、サラディンは今までのようなたぎる思いで復讐をしようという気持ちが自分の中から失せていることに気づいていた。さながら、それは長い間遺跡の中にあって発掘され、突然空気に触れて風化し、粉々になってしまう骨のように。または、熱い紅茶の中に入れた途端にさらりと消える角砂糖のごとく。吹き付ける風に前髪が舞い上がり、名も知らぬ鳥の影が海の向こうに静かに消えていった時、サラディンは覚悟を決めた。
少し手前では、仲間たちが早めの昼食を取っている。サラディンはその食事すらもとらず、崖の上から見える海と、海の向こうの影をじっと見ていたのだ。
サラディンは彼らの元へと戻り、地面に直に座り食事をしていたアリスウェイドを見下ろして静かに言った。
「アリスウェイド・・・あなたに預けていたものを返してもらいたい」
---------火山の火口を背に復讐の鬼と化した修羅・・・知らない内にあのようになる前に、オレは決着をつけたい
「---------」
仲間たちは一斉に彼を見上げた。ただ一人、クロムだけが食事の手を一瞬止め、何事もなかったかのようにまたパンを口に運んだ。
「彼との・・・クロムとの決闘だ」
アリスウェイドは目を細めた。サラディンの、その黒い瞳をじっと見入る。
澄んだ目をしている。迷いも、気負いも、なにも感じられない。なにを急に悟ったのかは知らぬが、これがあの酒場で大暴れした若者とはとても思えない。
アリスウェイドは視線をクロムへと戻し、彼がまるで周囲の見えない動揺やサラディンの言葉など耳にも入っていないような淡々とした表情で水を一口飲み、剣を引き寄せたのを見て、そっと息をついた。
「---------いいだろう」
アリスウェイドの言葉と同時にクロムが立ち上がった。そしてアリスウェイド自身も立ち上がると、
「あちらへ」
と海が見える影とは反対の場所の草原を彼らに示した。
今は爪の先ほどの大きさ程度までに遠くなった火山に向かって歩いていく三人を、仲間たちは呆気にとられて見つめ、ようやく事態を把握して、彼らは荷物もそのままに走り出して彼らを追った。
仲間たちが三人に追いつく頃、早くも遠くに聳える山脈を背景に、二人の戦士は適当な距離を置いて向かい合おうとしているところであった。剣を抜き、鞘を外す。
その間に立ち、ちょうど仲間たちには背を向ける格好で、アリスウェイドが二人の決闘を預かっていた者の義務として審判をかって出ている。
「両者、よろしいか」
かける声も、いつもの様子からは想像もできない厳しさを秘めている。
右にクロム、左にサラディン。命をかけた決闘、一本きりの真剣勝負だ。
サラディンが剣を構え、クロムがそれに応えるように静かに切っ先を持ち上げた。
「始め!」
ザッ・・・
二人はほぼ同時に大地を蹴った。
キィィン!
二人の剣が激しく噛み合う。火花が散り、何度も何度もその刃が重なり合い鬩ぎあうたび、二人は渾身の力を込めて相手の剣を引き離そうとした。
ザァァァアッ!
・・・ィィン!
草原は、二人が走り、飛び、何度も交わす剣の音で埋め尽くされた。時に激しく斬り結び、時に時間を忘れて睨み合い、二人は自然と腹の底から絞り出される気合いの声をそれと知らずに吐き出している。初めは、仲間同士ということもあって軽く考えていた仲間たちであったが、その内二人のあまりの真剣さ、気合の凄まじさ、斬り合うたびにどちらも軽い傷を負い始めるのに従って、息を飲み微動だにせずに見守り始めた。特にセシルは、傍目でもはらはらして見ているのかよくわかる心配ぶりであった。両手を祈るように合わせ、その手を白くなるほどぎゅっと握り、目の前で起こったすべてのことを見ていようと言わんばかりに見開かれた明るい青の瞳は、痛々しいばかりであった。それでも、彼女はサラディンの剣が薄くクロムの腕を切り裂いたり、激しい斬り合いの末互いに後ろに飛びすさって呼吸を整えながらにらみ合った時、クロムのその頬につ、と血が流れるのを見るたび、小さく悲鳴を上げたり目をぎゅっと瞑ったりして、なんとかならないものかと動揺しているように見えた。ここでクロムが死んだらどうしよう、自分は、今度はクロムの仇と彼を付け狙うことになるのだろうか?
しかししばらく斬り合ってやり過ごすため距離をおいた時、二人の実力の差はそこに歴然と出ていた。サラディンはその顔に汗を幾筋も滴らせ、見ていて気の毒なほど息切れしている。肩で、というよりは、全身で息をしている。一方のクロムは、多少の呼吸の乱れはあるものの、彼と少し距離を置いて睨み合うたび、その息遣いはすみやかに元に戻っている。
「技術、体力、筋力、腕力・・・そして経験。どれもサラディンは彼の足元にも及びません」
ずっと決闘を見守っていたヴィセンシオがまた二人が斬り合うのを見ながら静かに言った。その目は、じっとサラディンの動きを追っている。
「無理もないね。聞いた話によると、あいつが旅を始めたのは十七の時だそうじゃない」
「クロムはその時、とっくに傭兵としてどこかの戦場で戦っていたはずだ」
ナタリアの言葉をディアスが受け止めた。仲間たちの中では、ディアスはクロムと一番長く時を過ごした男である。彼の剣の腕に関しては知りすぎるほど知っているし、だからサラディンとの腕の差も熟知している。
と、突如クロムが睨みあっていた体制から音もなく後ろへ飛びすさり、む、とサラディンが唸るのと同時に、そのまま勢いに乗って一気に彼の懐へ飛び込んだ。
!
受け止めて受け止めきれず、サラディンは肩が強烈に痺れるのを感じた。痛みに顔をきつく歪め、空が見えてその時初めて、彼は何が起こったのかを悟った。剣は弾かれ、彼は余りの勢いの凄さに突き飛ばされて宙を舞った。昔のサラディンなら、ここで倒れ伏していただろう。しかしサラディンはのげぞるようにして倒れた姿勢のまま勢いをつけて背転し、片手を地面につけて身体を支えるとそのまま倒れ、着地すると同時にクロムの剣の範囲より外に出、彼方へ飛んで行こうとしていた剣を追った。
「ほう・・・よくも刺されなんだな。大したものだ」
ディアスが腕を組んだまま、彼にしては珍しく低い声で賞賛の言葉を呟いた。
ザアアアアア・・・!
二人は風を切って移動した。一方は円を描いて回転しながら飛んでいく剣を追い、一方はその相手を追う。アリスウェイドも風のような速さで二人の側から離れず、仲間たちは走って行った先で大地に突き刺さった剣を引き抜き様反動をつけて地面を蹴り、そのまま向かってきたクロムに向かって突進するサラディンを見た。しかしそこまでだった。
クロムはすべての呼吸と距離を瞬時に計算して、サラディンが攻撃に出る直前に今度は立ち直る隙を与えない程の強さで剣を弾き飛ばし、その余りの力にまたもや跳ね飛ばされ、大きな音と共にそこに仰向けに倒れたサラディンに、返す刃で一刻の猶予も与えぬ速さでその切っ先を彼の喉元に突きつけたのだ。
「う・・・」
サラディンは顎に当たるその冷たい刃の光さえ、戦いで火照った身体に心地よいと思った。思い出したように心臓が凄まじい速さで脈打ち、肺が呼吸するのも忘れていたかのようにぜいぜい言っている。緊張でそこまで神経がまわっていなかったのだろうか。全身が湯上りのように熱く、手と足がじんじんと唸りを上げている。肩が今更のように悲鳴を上げている。その信じられないほど荒い呼吸の下から、サラディンは自分に剣を突きつけている男を吃と睨み、ようやくのことで言った。眩しくて、その顔もよく見えない。
「殺せ」
喉がひりひりする。肺がびりびりに裂かれるかのように激痛を訴え、今の今まで感覚がないほど強く打ち付けられた肩は、骨の髄から痺れて痛い。
「殺せ・・・お前の勝ちだ」
サラディンはやっとのことでもう一度言った。なぜか、晴れ晴れとした気分だった。無念な思いは微塵もない。
しかしスッ、とその剣を引き、クロムは低く言った。
「仲間は殺さない」
そして審判に一度だけうなづいて見せると、食事をしていた場所に戻るべく、何事もなかったかのように歩き出した。セシルは慌ててその後を追い、傷の具合を聞いている。仲間たちも互いに顔を合わせ、誰からともなく元いた場所へと歩き出していく。アリスウェイドはうむ、と低く呟き、前代未聞の決闘の結末について思いを馳せていたが、勝者がそれで良いというのなら、敢えて何も言うまいと彼も歩き出した。
サラディンは息が整い、全身の火照りが引いてくるのに従って、強烈な悲鳴を上げ始めた肩のことも無視して、草の中に埋もれて空を見ていた。
小さな雲が、ゆっくりと流れていく。
青いな・・・なんてきれいな空だ
サラディンはクロムとの戦いを頭の中で反芻して少しだけ口元に笑みを浮かべた。
―――――父上・・・これでよかったのですね
戦いの中で、サラディンはクロムの向こうに父を見た。父の腕を見、父の動きを見、その厳しかった瞳を見た。父と戦い、剣を交えたクロムは、父の言いたいことを代弁し無言で伝える為に彼と戦ったのだ。サラディンが戦っていたひとしきり、相手はクロデンドルム・ブルーエルフィンではなく彼の父そのものだった。そして剣の一太刀一太刀は彼にこう告げた―――――
サラディン、世界はお前が思っているほど狭くはない。空はお前が思っているほど低くはなく、お前が思っているよりもずっと青い。
目を見開いて世界を見ろ---------二つの目だけではなくその心の目をも見開いて。
私は父としてそれをお前に言いたかった---------
彼はそっと目を閉じた。
そうだ---------空はもっと高い。もっと青い。まだまだ世界には、色々な人々がいて色々なことがある。オレは、まだその半分も見ていない筈だ。
---------心を解き放て。そうすれば、狭い肉体を越えて魂までもが自由になれる。
ふう、とサラディンは全身の力を抜いた。どれくらいが経っただろうか、時間も忘れてぼおっとしていると、いつの間にやってきたのか、寝転がっている自分を覗き込むヴィセンシオがいた。
「ぅわっ」
「気が済みましたか」
サラディンは起き上がり、それでもヴィセンシオにばれないようにと肩を庇いながら、ばつの悪い顔をした。
「・・・・・・・・・」
「皆が待っていますよ」
サラディンはヴィセンシオの顔を見た。
僧侶であることに疑問を感じ、僧侶であることが『自分の最高の在り方』ではないのだろうかと疑問を抱いた男。この男の目には、今の自分は果たして最高の在り方であるように見えるのだろうか。
「どんな顔で戻ればいいというんだ」
ヴィセンシオは肩をすくめて笑った。
「思うままの顔で戻ればいいんですよ。悔しければ隠さず悔しい顔をすればいいんです。 肩が痛いのを隠さないのと同じに」
サラディンはなんともいえない顔になった。
「ちぇ・・・気づいてたのか」
ヴィセンシオは少し声を上げて笑い、そして手を伸ばした。
「さ、立てますか」
「ああ」
立ち上がり、その拍子にまた悲鳴を上げた肩の痛みに顔を顰めて、サラディンは上を見た。
白い雲が、またどこからかやってきて流れていく。
1
ナタリアが思うに、ガラハドという男は、彼女が今まで見てきた男の中でもかなり変わっている分野に入るのではないだろうか。変わっているというのは違うな、とナタリアは考え直す。掴みどころがないといったほうがよい。
火山の中で垣間見せた、あの微妙な表情。そして、あの男を説得するときの、他人事では済まされないような気迫。ナタリアがぼおっとしていると必ず側に近寄ってきてそれこそ歯の浮くような言葉の数々で口説いてくるが、普段は真剣な顔で前を見、後ろの方を歩くときは絶えず周囲に気を配る、頼れる仲間でもある。戦いともなれば彼の後方での仲間に対する指示は的確で、アリスウェイドやディアスが前にいてとてもそんな余裕がない時、彼が統率するのとしないのとでは仲間たちの消耗の仕方が格段に違う。
ならば、自分を口説く時くらい真面目にしていればいいのに、とナタリアはおかしなことを思う。
彼のあの歯の浮くような言葉の数々は、どちらかというと盾に見えてしまう。負った傷を癒しきれず、それを負ったまま自分自身をさらけ出すのが嫌で、こちらの反応を別の言い方で試しているような。
彼の過去になにがあったかは知らぬが、ナタリアは旅を続けていく過程で、当初ガラハドに対して感じていたどうしようもなく女遊びの激しい男、という見方がなくなってきているのを感じている。
「考え事か」
ハッと顔を上げると、周囲の見回りから帰ってきたガラハドが隣に座ろうとしている。 アリスウェイドとディアスは、まだのようだ。
「・・・・・・」
ナタリアは何と言っていいのかわからないまま黙っていた。ガラハドはそこに座り、剣を置いて水筒の水を少し飲むと疲れたようにため息をついた。
「随分疲れてるね」
珍しいな、と思ったので、ナタリアは思わず口に出して言った。機嫌が悪かったり疲れたりしていても、ディアスと違いガラハドはあまりそういうことを表に出さない。恐らくは、長い間騎士として主の側に仕えていた習性によるものだろうか。
「そうでもないけどね。野営地の周囲を一人で歩くと緊張するからだろう」
「あ、そうか」
火を見ながら、ナタリアは小さく答える。しばらく沈黙が続いた。
焚き火の光を浴びて、ナタリアの横顔が黄色に輝いている。その美しさに、ガラハドはしばし言葉を忘れた。美しいだけではない、ナタリアは、本人はそれとは知らずに人を惹きつけるものを持っている。
「---------」
ガラハドは胸を衝かれた思いだった。自分で思っているよりも、この女戦士に心奪われている。何故だろう、何故なのだろう。
「―――なに?」
ガラハドは視線を彼女から外した。
「いや---------みとれてた」
またか、という顔にナタリアはなった。しかし、聞き慣れたいつもの物凄い口説き文句は出てこなかった。
「君が嫌というのなら言わないが、」
「---------」
炎を見つめながら、低い声で言うガラハドのその見たこともない表情に、ナタリアはどきりとする。
「何をどう言えば気持ちが通じる?」
尚も炎を見たまま、ガラハドは言った。
その真剣な横顔に、ナタリアはいつものように怒鳴ることもできず、またどう答えてよいのかもわからず、このまま席を立つのも的が外れた行いと思い、結局何も言えず、何もできずに、膝を抱えて顔を埋めたまま炎を見つめるだけであった。ガラハドも、また何も言わなかった。
パチ、とそんな二人の代わりのように、焚き火が小さく爆ぜた。
アリスウェイドが見回りに行って来る、と言った時、ディアスがオレも行こうと言いガラハドと二人でほぼ同時に立ち上がった時、セシルはなんだか自分もクロムの側に行きたくなって、三方にそれぞれ散らばって行った仲間を見、ちょっと考えてからクロムの後を追った。走り寄る気配でわかったのだろう、クロムは星空を背に、振り向いて立ち止まった。
「私も行くわ」
「・・・・・・」
クロムは例によって何も答えずに、また静かに歩き出した。
美しい夜であった。
季節は秋の訪れようとする十月の半ば、空は冴え冴えと澄み渡り、濃い紺青の空には、刷毛で刷いたような素晴らしい星空が広がっている。そのあまりの雄大さの下で、不安になるほど自分の小ささを思い知らされる。これだけ毎日必死に生きていても、自分はこの自然の、ほんの顧みられないほどわずかな一部でしかない。
二人はしばらく無言のまま歩いた。クロムがなにかの気配にふと顔を上げ、立ち止まる。 一匹の狼がこちらをじっと見ていたが、その内警戒の色を見せながら間合いを窺うようにやがて暗闇に消えていった。
立ち止まった拍子に、セシルは頭上を見上げる。
クロムもつられるようにして、そっと上を見る。
「すごいわね」
吐く息の白さに目を細め、セシルは呟くように言った。
そして視線を戻し、星を無表情に見上げるクロムに静かに言った。
「あの時・・・わざとサラディンが剣を拾うのを待ったわね?」
クロムが視線をこちらに戻す。その顔は相変わらず、自分の考えなど微塵も表われてはいない。
追いつかないはずがないのだ。
あの時、自らの剣を追うサラディンに、追いつこうと思えば追いつき、背中から彼を仕留めることも、加速をつけて飛び上がり様脳天から直撃することも、クロムには出来たはずである。しかし彼はそうしようとはしなかった。
セシルの瞳に微笑みが浮かんだ。
「あなたのそういうところが好きなのよ・・・」
セシルは彼にもたれかかり、その広い胸に手を置き、顔を埋めた。
二呼吸ほどして、クロムはその背にそっと手を回し、二人はしばし無言でそこに立ち尽くしていた。
それは、暗闇の広がる草原では大して目立つ影でもなかった。
いよいよ儀式の最高潮を迎えるという時、アナンダの側近たちは誰もが息を飲んでそれを見守っていた。
