第八章 親愛なる裏切り
第八章 親愛なる裏切り
さらり、と気持ちの良い風が吹いた拍子に名を呼ばれたような気がして、ガラハドはハッと顔を上げた。が、声の持ち主がそこにいるはずもなく、彼が目にしたのはディアスの背中と、その向こうの雄大な山の姿のみであった。隣では、ナタリアとサラディンがなにやら話をしている。すべては幻、すべて気のせい。
顔を上げ、再び周囲の様子に目をやると、見渡すかぎりの美しい草原が広がっていたヴィヴェリィ大陸とは違い、彼方に幾重にも広がる山脈が見える。夏の陽射しを受け、その山肌は時に青く、時に黒く、ちょっと言葉の出ないような雄渾さを秘めて佇んでいる。
その山の麓に小さく点のように見えるのは恐らく村かなにかだろう。アリスウェイドが前方でディアスと今夜の宿について話している。ガラハドがもう一度その村のような集落の影に目を馳せた時、見慣れないものが目に止まった。
塔のような高い木の足。車輪をさらにさらに大きくしたような、円形に構成された羽根。 ガラハドは目を細めて蜃気楼かどうかの問い掛けを自らに課した。
風車か。
近づくにつれ、彼は自分が間違ってはいなかったことを実感した。
街に着くと、それは圧倒的なほどの存在感でいくつもいくつもそこに屹立していた。動力は風なのだろうか、どの風車も今は微動だにすらしない。この風車は街の要なのだろうか、あちこちに群れをなして点在する様は、彼が今まで一度も見たことのないものであった。
さて街へと入り、そう大きくもない集落なので、宿を探す手間もそうないだろうと思っていると、アリスウェイドの顔がなんとなくうかない。
「? どうした」
ディアスも、いつもはこれからの動向を話すのには熱心なアリスウェイドが、今日は話し掛けてもなんだか気もそぞろという感じなのに気が付いたらしい。
「いや・・・」
アリスウェイドはそう答えたきり、空を見上げては、しきりになにか考えている。
「夏なのにさっぱりしたいいとこねえ」
ナタリアが周囲を見回しながらそんなことは気にもせずに言った。確かに、真夏の七月だというのに風は涼しく、肌寒いくらいである。
街の門をくぐった途端、街の人間がじろじろとこちらを見ているが、それは彼ら一人一人の目立つ容姿のためと、それからなんといってもその人数のせいだろう。総勢十一人連れの冒険者というのは、なかなかお目にかかれないというものだ。
「・・・・・・ふむ・・・」
アリスウェイドが小さく呟き、なにか自分のなかで結論が出たような表情となったとき、初老の男がこの目立つ一行に目をやる内アリスウェイドを見つけ、話し掛けてきた。
「アリスウェイド!? あんたなのかい」
その声にアリスウェイドは振り向き、たちまち今までの思案顔から笑顔になった。
「ゼフィル」
「久しぶりだな・・・何年ぶりだ? 確か・・・姪を探しているとか言ってなかったか」
アリスウェイドは笑顔で傍らのリスレルを引き寄せた。
「彼女だよ。リスレルだ」
リスレルはいくらかもじもじして照れた笑みを浮かべてゼフィルと呼ばれた男に会釈した。リスレルは、こういう時に自分はアリスウェイドの知り合いの間ではちょっとした有名人だということを思い知る。リスレル本人も然り、仲間たちも然りだ。手紙で知り合いや友人にいちいちを知らせるには、アリスウェイドは知己が多すぎる。こうして、旅の途中途中で再会するごとに知らせるしかないのだ。
「そうかじゃあ見つかったのか。よくやったな」
ゼフィルはリスレルへと視線を移し、よかったねと言った。
「よかったも何も」
アリスウェイドは笑顔で言った。
「もう再会してから九年だ。相変わらず、ここは少しも変わらないな。・・・あれ以外は」
アリスウェイドは側にあった大きな風車を見上げて顔を曇らせた。
「ああ」
そのことかとでも言いたげに、ゼフィルも表情を曇らせる。
「まさか・・・」
「いや、あんたのせいじゃない。それは確かだ。時間が経ちすぎているしな。家に行ってゆっくり話そう。・・・大勢だな・・・仲間も一緒に」
ゼフィルは歩き出しながら、
「しかしこれだけ入れるかはわからんぞ。オレのうちは狭いからな」
と言って豪快に笑った。
ヴラソフ大陸は俗に『ヴラソフの屋根』と呼ばれるユライエ山脈に分断される東西の土地で成り立っている。大陸の中央部に連なる山々は海から見ることができるほどに、高く、雄大な静けさで聳えている。夏は青みを帯びて大地の緑と映え、わずかに残る雪が黒い山肌と対照的にきらきらと光る。
この山脈は元々は活動している火山で、昔はよく大小の噴火を繰り返していたらしい。 近辺に住む住民はその度に苦渋の思いである者は家を、ある者は家畜を、またある者は土地や作物をすてて逃げなければならなかった。命を落とした者も数多くいた。
そして当時それを見かねた大魔導師フェンセルが、持てる知識と技術を駆使して火山の胎動の流れを変えた。火山の活動を止めることはできないが、その暴力的なまでの活発さを分散させることを考えたのだ。彼ほどの魔導師ならば、あるいは火山活動を休止させることは出来たかもしれぬ。しかし自然の動きを人為的に止めてしまうと、必ずどこかにひずみが生じる。雀を害鳥だと言って捕獲し続ければ、稲を荒らす害虫がはびこってしまうのと同じで、火山活動を無理矢理休止させることによって生じるかもしれない未知の弊害を、賢明なフェンセルは恐れたのであろう。
そうして手のつけられない暴れ馬のようだった火山は魔導師の手によって一部のエネルギーの流れを変えられ、大陸の東西にそれぞれの恵みをもたらしているというわけだ。それまでは荒涼とした空の赤い土地であったヴラソフを、大部分は時の流れがそうしたとはいえ、緑溢れる土地になるきっかけを与えたフェンセルの功績は大きい。ヴラソフ大陸では今も彼の命日である五月のその日に、各地で盛大に祭りを催すという。その賑々しさは、例えて言うならアリスウェイドとリスレルが行ったアルジリア王国の春迎祭と同じように、世界に名だたるものである。
そのフェンセルの功績により、ヴラソフ大陸は山脈より東側の地方は、今も噴煙をあげて活動する火山の熱によって一年中暑い常夏の地方、一方西側は、火山の熱をうまく冷やした古代秘宝の魔力の影響によって一年中寒い常冬の地方として知られるようになったのである。東側は今も火山が活動しているが、そのエネルギーを分散したおかげで以前のような噴火が繰り返されることはなくなったという。
と、そこまで聞いて、ナタリアがテーブルに肘をついたまま言った。
「ちょっと待ってよおかしくない」
彼女は持っていたグラスを置いてゼフィルを見る。
「話を統合すると、この辺はいつもはすごく暑いってことになるわよね」
ゼフィルは神妙な顔でうなづいた。
「めちゃめちゃ涼しくない? 地熱で暑いなんて信じられないわ」
ゼフィルとアリスウェイドは顔を見合わせた。
気まずい沈黙が、二人の間にたれこめる。
「・・・な、なに」
「問題はそこだ」
アリスウェイドは、肘をついて重ねた両の掌の上に顎を乗せて言った。
「―――なんのことだ」
ディアスの声が何かを感じ取って幾分緊張する。剣士特有の、鋭い感覚が彼に訴えかける。先刻からのアリスウェイドの様子のおかしさ、なにかある、と。
アリスウェイドはしばらくの間黙っていた。ゼフィルも、自分ではなんと言っていいのかわからず、下手な説明をして誤解を招くよりは、いっそ黙っていたほうがいいとでも言いたげな表情だ。