なにしろ、ここぞという時に必ず致命的な邪魔が現われ、その度アナンダは立てないほどに消耗し、人事不省に陥ることもしばしばであった。
強力な術を遠隔で施す時、術者は肉体に相当な負担を強いて儀式を行う。それが成功したのならまだしも、失敗した場合は放った術のエネルギーがそのままこちらへ戻り、本来は術者から生まれたものにも関わらず、そうとは知らずに術者そのものを攻撃する。悪い場合は、肉体が耐えられずに死に致ることもある。術を生み出す際の疲弊した肉体に、そのエネルギーが戻ってくるだけでも相当なダメージのはずなのに、アナンダはよく粘った。 目指すあの紫石、あの金髪の娘が四六時中魔法を使えるのはあの紫石の凄まじいエネルギーだということは大体の予測がつく。それが天体を越えるものであるのなら、一体どんなエネルギーなのかを知り、無論のことアナンダがそれを自分の野心の為に利用するのは目に見えている。
水晶玉から紫色の煙がまことしやかに、ひっそりと出てくると、たちまち意志のある生き物のようにくねくねと動き、やがてなにかの紋様のような形をとると楕円形となり、たちまちそれは鏡となった。
鏡の向こうでは、あの金髪の娘がどこかの街の共同井戸の側で顔を洗おうとしている。 アナンダの詠唱の声が、一瞬強まった。瞳を閉じすべてに集中しているはずなのに、彼はその鏡の向こうが見えているかのようであった。
あの娘が顔を洗う時は、指輪をはずすということを彼は知っていた。この娘があんな油断のならない男と共にいる以上、今までのようなやり方では必ず失敗する。
で、あるから、娘が指輪を外し、色々な手回り品の側のタオルの上に置いた時、さすがの側近たちも一瞬非常に落ち着きをなくした。
が、アナンダはあくまでも冷静であった。
詠唱の高まりと共に、アナンダの右手が静かに動いた。それは、初めは舞を踊るように軽やかであり、ひらひらと飛ぶ蝶のようでもあった。次第に呪文の威力がその手に宿って行くと、その手の外側は暗い赤色の光に覆われた。それは、あたかも地下でふつふつと躍動の時を待つ火山の溶岩のように。或いは冬の朝の、妖しげな紫を帯びた暁の光の如く。
そしてアナンダは時が満ちたのを知って腕をググッ、と動かした。鏡の向こうでは、それと気づいて注意して見なければわからないほどに、空間に裂け目が生じている。
今誰かに気づかれれば失敗だ。
誰もが抱いたその緊張感のせいで、室内の空気はわずかな咳一つでどうにかなってしまいそうに張り詰めている。
空間は、やっと拳一つが入るか入らないかの大きさにまでなっている。
アナンダが、見えない穴の中に右手を入れるような動きをした。一瞬遅れて、娘が顔を洗い終えた、その側に、暗赤色の光に覆われた手が空間の向こうから現れる。
慎重に、慎重に・・・
そしてふと、さすがに何かの気配に気づいた娘がそちらに目をやった時、アナンダは右手をぐっ、と掴んだ。
一瞬遅れて鏡の中の腕が指輪を掴んだ時、側近たちは叫び声を上げそうに興奮した。
鏡の向こうで、娘と側にいた誰かが叫ぶ姿が見え、その直後、アナンダの右手も裂けた空間も、初めからなかったかのように消えてしまっていた。
「アナンダ様・・・!」
指輪を掴んだまま、ぜいぜいと激しい息遣いのまま倒れたアナンダを見て、側近たちが慌てて走り寄った。今までのアナンダならば、激しく痙攣し、時々泡を吹き、激しい肉体の痛みに三日三晩苦しみ抜くようなとんでもない状態であったが、今は術が成功した上、莫大なエネルギー源をその手に握っている。
息が荒いだけで、その他は別になんともないようであった。
「・・・・・・大事ない・・・・・・」
やっとのことで言ったアナンダであったが、度重なる失敗による肉体の受け続けたダメージは大きかった。術そのものが強大であったというのも手伝ってか、彼は一人で立ち上がることができなかった。
しかしそれがなんだというのだろう。
彼はようやく、この紫の石を手に入れたのだ。
悲鳴が聞こえてきた時、サラディンとディアスは井戸の側の、円柱に作られた石の椅子に座り、剣の研ぎ方について話しているところであった。
その叫び声で二人の会話は途切れ、一瞬ののち、二人はほぼ同時に井戸の方へと走って行った。リスレルとセシル、そしてナタリアがそこにいた。
「どうした!」
「ててててててて手! 手!」
ナタリアが泡を食って両手をあわあわあわあわ、ばたつかせている。セシルは蒼白になって立ち尽くし、リスレルはどうしていいのかわからない、何が起こったのかもわからないという顔でそこに座り込んでしまっている。
三人が三人ともひどく狼狽しているので、悲鳴を聞いて駆けつけた他の仲間と共に泊まっていた宿へ連れて行く。ナタリアは水を三杯立て続けに飲んで、
「手が。手が」
と言った。
「そんなに飲んでもまだ落ち着かないのか。厄介な女だな」
ディアスが呆れたように言い、ナタリアは違う違うと首を振った。
「手が。手が出てきたの。手が」
「手はわかった。誰の手だ。何があった」
泣き出すリスレル、放心しているセシル、動揺から立ち直れないナタリア。
ようやくのことで三人から聞き出したことは、突然空間の向こうから現れた不気味な手が、リスレルの指輪を掴んで消えてしまったという。
「---------指輪を?」
アリスウェイドは訝しげに眉を寄せた。
「どういうことだ。指輪って、あのリスレルがしてた指輪のことだろ」
サラディンが泣き出したリスレルにおろおろしながら聞く。
「そうだ。リスレルの母、私の弟の妻だった人の形見だ」
「そんなものをどうして・・・」
ディアスは低く呟いた。形見というものは個人的なものであって、持ち主以外には何の意味もないものである。まああの指輪が、例え宝石としての価値を持っていたとしても、いくらなんでもやることが大掛かり過ぎる。蒼白になっていたセシルがようやく言ったところによると、あれは遠隔魔術と言って、非常に危険な魔術のうちに数えられるらしい。 よほどの術者でないと使いこなすことが出来ず、失敗して死に致る者も少なくないという。
「そんな実力者がなぜ・・・?」
エストリーズの澄んだ声が、静まり返った部屋の中にそっと響いた。
アルセストは事の一部始終を見ていた。
彼はアリスウェイド一行と違って団体行動ではないし、リスレルから目を離したりもしない。また剣士にしては独自の哲学を持っているので、少々の悪事を依頼されたところで、平気で引き受けるということもある。
それが悪事だというのなら、セシルの実家に忍び込み、貴重な書物や紋章の類を盗み出した挙げ句に火をつけるというのだって立派な悪事であろう。で、あるから、あの遠隔魔術を駆使してあの石を奪ったのは誰か、あの手の持ち主は誰かということになると、彼にはすぐにわかった。寝転がっていた樹上で、アルセストは鋭く目を細めた。
---------アナンダか・・・。
彼は起き上がり、泣き出したリスレルが仲間の手に引かれて宿に入って行くのを見ると立ち上がった。
エセ魔導師が、どうやら先を越したつもりでいるらしい。しかしそうはいかない。
アルセストは凄い速さで地面に降り、着地と共に風を巻き上げるようにしてどこかへ走って行った。それを見ていた者には、単なるつむじ風にしか見えなかっただろう。
とにかく、どこか大きな街か王国の城下町に出て、占い師に見てもらおうという言葉でリスレルはやっと泣き止んだ。幼い頃から持っていた、唯一の母の形見。もう顔もおぼろげで覚えていない母の残した指輪。それは、自分が母と父の子であり、リスレルという存在であることを示す唯一のものであった。孤児としてマエリガン修道院で育ち、魔法を習得なしがらも、いつか自分の肉親が会いに来てくれると信じていた。その時、自分がリスレルであるという証拠は、あの形見の指輪のみであった。夜、どうしようもなく人恋しくて眠れないときは、ぶかぶかの指輪を小さな指にはめ両手で覆うようにしてそれを母だと思った。なくさないようにとシスターが鎖をくれた。そこからいつも首に下げ、リスレルは空を見、星を見てはそれらを数え、そうして自分を落ち着ける術を身につけていった。 ようやく再会したアリスウェイドは、肉親ではなかったものの、父と母を知り、父を弟として共に過ごしてきた人であった。やがて指輪が指にすっぽりと収まる歳となり、リスレルは気がつけば、ずっと時を共にしてきたこの血の繋がらない男に恋している。
いつも、あの指輪は自分の側にいた。自分の全てを知っている、唯一のものだった。
それが今、突然何の前置きもなく奪われて、リスレルは今までの自分がいなくなってしまうようなどうしようもない不安に駆られるのと同時に、母の唯一の形見を失ったという悲しみにもとらわれた。
泣きはらした顔を拭き、言葉少なく一心に歩くリスレルを見ていると、彼女の普段の明るさを知っているだけに、仲間たちの胸も痛んだ。
そして三日後、ようやくマイニェンの城下に着いた時、それは起こった。
突然ファステイル大陸のアドヴィエス王国が、全世界に向けて無差別の戦争宣言を発表し、同国より飛び出した巨大な空母から放たれた幾つもの戦艦が諸国に攻撃を始めた。
艦そのものの威力としては中の上程度だということだが、空を覆わんばかりに巨大な空母は昼夜を問わず空を飛びつづけ、各地の被害は甚大だということだ。
「アドヴィエスか・・・あまりいい噂は聞かん」
ガラハドが渋い顔で言うと、ヴィセンシオもうなづいて、
「いつの間にそんな巨大な戦艦を造っていたのでしょうか。それに昼夜問わずというのも解せません」
元僧侶の顔は今まで見たこともないような厳しいものになっていた。
「ふつう飛行船に使える魔道石は四つまでが限界です。昼二つ、夜二つ。交代で使わなければ石が保たないし、かと言って夜に運行するのに太陽の光だけの恩恵を受けた石だけというのも無理な話です」
「話に聞くところによるとその空母はだいたい民間の飛行船の七倍の大きさということだ」
「だが戦艦となると搭載している武器や人員の重さも民間のもの以上になるはずだ」
そして戦艦である以上は、必ず上空からの複数魔導師による攻撃があるはず。時には、それを大砲のようなものに凝縮して攻撃することもあるという。
「妙だな」
サラディンが腕を組んで考え始めた。
「それだけの重い艦だぞ。どれだけの魔道石がいる」
「恐らく両手では数え切れないでしょう」
「だがそれだけの魔道石を時間をかけて入手しても必ずどこかからそういう話を聞く。アドヴィエスが魔道石をかき集めているという話は聞いたこともなければ、あの国にそれだけの資金力があるとも聞いたことがない」
各国は一斉に反撃の準備をしているが、あまりにも受けた被害が甚大で、すぐに反撃できる態勢ではないという。
「・・・・・・」
一同に重苦しい沈黙が広がった。世界規模の問題となってくると、旅を続けるどころではなくなってくる。
と、どこかから慌ただしい羽ばたきの音がしたかと思うと、突然開け放しにした窓から一羽の鳩が飛んできてアリスウェイドの前のテーブルに降り立った。元は白かったのだろうに、なにがあったのか所々に傷を負い、薄汚れて元の色がわからない。
「な、なんだ・・・?」
「鳩・・・」
アリスウェイドは目を見開いて鳩を見た。いくつもの傷を負っているが、これは明らかに魔法によるものだ。そしてなにより、伝書鳩というものは各地にある通信所間を行くように訓練されているものであって、個人のもとに行くようには訓練されていない。と言うよりは、常時移動している人間そのものに向けて鳩を寄越すなどということは本来不可能であろう。
「すごい・・・初めて見ました」
「噂には聞いたことあるけど・・・」
エストリーズとセシルがうなづき合っている。二人の目には、今とんでもないものを見たという驚愕と新鮮な驚きの光が宿っている。鳩は弱りきった目でアリスウェイドを見上げていたが、かくかくと震えたかと思うとぐったりしてそのまま息をしなくなってしまった。
「あ・・・死んじゃった・・・」
「よっぽど激しい追撃を受けたのね」
セシルは腕を組んだ。彼女の目にも、この傷のすべてが魔法の攻撃から逃れるときにできたものだということがわかる。これだけの追っ手を振り払い、この鳩はようやくアリスウェイドの元へ辿り着いたのだ。
「相当な術者じゃないとこんなことはできないわ」
セシルが硬い表情のまま言った。相当な術者・・・それは、リスレルの指輪を奪った者にも通ずる言葉だ。この鳩は一体どこから来たのか。
「通信所間しか行き来しない鳩を個人宛てに飛ばせるということは、鳩を飛ばす前に相手のことを頭に念じ、それを鳩に伝えなければならないと聞きます。ですが、相手は言葉の通じない動物、完全に相手に届けるほどの伝達能力を持つということは、つまりはそれだけ念の力が強いということになるはずですわ」
一体誰が・・・? 彼らの目は一斉に鳩の足環から手紙を取り出そうとするアリスウェイドの手に集中した。アリスウェイドはざっとそれに目を通し、最後の署名を見てそっと目を瞑った。
「誰だったんだ?」
サラディンは何か考え出したアリスウェイドの手から手紙を取って読んだ。彼が抵抗しないということは、読んでもいいということだ。
「あ・・・」
サラディンは思わず小さく声を上げた。側からそれを覗いた仲間たちも、反応はまちまちではあるが同じように驚きの反応を見せた。
手紙は、教皇ベアトリーチェからであった。
いや、今は教皇ではなく、アンティエメ王国国王の未来の花嫁と言ったほうがいいだろう。現在彼女は教皇の地位を退き、約半年後をめどに準備を急いでいる結婚式のために日日忙しい生活を送っているはずだ。が、突然教皇がいなくなってしまうのも色々と大変なので、引き継ぎをし、指導をしながらゆっくりと自分のいなくなった穴を埋めるための補佐をしているので、引退しても実際には教皇兼任というかたちになっているのかもしれない。なるほどもう退いたとはいえ教皇にまでなった女性である。個人宛ての鳩を飛ばすくらい、なんでもないはずだ。
巡礼の地まで行くというベトアリーチェを守ってかの地まで赴いたのが、昨日のことのように思われる。あれからもう、半年が経ったのだなとサラディンはちらりと思った。
手紙にはこうあった。
『 親愛なる友アリスウェイド様
何羽もの鳩を飛ばしては失敗し、今また数十の鳩を飛ばして、どれだけの鳩が生きて 貴方様の元へこの手紙を届けてくれるかは、今のわたくしには想像もつきません。
ご承知の通り、アドヴィエス王国が全世界を相手に戦を始めた様子、陛下もお心を痛 めておいでです。わたくしが耳に致しましたところによると、かの国の空母は昼夜を問 わず世界中の空に出没し諸国を攻撃しているとのこと。ですが、かの国がそれだけの魔 道石を質・量ともに所有しているという話は教皇の頃より耳にしたことがなく、不思議 に思っていたところ、先日神殿の水鏡より空母の様子を目に致しまして、謎が氷解しま してございます。 』
「どういうことだ・・・?」
ガラハドが側から訝しげな声を上げた。
『 先頃巡礼の地へ赴くにあたり、貴方様とお仲間の方々に守られて行く行程の最中、
わたくしはリスレル様とお話しする機会がございました。
その時、リスレル様はお母上の形見だと言って乳紫色の石を見せて下さりました。そ して、わたくしはあの石から尋常ならざる凄まじい波動を感じたのでございます。
あの石こそが、今アドヴィエスの空母の動力源となっている魔道石に相違ありません。 わたくしはシェヴィロトの水鏡からあの時リスレル様に見せて頂いた石と同じ波動を 感じ、またまさかと思い別の術にてかの空母の艦内に意識を飛ばしましたところ、あれ だけの攻撃を繰り返す空母にしては魔道障壁が甘く、わたくしの意識は簡単に艦内に侵 入致しました。そして間違いなく、あの石を見たのでございます。
状況から鑑みて、あの指輪はかの国に略取されたと見て間違いないかと思います。
アリスウェイド様、あの指輪をなんとしてもお取り返しくださいませ。あれは、悪意 あってあれを使おうとする者には万能の力を与えましょう。アドヴィエスは、その最た るものと言っても差し支えはありません。
あの石がどういうものなのか、わたくしの口から申し上げることはできません。
ですがこれだけははっきりしています。あの石はリスレル様の持つべきものなのです。
どうかあの石を、本来の持ち主であるリスレル様の元へ、無事にお遣わし下さいませ。
その為に、シェヴィロト神殿とアンティエメ王国はあらゆる協力を惜しみません。
それでは、旅の無事と御武運を。
ベアトリーチェ・レイノーリン 』
しん、と仲間たちの間に言い難い沈黙が漂った。
あの石がアドウィエスに・・・?