しかし初めに口を開いたのはゼフィルの方であった。
「かれこれ九年前になるか・・・山向こう、つまり西の土地でいきなり温度が上がり始めてな。その時たまたま西にいたのがアリスウェイドだ」
しーん、と場に沈黙がたちこめた。
まだ状況が把握できない者、それとこれとどう関係があるのかと訝しむ者、そしてこの言葉の意味がわかって尚、あまりにも信じられなくて、まだそれを認めたくない者。
気まずいまでのその沈黙を破って、ようやくディアスが口を開いた。それでも、彼がまだその事実を受け入れたくないかのように、その瞳は信じられないという驚愕の光に満ち満ちていた。
「火山の活動を---------停めたのか」
やっとのことで彼は言った。しかしまだ信じられない。この男は---------いつも自分が肩を並べているこの男は、一体どこまで人間離れしていれば気が済むというのだ。
「誤解しないでもらいたい。私は確かに活動を停めはしたが私の力でやったことではない」
「意味がわからん」
「つまり---------」
アリスウェイドとゼフィルの説明はこうだった。
猛り狂う溶岩のエネルギーを消すことが出来ないと悟った大魔導師フェンセルは、『氷雪の宝玉』という古代の秘宝を使った。その秘宝は、はるか氷河期の昔の吹雪にも匹敵するほどのエネルギーを秘めているという。フェンセルはそれをうまく使って、火山の一部を活動させないようにしたのだ。なるほど遥か開闢の昔から猛り狂う火山の胎動と同じくらい昔の吹雪の力と力をぶつけ合って相殺したということだろう。
「そしてその宝玉の影響が最も大きいのが西の土地で---------」
「だからこそ西はいつも寒い、とまあこういうことだ」
「え、えと、つまりはこういうこと?」
ナタリアが身を乗り出す。
「いつも寒いはずの西の土地が暑くなって、たまたまその時そこにいたアリスウェイドが、火山の地下まで行ってどうにかしたってこと?」
「まあ・・・そうだ。実際には『氷雪の宝玉』は岩崩れが原因で台座から外されていてな。 それで正しく機能していなかったわけだが」
「今もまたその可能性がある、か・・・」
ガラハドが腕を組んでぼそりと呟いた。
「その通りだ。だからアリスウェイド、これはあんたが九年前やったこととは何の関係もない。気に病むことはないんだよ」
「しかし・・・」
アリスウェイドが尚も言い募ろうとした時、表の扉が二、三度ノックされて、ゼフィルの返答と共に扉が開いた。
「世話役、やっぱり今夜集まるらしい。風車も動かないし・・・と、来客でしたか。すみません―――」
「いやいい。伝達はそれだけか? ありがとう、行っていい」
アリスウェイドはゼフィルを見た。
「西も東と同じように、気候が激変しているだろう」
「問題はこっちだけじゃないってことか・・・やれやれ」
「---------どういうことでしょう」
エストリーズが静かに言った。普段こういう時にあまり口出ししない彼女だが、さすがに黙っていられなくなったらしい。
「お嬢さん、九年前アリスウェイドが西にいたときにはね、寒いはずの土地で暑くなっていたんだ。そしてまた同じことが起きている。しかも、西と東は火山を境とした一身同体の関係だ。つまり---------」
「あ・・・」
エストリーズとナタリアは同時に声をあげた。ナタリアはこの街に着いた時の自分の言葉を思い出していた。
『夏なのにさっぱりしたいいところねえ』
「---------」
事態は、彼らが考えていたほど甘くはなかったようだ。この後ゼフィルが世話役の集まりに行くのにアリスウェイドはついていき、
「じゃ、私たちはそれぞれ散らばりましょ」
セシルが立ち上がりながら言った。各々歩き回って情報を収集しようというのだ。セシルは近くの酒場に立ち寄ってこの街に紋章学師のギルドはあるかと聞いている。エストリーズはそんな彼女を表で待ち、セシルが出てきて何か言うのにうなづき返し、二人してどこかへと向かった。ジェルヴェーズは飲みに行くと言い、ナタリアは剣を手入れする為の砥石がなくなってきたので何か話を聞けるかもしれないという期待と共に武器屋へ行った。
ディアスは思うところあるらしく、一人で黙って出て行き、そのまま街路の向こうへと消えてしまった。ガラハドは蛇の道は蛇、と言いながら剣を片手に裏通りへと行き、少々お友達にはなりたくないような顔つきの男たちに話を聞いてくるという。仲間たちの代わりに宿を取りに行くというクロム、近くの教会に行って聖水をもらってくるというヴィセンシオ、その教会の創りが古風でなかなかのものだという話を聞いた修道院育ちのリスレルは彼についていくと言い、なにをしてもいちいち要領の悪いところのあるサラディンは、ちょっと考えて結局ヴィセンシオについていくことにした。
「姐さん冒険者かい」
ナタリアが一番高くて軽い、しかも滑りのいい砥石を買ったことからだいたいの見当をつけたものだろうか、店主は砥石を店の者に奥に取りに行かせ、その間に手ごろな短剣などを見ているナタリアにそう言って声をかけた。
「うん」
ナタリアは振り返って答え、何火山活動の停滞と、それに前後して何か変わったことはないかと聞いた。
「そうさなあ・・・この街は地熱で動く風車と、それを動力源にした色々な工業をしてるから、風車が止まると結構困ったことになっちまう」
「ふんふん」
「特に工場をいくつも持つリリンさんとこは、機械は動かない、だから商売もあがったりで大変らしい。あそこは工場だけでなくて畑もいっぱいもってるしねえ」
「この街の工場はほとんど彼の?」
「ほとんどってほどでもないな。まあせいぜいが半分ぐらいだが、それを考えると手痛い打撃らしい。来月には息子の結婚式があるってのに、大変だな」
「結婚? 息子がいるんだ」
「金持ちの坊っちゃんなのに人の練れた男でね、いつも下の者の立場になってと考えてくれるし、いい男さ。街一番の美人と結婚できるのも、顔や立場だけじゃないってみんなもっぱら噂してるよ」
「ふうん・・・天は二物を与えるんだねえ」
と、おかしな感心をしているところで、砥石を持った店員が奥から出てきた。ナタリアは砥石を受け取り、もう少し別のところに当たってみようと武器屋を出た。
一方のガラハドは所謂暗黒街にある小さな酒場でそこにいた陰気で目つきの悪い男たちに酒を一杯ずつ振る舞い、近頃起きた街の芳しくない出来事を聞こうとしていた。街の人間は、よそ者に対してそういったことを言うのを嫌うが、彼らのような裏の世界に生きる者は金の言うことしかきかない。こういった手合いの連中は、多かれ少なかれ、ちょっとした街には必ずいるものなのだということを、ガラハドは長い旅の暮らしでいつの間にか知ってしまっていた。
「まあ一番はザーディの失踪だろうな」
ガラハドのおごった酒を飲みながら、顔に傷のある男が世間話でもするかのように言う。
「ザーディ・・・」
「ああ。リリンのせがれの親友でな。いつからだ? 二ヶ月になるか」
「じき三ヶ月だろうよ」
「リリンのせがれが陣頭に立ってあちこち探したんだが・・・とうとう見つからなかった」
「自殺するような原因があったとは聞いていないしなあ・・・」
「なるほど」
ガラハドは顎に手をやって呟いた。
火山の停滞についての情報は、裏の世界でもないらしい。ならば今回のことは、人為的なものではないのだろうか?