しかし何故・・・。
口には出せない、様々な思いが一斉に彼らの胸に去来した。それは例えて言うなら、リスレルすらも傷つけてしまいそうになるほどぎりぎりの線までの疑いや思いがあったと言ってもいいだろう。
「妙ですね」
ヴィセンシオが最初に口火を切った。
「教皇さまの仰る通り、あのリスレルの指輪が空母の動力となっているとしたら、あの石は魔道石だということになります。リスレル、知っていましたか?」
リスレルは慌てて首をぶんぶんと振った。ヴィセンシオはそれにうなづいて見せる。
「そうでしょう。私だとて、言われるまではちっとも知りませんでした。それは私よりずっと先にリスレルと一緒にいたセシルとエストリーズも同じだと思います」
二人の学師は同時にうなづいた。
魔道石は言うなれば魔力をその身の内に秘めた秘宝である。天体の恩恵によってその魔力を授かり、様々の効果を生み出す。それだけの魔力が側にあれば、魔法を使う者が側にいて気づかないはずがない。
例えば特定の星の光で契約している魔導師が、太陽の光によってその力を発揮する魔道石を持っていれば、夜と同じように戦うことができるとまでは行かないが、少なくとも自分の身を守ることぐらいは可能なはずだ。しかしそういった秘宝は見つかりにくく、また大抵が非常に高価なので、冒険者たちの手に渡ることは稀だ。大方の魔道石は王国や民間の企業などが買い取ってしまい、各自が所有する飛行船の動力源にあてられている。それでもごくほんのたまに、古代の遺跡の片隅でそれらが冒険者の手によって発見されると、その一行と共にいる魔道師が魔道石を手に入れるわけだが、そんなことをしなくても太陽と星のそれぞれで契約している魔導師を二人仲間にすればいいわけで、大抵はそれは売られてしまう。また冒険者の中で魔道石を持っている者がいたりすると、それは必ず冒険者の間で噂になる。魔法従事者で夜しか戦えない者が昼に戦えるまでとはいかないが、仲間の手を煩わせずに自分の身を守るくらいのことが出来るのなら、それはもう大したものだ。 その者が一人ではなく誰か他に仲間がいたりすれば、またその仲間も賞賛の対象となる。 高級娼婦の一人や二人は身請けできてしまうような莫大な金を手に入れることができるほどの秘宝を持っていて、またどうしても持っていなくてはならないというわけではないのなら---------別の天体で契約している魔導師を仲間にすればいいわけだから---------さっさと売ればいいものを仲間に持たせることのできる気概は、見上げたものであろう。
「そうかあ?」
サラディンが間抜けな声を出して両手を頭の後ろで組み、椅子によりかかってゆらゆら揺れている。
「それで少なくとも仲間の命が保証されるならいいじゃないか。昼の戦闘で一人を庇って戦うのとそうじゃないのとだったら、えらく消耗が違うぞ」
「金貨千枚でもですか」
「せっ・・・!」
絶句し、椅子に寄りかかって不安定な姿勢ということも忘れて身を乗り出したために、サラディンは椅子ごと後ろにこけてしたたかに身体を打った。頭を押さえながらなんとか起き上がり、テーブルの縁に掴まってサラディンは半ば叫ぶように言った。
「金貨で千枚!? 銀貨じゃなくて!?」
「そんなにすんの?」
ナタリアも果実酒の入った杯を手で弄びながら聞き返した。
「最低でもね。オークションでは金貨千枚からだそうですよ。それだけのエネルギーがありますからね。もっとも、太陽の恩恵でエネルギーを持つ魔道石は夜にはただの宝石です」
「でも母艦に使われている石は昼夜を問わず、しかもすごいエネルギーらしいじゃない」
「そこなんだ」
ガラハドは腕を組み、先ほどからヴィセンシオの言葉をずっと聞いていたが、初めて顔を上げて言った。
「リスレルの指輪は昼も夜も作動している。リスレルも昼夜を問わず魔法を使える。
ならば、リスレルの魔力は元々指輪から来ていると考えるのが妥当じゃないのか」
ハッとして一同はリスレルを見た。リスレルも多少青くなってうつむいている。それが本当なら、今の自分は魔法を一切使えない、ただの非戦闘員ということになる。
「リスレル、なにかやってごらん」
アリスウェイドが静かに言った。リスレルは青い顔のまま彼を見上げ、安心させるように力強くうなづかれると、視線を元に戻してしばらく考えた後、震える声で短く詠唱を始めた。
フッ・・・
手の動きと共に、テーブルに置かれていた蝋燭に火が灯った。
安堵ともつかないため息が、全員から漏れる。
「はずれだったわね」
セシルが真顔で言う。しかし蝋燭に火が灯る前は、セシルもガラハドの意見が正しいに違いないと思っていた。そうでなければ、やはり天体のエネルギーで契約せずに魔法を使えるわけがないのだ。
「でも、よく考えればリスレルはアリスウェイドと会うまでは修道院にいたはずだわ。ただの修道院じゃない、魔法を教えるシスターのいるマエリガン修道院よ。そんなところで育っていて、シスターたちが気がつかない筈がないわ」
もしもあの紫凛石が魔道石なら、シスターたちはその旨をアリスウェイドに伝えるはず。
それもそうだなと小さく言い、ガラハドはアリスウェイドにどうする? と目顔で聞いた。
「とにかくこうなった以上は行動に移ろう。まずはベアトリーチェ殿と連絡を取らなければ。鳩が来たと伝えねば心配しているだろうし、協力を惜しまないと言ってもらっている以上はやはり頼るしかあるまい」
「そうだね。相手が王国レベルだったら、その方が早いね。それに、戦争が始まるっていうんだったら民間の飛行船は当分動いてくれないよ。海は危険だし時間がかかりすぎるし、空から行くなら王国所有の艦がいいに決まってる」
「それに、この状況では民間の鳩は飛ばせません。どこかの王宮の宮廷魔術師ならば、個人宛ての鳩くらいならなんとか飛ばせるはずですわ。教皇さまのお手紙によれば、鳩すら飛ばせないような強力な追尾の魔法があちこちに張り巡らされているようですし、我々では荷が重いでしょう」
実際、あの鳩はその魔法の追尾を何度も何度も逃れ、ようやくアリスウェイドの元へやってきて息絶えた。あの鳩が着くまでに、もう何十羽も鳩を飛ばしたと手紙にもあった。「ここの宮廷魔術師はどう? 頼んでみようか」
「戦時下だぞ。城には近づくこともできまい」
「教皇の手紙を見せれば事情は変わるはずだ」
「偽物だって言われるのがオチよ。そんなに簡単に信じるものですか」
「それに・・・ただの冒険者の進言を聞き入れるだろうか」
しかし彼らの議論にディアスが割って入った。
「アリスウェイドはただの冒険者ではない。聖位剣天の称号を持つ冒険者だ」
その言葉に当のアリスウェイドは苦笑いした。ナタリアがディアスを見てどうしようかという顔になりながら聞いた。
「・・・聞き入れてくれるのかな」
「まあ聞くことは聞くだろうが・・・時間がかかるぞ」
アリスウェイドは戦時中だからね、と前置きしてさらに言った。
「確かに他の冒険者よりはそういった信頼は厚いかもしれん。しかし私的な一個人であることに変わりはないし、裏にどんな陰謀があるのかを考えるのが普通だ。なにしろ、アドヴィエスのような評判の悪い国が突然全世界に向けて強力な動力源を背に攻撃を繰り返しているのだから。そうすると必然的に時間がかかる」
「---------どれくらい?」
不安そうに、ナタリアは言った。
「さあ・・・私は各国王家の友人が多いからな・・・・・・向こうがそれを考えて疑心暗鬼になるのを考慮に入れれば---------」
思案するように上に向けていた視線を仲間たちに戻す。
「ざっと二、三ヶ月」
「それじゃあだめだ」
サラディンが憂鬱そうにため息をついた。今や状況は八方塞りである。
「どうにかしないといけませんわね」
エストリーズが珍しく苛立たしげな口調で言った。リスレルは仲間たちの言葉を黙って聞いていたが、やがてぽつりと、
「・・・お母さんの形見をそんな風に使われるなんて・・・・・・そんなの・・・」
と呟くようにして言い、後は言葉にならなかったようだ。
仲間たちは口を噤んだ。
あの紫凛石がなんであれ、リスレルにとって亡母の唯一の形見であることに間違いはない。そしてそれが突然自分の側からなくなってしまったというだけでも相当の衝撃なのに、それが戦争のために使われているというのは、彼女にとって何より辛いことに違いない。「とにかく何か策を考えよう」
リスレルの打ちひしがれた様子を見てサラディンが慌てて言った。しかし言ってはみたものの、もう思案が出るところまで出てしまったのは自分でもわかっているので、考えるにしても考えようがない。
「二、三ヶ月・・・」
誰かがぼそりと呟いた。アドヴィエスという評判のよろしくない国に最強ともいえる魔道石があり、各国を無差別に攻撃しているという考えられる限り最悪の状況で、その三ヶ月はどれだけ長く、状況をより悪化させるのに足るというのだろう。
しかしその時、ある事実を自分一人の胸にしまっておこうと思っていたアリスウェイドが、それが禁じ手になり得るかもしれないと承知のことで、長い沈黙の後でようやく言った。
「一国の騎士が、自分の主君に提言するというのなら話は別だ」
誰に言うでもなく言ったその言葉は、仲間たちにとっては意味不明そのものであった。 誰もが互いに顔を見合わせ、唯一騎士のガラハドは仲間に見つめられ、自分自身もわからないという顔をしている。誰もがその後にアリスウェイドが説明してくれるのを期待していた。今までも、要点を先に言ってから理由を説明して仲間たちに効率的に納得させる彼のやり方を、仲間たちはよくわかっていたから。
しかしどれだけ待ってもアリスウェイドは口を開かなかった。仲間たちの訝しげな様子などどこ吹く風で、しれっと酒を飲んでいる。
今まで対処の方法を考えこそすれ、元来が無口なジェルヴェーズは、明らかな対処の方法が出るまでは何も口出しをすまいと沈思を続けていたが、
「------------------」
アリスウェイドの言葉で身を固くした。
「次の移動場所だが・・・」
アリスウェイドが窓の外を見守りながら呟くように言った。
「イウェルという街が北の方にあるはずだ。そこに逗留しよう」
仲間たちはまたもや顔を見合わせた。
アリスウェイドは一体何を言いたいのだ?
しかし結局彼らの期待する言葉はアリスウェイドから得ることはできず、仲間たちの疑問は、そのまま辺りを漂ってふわふわと浮き空気に融けていくに過ぎなかった。
ものものしい鎧を纏った兵士が五、六人、慌ただしくなにかを叫びながら目の前の道を走っていくのが見えた。
2
ジェルヴェーズが帰ってこなくなったのは、その夜からであった。
初めは、誰も気にしていなかった。ナタリアですら、いつものようにふらりと飲みに行ったのだと思っていたほどだ。しかし、何も言わずに出て行くことはあっても、ジェルヴェーズは朝になっても帰ってこないような女ではない。また誰かとどこかにしけ込むにしても、まさかこの状況を知っていて仲間に一言の連絡もないというのもおかしい。
ナタリアは心配して探しに行ったが、ジェルヴェーズのいそうな酒場に彼女の姿は見えず、またそれらしき女戦士の姿を見たという者もいなかった。
普段は無愛想の極みで無駄口一つ叩かず、お世辞にも人当たりがいいとは言えないが、だからと言っていつも不機嫌だとか、陰気だとかそういうわけではない。話し掛けられれば答えもするし、ナタリアの馬鹿ぶりに毎度よく付き合っている。言いたいことや意見のある時にははっきりと言うが、無意味な議論を嫌う。自分から話し掛けることなどまずないが、だから側にいると安心することもある。ジェルヴェーズは、クロムとはまた違った意味で、無口でありながらその存在感で仲間に頼りにされている女であった。自分勝手を嫌う方だから、何日も連絡がないはずがない。
「どうしちゃったんだろ・・・」
ナタリアはさすがに心配そうだが、アリスウェイドだけはその様子すらも見えない。地図を広げ、ここからイウェルまでの道のりと距離をだいたい計算して、いつ出発すればいいかを考えているようだ。相棒がいなくなって苛々の募っていたナタリアには、そんな彼の態度すら癇に障った。
「今日中にでも出発しよう」
「なんでよ!」
だから、当然のことアリスウェイドが言い終わるか言い終わらないかの内に唾を飛ばして反論した。
「まだジェルヴェーズが帰ってきてないのになんでそんなこと言うの!? このまま連絡がとれなくなったら・・・」
「それはないだろう」
しかしアリスウェイドのひどく冷静な物言いに、ナタリアの怒りは突然冷水をかけられたかのように一瞬にしてしぼんだ。
「次の逗留先は言ってある。君たちも聞いたはずだ」
「あ・・・・・・」
「それにもうあちこちを探したんだろう。君がそれだけ必死になって探していないのなら、彼女はもうこの街にはいないだろう。我々は我々で先を急がねば」
「そんな・・・」
ナタリアは情けない声を出してそこにどっかと座った。
「ジェルヴェーズが何も言わずに帰ってこないはずがないのは、君が一番よく知っているはずだ」
「・・・・・・・・・」
ナタリアの横顔が最悪の事態を考えて不安に微かに歪んだ。しかし、アリスウェイドの言うことももっともである。あらゆる場所を探し、あらゆる人に聞いたが、ジェルヴェーズの姿どころか影すらも見当たらない。では、もうこの街にいないのだろうか?