ガラハドは仲間たちはどんな情報を得ているだろうとふと考え、礼を言ってその場を離れた。クロムが取った宿がどこかは知らぬが、そうやって後から来る仲間に知らせる為、大抵の宿では入り口に宿を取った者の名前を示す掲示板のようなものがあるはずだ。
ヴィセンシオの言葉通り、教会の創りは最近では見られない凝ったもので、石で造られているのは恐らくは過去の度重なる火山の噴火のためかと思われた。からまる蔦を装飾的に意匠した壁の造り、何百年も前のものにも関わらず、大切に使われていたおかげで大した損傷も見受けられない立派な祭壇、両の窓のステンドグラスは色取り取りに造られて神話の世界を描いている。教会というのはこの場合、あちこちの神殿の意向を受けた場所で、神殿に行く程度に大切な用事ではあるが、そういった神殿が近くにない場合の出張所のようなものである。ヴィセンシオのいた星神神殿や、九星のシェヴィロト神殿なども、この教会のリストには入っているはずだ。神殿という体裁を取り、各教会に申請すれば、出張所である以上はその申請は断れない決まりになっている。また、その神殿の信者が多く立ち寄るような場所の出張所には、その神殿から係の者が派遣されているはずである。もっとも、出張所であって神殿ではない以上できる範囲も限られており、聖水を分けることの他は洗礼や簡単な儀式の立ち合い、装身具の聖別などが挙げられる。ヴィセンシオのいた星神神殿からも一名、そういう者が来ていて、彼が名前と身分を告げると、祭壇にいた司祭らしき男は少々お待ち下さい、と言って奥へ行ってしまった。しばらくして星神の僧侶服を纏った中年の男が出てくると、ヴィセンシオはおや、という顔になった。
「ヴィセンシオか・・・!?」
「あああなたでしたか。この街に派遣されていたのですね」
「久しぶりだな。元気なのか」
「ええこの通り」
神殿にいたころからの知り合いであろうか、中年の男はしきりに懐かしがっている。大きくなったな、と言っているところから考えると、結構昔からこの街に派遣されているのかもしれない。
彼はヴィセンシオの腰に挿した長剣に目を留め、
「やはり噂は本当だったか」
と驚いた様子で言った。
「噂もなにも・・・事実ですよ」
ヴィセンシオは困ったようにそう言った。僧侶であることに疑問を感じて戦士になった、それが、人伝えになって一体どれだけの尾鰭がついたものか。
「実は聖水を少し分けていただきたいのです。それから、火山についての情報を知っている限り教えていただけたらと」
「そうか。いいだろう」
僧侶はうなづいてサラディンを見、どうやら噂の戦士らしいということを察したのか、
「君か。なんでも仇討ちの旅に出ているとか」
と言った。神殿でヴィセンシオ還俗の許可が出るまで滞在していた折り、ヴィセンシオをたぶらかしてだましたと散々陰口や非難の的となっていたサラディンは、少々怯んだ様子で答えた。
「え、ええまあ」
それからステンドグラスをずっと見ていたリスレルが近寄ってきたのを見て僧侶が問いただしげに自分の方を見るのに対して、
「仲間の一人です。リスレル」
と紹介した。
「仲間が増えたのか。なによりだ」
そう言いながら奥へと案内する僧侶の背中を見て、実はその仲間がもっと大勢いると知ったらどういう顔をするだろうと、ヴィセンシオは密かに思っていた。
「火山の情報か・・・」
中年の僧侶はヴィセンシオに言われて改めて呟き、眉根を寄せた。
「ひどいものだ。今の季節は普段で言うと夏の気温くらいでな。畑の作物などは地熱でのびのびと育ち、今の時期の太陽の光をたっぷりと浴びてそれから真夏の収穫だというのに・・・どこもひどい有り様だよ」
「踏んだり蹴ったりですね」
「風車が機能しないから今まで風力で補っていたことは今はすべて人力だ。効率は下がる、観光客は減る、正にその通りだ」
「専門家はなんと言っています」
「頼りにならん。ここの火山は過去に人為的にそのエネルギーを変えられているからな、予想がつかんのだろう」
僧侶のほとほと困り果てた様子が、サラディンには妙に印象的であった。
街をうろついてそれぞれが持ち寄った情報によると、西は常冬、東は常夏であるのに、それが逆転してしまい作物がすっかりだめになっているということ、また彼らの今いるこの街は、火山の麓ということを利用して、その地熱で風車を利用し、いろいろな動力にしていたということ、風車がピリとも動かないのは、恐らく溶岩の活動が停滞しているだろうということ、などだ。
「ふうん・・・まあこれだけの風車が動かないんじゃ、相当痛いだろうねえ」
「結構観光の呼び物にもなってるらしいしね」
ナタリアが剣の手入れをする側で、セシルがそれを見ながら答える。誰も、ナタリアに何でそんなことをしているのか、などとは聞かない。理由がわかっているからだ。
彼らは今、クロムの名前を記した掲示板を頼りに街の旅籠にいる。旅の途中で減ってしまった口糧や道具などをあちこちで買い足し、食事をし、男女別れて部屋に入った頃には、夜半にも近くなっていただろう。ベッドに座り、そこから見える窓の外の街並みを見ていると、なにか困ったことがあったなどとは到底思えない。
夜も遅くなった頃、廊下をしずかに歩く気配と、向かいにいる仲間たちの部屋の扉が開く音が微かにしたが、その時は彼女たちの誰一人として、アリスウェイドが戻ってきたことに気づく者はいないくらいに疲れ果て、深い眠りに落ちていた。
「ずいぶんと遅かったな」
ディアスは朝食をとりながら、熱いハーブ湯を飲むアリスウェイドの、まだ微かに翳りの残る顔を見て言った。
「色々話すうちに話がたてこんでな」
少々疲れた様子を見せ、アリスウェイドは言った。彼がこのようにうんざりした顔を朝から見せるというのは、珍しいことといわねばならない。
「まあいい。報告を聞かせてくれ」
アリスウェイドはもう一口ハーブ湯を飲むと、
「いいだろう」
と言ってうなづいた。
1
「『氷雪の宝玉』が何らかの理由で台座から外れてしまったのは事実だ」