「なにも言わずに行ったのは何か理由があるとして、帰ってこないはずはない。我々から離脱して一人で旅をしたければはっきりと言ってから離脱するだろう。そういう性格だ」
---------その通りだ。
「ならば帰ってくる。帰ってはくるが、恐らくこの街には帰ってこないだろう」
「どうしてそんなに確信に満ちて言うんだ?」
サラディンが我慢できなくなって言った。
アリスウェイドは、ちょっといたずらっぽく笑ってこう言ったのみだった。
「今にわかるさ」
ここは城下町だからね、とだけ言うと、もうそれきり、何を聞いても答えてくれそうにもなかった。
ジェルヴェーズが突然いなくなって四日目の朝、アリスウェイドの言葉通り一行は出発した。みな一様に、彼がなぜそんなことをするのかいまいちよくわからかったけれども、彼のすることに今まで間違いはなかった上、何か確信に満ちた表情をしているので、裏には必ずなにかある、ジェルヴェーズがこの街には戻らないが我々の元へ戻ってくるというのなら、そうに違いないと暗黙のうちに了解してしまっていた。
イウェルに行く間、ナタリアは列の最後尾にいつも位置し、足取りもとぼとぼとしていていつもの彼女らしくない。
「どうした」
気づいたガラハドが、歩きながら側に寄って聞く。ナタリアはちらりと彼を見たが、前を向いたままで特にこちらの表情に注意を向けているとも思えない。
「あたしさ・・・考えてみれば、ジェルヴェーズのことなんにも知らないんだよね」
「・・・・・・」
「どこで生まれたのか、とか・・・なんで旅をするようになったか、とか・・・あたしと会った時も一人だったし、なんか一緒にいる内にそれが当たり前みたいになっちゃって・・・あたしは自分の身の上とか話したけど、ジェルヴェーズはそういうこと言わなかったし」
「---------」
「こんな時ジェルヴェーズがどこに行きそう、とかわかんないのが、なんか情けなくてさ・・・」
「それはどうかな」
先頭を行くアリスウェイドとディアスの背中を見つめ、列から離れないように歩く速度を保ちつつ、ガラハドは言うともなしに言っていた。ナタリアは顔を上げて彼を見た。
「彼女の行きそうな酒場を最初にあたったのは君だろう。行きそうなところがわかっていないというのは少なくとも違うね。気づいていないだけさ」
「・・・・・・」
「それにジェルヴェーズは自分から身の上を話すような性格じゃない。かと言って、言いたくなければ聞いたって話さないだろうし」
ナタリアの目が不安そうになるのを見て、ガラハドはふっと微笑んだ。
「しかしあれだけ無愛想で一人でいたがる彼女が君といるんだ。それは君を相棒と認めて頼っているからだろう。だったら、聞かなくてもいつか話してくれるさ。彼女にはその時期が掴めないだけで---------彼女が言い出さない限りは聞いても仕方がない、だから言い出すまでは聞かない、君のその姿勢がわかっているから、ジェルヴェーズは安心して君といられるんだ」
ナタリアは不安な顔のまま、前を見つめた。風がゆら、と吹いてそのうすい紅茶色の巻き毛を揺らめかす。
「・・・・・・そうかな」
そうさ、と小さく答えて、ガラハドは空を見上げた。
「ああ---------ヴラソフの空は青いな・・・オレの故郷よりずっと青い」
つられてナタリアも空を見た。
初秋の、濃い空の色。青でもなく、水色というには濃すぎて。
ジェルヴェーズの目の色みたいだ、とナタリアは思った。
そう思うといくらか気持ちが安らいできて、ナタリアはほっと息をついた。
四日後、彼らは無事にイウェルの街に辿り着いた。
世界でも数少ない永世中立の独立自治都市である。あらゆる国の干渉を受けず、また干渉もせぬ。代わりに自分たちで自分たちを守り、軍隊の代わりに二年の徴兵制を設けている。国ではなく巨大な都市という形で独自の軍隊を持つと言う点に関しては、ナタリアが籍を置いていた警備隊のあるラカスティスに通じるところがあるだろう。
到着してすぐ、中央公道の側の、しかも城門にほど近い旅籠で、アリスウェイドは宿を取った。名を名乗り、人数は? と店主に聞かれ、迷わず十一人と答え、男六人の女五人だと告げた。店主は宿帳に人数と代表者の名前を書きながら、眉を寄せて大人数だな、と呟いたが、特に嫌がったり驚く様子も見せず、鍵を二つカウンターに出し、ごゆっくり、と低く言ったのみであった。アリスウェイドが一人遅れて来ると言うと、黙ってうなづいた。
荷物を部屋に置き一階の酒場で取り敢えず食事をとり、それが半ばまでになって、とうとうナタリアは我慢できなくなって聞いた。
「それでこれからどうすんの? ジェルヴェーズは?」
全員の視線がアリスウェイドに集まった。ただ一人、いつも余裕を持って彼の行動の大体の意味を掌握しているリスレルでさえ、今はアリスウェイドが何を意図して行動しているのかがさっぱりわからない。
しばらくの重苦しい沈黙の後、食べていたパンをゆっくりと飲み下し、ワインを一口飲んで、アリスウェイドはようやく口を開いた。
「マイニェンを発って何日になる?」
仲間たちは虚を突かれて、すぐには答えられなかった。ようやくのことでサラディンが、「よ、四日」
と答えると、アリスウェイドはそこからちらりと表を見、それから空へと視線を移した。 仲間もつられて外を見る。
昼下がりの街はにぎやかだが、どことなく殺気立っている。いつもならこの時間であれば子供たちのにぎやかな遊び声が聞こえてきたり、花売りが歩いていたり、あちこちの屋台の呼び声も華やかに、色々な匂いがするはずだ。戦時下の緊張にある今に到っては、そういった賑々しいものとは程遠い。武器を持った男があちこちに見え、どことなく埃っぽい空気に感じられる。ナタリアのよく知る、傭兵の多くいる雰囲気があちこちに立ち込めている。それでも戒厳令ほどではないのか、屋台は出ているし呼び込みの声も聞こえる。 この辺りはまだまだ大丈夫だということだろうか。
「四日か・・・」
ならばもうすぐだなと答え、アリスウェイドは中断していた食事を再開した。
仲間たちは不思議そうに顔を見合わせては首を傾げ、なにがもうすぐなのかを知りたがった。が、聞いても無駄だろうと思って自分たちも各々の食事を始める。
どのみち、もうすぐわかるのだから。
次の日も、その次の日も、ジェルヴェーズが戻ってくる気配はなかった。イウェルに到着して三日目、表は薄暗く雲が立ち込めていて、降ってくるかなと思った途端にさあっと音をたてて雨が落ちてきた。
雨は三日経っても止む気配を見せなかった。
「よく降るねえ」
退屈で身体に黴でも生えてしまいそうな顔で、だるそうにナタリアは杯を手の中でまわした。もう一週間も宿の入り口に置かれたアリスウェイドの名を記す掲示板も、湿り気にうんざりしたように佇んでいる。
この七日間でイウェルにいる間、アドヴィエスの諸国に対する攻撃は一段と激しさを増していった。レイリン大陸のオロン王国は、艦を今しも出動させようとしている時に上空から攻撃され、約一万人の兵士と三隻の艦を同時に失った。ジアイーダ大陸のあちこちでは、早くも四大都市の責任者たちによって緊急の委員会が結成され、四都市それぞれに所属する軍隊はものものしい有り様で戦いの準備を整えているという。それは、同大陸のレルッテ王国が無抵抗絶対服従の意志を伝えたにも関わらず、アドヴィエスが砂が燃えるまで同国を攻撃し続け、ついには滅亡させてしまったという報せを聞いたからであった。
そういった話を聞くたび、リスレルの沈痛な面持ちは一層その襞を深くしていった。仲間たちはなるべくリスレルにアドヴィエスの話を聞かせないようにしていたが、仲間たちだけならいざ知らず、街に滞在していて酒場に一日の大半居座っていれば、嫌でもそういった話は耳に入ってくる。酒場に食事に来た者たちが噂をすることもあるし、街で義勇兵がこれこれこういうことがあったから各自気をつけるように、というお触れを出したりもしている。
そしてそんなリスレルの暗澹たる思いを受け止めるかのように、その翌日、ジェルヴェーズは突然姿を現わした。
その時には外はもう夜で、暗い空から相変わらず雨が降り続いていた。
全身にその雨の滴を滴らせながら、ジェルヴェーズは息を切らして酒場に入ってきた。「ジェルヴェーズ・・・・・・!」
フードをとったその髪すら、しっとりと濡れている。さながらそれは、雨が降っているにも関わらず月の出ている晩の、湖の反射のような髪の光であった。
「どこに・・・」
「遅くなってごめん」
仲間たちの質問より先に、彼女は低くこう言った。そして食事をカウンターに向かって頼み、マントを脱いで旅の支度をすっかり解いてから、目の前に座っているアリスウェイドを見下ろして静かに言った。
「本国に書簡を送った。じき迎えに来る」
アリスウェイドは黙ってうなづき、目でそこに座るように示した。歩み寄ったエストリーズに荷物を渡し、自分は側にあった酒を一口飲む。
「もう少し早めに帰ってくるつもりだったんだけど・・・あちこち封鎖されてたりして警戒が強い上雨で足止めされて」
いつものように必要なことだけを手短にまとめて言う彼女に、アリスウェイドはうなづいて言った。
「こちらの都合で申し訳ないことをした」
ジェルヴェーズはちらりとアリスウェイドを見上げた。
「いいよ。・・・・・・あんたに言われなかったらあたしが自分で行ってた」
そう言ってもらうと助かるよ、とアリスウェイドは言い、ジェルヴェーズはふんと鼻を鳴らした。食事が運ばれてきて、ジェルヴェーズは何も言わずに凄いスピードで食べ始めた。この雨の中を、ほとんど休まずに強行してきたのであろう。ナタリアはどこにいたのか、なにをしていたのか、アリスウェイドとの会話の意味は何なのか、それを聞きたくてたまらず、それは他の仲間たちもまったく同じ事だったが、ジェルヴェーズのあまりに疲労の濃い顔を見て、彼女が早々と二階に上がっていこうとするのを、とうとう止めることができなかった。
「さてそろそろだぞ」
酒を飲み干してアリスウェイドが静かに言った。
「全員支度をしておくように」
丸二日、ジェルヴェーズは昏々と眠りつづけた。そして三日目の朝にようやく起き出してくるとアリスウェイドに確信に満ちた目でうなづき、自分は湯屋に行ってくると言って小一時間帰ってこなかった。彼女が帰ってきた時、仲間たちはすっかり旅立ちの準備が出来上がっていて、ジェルヴェーズは二階に行き荷物を取って来て、準備はいいよ、と言った。帰ってきて早々ずっと眠っていたのだから、支度をするまでもない。
宿の精算を済ませ、厳重な警備の城門を出るのに係の者といくらかのやりとりをした後、なんとかイウェルを出発した彼らは、日頃絶対に列の後ろにいるジェルヴェーズを先頭に黙々と歩き出した。
長い間降りつづけていた雨はしばらく歩く内に雲が薄くなり、フードを取ってもほとんど濡れないほどにまでなってきた。前方を見ると、海を臨むことができる崖が人差し指の大きさ程度に近づいてきて、そちらはもう雲が晴れて雲間から光が差し込んでいる。
ジェルヴェーズがなにを目指しているのか、仲間たちは聞き出せないままに、妙に確信に満ちた足取りで海の見える方向へと歩いている彼女の後に黙ってついて行っている。 そして海があと少しで見えてくるというところまでに近づいたとき、ふと彼方の空を見たジェルヴェーズがいきなり立ち止まった。その視線は、空の彼方に釘付けのまま離れることはない。
「?」
仲間たちは不思議に思って何を見て立ち止まってしまったのかと同じ方向を見たが、そこは黄色く光る空と雲間から幾重にも差す光のみで何も見えない。
「なんだ?」
ディアスがジェルヴェーズを顧み、その微動だにしない視線に怯んでもう一度空に目を馳せ、彼はその目を驚愕で見開いていた。
空の向こうに、ごま粒のような点がいくつか見える。それは、一瞬前にはそこにはなかったものだ。それは段々と凄まじいスピードで大きくなって行き、とうとうそれが艦隊だということがわかって彼らは唖然とした。
ゴ・・・ォォォ・・・
ゴ・・・
ゴォォォォォォォォォ・・・
中央に大きな艦が一隻、その両脇にそれよりは比較的小さな艦が一隻ずつ、そしてその三隻の周囲を守るようにして四隻。合計七隻の艦が、見る見る内に大きくなって上空を飛んでいる。一行は最初アドヴィエスの艦隊かとも思ったが、地上から見る艦の腹に描かれたマークやはためく旗の紋章を見てアドヴィエスのものではないということだけはわかった。
そのまま行き過ぎると思ったら、中央にあったひときわ大きな艦が突然前方五十メートルほどの場所で止まり、しばらくそのまま上空にいたかと思うと、凄まじい風と唸り声を上げてゆっくりと垂直に下り始めた。
ゴゴゴゴ・・・
ゴォォ・・・オオ・・・ンンン・・・・・・
「な・・・なんだなんだ!?」
息もできないような風に舞い上がる服と髪を必死になって押さえながら、仲間たちはなんとか開けていられる目の隙間から艦隊がゆっくりと地上に降りてくるのを見た。そして凄まじいまでの風が辺りの草を撒き散らし、なぎ倒す中、ゆっくりと扉が開き通路が広げられ、中から誰かが出てくるのを見た。
艦隊の動力が巻き起こす強い風をものともせず、五人ほどの人間がこちらに歩み寄ってくる。今やジェルヴェーズの待っていたものこそこれだと理解した仲間たちは、未知なる存在へ警戒の色を見せようともせぬ。
五人は、一人を先頭にしてあとは二人ずつが左右に並んで後ろに並び、純白のマントを纏い銀の鎧を身に着けていた。襟止めには、なにやら盾の形をした紋章を使っており、その盾の色は五人とも違っていたが、先頭の男のそれは下部分が赤、上部分は右側が青で左側が白というものであった。
騎士だ。
誰もがその出で立ちで直感した。アリスウェイドは別として、彼らがどこの何者かもわからぬ仲間たちの中で、ガラハドのみは早くも相手がどういう素性かがそれを見てわかったらしい、微かに顔色をなくしている。
しかし一行がもっと度肝を抜かれたのが、そんな立派な身なりの堂々とした騎士たちが、先頭のジェルヴェーズに向かって恭しく膝を折り、頭を下げて敬意を表したことであった。
「お待たせを致しました、ダヴランシュ卿」
「卿?」
ナタリアが素っ頓狂な声を上げた。ジェルヴェーズは騎士たちを微かに目を細めて見、
「膝を上げよ。今の私はソーンの騎士ではない」
「猊下はそのおつもりはないようで・・・貴方様のお名前は、まだ騎士団の礎面に刻まれております」
言われた通りに立ち上がりながらも、五人はジェルヴェーズに対する敬意の態度をあくまでも絶やさない。
「---------私の知ったことではないな」
低く言い、ジェルヴェーズはザッ、と道を明けた騎士たちに、
「仲間だ」
と言い、さっさと艦を目指して歩き始めた。
「それではご案内いたします」
先頭にいた赤と青と白の紋章騎士が恭しく彼らに頭を下げて言い、一行の返事も聞かずに背を向けて歩き出した。仕方なく彼らはその騎士の後についていったわけだが、両脇には四人の騎士たちが彼らを守るようにして付き添っていた。
「な、なんなのこの人たち」
セシルがその騎士の一人を見ながら動揺を隠せないように呟いた。
「さあな・・・」
ディアスも先頭を行く騎士の背中を見ながら答える。
「わかっているのは、オレ達はアリスウェイドの他にもとんでもない女を仲間にしていたってことだ」
ナタリアも、かなり前を行くジェルヴェーズと、先ほどの騎士とのやりとりを聞いて混乱している。
「卿・・・卿って」
それにソーンの騎士、と言った。
それがナタリアの知っているソーンの騎士ならば、自分の相棒はとんでもない人間だったということになる。
「なるほどな」
ガラハドが案外冷静に騎士たちを見て言う。
「教皇殿を護衛した時の政治の裏に通じた言葉を聞いて、何かあるとは思っていたが・・・騎士だったとは」
すぐ側の騎士のマントを止める襟止めの紋章の、盾の中の黄色と深緑をちらりと見てナタリアは、自身の動揺を隠すため必死にガラハドに話し掛けた。
「・・・あんたもあんなのつけてたの?」
しかしガラハドは愉快そうに笑って返した。
「オレみたいのはあんなのはつけられないさ。騎士とはいえ仕えていたのは貴族だからな。 せいぜい主家の紋章を彫りこんだ剣とか盾とかだよ」
「そ、そうなの?」
「ああ」
幾分真顔になって、ガラハドは近づいてきた巨大な艦隊を見た。
「襟章なんていうのはよほどに地位の高い騎士で、しかも仕える主家の由緒が相当古いとかじゃないとつけられるもんじゃない」
オレみたいなヒラ騎士とは大違いだよ、と、言葉の割にガラハドは真面目な顔で言った。
そのせいでナタリアは、かなり頑張って自分の緊張を解きほぐそうとしていたのに、とうとうそれは成功することはなかった。
一行が艦に入り、その通路が仕舞われ扉が閉じてしまうと、たちまち凄まじい地鳴りと地響きをたてて、艦が揺れ始めた。それまでに彼らは中央指令室と書かれた扉の向こうに案内され、逆Vの字の形をした部屋の正面に、大きなガラス張りの向こうの海の景色を茫然と見つめているのみであった。広い部屋のあちこちには、彼らの見たこともないような計器類が見られ、その隅にいくつもの宝石が嵌め込まれているのが見てとれた。それらは揺れが激しくなり、響きが大きくなるのにつれてどんどん輝いていき、やがては金色の光に包まれて見えなくなるほどであった。
それくらいになると、急に部屋の中や外が慌ただしい空気に包まれ、大勢の人間が走り回る音、カチリカチリという音がさかんに聞こえてきた。一行のいる部屋でも、次々に壁に埋め込んであった簡易椅子を引っ張り出してそこにあったベルトで身体を固定している。
「さあどうぞ」
騎士たちに促され、手伝ってもらいながらようやくのことで彼らはベルトをはめることができた。ジェルヴェーズなどは慣れた手つきでさっさと自分の始末をしてしまった。民間の、大陸間移動の為の客船などはせいぜい離陸の間は部屋から出ないで下さいなのだが、まったくレベルが違いすぎる。
このままどうなるのだろう。
ナタリアの不安などわからないかのような物凄い轟音と共に、艦はゆっくりと離陸を始めた。
3
離陸して五分ほどで警戒態勢が解けたのだろう、騎士たちが近寄ってきて、もう大丈夫ですよとベルトをほどいてくれた。そしてその間にさっさとどこかへ行ってしまったジェルヴェーズをよそに、先ほどの赤と青と白の襟章の騎士が艦内の案内をすると言ってくれた。
「わたくしはティウォンと申します」
騎士はそう名乗った。
それから彼らが一人一人名を名乗ると、その度に強くうなづいて顔をじっと見、名前と顔とを合致させているようだった。以後、騎士ティウォンが彼らの名前を間違えたり忘れたりすることはなかった。
まずは彼らのいる中央指令室は、長方形の、長さの短い方の片側が半円形になっていて、そこに近づくと階段がありさらにその下に色々な人間がいて機械類を制御している。一番多いのは魔道石を監視する者で、時々様子を見ては、石の光具合が少しでも鈍くなったらただちに誰かに報告して指示を仰いでいるのが印象的だった。
「なるほどな」
アリスウェイドが廊下を歩きながら小さく言った。
「これだけの大きな艦であれば相当強力な魔道石がいる。そんなものはなかなか手に入らないものだが---------こうして計器ごとに魔道石を置けば大きな魔道石一つに頼らずともいい。そうした方がバランスもとれるし、一つに頼ることがないから危険も少ない。なにより経費もかからないで済む」
「だったらあんなまわりくどいやり方をしなくてもこうすればよかったのにな」
ディアスがぽつりと言った。アドヴィエスがリスレルの石を奪ったことを言っている。
「しかし複数の魔道石の力を分散させながら一つのことへと集中させるというのには技術がいる。高い技術だ。アドヴィエスにはそれがない」
「・・・・・・・・・」
ディアスはアリスウェイドをじっと見た。
「なんだね」
「・・・あんた・・・あの女が騎士だってこと、知ってたのか」
今までの彼の言動から看て、ジェルヴェーズがこうするようけしかけたのは彼だとしか他に考えようがない。だからこそ彼女は姿を消し、また戻ってきてこうして艦を呼びつけたに違いないのだ。
「まあね」
アリスウェイドはなんでもないように言った。
「もっとも七隻もの艦が迎えにくるほどの騎士だというのは、艦が来るまではわからなかったことだが」
それからアリスウェイドは、ジェルヴェーズが言いたくもなかった過去を、彼女自らの手で暴くような真似をさせるつもりはなかったとも言った。恐らく、こんなことがなければジェルヴェーズの前身は、アリスウェイド一人の胸の中にしまっておいたままになっていただろう。
もっともジェルヴェーズ本人は、ベアトリーチェからの手紙が来た時点で、どこかでこういう時が来るのをわかっていたのかもしれない。
食堂に案内され、その後各自の寝室に案内するというので長い廊下を歩いていると、窓から見える雲海はこれまで見たこともないような美しさで広がりを見せている。民間船では、ここまで高い場所までは飛べないに違いない。ふと見上げて、リスレルは艦の端につけられた強くはためく旗を窓から見ることが出来た。
白地に、染めぬいたようなあざやかな緋色の車輪。それは定間隔に火を吹いていて、この車輪が太陽の環だということを容易に想像させる。そして、その環を乗り越えるようにして中央に双頭の鷲。向かって左側の鷲は力を示す剣を持ち、右側の鷲は智恵を示すにぶい金色の宝玉を持っている。それは、てっぺんに十字架のようなものがついているが、よく見るとそうではない。十字架は横に二本の手が伸びているが、これは手が六本ある。その形も、先に行けば行くほど尖っていて、個々は剣のようにも見えるのだ。よく見ると、鷲の身体にはいくつもの盾の形の紋章があちこちに散りばめられており、色取り取りのそれらは、紋章全体を引き締め華やかにさせているように見える。それらの内の一つが、赤、青、白の配色であることに気づいたリスレルは、騎士ティウォンの襟章がそれとまったく同じであることにも気づき、これらの小さな盾の紋章は、それぞれの騎士を区別するためのものだということに気づいた。
太陽の環の上の方には冠が置かれていたが、それはリスレルが今まで見たこともないような形をした冠だった。どこの国の紋章にもあるような金属の型に宝石などがうまっているものではなく、形も小さめで、全体に天鵞絨を思わせるなめらかな臙脂色の布が主な骨組みだ。そのてっぺんには、やはり鷲が持っている宝玉のそれのように手六本の十字架がついていて、冠の周囲は白と黄緑の蔦の若葉が取り巻いている。旗の四隅にはそれぞれ林檎、葡萄、無花果、柘榴の木がそれぞれの実を成らせ生い茂っており、旗の縁は金糸で縫い取られている。
これまで色々な国を訪ねてきたリスレルであったが、このように立派で美しい紋章を見たのはこれが初めてでった。
一方のナタリアは、騎士ティウォンに聞きたいことが山ほどあったのにも関わらず、なかなかそれを聞き出すことができず、とうとう各自寝室に案内されても聞くことができなかった。
「女性はこちらです」
と、男たちが案内された部屋の向かい側に一人一人通され、最後の一人となったナタリアは、去ろうとする騎士テイウォンにようやく尋ねることができた。
「あ、あの・・・」
「はい?」
「ジェルヴェーズ・・・は?」
「---------」
騎士ティウォンはちょっと驚いたようにナタリアを見た。しかしすぐに柔和な笑顔となり、
「こちらの隣のお部屋で休まれているはずです。なにしろ、ひどくお疲れのようでしたから」
と言った。そしてまだ何か聞きあぐねているナタリアの様子を見ると、黙って彼女が質問するのを待っていた。
「あの・・・卿・・・って・・・あんたも?」
騎士ティウォンはちょっと意外そうな顔になり、それからすぐに口元に笑顔を浮かべて答えた。どうやらこの若者には、ナタリアのこれらの質問だけでナタリアとジェルヴェーズの関係がわかってしまったようだ。
「いいえ。わたくしは、まだそのような立場にいることを許されていません。卿の呼び名が許されるのは、わが国では親衛隊のみとなっております」
では、と、騎士ティウォンは胸に手をあてて恭しく一礼すると、ナタリアが止める隙すら見せず、廊下の向こうへと消えてしまった。
ナタリアはため息をつき、部屋を見渡した。
八畳ほどの部屋。扉から見て左側にベット、その側に窓。右側には簡易机と椅子、ベットの枕元には小さなテーブルがあって、燭台を置くスペースと小さな引き出しがある。衣類を入れるための箪笥があると思っていたがそういったものはなく、代わりにクローゼットがあって引き出しもいくつかついている。考えてみれば、離着陸の際身体を固定していなければならないような艦の中で箪笥なぞがあったら危険極まりないだろう。ナタリアは旅装を解き、靴を脱いで剣を枕元に立てかけ、ベットに座ってふう、とため息をついた。 窓を見ると、もう日が暮れようとしていた。
その夜食事を終え、一同は久し振りの一人部屋で久し振りのふかふかのベットで休むことが出来た。リスレルは騎士たちの話の内容からアドヴィエスの侵略の凄惨さに心を痛め、ナタリアは話をしたくとも姿を現わさないジェルヴェーズを探してはそわそわしていた。
深夜、ナタリアは突然目を覚ました。窓に目をやると、眼下には黒い海が広がっている。
その海に差し込む、満月の光のあまりの眩しさにナタリアは目を覚ましたのだ。
すごい月光であった。いつもは、こんなに近くに月を見ることはない。
ナタリアは起き上がり、なんとなくもう一度横になる気がしなくなって、そのまま立ち上がった。外はどうなっているだろうと思い、廊下にそっと出てみる。銀色の光を溜めて、廊下は静かに光っていた。なんの音もせず、ただ艦が動くゴォン、ゴォンという音だけが微かに聞こえる。ナタリアはそっと廊下に出、なんとなく足音をさせないようにして歩き出した。
食堂は閑散していると思ったが、向こうの方で明かりがついていて数人がなにかを食べながら話しているところを見ると、きっと彼らは夜番かなにかでようやく食事にありつけたのだろう。ナタリアは見つからないようにそっとそこから去った。また、中央指令室からは相変わらず人が動き回ったり話したりする音が聞こえてきて、ナタリアはここからも足早に去って行った。どこへ行くともなくうろうろする内にどこにいるかわからなくなり、
ナタリアは廊下の行き止まりの隅にある、小さな螺旋階段を見つけてなんとなく上って行った。
「---------」
星の海が、そこには広がっていた。
月の光を背に、地上では考えられないような近さで、星が散りばめられている。そこはいわゆる『宇宙』であった。
強化ガラスがドーム状になって表との境界をないようなものに見せ、ここはホールなのだろうか、結構な広さである。ナタリアがしばらく行くと進行方向に向かって突端の場所に、まるでそこに最初から組み込まれた風景のように、ジェルヴェーズが縁に寄りかかって背を向けていた。
気配でわかったのだろう、彼女はちらりと後ろを振り返り、すぐに視線を星空へと返した。ナタリアは彼女の隣までゆっくりと時間をかけて歩むと、同じように寄りかかって星を見た。
ジェルヴェーズはこの風景が好きなんだろうな、ナタリアはちらりとそんなことを思った。
二人はしばらく無言のまま、そこにじっと佇んでいた。
「ナタリア」
その静寂を破って、ジェルヴェーズはふいに口を開いた。
「んー」
いつものように、何もなかったように、ナタリアは目を離さず答える。
「・・・・・・黙っていなくなっちゃって・・・ごめん」
ナタリアはジェルヴェーズを見た。
彼女は、まだ星を見続けていた。ゆっくりと向き直ると、ナタリアをじっと見る。
ナタリアは、聞こうと思えばそれ以上のことを聞くことができた。もっと別に言うことがあるんじゃないのとか、これはどういうことなのとか、聞くべきことはたくさんあったはずだ。
しかし、ナタリアは敢えて聞こうとはしなかった。恐らくジェルヴェーズの心には、まだ話すだけの余裕も覚悟もない。
しかし他ならぬナタリアに聞かれたのなら、その傷口を開いてまでも話すだけの決意だけは見てとれる。ナタリアはちょっとだけ笑って言った。
「ジェルヴェーズさあ、」
相棒は空色の瞳をちょっとだけ動かした。それだけで彼女が自分を訝しげに見たのがわかる。
「無理して言わなくたっていいよ。話したくなったら言ってくれればさあ。時間はたっぷりあるんだし」
「・・・・・・ナタリア・・・・・・」
立ち尽くすジェルヴェーズに、
「じゃああたしはもう寝るね。ジェルヴェーズはもうちょっとここにいなよ。・・・と言いたい所なんだけど」
ジェルヴェーズの表情がおや、という顔になる。
「実は迷っちゃってさあ・・・帰り方教えてくれない」
というと、一瞬キョトンとなってすぐに、銀髪の女戦士は珍しく笑った。
「いいよ、一緒に帰ろう」
ジェルヴェーズは薄暗い中をナタリアと歩き出した。
「それにしても迷ってよくこんなところまで来られたね」
「いやあ最初はその辺をうろうろする予定だったんたけど」
二人の声は室内の静寂に吸い込まれ、しばらくやりとりは続いていたようだったが、二人が遠のくにつれそれも消えていった。
二昼夜を飛び続け、艦はようやくのことで見え始めた大陸の上を通り、尖塔の見える城の側まで来ると、その東側の平らな場所を目指してゆっくりゆっくりと速度を落とし、その場所の真上まで来ると、静かに垂直に下降して行った。
一行は朝言われていた通りに旅支度をし、部屋の中で待機して、何度かの振動の後窓から見て完全に着陸したなと表を窺っている頃、騎士ティウォンが迎えにやってきて表に出た。
そこは多分、艦隊の発着場なのだろう。だだっ広い平らな場所だが、遠くのほうには屋根やその下の艦などが見え、離着陸の誘導をしているらしき者も多数見える。
「こちらへ」
一行はまた騎士ティウォンの後について行ったが、今度はジェルヴェーズは率先して歩くようなことはなく、知らん顔をして最後尾を歩いている。
そしてそのだだっ広い場所を延々と歩き続け、尖塔のある建物のすぐ側まで来ると、今度は襟章の色が四色の騎士が六人、出迎えに来ていた。
「お待ち申し上げておりました、ダヴランシュ卿」
「どうぞこちらへ」
話し掛けられても、ジェルヴェーズはまったく別の人間がそう言われたかのようにしれっとしている。
城内は明るく、壁や床は磨き上げられたようにぴかぴかであった。廊下の中央には歩道を示す赤い絨毯が敷かれていたが、ナタリアが十字路に差し掛かった際ちらりと横の通路を見ると、そちらには深緑の絨毯が敷かれていた。絨毯の色で場所を区別するのだな、とナタリアは一人で感心していた。
「まずはお部屋へご案内致します。ご夕食の前に、猊下が謁見なされます。それまでごゆるりとお過ごしください」
各自が通された部屋は、上等な客間と思われた。
十畳強の広い部屋で、床はなめらかな光沢を放つ板張りである。向かって左側には二人分くらいのベットがあり、その周りのみに薄い絨毯が敷かれている。簡単なものだが天蓋もついている。その向かいには暖炉があり、その暖炉の上に置かれた置物も趣味が良い。 部屋の隅に置かれた植物はよく手入れされていて、調度品の拵えも古くて味のあるものばかりだ。驚いたのは次の間に浴室があることで、それは例えて言うなら、街の湯屋やこの城の浴場などと比べてしまうと小さいが、客間についている浴室としては広いものであった。だいたい、ふつうの城には客間とはいえ浴室はついていないことがほとんどである。
当たり前のことかもしれないが、室内はとても清潔で、塵一つ、埃ひとつ見当たらぬ。
リスレルは歓声を上げて部屋の中を探検し、一通り済んでから気づいて、表に面した窓のカーテンをシャッと引いた。
「うわあ・・・」
そこから見える城下街の、その素晴らしく美しい街並みに、リスレルは思わず声を上げた。色とりどりの屋根。白もあれば赤もあり、青や黄色、緑、様々な色が混じり合って喧嘩することなく融合している。家屋の色は白が多く、その他はベージュや薄い茶色などがある。整然と碁盤目になった道、街中だというのに豊かな緑、国の豊かさが日の光を受けてきらきらと光るように見え、聞こえてくるはずもない歓声が聞こえてくるような気がした。
レスト大陸ハースヴォン法国---------レスト大陸の半分に相当する北半球を支配するディリスティル王国と双璧なす同大陸西部の法治国家である。気候に恵まれ温暖で、治安の行き届いた住みよい国で移住者も多い。国を治める法大院は厳しい修行を収めた司祭たちがコントロールしている。司祭というとどうしても宗教を思い起こしてしまうが、この国の場合は国を神とし民を神とするという昔からの伝統に則っているためで、だからこそ国に仕える者たちを司祭と呼び、彼らを統率する大司祭は陛下ではなく猊下と呼ばれている。
ハースヴォンには世界に名だたるソーンの騎士団がおり、戦時には彼らが兵士を統率して戦場を走り回る。恐らくソーンの騎士一人とそこらを放浪する戦士二十人が手合わせをしても、最後に息を乱さず立っているのはソーンの騎士だろうと言われるほど、彼らの剣の技量は定評がある。剣の技量や人格は無論のこと、視力や聴力、足の速さや跳躍力なども入団に際して厳しくテストされ、規律と伝統を重んじる一方で一人一人の個性を尊重し融通するだけの遊び心も持ち合わせた騎士団だが、そのレベルの高さはあらゆる大陸に轟き、恐らくは世界一入隊審査の難しい騎士団と言われている。騎士団は国内の巡邏、取り締まりを含め、一部の上級隊は執政への参加も認められている。なんとなれば、市井に触れる者の意見こそが執政においては一番重要なことだからだ。だからこそ半司祭半騎士の彼らは国民の最も厚い信頼を受けている。また、このような集団にはありがちな権力争いは今まで起こったことがなく、なぜかと聞かれればそれは入団時の人選に一番の重きを置いているからといえる。彼らは互いを尊敬し、切磋琢磨しこそすれいがみ合うということはまずない。それは、翻せば日々の職務の重さや大変な訓練を共に過ごして来た連帯感から生まれてくると言えよう。情報漏洩のための贈賄も、ソーンの騎士は破格の給料をもらっているのでそれも通用しない。
ソーンの騎士は、世界中の騎士の憧れ。鎧を纏った忠心、歩く誠意と呼ばれている。
そのソーンに、ジェルヴェーズは籍を置いていたということになる。
卿とまで呼ばれる立場に上り詰めたというのに、一体何故?