冷え切った溶岩が冬の沼のような色となって固まりきったのを眼下に見ながら、アリスウェイドは仲間たちに話して聞かせた。以前は入るだけで顔をも覆いたくなるような灼熱の溶岩が広がっていたはずだが、今はその影すら感じられず、辺りをたゆたうようにして支配していた猛烈な熱気も、露とも残っている気配がない。ナタリアは急な坂道を下りながら、崖の下の黒みを帯びた茶色い塊がすべて溶岩が固まったものだと気づき、ついでそれらが固まる前は人をも融かす溶岩であったということに気づいて、こんなところに一人で赴いてどうこうしようって奴の気が知れないわよ、と口の中で悪態をついた。崖というのは、下に何か急流のようなものがあり、その流れに削られて崖となっている。つまり、崖があるということは、下に渓谷や河が流れているということになる。ナタリアに言わせれば、ここは河がないかわりに溶岩の流れがあったはずなのだから、なるほどマグマの流れを河に例えればそれもうなづける。しかし今彼らが歩いている場所に、その流れたるべき河の水、つまり溶岩が冷えて固まってしまったのなら、ナタリアの取るべき行動は、だいたい見えている。
「ジェルヴェーズジェルヴェーズすごいよほらほらーっ」
異変が起こる前は恐らくあんず色にオレンジ色に、溶岩が蜃気楼を放ちながら燃え盛っていたであろう場所に、今ナタリアは立っている。渓流で言うなら河の流れが、水しぶきもそのままに凍ったのをみはからってその上を歩くのと似ている。
「はいはい」
ろくにそっちを見もせずに、ジェルヴェーズはしれっと言った。ナタリアの突拍子もない行動にさすがに呆れるセシルが、
「・・・・・・よく相手にできてるわよね」
と言うと、
「そう。コツはね、ついていかないこと」
と無表情のまま言う。
「なるほど」
セシルはくす、と笑ってうなづいた。ナタリアとジェルヴェーズ、正反対のこの二人が、どうしてずっと旅を続けているのか、不思議とは言わないまでも、セシルにはおかしくてたまらない。それでいて、いざ戦いとなるとこの二人は、互いに何も言わないでもきちんと相手の動きと自分の動きを計算に入れて戦っている。その息の合っていることといったら、正に絶妙だ。
あちこちの固まった溶岩の上を走り回り飛び回って戻ってきたナタリアは上機嫌で、鼻歌すら歌っている。それを背中で聞きながら、自分は最初は一人で旅をしていたはず、と現在の状況に違和感を感じつつディアスがアリスウェイドに言った。
「九年前というと、リスレルと再会する直前だろう」
「そうだ。私が最初にこの大陸に降り立った場所はこことは正反対---------つまり常冬の西側にいた。私が世話になった村では到着する二、三週間前から突然暑くなって―――その慣れない暑さで作物がみんなだめになっていた」
「しかし時間がかかりすぎやしないか」
サラディンが周囲の不気味な静けさに目を馳せながら言った。
「九年だぞ。あれだけ火山の恩恵を受けておきながら九年・・・急に風車が機能しなくなったというのは妙だ」
「そういえばそうだねえ」
ナタリアはちらりとアリスウェイドを見た。
「なんで泊まっただけの村にそこまでやしてやったのよ」
「・・・一宿一飯の恩義というやつだ」
「女でも世話されたの?」
「違う」
強い調子で即答されて、ナタリアはふふ、と笑った。脇から、ディアスが信じられないような面持ちで問い詰めた。
「・・・一宿一飯で?」
にこにこしながら、それにリスレルが答えた。
「一宿一飯で」
例えその当時そこに自分がいなかったとはいえ、リスレルには手にとるようにわかる、その時のアリスウェイドの気持ち、微妙な視線の表情ですらも。
「何て男だ」
「物好きねー」
「色々言われてるよおじ様」
口々に言う仲間とリスレルの言葉に苦笑して、アリスウェイドは静かに言った。
「・・・貧しい村でな。その日の食事もやっとという生活なのに---------・・・大変なもてなしをうけたんだよ」
冷えきった溶岩の不気味な広がりを眼下に、ガラハドはアリスウェイドの背中を見つめて声も出なかった。
義理堅い---------なんという情の篤さだ
鉛の棒でも呑み込んだように、ガラハドは喉から腹にかけて重苦しくなるのを感じた。 思い出すな、あの日のことを、あの時のことを。
己に必死に言い聞かせながらも、彼の瞳は昔の日々を見ていた。
ガラハドは二年ほど前、ある貴族に仕えていた。
ラーレンフォート伯爵。紳士で思慮深く、静かな声と柔和な表情の持ち主であった。剣に長け、馬を能くし、それでいて書を読むことをこの上ない喜びとする人であった。また政治においては、常に無力な立場に立たされる人民のことを一番に考え、彼らの為に何が出来るのか、なにをすればいいのか、その為どういう行動に出るのが一番良いのかを考える人であった。ガラハドは彼のような男に仕えることができて幸せだった。彼のような男はもういないだろうし、いたとしても仕える気にはなるまい。
当時を振り返ってガラハドは、多分人生で一番幸せな時間だったのだと思う。しかし同時に、人生で最悪な瞬間を迎えるための、それは序章にしか過ぎなかったようにも思える。
ガラハドには当時恋人がいた。目を閉じて彼女を思うと、胸の中が締め付けられ、次いで乾ききった砂に水が沁みてくるようなおかしな感触にとらわれる。
長くウェーブした、柔らかな金茶色の髪。亜麻色の、透き通った美しい瞳。最愛の人、最愛だった人。
「ガラ」
その日ガラハドは、夜勤明けでまだ眠い顔のまま、宿舎に帰ろうとしていたところであった。普段ならば眠くて疲れていて、不機嫌の骨頂であったろうが、その声の主が誰だかわかって、ガラハドの疲れは一気に吹っ飛んだ。
「オーレリー」
「今から戻るんでしょ? 午後の会議なんだけど、時間が変更になるの。宿舎の掲示板に書いておいてくれない」
「いいよ」
「ごめんね夜勤明けなのに」
オーレリーは笑顔で礼を言い、持っていた何冊もの本を抱えなおして去っていった。その背中をしばし見送り、ガラハドは歩き出した。
ラーレンフォートの騎士隊で二人のことを知らぬ者はいなかった。オーレリーはリゼレ男爵の秘書をしていて、男爵はガラハドの主とは昵懇の仲だ。ある夜の会議で男爵の御供をしていたオーレリーと、同じく伯爵の警護をしていたガラハドが出会ったことから、この二人の付き合いが始まる。オーレリーはヴラソフ大陸から仕事に就きやすいヴィヴェリィに渡ってきた移民である。ガラハドは、どちらかという彼女のような野心のある女が好きだ。その会議の後二人は街で偶然再会し、恋人となるのに時間は大してからなかった。
快活で行動的で、明るい笑い声のオーレリー。優しくてよく気がつき、言わなければなならないことは言える、毅然としていて、それでいて時々ひどく女っぽい。
「おう夜勤明けか。ご苦労さん」
翌朝すっきりした顔で食堂に出たガラハドに声をかけた者がいた。
「昨日は大分疲れたみたいだな」
「ああ・・・ピリピリしていたよ。緊張がこっちにまで伝わった」
ガラハドはうんざりして宿舎の庭を見た。向かいに座ったのはカーマイン、彼の親友である。
この世で一番信用できる男は誰だと聞かれたら、ガラハドは迷わずカーマインの名を挙げるだろう。ガラハドは金髪と不思議なブルーグレイの瞳で、どちらかというと美形に属するが、カーマインは美形というよりは精悍で野性的な面立ちをしている。その名の通り、染めたのではないかというくらい美しく透明感のある赤毛、いつも鋭いライトグリーンの瞳。二人が肩を連ねて街を歩けば、娘たちが黄色い歓声を上げてついてくるか、ぽーっと見惚れているかのどちらかだ。カーマインは口が堅く、よく隊の者の相談を受けることが多い。喧嘩をした二人の人間から別々に相談を受けても、片方には知らん顔で話を聞いてやる。おせっかい面をしてもう片方にああ言っていたこう言っていた、だから考え直してやれとも言わず、自分は無関係な第三者としてじっと成り行きを見守るタイプである。また正義感が強く、彼と知り合いの娘がどこぞの流れ者に悪さをされたと聞いて騎士の紋章をそこへ捨て剣を引っ掴んで顔色変えて飛び出して行った事もあった。あれにはさすがのガラハドも肝を潰して止めにいった覚えがある。
昨夜は月に一度の国王会議と呼ばれる集まりで、正式には全王族貴族宮廷会議というのだが、単に国内のすべての貴族が国王と会議をする為のものなので騎士たちは国王会議と呼んでいる。会議は長時間続くことがほとんどなので、この時主君の警護にあたっている騎士たちは大抵徹夜で主が戻ってくるのを待つ。彼らが移動したり、時には宮廷の外へ出ることもある為、気の抜けない任務である。
「新米騎士が五人もいたよ。どこの家中かは知らないが・・・」
「新米に国王会議の夜勤番か。緊張が伝染しても仕方あるまい」
「おかげで遣わなくてもいい気を遣った」
「普段遣っていないからちょうどいいだろう」
カーマインは肘をつき、そこに顔を乗せてにやにやと笑っている。
「ところで、伯爵はどうだ」
ガラハドはそんなからかいの視線を無視して逆に尋ねた。
「ああ・・・」
カーマインは向き直り、ちょっと下を見てから呟いた。
「よろしくないな。高齢だからというのもあるが・・・」
そこで二人はむっつりと黙った。
二人の仕える伯爵ラーレンフォートは、最近身体の調子が思わしくない。カーマインは高齢と言ったが、六十歳では若くはないが高齢とも言いがたい。七十二歳で現役の男爵もいるのだ。
それに、伯爵は普段からとても健康に気をつけて生活している。今までとて、病気一つしたことがないはずだ。それが、急に食欲が失せ、眠れなくなり、微熱がつづいているという。昨夜の国王会議も、本当はガラハドは主の体調を考えて休むように申し付けたのだが、元来が真面目な性格の為、伯爵は聞き入れようとはしなかった。夜半になってから顔色が悪く、土色になっていたのを、ガラハドはよく覚えている。医者に来てもらったが、特に異常は見られないし、毒も盛られたようではないと言っている。しかしその医者ですら、これだけ異常が見れないのに、体調が著しく悪いのもおかしな話だと首をかしげていた。
「医者が首をかしげるというのもおかしな話だ」
カーマインは腕を組んで低く言った。
ガラハドも案じていた。
伯爵は父とも仰ぐ主君である。誰よりも尊敬しているし、まだまだ彼の騎士でありたいという気持ちは強い。身体にいいという薬草がどこそこにあるとわかってはそこへ採りに行っているが、思わしくはない。
心に暗雲を抱いたまま、ガラハドの毎日が過ぎていった。
水底に揺蕩い、突然水面に出てきたように、ある晩ガラハドは目覚めた。飛び起きて周囲を見渡すと、まだ夜明け前のようである。沈もうとしている月の光が、青白く窓から差し込んでいる。浴びたように汗をかいていた。
悪い夢を見た。
しかし、不思議なことにどんな夢かは覚えていない。ただ、その夢がひどく恐ろしくて堪え難く、恐怖のあまりに声も出なかったのだけはわかる。どんな夢であったか思い出そうとして、だがあまりの恐ろしさに頭が思考を拒否しているように感じ、ガラハドは顔を覆った。
「どうしたの・・・?」
聞きなれた声にそちらを見れば、目をこすって起き上がりかけたオーレリーがいる。
ああそうか・・・。彼女の家に泊まったのだった。
オーレリーは起き上がってガラハドを見た。
「すごい汗・・・どうしたの? なんだか魘されていたみたい」
彼女は枕元にあるテーブルの引き出しからタオルを出してガラハドの汗を丁寧に拭いた。
「なんだか嫌な夢を見た気がする」
呟くように言い、首を拭こうとしていた彼女の手を掴んだ。
「・・・ガラ・・・?」
仄明るい月明かりに照らされて、彼女の肌は神々しいまでに白かった。あどけなく自分を見上げる瞳、なにもかもが愛しい。
ガラハドはオーレリーを抱きしめた。強く激しく、抱きしめた。
「ガラ・・・くる・・・し・・・」
みなまで言わせず、彼はその唇を塞いだ。
どうしようもない不安、言い知れぬ恐怖---------それから逃げることはできなくとも、一時忘れるくらいは許されよう。
彼は夢中でオーレリーにのめりこんで行った。
彼を苛む恐怖と不安が、まだなにものかもわからないままに---------。
その日は天気が良く、風も穏やかで―――絶好の懇談会日和であった。リゼレ男爵、ラーレンフォート伯爵他三人の貴族、俗に世間で言われる五爵家と言われる、それぞれの貴族たちが集まって旧交を温めるというものである。