突然扉がノックされ、リスレルはハッとして顔を上げた。返事をすると、旅装を解いたナタリアが入って来て、
「あっちで話し合いだって」
と告げた。リスレルは慌てて出口まで行き、ナタリアと共にアリスウェイドの部屋へと向かった。途中、エストリーズとクロムとも廊下で会ったところを見ると、自分はまだ最後ではないようだ。
「大司祭との謁見が日暮れには控えている」
アリスウェイドは久し振りにくつろいだ格好をして窓にもたれかけながら言った。
「恐らくベアトリーチェ殿からの手紙の件もあろうし、ハースヴォンを拠点にするならばこれからの動き方も話し合わなければなるまい」
「あたしはパス。今更そんなことしたって黙ってつっ立ってるだけだ。だったら部屋で休ませてもらうよ」
ジェルヴェーズがまず言うと、
「だったらあたしなんかいなくたっておんなじだと思うよ。あたしも抜ける」
とナタリアが言う。
「そうだな。全員が会わずともよかろう。なにしろ大勢だから」
アリスウェイドはちらりとディアスを見、彼ははいいだろう、とうなづいた。
「ディアスが出るなら私はいらないと思うわ。クロムもいいわよね?」
クロムは黙ってうなづいた。
「エストリーズどうする?」
「・・・そうですね・・・」
司祭と呼ばれる者たちである。無論神職ではないのだが、呼び名の通り誠実で温厚な者ばかりだという。それは、例えて言うなら日頃権力や市井の暮らしとは縁のない僧侶や神職の司祭とまったく変わりがないと、天文学院にいた頃聞いたことがある。
「お邪魔でなければ・・・」
「あら、珍しいわね」
ディアスが行くから私も、というタイプではないエストリーズが、自分から行くと言い出した。いつも人の後ろに黙ってついてくる彼女にしては珍しいことだ。
「私も行きましょう。願ってもないチャンスですから」
ヴィセンシオが言い、サラディンは気の抜けた表情でオレはやめておくよ、と言った。
「気後れしてきた」
「もうしてるんでしょうが」
最後のガラハドもやはりやめておく、と言った。
「オレみたいな放浪騎士が謁見するような相手じゃない」
というのが、彼の言い分であった。
「リスレルは一緒に来なさい」
アリスウェイドは静かに言った。
「は、はい」
それは自分があの指輪の持ち主で、あの指輪がアドヴィエスに悪用されているからに他ならない。
間もなく従者の格好をした者が訪れ、猊下が謁見なされます、と告げた。
謁見に参加する五人は立ち上がり、それ以外の者たちは各々の部屋へ引き返して行った。
何度も廊下を曲がり、その度に変わる絨毯の色の変化の規則性がわからないまま、リスレルは今アリスウェイドと共に謁見の間の待ち合いの椅子に座っている。壁際に椅子が置かれているだけだが、えらく座り心地のよい椅子だ。そしてふと顔を上げた時に壁に飾ってある肖像画が目につき、その初老の人物の頭にあるのが臙脂色の冠だということに気づき、次いでそのローブの胸の部分の縫い取りが六本手の十字架だということに気づいて、リスレルはああ、あの旗の紋章はこれだったのかと一人納得していた。
アリスウェイド曰く、ハースヴォンの政を統治するのが司祭と呼ばれているのには、無論のこと国と民とを神とするというならわしもあるが、彼らは唯一絶対のものを信じているという、そこから来てもいるという。
「唯一絶対のもの・・・」
「それは、九星に象徴されるもののことなのでしょうか?」
エストリーズも不思議そうに問い返す。
「いや、もっと即物的なものだ。例えば人の気持ち。愛や憎しみや悲しみ・・・そういったものすらも、絶対のものといえる」
「しかし一人の人間をずっと愛しつづけるとは限らないぞ。それは絶対ではないだろう」
「それこそが愛の絶対性なのだ」
アリスウェイドがさらりと言い、絶句するディアスを尻目に、近づいてきた足音に顔を向けた。
「お待たせ致しました。猊下が中でお待ちでございます」
五人は立ち上がった。
ヴィセンシオは考えていた、唯一絶対のものを信じ、また国と民とを神とするならば、彼らは半分は聖職者ではないかと。
と、思っていた矢先に扉が開き、中から眩しい光が漏れてきた。ヴィセンシオが思わず目を細めるのと同時に、その声は聞こえてきた。
「お待たせしたそうで---------申し訳ない」
柔和な声であった。光を背にこちらを見ているのは、六十を半ばほどまで行っているであろう老人で、白いローブを羽織っている。胸の辺りに臙脂色の六本十字架があるのは、先ほどの肖像画とまったく代わりがなかったが、肖像画に描かれている人物とは別の人間だった。ヴィセンシオはてっきり玉座のようなものを想像していたのだが、そこには絨毯もなければ数段にわたる階段もなく、玉座も近衛の兵士もいなかった。あるのは正方形に近い部屋の中、入って正面に大きな机があるのみである。その背後から射しこむ光は、大きな大きな窓から入って来ているのだろう、ここからでも窓の向こうの街並みがはっきりと見てとれた。
「さあこちらへ」
大司祭ディルドレイクⅦ世は意外にもにこやかな笑みを浮かべ、側にあった椅子に座るよう手で示した。
なんだかふつうのおじいちゃんみたいだなあ、というのが、リスレルの第一印象であった。背は、リスレルよりどうかと聞かれれば、リスレルよりは低い。ふっくらした顔にはにこにこと笑顔が浮かんでおり、椅子を示した手も柔らかそうである。もっと厳格で威圧するような人物を描いていただけに、リスレルは無論のこと他の者たちも緊張がすぐにほぐれるのを感じた。
大司祭自らが香茶を淹れ、その香りを楽しみながらアリスウェイドはしかし、単刀直入にベアトリーチェの手紙の内容のアンティエメと神殿の協力があることのみを切り出した。 司祭の顔からはさすがに笑顔が消えていたが、だからといって柔和な雰囲気までもが去って行ったというわけではないようだった。
主にアリスウェイドと大司祭の会話で、話は進んで行った。
「かの国の侵略は、我々が思っているよりもずっと速く、凄惨なものです」
びく、とリスレルの肩が震えた。
「どうすればあのような暗躍を続けることができるのか・・・あれだけの母艦を動かすことのできる魔道石があれば、必ず我々のような者の耳に届きます。しかしもしあったとしても、昼夜これだけ休みなく使うというのには無理がある。が、だからといって数千個にも渡る魔道石を集めるだけの国力が、あの国にあるかと聞かれれば答えは否です」
「数千個・・・そんなに必要なんですか」
ディアスが薄い声で尋ねた。大司祭はうなづき、
「わが国の艦をご覧になったでしょう。あちこちに魔道石があるのが見えたはずです」
「確かに・・・計器ごとにいくつか」
大司祭はうなづいた。
「艦すべての動力を一つの魔道石で負担するより、そうした方が負担も少なく魔道石の寿命も格段に違います。しかし、それだけの技術がアドヴィエスにはない」
ディアスは艦内でのアリスウェイドの言葉を思い出した。まったく、今の大司祭の言葉と違いはない。
ディアスはちらりとアリスウェイドを見、同じように向こう側から剣天を見上げていたエストリーズと目が合って、どうするつもりかな、と目顔で言った。エストリーズは、微かに首を振っただけであった。
「---------教皇殿の手紙をすべてお見せしましょう」
しばらくの沈思ののち、アリスウェイドは顔を上げて言い、懐からベアトリーチェの手紙を取り出して見せた。大司祭はそれを受け取り、机の引き出しから小さな眼鏡を取り出すと、ざっと目を通した。そして読み進むにつれ、その顔色は見る見る変わっていき、最後には驚きの表情でアリスウェイドを見た。
「これは・・・」
アリスウェイドはうなづき、
「どうかここだけの話・・・貴方と私共だけの秘密にしておいて頂きたい」
「---------それはもう・・・。・・・しかし---------」
大司祭は絶句している。ベアトリーチェの手紙が本当ならば、世界は最高の魔道石を手に入れた最悪の国を相手に戦うことになる。
「---------・・・・・・そうですか・・・そこまで腹を割って頂いたのなら、我々もお話しましょう」
大司祭はそこに座り、手紙をアリスウェイドに返すと、しばらくの間黙って何か考えているようだった。それは、言い出そうかどうか迷っているというよりは、何と言って切り出せばいいのかわからないという顔であった。
「最新鋭の技術を用いて、先頃完成したものがあります。まだまだ不安定で実験段階、その実験も十回に一度しか成功していない、非常に不安定なものですが---------」
少し黙って、大司祭は続けた。
「単独軸位変換装置、と技術者は呼んでおります」
「単独・・・軸位・・・」
ディアスには聞きなれない言葉であったが、魔法に親しんでいるエストリーズとヴィセンシオはすぐに反応した。
「それは恐らく学師で言うところの<帰還>と同じ作用のものですわね」
「星神の儀式にも同じようなものがあります。主に、遠方にいる者を呼び返したり逆にこちらが遠方に行くためのものですが」
大司祭はうなづいた。
「円陣を地に描き、詠唱と共に思い描いた地、或いは同じ円陣のある場所へと移動する。 確かそんなような魔法でしたかな。わが国の技術者はそれを機械によってできないかと考え出したのです」
それが考案されたのが、前大司祭の時代の三十年前。今の大司祭は即位して十五年になるから、当時の技術者がどれだけ若くとも、今は五十を過ぎているはずだ。前大司祭が許可を出しても次の大司祭が研究許可を出さなければ今までの苦労は水の泡となるわけだが、そういう意味ではこの技術者は恵まれていたと言っていいだろう。
そして考案から十年で論理を組み出し、さらに十五年経って第一段階の開発が完成した。 無論のこと、莫大な魔道石の魔力が必要なのもさることながら、いまだに成功率が一割以下なのも問題点である。
「そんなものが・・・」
ヴィセンシオはそこまで言って絶句した。
「まだまだ改良の段階がありましてな、まあ成功率がもっと伸びるのには三十年ほどかかりましょう」
大司祭はその頃には自分は退位しているだろうと言い、研究者も次の世代に引き継がれていようと言った。成功率は使う本人の意志次第だが、非常に危険だという。しかしそれが可能であれば、アドヴィエスの最奥部にまで侵入は可能になろう。母艦をどうこうするよりも、数人が直接秘密裏に乗り込んでいった方がいいに決まっている。
「とにかく、そういうことでしたら我々は全面的にあなた方に協力しましょう。アンティエメにおられる前の教皇様にも、すぐに返事を出されるがよい。返書が出来上がり次第申し付けてくださればすぐにでも鳩を寄越しましょう」
大司祭は手を叩いて侍女を呼び、冷めた香茶を片付けて新しいものを持ってくるように言った。
新しい香茶は、すぐにきた。それを飲みながら、すべての話がまとまっていくらか気が楽になったのか、大司祭と彼らは取り留めのない話をした。それらは主に旅の話であったり、時にはアドヴィエスの繰り広げている殺戮にも話が及んだりした。先ほどの単独軸位変換装置の実験を急がせ、なんとか確率を高めて精鋭を送りたいとも大司祭は言った。それほどアドヴィエスは危険な国で、相手があの石を持っている以上はそうでもしないと戦が長引いてしまうと彼らは話し合った。
「ところで、」
大司祭はちょっと姿勢を正しておもむろに言った。
「ジェルヴェーズは、達者でおりますかな」
一同は虚を突かれて一瞬黙りこくった。ディアスとエストリーズは、なんと言っていいのかわからず顔を見合わせ、向かい合っているヴィセンシオとリスレルは思わず視線を交し合った。ある程度、そういったこちらの反応はわかっていたのだろう、大司祭はアリスウェイドの元気ですよ、という言葉にうなづいた。アリスウェイドはさらに言った。
「今度のことは、彼女に感謝しています」
しかし大司祭は沈痛な面持ちでため息をついた。
「彼女から書簡が届いたときは、私は無論のこと騎士団の者たちもとても驚いていました」
立ち上がり、机の側まで歩み寄って、大司祭は窓の外を見たまま続けた。
「なぜジェルヴェーズが騎士だったと?」
「太刀筋を見ましてな。覚えがありましたので」
左様か、とうなづき、大司祭はアリスウェイドを見た。
「何があったかまでは、私の口からは言えません。ただジェルヴェーズがここを去る時のやるせない気持ちは、忘れられないでしょう。誰が悪いというわけでもなく、彼女が悪いというわけでもなかった」
ただジェルヴェーズは、あまりにも騎士でありすぎたと、大司祭は低く言った。
ナタリアは昼寝にも飽きて、性懲りもなく城内を歩いてみようという気になった。
あちこちを歩いて絨毯の色がどうなったら変わるのか、赤は何で緑は何なのか、青を辿っていくとどうなるのかとうろうろしていく内、ナタリアは自分がどうやってここまで来たかわからなくなってしまった。
「あちゃー困ったなあ」
と、きょろきょろしていた調度その声を聞きつけて、側の廊下を歩いていた騎士が立ち止まって戻ってきた。
「いかがなさいましたかな」
その騎士は、襟章をつけていた。色は、六色だ。ナタリアの目は思わずそれに釘付けになった。
「---------ご婦人?」
「あ、いえ、あの、えと、あの・・・ま、迷っちゃって」
騎士は溶けいるような笑顔になった。既に、七隻もの艦で迎えに行った客人の話は聞いているはずだ。
「それではご案内致しましょう」
と、用があってどこかに行くはずであったにも関わらず、ナタリアと並んで歩き出した。 背が高く、がっしりとした体格をしているが、太っているというわけでもない。鍛えてあるのだろう。
横を歩いていて、ナタリアは騎士というのはみんなこういうものなのかなと思っていた。 道中いかがでしたかとか、足りないものがあれば持ってこさせましょうとか、実に如才ない。ちらり、と見ると、騎士の襟章が嫌でも目に入る。ちょうどナタリアの目と同じ高さにあるからだ。
「どうか?」
「あ、いえ、いや・・・あの、ジェルヴェーズはどんなんだったのかな、って・・・」
ははははは、と後は笑ってごまかしたつもりだったが、騎士は幾分真顔になってナタリアを見た。
「・・・・・・テイウォンの言っていた方とは貴女でしたか・・・」
「え、え、言ってたって・・・」
「・・・・・・」
騎士は立ち止まり、窓から中庭を見下ろしてしばらく黙っていた。
「ティウォンは、多分貴女はジェルヴェーズとずっと旅をしていたのだろうと申しておりましたが・・・」
「はあ・・・その通りです。すごい観察力」
ナタリアは困ったように言った。なんで襟章の話をしただけなのに、こんなに深刻な雰囲気になってしまったのだろう。あたしは悪くない、あたしは悪くないとナタリアは騎士が沈黙を守っている間中心の中で呟いていた。
「お時間はよろしいでしょうか? お見せしたいものがあります」
「あ、え、はあ・・・」
騎士はナタリアを先導して歩き始め、名をレイダンと名乗った。
何度か角を曲がり、中庭を突っ切り、彼は塀のすぐ側の花壇のある場所までナタリアを連れてきた。樹が茂り、なんだかほのかにいい香りがする。そしてそのすぐ側に、騎士レイダンの見せたいというものがあった。
見上げんばかりの高さの、オベリスク。断面は方形、上方になるほど細く、頂上だけがピラミッドの型をした礎。黒光りする、つるつるの石を彫ったようだ。月の光を受けてそこだけ白く光っている。
「あれをご覧下さい」
騎士レイダンはその一面の上部を見上げた。ナタリアはちらりと彼を見、その視線をたどって自分もその辺りを見上げた。
しばらく視線が定まらず、泳いでいたまま彷徨い、ナタリアの視線はある一点で止まった。
ジェルヴェーズ・ダヴランシュの名が刻まれている。
こういうものは普通一行ずつに名前が彫られているものなのに、こればかりはまるで一つの文のようにただ連綿と名前が彫られていて、名前と名前の間にそれらを区別する隙間すらない。ナタリアが見つけるべき名前をなかなか見つけられない理由はそこであった。 そしてその面の最上部には、盾の形が彫り込まれていて、線だけで六つに区切られている。
「親衛隊のマークです」
騎士レイダンはその盾を見ながら言った。
「ジェルヴェーズも親衛隊の一人でした。私とは隊が違っていましたが、彼女の評判はそのつもりがなくとも聞こえてきたほどでした」
「無愛想だから?」
ナタリアは真剣に聞いたつもりだったが、騎士レイダンは破顔して返した。
「まあ、それもあります。騎士の使命を負い、市民と接していると、どうしても向こうに緊張感を与えないようにと腰を低くする者が多くいる中、彼女だけは変わらず無愛想でしたね」
その辺は変わってないけど、とナタリアは思ったが、言うのはやめておいた。今は話の腰を折らずに、彼の話を聞きたい。
「ジェルヴェーズは、ソーン創設以来の初めての女性騎士でした。他国では女性騎士というのはそうは珍しくないようですが、ソーンは入団時の試験が厳しく、その年の合格者がいないというのも日常茶飯事です」
それはそうだろう。世界一レベルの高い騎士団だ。ナタリアでさえ知っているほどなのだから。
「彼女は入団して以来、めざましい活躍を遂げてきました。当初は近衛三隊から始まったのですが、それを考えるとやはり素晴らしい実力を備えていたのでしょう」
ふつうは最初から近衛隊に入ることはなく、まずは騎士隊からがほとんどだと、騎士レイダンは言った。なんでもソーン騎士団は、まず襟章を許されない騎士隊から始まり近衛ニ隊、近衛三隊、近衛四隊、そして親衛隊と昇格していくらしい。が、騎士隊からどれだけ頑張って昇格しても、せいぜい近衛三隊が関の山だというのが通例のようだ。その近衛三隊から始まったというのなら、確かにジェルヴェーズの実力は大したものだ。
「先ほど、ジェルヴェーズの襟章はどんなものだったのかと、そうおっしゃられましたね」
ナタリアは騎士レイダンの襟章をちらりと見た。長方形が、下に向かって丸くなった形。 それを、まず曲線になる寸前のところで横に線が入り、さらに縦に垂直に線が入る。これで、盾の中に十字架が出来上がる。そしてその縦の線を中心に上部の正方形をさらに斜めに二分して、全部で六つの場所が出来上がるわけだ。騎士レイダンの襟章は上の四つの小部屋が左から青、黄緑、茶、黄、そして全体の三分の二を占める下の二つの色は、左が白で右が赤であった。
「正式な礎は、城内にあります。後で行かれれば、恐らくどういうものかわかるでしょう。 ---------ジェルヴェーズは・・・・・・」
騎士レイダンはそこで言葉に詰まった。
黙って言葉を待つナタリアに背を向け、騎士レイダンは何と言っていいのか、自分でも言葉が見つからずに困っているようだった。そしてようやくそれが見つかった時には、側で鳴いていた虫の声も聞こえなくなっていた。
「ジェルヴェーズは、末は一個師団を率いることができるほどの者でした。だからあの事件は、本当に残念でならない---------そう思いながらも、結局我々は彼女を止めることができなかった---------彼女の辛さがよくわかったから、自分も同じ立場だったらどうするかと考え、止めることはできませんでした---------」
そして振り向き、ナタリアを見て静かに言った。
「貴女にだけは、話しておきましょう、どうしてジェルヴェーズが騎士団を、ソーンを去ったかを。多分、彼女は貴女に言うつもりはあるけれど、辛すぎて言えない、しかし言わなければという煩悶の間にいるでしょう。彼女の口からあのことを言わせるのは、あまりにもむごすぎる。ジェルヴェーズは言うことはできないでしょう」
そう言って騎士レイダンは話し始めた。
「もうニ年も前のことになります---------」
そしてちょうど同じ頃、ジェルヴェーズは正にその騎士の名を連ねる正式な礎のある部屋まで来ていた。黒くぴかぴかした石の上に彫られた、ソーンの騎士のすべての名前。騎士隊も親衛隊も、ソーンに籍を置いた者の名はすべて刻まれ、引退した後も残り、翻って何らかの失態で追放された者の名前は削られていく。
ジェルヴェーズは隅の方に歩いていき、見覚えのある盾の紋章の前で止まった。
上方四つの小部屋は左から緑、黄緑、青、茶。下部は左が紫、右が白。
そしてその盾の下を辿っていくと、知った名前ばかりの中に彫られた名前を見つけた。
LORD Gerverz Davlansche, The Knight of THORN.