五人の内どれをとっても要人中の要人であることに変わりはなく、警備は厳戒を極めるが、本人たちは仕事を抜きにして互いに飲み食いのることができるということもあって楽しみにしているようだ。この日の場所はリゼレ男爵家、ガラハドもカーマインも前の日から警護の道順と準備に追われている。この日の騎士の頭数と、それらの名簿がようやく出来たということで、ガラハドはカーマインに意見を聞こうと控え室に向かった。この日のラーレンフォート家警備主任はガラハドであり、彼と同じく騎士隊長をしているカーマインはラーレンフォート邸で警備を続ける。しかしこちらの状況を確認するために、四人いる騎士隊長の内一人を警備主任に当てるとしても、もう一人は必ず事前にその場所に赴いて警備主任と打ち合わせをするというのが常でった。扉を開けようとする瞬間、聞き慣れた笑い声がしたので、ああ、オーレリーも一緒にいるのだなと思ってよく考えもせずに扉を開けようとした。オーレリーとカーマインはガラハドを通じて友達だし、三人でよく食事に行ったり郊外に出かけたりもする。この時も、リゼレ男爵の秘書をするオーレリーが息抜きに自分たちの部屋へ来たのだとばかり思っていた。
しかし次の瞬間、恋人そのひとの言葉で、ガラハドは打ちのめされた。
「悪い人ねカーマイン・・・親友の恋人とこんなことしてていいの?」
「なら誘いに乗らなければいい・・・この計画を考えたのも元はといえば君だぜ」
友と恋人とに裏切られた瞬間だった。
「---------」
彼はそこに立ち尽くした。扉の向こうからは、聞くに忍びない生々しい喘ぎ声が聞こえてくる。ガラハドはそっとそこから立ち去った。
オーレリーの恋人として、そしてカーマインの親友として、彼はそこにいたくなかった。 そしてまた、いるべきではなかった。
しかし騎士としては、彼はその場に踏みとどまって話を聞くべきであったろう。
恐るべき裏切りの裏に、もっと恐ろしい企みが潜んでいたから---------。
その日、リゼレ男爵家で出された飲み物は二種類あったという。
一つは男爵他四人の貴族たちであり、その日の主賓たちに振る舞われた酒。
もう一つは、彼らが食事などして談話している間に待たされる騎士たちのために用意された果汁で微かに味をつけた水である。こういう時は場所や状況も手伝って騎士たちにも酒が振る舞われることも多いが、大抵職務に忠実な彼らはそれを拒む。酒の臭いをさせて主君の側へ参るのも不謹慎ならば、酩酊状態で主の警護をできるとも思えないというのが理由であろう。しかし何時間にも渡って飲まず食わずのまま隣室で人が飲み食いしているのを耳にするのも可哀想だというので、彼らには簡単な食事とその飲み物が振る舞われる。
ガラハドはあの後、気を落ち着けるために男爵家の庭に呆然とたたずんでいた。すべての音という音、風のわずかな音、小鳥の声すらも、どこか遠くで無意味に響いているに過ぎなかった。四肢が重く、いつものように胸を張って前を見据えて歩くことが出来ない。 何が起きたのか、何を聞いたのかすらもよくわからない。これは現実なのか? 夢ならば早く覚めてほしい---------
食事会が始まり、広間に主君を送り出す時、既に部屋のなかにいて待機していたオーレリーと目が合った。彼女はいつものように目だけで笑いかけてきたが、ガラハドがそれに反応する前に男爵に呼びかけられて目を逸らした。
棒を呑み込んだような気分のガラハドの前で、扉が重々しく閉じられた。
悲劇は、その晩に起きたという。
リゼレ邸で起きた毒殺事件は、当主のリゼレ男爵、ラーレンフォート伯爵、ミルガン男爵、アロニエ伯爵、マウェン侯爵以下、警護にやってきたお付きの騎士たちの命をも奪った。その数、三十四名。何名か助かった者もいて、食事の時に果実水ではなく、侍女を呼んでふつうの水を飲んだ数名、そして親友と恋人の見てはならない場面を見て、とてもではないが食事の進まなかったガラハドもその中にいた。もっとも、彼は果実水を一口二口飲んでいたから、まったく飲んでいない他の騎士たちのように無傷というわけにはいかず、四日間あの世とこの世の間を彷徨った。
目が覚め、医師たちの安堵するのをまだ朦朧とした意識のまま見渡し、彼は自分が毒を盛られたことをそこで知った。主君の死を知ったのは、体力が回復してきた七日目であった。医師は、目が覚めてからすぐに言った時の彼の衝撃を考えて、今まで言うことはできなかったと告げた。
彼が意識を失っていた間、そして復帰するまでの間、その短くも長い間に、事態はいくつもの変化を見せていた。
五爵家に仕えていた騎士たちは、それぞれ主を失って別の貴族の下へ行ったり、あるいは辛すぎてこの国にはいられないと言って去ったという。また騎士たちの多くは、簡単な試験を通りさえすればの話、王宮に上がって騎士を務める者もいた。が、多くは突然主を失ったことに立ち直れず、考えたいという者がほとんどであったという。その中で一番に名乗りをあげたのが、カーマインであった。そして男爵家秘書として、今までの功績を高くかわれて、オーレリーもまた王宮の事務次官に昇進したという。
あの日なにがあったのか---------ガラハドにはうすうす分かり始めていた。
主賓と騎士たちに振る舞われた飲み物には、致死量の毒が大量に入れられていた。
その日別の食事をした秘書、執事、事務官などは、執事の持ってきたワインを供したので無事であった。飲み物はその日の朝から食堂の隅に用意されており、従って犯行は誰にでも可能であったことも判明した。人の出入りの激しい日であったし、職人も多く来たりしては色々なことをしたあの日、犯人を確定するのはひどく難しいようだ。
毒の入手経路から犯人を探すことも考えられたが、当日混入されていた毒は数種類が混じっていて、各個の特定は困難であるという。また、毒を以って毒を制するという言葉の通り、ある種の病気の者には薬として少量の毒が処方されることもあり、決して致死量ではないのだが、そういうことを考えれば市井にそういった毒物が簡単に出回っているということも加え、近くの森や草原の群生地からも毒草を入手することは簡単だ。捜査は犯人が特定されるまで続くとされたが、早くも捜査陣の顔には諦めのようなものが漂っている。
そして、その内わずかな証拠も故意に消されてしまうだろう、ガラハドはこの時思った。 なんとなれば、事務方にその当人がいるのだから、証拠の隠滅くらい造作もないことだ。
オーレリーとカーマインのあの日の会話・・・すべてはあの二人が仕組んだことだと、決定的に確信を持ったのは、ようやく歩けるようになってとりあえず宿舎に戻った時のことであった。広場で新たな王宮騎士の任命式をしていた。
赤毛の騎士が恭しくそれを承って立ち上がり、騎士の任命をする騎士総長の後ろで総長の補佐をまめまめしくしていた、新しい王宮の事務次官に加わった金髪の女と新しい騎士が一瞬交わしたその視線、わからないくらい薄く口元に浮かんだ笑みを見た時、ガラハドはすべてを失った気持ちで己の邪推を受け入れたのだ。