ジェルヴェーズは削られることなく彫り込まれた自分の名前の、そのくぼみにそっと触れた。
(・・・・・・・・・・・・)
ジェルヴェーズは、迷っている。
ナタリアに話すべきか否か---------いや、それはもうわかっている。話すべきなのだ。 なんとなれば、ナタリアとジェルヴェーズは元々二人で旅をし、互いに気を許す相棒と自認し、頼りにしているからだ。きっかけがなければ、別段話さなければならないといことはなかっただろう。しかし旅の最中に黙っていなくなり、突然艦に迎えに来させ、ソーンの騎士だったということがナタリアや仲間たちにわかれば、それはやはり、筋くらいは通すべきものであろう。それが、旅を共にし、生死をも共にする者同士の礼儀というものだ。
少なくとも、ナタリアには話さねばならない。わかっている、わかっているが、ジェルヴェーズには決心がつかない。話す覚悟はできていたはずなのに、あの艦の星見台での夜、あの日のことを思い出してジェルヴェーズの口は途端に重くなった。自分の中では、まだ定着すらしていないむごい話。
自分は、まだあの日のことを消化できていないのか---------。
ソーンを去るそもそものきっかけとなったあの事件、あの日のことを、ジェルヴェーズは思い出していた。
4
移民の援助・人権保護のために設けられた移民会館に立てこもり不当な要求をした三十人の男たちを全員死なすことなく捕縛し、また十五人の人質を無傷のまま救出した立役者として、その年ジェルヴェーズは異例の昇格を果たした。十六の時に単身、生まれ故郷のジアイーダからレスト大陸へ渡り、そのまま入団したのが近衛三隊、それだけでも当時はかなりの話題を呼んだものだったが、翌年のシュルツワーゼ会戦、続いてリオリィル会戦で功労を上げたジェルヴェーズは十七で近衛四隊に昇格していた。それよりたった二年、十代で親衛隊に昇格を果たし、それがソーン創立以来初の女騎士となれば、彼女を知らない者はいないと言ってよかったろう。
親衛隊は全部で四隊からなる構成で、当時は四隊すべてで二十五人前後の騎士がいたはずだ。襟章を許された近衛隊は単に第一部隊第二部隊などと呼ばれていたが、親衛隊のみは襟章の下部分の色からちなんで通称が決められていた。小部屋が赤、青、茶、緑、下部分が白と黄の隊は黄蓮、黄緑、黄、水色、青、下部分が緑と白の隊は緑晶、青、黄緑、茶、黄、下部分が白と赤の隊は赤羚、そしてジェルヴェーズの隊は紫泉と呼ばれていた。襟章の色は、三色以上からは必ず白を入れることが義務付けられており、親衛隊に限っては下部分の片方が必ず白が入っていることから、もう片方の色から名をつけたものなのだろう。
いつも思うが、どうしてこういうことが好きなんだろう、とこれはジェルヴェーズの当時の感想である。親衛隊第一部隊とかでいいのに、なんでまたこんな名前を。
覚めたものの見方は当時から変わることはなく、こんな性格だから、親衛隊に昇格してああよかったなとは思いこそすれ、興奮したり嬉しくて嬉しくてしょうがないというそぶりは一切なかった。誇りには思うが過剰な自負とも違う。いつも風のようにニュートラルで氷のように冷静、それがジェルヴェーズであった。が、だからといって他人を馬鹿にするような態度はなく、あくまで相手を尊重した言動や態度に、とっつきにくく愛想のない女ではあるがいい奴らしいというのが、親衛隊での風評であった。
騎士団の任務は、戦時には戦地に赴いて戦うことから始まり、大司祭の周辺警護、司祭たちの移動時の護衛、城内の見回り、市井での取り締まりと巡邏と幅広い。親衛隊といえどそれらの例に漏れることはなく、言ってみれば親衛隊だからこんな仕事はしない、とか、こういう仕事は騎士隊がするもの、などという隔たりが、ソーンには一切ない。親衛隊は夜の城内の見回りもすれば、街へ出て市民と触れ合い苦情を聞きもする。この任務はあの任務よりも大切だとか重要だとかの位置付けもなく、極端な話をしてしまうと大司祭の身辺警護も城内の見回りも同じ位重要なものと考えている。
だからジェルヴェーズも、親衛隊に昇格したからといって街の見回りがなくなるというわけではなく、その日も紫泉の者と近衛隊の数名と共に街を見回っているところであった。「ああ、ジェルヴェーズさん。聞きましたよ、親衛隊に昇格されたとか。おめでとうございます貴女ならやると思っていましたよ」
と、にこやかに話し掛けてきたのは、髪にぽつぽつ白いものの混じり始めてきた男で、口髭をたくわえ、がっしりとした体格の一見紳士風の男だ。このように何度もあちこちを持ち回って巡回する内に顔見知りとなり、声をかけてくる市民は多くいる。
「シュミットさん。どうも」
相変わらず無愛想だったが、それでもジェルヴェーズは気を許した態度で答えた。
そう言えば彼の家はここから近くだったかな、と、前回の巡邏地区を思い返しながら、ジェルヴェーズは別の者にも挨拶をして立ち去るシュミットの背中を見ながら考えていた。「今の人だろ」
「ああ」
近衛の者が密かに言うのを、ジェルヴェーズは聞こえていないでもなかった。
街の名士シュミットの娘は、今から二年前、ちょうどジェルヴェーズが近衛四隊に入って間もなくの頃に殺された。まだ六歳で、茶色の髪をいつも二つにしばり、鞠のようにはねまわる大変かわいらしい子供であった。リッツェという名前だったが、皆にはリジーと呼ばれて可愛がられていた。笑い声は明るく、いつもにこにこしていて、ジェルヴェーズも何度も巡回の時に会った事がある。こういう女だから子供を相手に笑顔で接したり他の者のように短い間ではあるが遊んでやったりなどはしなかったが、無愛想なジェルヴェーズの本質を見抜いて、彼女を見つけると喜んで走り寄ってきたりしていたものである。
シュミットは大した人格者で、自分の近隣の者で貧しくて病気になったり、病気をして突然仕事がなくなってその日の食事もできないような者に薬代を用立ててやったり、仕事を世話したりしてやっている。いつも笑顔が絶えず、柔らかな物腰と紳士的な態度は、男女を問わず好かれるはずであった。そのシュミットの娘がいなくなったと聞いて、地元の人間は夜を徹してあちこちを探してくれたほどであった。
リジーが殺されたと聞いたとき、さすがのジェルヴェーズも随分と衝撃を受けた。
ある日突然行方不明になり、三日後に城下の港に浮いていた。
捜索願いを受けて、騎士団はリジーを探し回った。たまたま当時その地区の担当であったジェルヴェーズも、部下や同僚たちと共に必死に探し回った。そしてリジーの死体を発見したのもジェルヴェーズの班であった。
いまだに忘れられない、うつぶせになってぷかぷかと浮かぶ、浮腫んだ子供の死体。見覚えのある服、見覚えのある髪。あちこちが傷だらけで、見るに耐えない有り様であった。 身体の震えがとまらず、顔面が蒼白になっている近衛三隊の者の代わりに、自分が死体を引き上げた記憶はまだ新しい。
そのリジーを失って、シュミットの悲しみようは一通りのものではなかった。死体に縋りつき、辺りを憚らず大声で泣き、涙は止まるところを知らないようだった。妻を早くに亡くし、その妻と同じ髪の色をした娘を、文字通り溺愛していたシュミットであった。犯人は、まだ捕まらない。
ハースヴォンは治安がいいというのがこの国の謳い文句である。特に性犯罪や殺人に関しては厳しい対処をしているが、増えない代わりに減るというものでもない。その証拠に、昨日も若い男と中年の男性が別々の地区で殺され、前者は刺殺で後者は絞殺だそうだ。
本部に戻り、打ちあわせが始まった。ここの地区は最近空気が荒れている感じだとか、あそこの地区は学校に進学した子供が多いから一定の時間帯は注意が必要など各受け持ちの地区のことを言い合い、班長はそれを記録しておいて班の次の受け持ちに渡す。四月に一度、巡邏の係は回ってくるが、あちこちの地区を交代でやっているとそうでもしないと受け持ちの地区の事情がわからなくなってしまう。
間もなくジェルヴェーズは巡邏から城内の受け持ちとなり、しばらく城下の話を聞くこともなく、それなりの毎日が続いていた。
そしてその四ヵ月後、ジェルヴェーズが城下の巡邏になった時、記録帳を見てジェルヴェーズは眉を寄せた。
自分が次の勤務にまわってすぐ、若い女性が殺されている。海に放り込まれて死んだらしいが、ジェルヴェーズが不可解に思ったのは、被害者の恋人の申し立てだ。
「あいつらにやられたんだ」
記録帳にはそう書かれていた。
---------あいつら?
ジェルヴェーズは記録をつけた本人のサインを見て昼食の時に彼をつかまえ、どういう話なのかを聞いた。
「あれか」
聞いた途端、同僚は顔をしかめた。同僚と言っても、相手は十二歳も年上の親衛隊だ。「ひどい事件だった。被害者の恋人というのが、被害者がいなくなる直前ある女と一緒なのを見たと言ってな」
「女?」
「その女は、まあ盛り場の品のよろしくない連中としょっちゅういることくらいは知られている奴でな。---------被害者の女性は、・・・・・・痣がたくさんあったんだよ」
「強姦か」
無表情にいつもの口調で言ったその言葉を聞いて、側にいた近衛の者がぶっ、と飲んでいた水を吹きだした。食事中である。
「それが・・・厄介でな。死体は港で見つかった。あの辺は小さな船も頻繁に出入りする。 そもそも見つかった死体がその船のスクリューに巻き込まれていたからなんだ」
「そうか・・・」
ジェルヴェーズは言葉を飲み込んだ。強姦ならば、検死で死体を調べればすぐにわかる。 が、スクリューに巻き込まれていたというのなら、その傷が無数に身体につく。スクリューでついた傷なのか強姦でやられた傷なのか、検死官は判断できなかったということだ。
「被害者の恋人は何度も連中を調べてくれと言ったらしいが・・・どれだけ黒に近くても証拠がないだろう。死亡推定時刻は幅があったし、連中にはアリバイもあった。証拠がない以上は、無理だった」
やりきれなかったよ、と同僚は言った。ジェルヴェーズも同じ思いだった。話を聞いただけでも痛々しいのに、実際に当番だったらもっと嫌な思いをしていただろう。
ため息をついてジェルヴェーズは食事を終え、静かに立ち上がって食堂を後にした。
それから数ヶ月、ジェルヴェーズは城下巡邏の任務から外れていた。
なんのことはない、騎士団は多くの任務を受け持っているため、それらが煩雑になってくると当然のこと受け持つはずの四月の間隔は広くなっていく。激務に追われ、ジェルヴェーズは市井のことなどとんと忘れて仕事に励んでいた。
戦があったこともあった。また、近くの森に巣食う百人規模からの盗賊たちを一掃したこともあった。この任務は半年近くもかかる大仕事だったと記憶している。
親衛隊に昇格して二年、ジェルヴェーズは二十一歳になっていた。
国外での任務も多かったため、ジェルヴェーズが帰国して久し振りの食堂の食事をしていた時、顔見知りが隣の席でため息をついているのを、彼女は偶然聞いてしまった。顔を上げると、すまんなと彼は言い、ジェルヴェーズはなにかあったのかと聞いた。
「一件殺人があった」
どうやら彼は現在巡邏の任務についているらしい。
班長は重々しい口調で渋い顔のまま言った。殺人は、総合的に見れば多く聞こえるかもしれないが、滅多に起こることはない。
「どんな?」
「被害者は盛り場で女を食い物にしているような男でな。目撃者がいる」
「なんで捕まえなかった」
「目撃された時間、容疑者は酒場で知り合いと食事をしていた。証人も大勢いる」
記録帳をちらりと見た。目撃されたという容疑者は、数ヶ月前強姦の疑いのある死体で発見された女性の、恋人だった男だ。
「---------」
「どう思う」
復讐ではないか、ちらりと考えた。恋人が強姦されたかもしれず、しかも殺されている。 が、男が殺されたと推定される時間には、この容疑者はまったく離れた場所にいて食事をしている。それは大勢が見ていたことだ。
「あちこちに復讐されるようなことしてたんじゃないの」
ジェルヴェーズは言った。ヒモのような生活をしていたのなら、恨みをかうことなど日常茶飯事のはずだ。
「やっぱりそう思うか。厄介なんだよな」
殺された人間がそういう類である為、騎士団としてもあまり捜査に積極的ではない。なにしろ、殺されたディランという男が出入りしていたあちこちの酒場に話を聞きに行くと、昨夜の厚化粧もそのままの女たちが、口を揃えてあんな奴は死んだほうがよかったと言っているそうだ。
「すごいね。商売女に言われるって」
「犯人が見つかったら自分たちが褒賞をやりたいくらいだと言われた。こんなのは初めてだよ」
班長はため息まじりでそう言った。結局、数ヶ月足らずでその捜査は終わりになったらしい。犯人を探してほしいとの訴えもなかったし、人の役に立つどころか正反対の男を殺した犯人を探すためだけに人数と時間を割くほど、騎士団は暇ではない。
当時ハースヴォンの領地一帯には、海では海賊、陸では盗賊の横行が目立っており、騎士団はもっぱらそちらの対処に追われていた。治安が良いはずのハースヴォン周辺にそういった輩が増えたのには、一つは領地と一口に言っても広大で、王国内の治安は騎士団の名の下に保たれているが、その外までは騎士団の範疇でないこと、もう一つは隣国で勃発した戦の影響ということが上げられる。戦そのものはすでに終わっているはずだが、放っておかれたままの死人から持ち物を剥ぎ取ったり、又は敗残兵となった方の下級兵士などがそのまま盗賊に身を落とすことが多い。やれやれ、とジェルヴェーズは思った。これではなかなか国内の任務につくことができない。親衛隊などは、もっぱら大司祭の周辺の仕事だけだと思っていたのだが。
それから数ヶ月が経ち、ジェルヴェーズにまた巡邏の番がまわって来た。その途端に、おかしな事件があったという報告があった。
女が一人、頭を殴られて担ぎ込まれたという。殺人未遂だ。
ハースヴォンの外ならばともかく、騎士団の厳戒な管理体制の下そもそも殺人が起こる事そのものが珍しい。しかも、自分の担当した月で起こる事も稀だ。
「班長、ちょっと来てもらえませんか」
班の若い騎士が入ってきた。ジェルヴェーズが身体を乗り出すと、
「ちょっと複雑でして」
困った顔をしている。
その女のいるという部屋へ案内される道すがら、ジェルヴェーズは彼の言った複雑なものの説明をさせた。
まず、担ぎ込まれた女の名はリル。お世辞にも品のいい女とはいえず、仕事もなにをしているのか見当がつかない。恐らくたまにカモを見つけては身体を売ったり、誰か男と組んで美人局のようなことをしているのだろうとその騎士は言った。
「ここからが複雑なんです」
リルがしょっちゅうつるんでいるという男は、数ヶ月前殺されたディランという名前の男らしい。記録帳を見るまで気がつかなかったが、いつぞや食堂で聞いた男のことだ。そして、リルははっきりとではないが自分の頭を鈍器で殴りつけた男を見ている。その男というのが、恋人を強姦され殺され、怪しい奴らがいるから調べてくれと言ったあの男だというのである。
「・・・はあ」
「その男の名前はレネルというそうです」
「つまり、こういうわけ」
ジェルヴェーズはこんがらがる頭の中を整理しながら言った。
「一、レネルの恋人は強姦されていた傾向があり、殺された。レネルはあいつらがやった んだ、と言った。それらしき女と殺された恋人が一緒だったとも言った。
二、それらしき女というのが今日運ばれたリルという女で、リルはレネルらしき男に殴 られたと言っている。
三、リルは数ヶ月前殺されたディランとつるんでいた。
とまあ、こういうこと?」
「お見事です」
騎士は大真面目な顔をして言い、さらにディランの相棒だった男も一年ほど前に殺されているという。殺人は頻繁にあるわけではないから記録帳から探すのもそう苦労はなく、すぐに確認できたとも彼は言った。
「レネルという男は既に騎士隊の者が監視をしています」
ジェルヴェーズはうなづいた。ちょうどその時部屋に着き、騎士が開けた扉の向こうに入った途端、ジェルヴェーズは一瞬眉を寄せた。
振り撒いたかのような香水の匂いが立ち込めている。しかも、頭痛がしてくるほどに安い香水だ。