彼はすべてを失った。
ガラハドの回復を待って、彼は国王に召された。あの悲劇の日、毒によって死ぬこともなければ、毒を飲むこともなく助かったわけでもない唯一の人間---------その彼の心痛を労うための特別の召喚であった。
国王は彼に尋ねた、多くの者が次の主を決めているが、そなたもそろそろ落ち着き先は決まったか、と。主を亡くしてすぐのことであるから、なかなか難しいだろうが、大体決まってはいるのか、と。
ガラハドは顔を上げて吃と言った、事実を告げるもよし、しかし彼はそうしようとはしなかった。
おそれながら、亡き伯爵は父ともお慕いしていた方、その侯爵のすぐ後には、誰にも仕える気持ちにはなれません。また、伯爵ほどの方も、そうあちこちにはおりますまい。
ガラハドは諸国を放浪して主を探す旅に出るといい、国王にその許可を願い出た。
亡き伯爵の人柄をよく知り、ガラハドの言い分がひどくまともに感じた国王は、悲痛に眉を寄せてそれを許したという。
「ガラ」
背後からの声に、ガラハドは立ち止まった。真実を見せつけられたあの日までは、その声をなによりの心の支えとしていたのも、今は遠い昔に感じられる。
「どういうこと? 陛下はあなたを王宮に迎えてもいいとおっしゃっていたのに」
さめた目でガラハドはオーレリーを見た---------
カーマインとのことは言うまい。彼女だけが悪いのではなく、手を差し伸べた方、それに応じた方、どちらも等しく悪いのだ。そしてそれに気づかなかった自分、彼らにそうさせてしまった自分も、同じ位悪いのであろう。
しかし主君に関しては、ガラハドは二人を許すことができなかった。
彼は伯爵を誰よりも尊敬していた。誰よりも慕っていた。彼を一人前の騎士にしたのも、騎士としての自覚を持たせたのも、伯爵であった。己の立身の為に伯爵の命を奪い、警護の騎士たちはおろか、他の四人の貴族の命を奪ったことも許せなかった。
「---------満足だろうな」
「――え?」
このまま残ってもよかった。しかしそれはあまりにも辛かった。
また、このままこの国に残ってこの二人の陰ながらの嘲笑を甘んじて受けるのも誇りが許さず、かといって何も知らないふりをして国を出て同じようにこの二人に何も知らずに馬鹿な男と罵られるのもまた我慢がならぬ。
「すべてを踏み台にして出世してくのも気持ちがいいだろう。俺にはできないことだけどね。似た者同士、お似合いじゃないか」
よってガラハドは自分だけの鉄槌を振り下ろすことにした。
社会的にこの二人を制裁することは、証拠も揃っていないし無理だろう。このまま去るのは自分の騎士としてのすべてが許さない、ならば、この目の前のかつての恋人に知らしめてくれよう、自分はすべてを知っていながら、敢えてお前たちを告発せずに去ると。
紙のように蒼白になってしまい、そこへ立ち尽くすオーレリーには構わず、ガラハドはそこから立ち去った。
新たな主を探す旅に出る―――そう言ってガラハドは国を去った。しかし、それはただの理由、この国にいたくないというこじつけ。
ガラハドは、もう一生主など持たないだろう。
2
「うわ、なんか急に寒いね」
自らの身体をかき抱くようにして、ナタリアが言った。その吐く息が、白い。
「なんだ? 火山なのに・・・地下へ行けば行くほど暑くなるもんじゃないのか」
サラディンも辺りを見回しながら訝しげに呟く。
「まあ、今はそうじゃないのかもしれないにしても」
大気が、見る見る冷たくなっていくのがわかる。しんしんと音すらたて、さわさわと肌に忍び寄ってくる。寒い、というよりは冷たいという感覚が先立ち、鳥肌が立っていく。
「こっちだ」
九年前の記憶をたどりながら、アリスウェイドは迷路のような火山の地下を慎重に歩いていった。
「寒いな・・・」
サラディンが歯をがちがち鳴らしながら呟く。
「だらしないなあ」
「しょうがないだろ。南国育ちだ」
じろりと見上げられて、ナタリアはあれ? と考える目つきになった。
「あんたどこの大陸出身だっけ」
「・・・ヴラソフだよ」
ナタリアは思わずジェルヴェーズと顔を見合わせた。
「・・・あんた・・・じゃあここは故郷みたいなもんなじゃない。なのになんで知らない顔できょろきょろしてたわけ?」
「そ・・・それは・・・」
手をこすり合わせ、歯の根の合わなくなってきたサラディンの代わりに、ヴィセンシオが静かに口を開いた。
「ヴラソフ大陸というのは、今我々がいるこの大陸と、南東に少し行った島と二つを合わせて言うんですよ。あんまり知られてませんけどね。サラディンは、その島の極東の土地の生まれです。用がなければ、こちらへ来ることはまずなかったはずです」
ね? とヴィセンシオはサラディンを振り返った。最早青年は口もきけないくらいに震え始め、こくこくと黙ってうなづく様も痛々しい。
「誰かなんとかしてやんなよ」
ナタリアが学師の二人を振り返った。セシルとエストリーズはちょっと顔を見合わせて、一瞬目顔で話をすると、セシルが掌を合わせ、こしこしとこすりながら何かを低く唱えた。 詠唱は寒気の中低く低く響き渡り、こすり合わせたその掌がスッ、と離されたその手と手の間に、仲間たちはオレンジ色の暖かい光が宿るのを見た。
セシルがさらに低く詠唱を続け、それにつれて光がゆっくりと明滅し、勾玉の形になり、勾玉から渦を描く球体になり、そして渦を描く球体が少しずつ、上に向かって螺旋を描いて止まった時、初めて詠唱を止め、セシルはそれをフッと吹いた。
オレンジ色に輝いていた螺旋の光は散り散りになり、霧のようになって仲間たちの頭上へ一粒一粒落ちていった。
「あ・・・」
サラディンが小さく驚きの声を上げて両手を見た。
「・・・・・・」
指の先まで痺れていたのに、今は血が通ってじんじんしている。暖かくなってきた証拠だ。他の仲間たちも同じようだ、ナタリアは小さくすごい、と言っている。
「膜が張ってるみたい」
「そんなようなものよ」
セシルが薄く笑って答えた。
「行こうか」
アリスウェイドが促す。その背中を見ながら、サラディンは言った。
「寒くなかったのか? いつも何もかも平気そうな顔だな」
アリスウェイドは彼の素直な感想に声を上げて笑った。
「不愉快な思いというのはほとんどの場合自分次第でどうにでもなるものだ。