診察室には顔見知りの年老いた医師がうんざりした顔でカーテンの向こうに向かって適当にうなづいている。班の者が二人、側に立っているが、同じような辟易顔だ。そして、カーテンの向こうで先程からえらい勢いでがなりまくっているのが、恐らくはリルという女であろう。
「いいから早くあの男を捕まえなさいよ! あたしは被害者なのよ!? 騎士団騎士団ってえっらそうにしてて肝腎のことはなんにもできないじゃない!」
「班長」
ジェルヴェーズに気づいた騎士が思わずそちらを見る。ご苦労、と小さく言い、ジェルヴェーズはカーテンをひいた。香水の匂いが一段と強くなり、わからぬ程度に顔を顰める。 あら、という女の声がする。
「被害者の方ですね。月番巡邏班班長のジェルヴェーズです。お話を聞きましょう」
リルという女は事情を話し始めた。だいたいは道すがら騎士に聞いたのと同じ話で、後は仕事の愚痴や稼ぎの悪さを嘆く話だ。ジェルヴェーズは聞くふりをしてリルを観察していた。
三十少し前だろう。しかし肌はぼろぼろに荒れていて、それを隠そうとして化粧の上塗りをしているので十秒以上はとてもとても直視できない。ぼってりとした唇に、親の仇のような赤い口紅。病気ですか? と思わず聞きたくなってしまうほど真っ青な瞼。裏通りの娼婦のほうが、まだおとなしい化粧をしようというものだ。服装はどぎつい赤の上着に紫のスカート、蛍光色に近い黄色のバッグを持っている。どこをどうやったらこんな色を組み合わせられるんだ、とジェルヴェーズは心中で毒づいた。髪は今酒場の女たちの間で流行っている髪形で、髪を何本も細かく細かく編んでしばらく癖をつけ、それを一週間ほどやっておいてほどくというものだ。それをすると、まるで天然の巻き毛のように派手やかに華やかになるのだ。裏通りに居つづけて相当になるな、とジェルヴェーズは見当をつけた。
「何か心当たりは?」
聞かれて、リルは鉛の棒を飲み込んだような顔になった。あるんだな、とジェルヴェーズは思った。
「な、ないわよ。あるわけないでしょ!」
じゃあどうして殺されかれたりするんですと別の騎士が言い、またなにやら喚きちらしている。あまりにもうるさくてうんざりしてきたジェルヴェーズは、部下には悪いが、班長の特権で後は頼むと言ってそそくさと出て行ってしまった。
数日後、リルが護衛の依頼をしたというので、班長会議で詮議をした後、ジェルヴェーズの班から数人が護衛に当たることになった。その時の班の者の、口には出せないがはっきりと嫌だという表情を、ジェルヴェーズは忘れることができない。
「あたしだって嫌だけどね」
ぽつりと言い、ジェルヴェーズはこれも仕事だよと班員に言った。
彼女はいつも独り言を言うくらいの声で話すし、どんな時も声を荒げることはなく淡々と話すので、班員たちは全身全霊で彼女の話を聞いている。下手をすると聞き逃すからだ。
騎士の務めとは何かと聞かれれば、弱き市民の代わりに戦い、彼らを守り、その生活の最低限の安全を保障することにある。たとえそれが、どんな人間でもだ。弱い者を守るべき立場にいる者が、相手の選り好みをしているようでは弱い人間を守ることにはならない。
で、無論のことジェルヴェーズもリルの警護にあたることになった。殺人未遂で怪我などをして身の危険を感じた場合、市民は市井の治安を預かる騎士団に護衛を要請する権利を持っている。
「あらあ、あんたなの」
髪を弄びながらリルは彼女を迎えた。
「この間は気がつかなかったけど、あんた騎士団で女ひとりなんだってえ?」
ジェルヴェーズは無表情のまま彼女に近づき、側に立った。リルは侮蔑に満ちた笑みを口元に浮かべ、どこかで買ってきた駄菓子を口の中で転がしている。
「毎晩の相手に事欠かなくていいわねえ。おまけに小銭も稼げるじゃん」
注意しようとした騎士を止め、ジェルヴェーズは小さく首を振って見せた。
「それに噂じゃああんた大司祭と寝て騎士団に入ったらしいじゃん。そうよねーでなかったらそんなに若いのに親衛隊なんか入れないもん。やるう」
「・・・・・・」
ジェルヴェーズはとうとう一言も話さず、表情を乱すことなく彼女の話を聞いていた。 リルは初めこそ面白がっていたが、やがてやりがいがなくなったらしく不機嫌な顔になってそっぽをむいてしまった。不愉快な女だ、とジェルヴェーズは腹の中で思っていた。
その不愉快な女の警護は長く続いた。監視下にある生活はリルを苛立たせ、いつ襲われるかわからないという不安も募って彼女は騎士団に八つ当たりを繰り返した。
「どうなってんのよ! 早く捕まえなさいよあのクズ男を!」
そう言われて思い出した、恋人を殺されたレネルという男のことを。報告では、怪しい素振りは見られないという。ジェルヴェーズは直感した。
この女は、レネルの恋人の死と関わりを持っている。でなければレネルに狙われるはずがない。殺されたディランという男とリルは悪事を働く時に必ずつるんでいたと言うし、去年殺された男もこの二人とは頻繁に手を組んでいる。あちこちに散らばって一見関係のないように見える事件の糸が、段々と繋がってきた。恐らくリルを襲い、二人の男を殺したのもレネルであろう。何故というなら、恋人が殺される直前にリルと恋人がいたのを見ている、それだけで充分すぎるほどだ。ジェルヴェーズは単独で彼女の護衛のみに集中した。
一ヶ月もすると、日中どころか夜住まいにまでついて来るジェルヴェーズを、リルの方がうるさがるようになってきた。
「あんたさあ」
うんざりした態で、昼食の手を止め身を乗り出してリルは言った。
「ちょっとうっとうしいのよね。なんでもかんでもついてくりゃいいってもんじゃないのよ。トイレくらい一人で行かせてくれたって」
「任務ですので」
「ばっかじゃないの? そんなとこにまで来て誰が殺そうなんて考えるっていうのさ。馬鹿の一つ覚えで側にいればいいってもんじゃないのよ。いいから早くあの男を捕まえなさいよ」
いつもは暖簾に腕押しで黙っているジェルヴェーズが、何を思ったかじろりとリルを見た。
「な、なによ」
「善良な市民に殺される覚えでもおありですか。どんな覚えなのか、聞きたいものです」
「---------」
いつもは黙って聞き流すジェルヴェーズの思わぬ反撃に、リルはなんともいえない顔となり、口の中でぶつぶつ言ってはいたが、その内に黙ってしまった。
これだけの長期間一人の人間を警護していると、大抵は情が移るものだ。それはジェルヴェーズといえど例外ではなかったが、今回だけは違った。リルは、一緒にいればいるほど嫌になっていく女だった。そわそわとして落ち着きがなく、話すことといえば下品な話題ばかりで、男と寝ること以外何も考えていないような節がある。
ある日郵便受けから手紙を取って中身を読んだリルは、ちょっと顔色を変えて周囲を見渡し、手紙を側の蝋燭の火にくべてしまうとショールを羽織った。
「どちらへ」
「ちょっと知り合いと会いたいのよ。二人で会いたいの。あんたは来なくていいから」
「そういうわけにはいきません」
嫌がるリルの後ろから、ジェルヴェーズは無理矢理ついていった。護衛が続いて二ヶ月---------犯人が、レネルが動くとしたらそろそろ今ごろが我慢の限界だろう。
何度も何度も彼女を撒こうとして失敗したリルは、うろうろとあちこちの街路を意味もなく歩き回りつづけ、とうとう痺れを切らし、突然走り始めた。
ジェルヴェーズの油断と言われれば、まったくその通りになる。
とにかくジェルヴェーズは街路を何度も何度も曲がってリルを追い、走りながらふところから出した笛を呼び鳴らした。これを聞いた班の者が、異変を察知して集まってくるはずだ。別の地区の者も、手隙があれば応援に来てくれるかもしれない。
そして完全にリルを見失い、煉瓦の壁に囲まれた狭い十字路でどうしようか迷った時、向こうの方からリルの悲鳴が聞こえた。
するどく舌打ちをし、ジェルヴェーズはその声の方へ一目散で走った。潮の香りがきつくなってきた。港に近い。
「ぎゃああああ! たたたたすけてえっ!」
案の定、港に山積みされた木箱の側で、リルは追い詰められていた。彼女が硬直して見ている方向はちょうど建物の影で、ここからは誰だかはわからない。間に合ったか、とジェルヴェーズは抜刀しながらどこかで安心していた。リルの前に立ちはだかり、建物の影からゆっくり歩いてくる人影と対峙する。月光で、その人影が持っている鋭いナイフの刃がキラリと光った。レネルだな、とジェルヴェーズが思った瞬間、建物の影から出てきた人物の顔が月の光にくっきりと照らされて見えた。
ジェルヴェーズは硬直した。
「------------------」
そこに立っていたのは、シュミットだった。
「嘘だ!」
ジェルヴェーズは思わず叫んだ。どうしてシュミットがこの女を?
身体が動かない。カタカタと震えている。初めて戦場に行った時にも震えなかったこの自分の身体が、まるで自分自身ではないかのように震えている。
「シュミットさん・・・どうしてあなたが」
「ジェルヴェーズ・・・そこをどくんだ」
ぞっとするほど冷たい声。ジェルヴェーズは足が竦むのを感じた。遠くの方で、部下たちが自分を呼ぶ声がする。
「どくんだ!」
「だめだ!」
ジェルヴェーズは自分に喝を入れるように叫んだ。その声で、部下たちが聞こえたかと互いに叫び合っている。今のは班長の声だ。
「ど・・・どうしてあなたが? この女とは何の関係も」
「娘を殺したんだ」
シュミットは血の出るような叫びを発した。ジェルヴェーズの知っている彼ではなかった。
「む・・・娘って・・・リジー? どうして」
声が震えている。自分の知らない、知るはずのない無残な現実が明るみに出ようとしている。
「この女はあいつらに言われて娘を連れて行き、そのせいで娘は殺された。あの若者の恋人もそうだ! あいつらは目をつけた人間を片っ端からこの女に連れてこさせて犯し、その後に殺したんだ!」
リルは怯えて頭を抱えこんでいる。
「そん・・・リジーまでそんなことは」
「あったんだ! 娘は強姦されたんだ。まだ六つだったのに。その女はあいつらに金を掴まされて娘をあいつらの所まで連れて行ったんだ!」
「知らなかったのよぉ!」
リルは激昂するシュミットの怒鳴り声に耐え切れなくなったように叫んだ。
「な・・・?」
「あいつらは最初あの子をさらって金を取ろうって言ったのよ! でも連れて行ったらディランの方が妙な気を起こして・・・ま、まさかあんなひどいことするとは思わなかったの! 本当よ信じて!」
「あの若者の恋人にも同じ事をしたな! わざといい服を着て安心させ連れて行ったんだろう!」
「殺すなんて思わなかったのよ! ただちょっと可愛がってやりたいからって言われ
て・・・殺すなんて思ってなかったの!」
二人のやりとりの間、ジェルヴェーズは顔面蒼白になってかたかたと震え、剣を構えたまま硬直していた。その騒ぎを聞きつけて巡邏の者がぞくぞくと集まって来、三人は騎士団の者に囲まれた。
「班長・・・!」
「来るな!」
シュミットは怒鳴った。その間にも、ジェルヴェーズのすぐ側まで近づいてきている。 剣を振り下ろせば斬れる距離だ。
「さあジェルヴェーズ・・・聞いただろう。この女のせいで娘も、それからあの若者の恋人も殺されたんだ。ただ殺されたんじゃない・・・何度も何度も代わる代わる交代で犯したんだ。娘はまだ六つだった・・・さあどいてくれ。仇を討つ」
「だめだ」
ジェルヴェーズはやっとのことで言った。周囲は騎士団が囲み、固唾を飲んで成り行きを見守っている。誰かがジェルヴェーズの名を叫んだが、彼女は来るなと怒鳴った。
「ジェルヴェーズ! どくんだ!」
シュミットの顔に焦りが見え始めた。どかなければ、彼は親しくしていたジェルヴェーズすらその刃にかけるだろう。そしてそうしてしまえば、リルには手出しはできなくなる。
「嫌だ」
「どいてくれ!」
悲痛な叫びであった。ジェルヴェーズはいつの間にか涙を流しながら、必死でどくまいとシュミットを睨んでいた。背後で彼に怯え、慄いているのは、罪人かもしれないが市民でもあった。
この女が嫌いだった。下品で、落ち着きがなくて、いつも人を馬鹿にすることで自分の存在を確かめようとする嫌な女であった。しかし嫌いだからといって、不当に命を狙われているこの女を差し出そうとするのは間違いだ。騎士は弱い者を守るもの。弱い者を守るべき立場にいる者が、相手の選り好みをしているようでは弱い人間を守ることにはならない。
「どくんだ!」
「駄目だ!」
ジェルヴェーズはしぼり出すように叫んだ。
「今どいたら、あたしは騎士でなくなる。シュミット、確かにこの女は悪いかもしれない。 リジーが殺される原因になったかもしれない。でもあんたの手で殺しちゃだめだ。それは間違ったことだ。後ろ向きなことだ。頼むから・・・それをしまって。この女はきっと裁かれるから」
「いやだ。娘に誓ったんだ。必ず復讐すると。あの二人とこの女、そして残る二人を血祭りにあげると誓ったんだ!」
あの二人まで・・・。
ジェルヴェーズは絶望にくれながら、しかし剣を降ろそうとしなかった。リルがどのような悪事をしたとはいえ、目の前に彼女を殺そうとしている人間がいる以上は、彼女を守らねばならない。なぜなら自分は騎士だから。
「頼むからどいてくれ・・・」
しかしシュミットは、ジェルヴェーズを刺せる位置まで近づいていながらその場に崩れた。待ちかねたように騎士団の者が走り寄ってナイフを取り上げる。リルの泣き叫ぶ声。
ジェルヴェーズはへなへなとそこへ座り込んでしまった。
結局、ディランと前の年に殺された彼の相棒はシュミットが殺したということがわかった。彼の娘のリジーも、そしてレネルの恋人も、ディランとその仲間によって強姦され殺されていた。
彼は地元の名士としての人脈をフルに使って真相を暴き出し、証拠がない上はと自分で彼らを裁くことにしたのだという。殺された二人の他に強姦に加わった者は二人おり、これはシュミットの話を聞いた騎士団の者によって既に捕縛されている。リルは、犯行には加わってはいないものの、リジーとレネルの恋人を安心させ連れて行くという役目を引き受けた科で投獄された。彼女の頭の傷だが、鈍器で殴打したのはレネルらしい。偶然街で見かけて、ふらふらとついていきカッとなってやってしまったという。彼のアリバイの証言に関しては、酒場という煩雑な場所ということもあり、人々は明らかにこの時間にいた、という風には断言できず、しかし馴染みのレネルがなにか困ったことになっているらしいので助けるつもりになったようだ。彼をよく知る者たちは、彼の境遇に皆一様に同情している。レネルは傷害でリルに訴えられてもおかしくなかったが、リルは彼を訴えないと言った。自分はいいから、彼の罪をなるべく減らしてほしいとも言ったという。起訴する者がいなかったので、レネルは傷害に関しては厳重な注意を受けただけで済んだ。
ハースヴォン始まって以来の痛ましい事件は人々の知るところとなり、その悲惨さに誰もが眉を寄せたという。人情家で慈善家のシュミットの嘆き、それを知っていながらリルを守るしかなかったジェルヴェーズにも、人々の悲哀は寄せられた。シュミットは投獄された。ジェルヴェーズは。
ジェルヴェーズは、騎士団を辞めた。
騎士であることの意味が、わからなくなったという。
「・・・・・・・・・」
「ジェルヴェーズは、貴女に言いたくてもどうしても言えないでしょう。痛々しい、むごい事件でした。ソーンを、ハースヴォンを去るという彼女を、我々は止めることができなかった。それほどひどい事件だったのです」
すべてを聞いた大司祭は痛ましげに眉を寄せ、深いため息をひとつついただけであったという。
「消息は、一切知られませんでした。ジェルヴェーズにとってこの地は未だ痛みを訴える傷のある地。彼女は二度と、この地を訪れることはないだろうと思っていました」
しかし今、アドヴィエスの暗躍と仲間が関係があるらしく、その為に心を痛めた仲間の為にジェルヴェーズは自らの傷口を両手で押し開こうとしているという。
「貴女が羨ましい気がします」
騎士レイダンは眩しげにナタリアを見た。
「え・・・でもそれはあたしじゃないし」
「それはそうでしょうが、貴女と一緒に旅をしていたからこそ、ジェルヴェーズはそこまで変わることができたのでしょう。いえ、貴女と、あの大勢の方々すべてといたからこそ」
騎士は胸に手を置き、それこそが我々の目指す仲間同士の在り方というものですと言った。