目障りなものがあれば目を瞑ればいいし、隣の家がうるさければ耳を塞げばいい」
---------この男の言う通りだ
ガラハドは過去を思い出したその余韻からまだ逃れられないまま顔を上げた。この旅の仲間の聖位剣天の言うことのいちいちが、彼の心にじわりじわりと染み込んでくる。
「―――どしたん?」
ナタリアはガラハドの顔を覗き込んだ。先程から沈鬱な表情で、顔色も冴えない。歩き方一つをとっても、なんだかとぼとぼ歩いているといった感じだ。
ナタリアに言われて、ガラハドはハッとした。ここにいてここにはいない、自分は過去に思いをめぐらせ、傍から見れば隙だらけであっただろう。戦場ではそれが命取りになり、旅の行程では足手纏いになる。
「い、いや。―――なんでもない」
「ふうん」
ナタリアは大して興味もなさそうに答えた。
その横顔を見て、つくづく彼は思う。
全体に柔和なイメージの強かったオーレリーに対し、ナタリアの顔立ちはどちらかというと水晶の尖先のようにきりりとしている。髪の色も目の色も全く違うが、この二人に共通しているところは野心家だというところだろうか。
自分が、なぜナタリアに惹かれたかは、正直なところよくわからない。しかしあちこちで会う娘たちとどこか違う目をしていて、どの戦場で会った女戦士たちとも違う空気を纏っている。好きなのか自問しても、すぐには答えが出ない。だが彼女の持つ何かに惹かれている。そしてその理由がわかるまで、ガラハドは彼らと共に旅をするつもりだ。好きだとわかれば尚好きでいればいいし、そうでないとわかれば、それはそれでいい。
「おじ様あとどれぐらい?」
リスレルがいよいよ暗くなってきた周囲を見渡しながら聞いた。先程までの下り坂とうってかわって、今は平坦な道である。壁はごつごつとしていて凹凸が激しく、ほとんど黒に近い茶色の岩肌は、どれくらい火山の熱に耐えたのだろうかと思わせる。
「まだまだだよ」
口元に微笑を浮かべてアリスウェイドは言った。不安になったり、心細くなってきたりした時に九星を数えるという彼女の癖を知っている彼は、上を見上げても星どころか空すら見えないとわかっていて尚、そうしたくなる彼女のいじらしさが時々愛しくなる。だからこういう時アリスウェイドは、リスレルの頭をぽんぽんと叩いて思い浮かべてごらん、と言うことにしている。一日に最低一回は九星を数えている彼女ならば、心に思い浮かべるだけでその正確な配置までがわかることだろう。
九星の第二星はエステーヴ、天地の神である。始めに時ありて、次いで天と地、不動となりぬる。古代の本にある通り、世の不動のものはまず時間、そして次に天と地ができた。 エステーヴは第二星。であるから、守護色は藍と茶色、守護数字は二、守護植物は天に対し林檎、地に対し杉である。また守護鉱物は天の藍色と称されるラピスラズリ、大地の屈強さと美しさをその身に宿したダイアモンド、守護する方向は南南西である。地震の多い地域では、毎月その月の二日に、必ずこの方角に供物を捧げるという習慣が根強く残っている。リスレルが生まれるずっと前、その習慣を馬鹿馬鹿しいと辞めてしまってしばらくしてから毎日のように地震が起こるようになり、命からがら供物を捧げていた塚まで住民が逃げて来ると、一条の光と共に鎧を纏ったエステーヴが降臨し、重々しい声でこう言ったという、我天地を司る神エステーヴなれば、この地の我に対する尊崇著しく堕落せり。 原初においてその習慣ならざれば敢えて無理強いせずとも、太古より変わらぬ崇拝を誓いしその口より侮蔑の言葉出でるは不敬なり。
その口から言葉が迸るたび、いつの間にか分厚くたれ込めた鉛色の雲の隙間からちかり、ちかりとなにかが光ったという。
恐怖してその場に平伏する人々にエステーヴは杉と林檎の木の苗を授け、天地への変わらぬ尊敬の意を忘れぬよう言い含めて消えたそうな。その後その地には一日置きに地震が、
地震のない日には天から雹が降り人々を恐怖に陥れたという。この天変地異は七日続き、やっと晴れた青空から見えた九星の第二星がきらりと光った瞬間、人々はあれは夢ではなかったのだと苗を植え、側に塚を作り直し、今日の今日まで供物を欠かさないそうな。
このような九星に関わる伝承は各地に残っており、それが神殿もない神も含めた九星がいまだに民間に根強く浸透しているきっかけとなっている。こういった伝承が残っているのはなにもエステーヴだけではなく、九柱すべての神が五十年ほど前までは各地に降臨したという。ある時はエステーヴのように不信心に怒り、またある時は意味なく絶えていく命に涙し、ある時は河の氾濫に苦しむ村人の前に現れる。ある時は正義が行われない腐りきった不正の場に降り立ち、ある時は魚のいなくなった漁場に現れる。
第九星、または最終星と言われるのが雷の女神ザヴァラカである。九とはすなわち最後の数、一で始まり時で始まる万物は、やがては九で終わりすべてを破壊する雷によって終末を迎える。よってザヴァラカは雷の女神であると同時に、すべてを終わらせる破壊の女神としても知られている。守護植物は樫、守護鉱物はトパーズとアメジスト、守護する方向は終末を意味する西と南西と言われている。
そして第七星は風の神イザイエ。種子を運び、空気を満たす風を司る。守護鉱物は水晶、守護植物は「その身の動きが風そのもの」と言われる柳。守護色は透明と銀だが、この場合第七星は銀色に光っている。空を見上げて九星を見れば、それぞれの守護色の光を帯びて、第二星ばかりは藍と茶の交互に、光っているはずだ。
「ここを越えればもうすぐだ」
アリスウェイドは少し上を見上げながら言った。側道をしばらく歩いているが、ずっと同じ場所を歩いているようにしか感じられない。
やがて彼の言葉通り、向こう側に黒く口を開けた出口のようなものが見えた。サラディンはこれでやっと終わりかと思ったのだが、いざそこまでやってくると、眼下に目も眩むような崖になっており、道は螺旋状になって下まで続いている。
「一番下の地表に台座があるはずだ」
背負い袋の中から出した松明に火をつけ、アリスウェイドが呆気にとられている仲間たちに言う。
「すごい・・・」
白い息を吐きながら、エストリーズも思わず呟く。身体は暖かいとはいえ、息を吐く空間が寒ければ白くもなる。
「さあ行こうか」
エストリーズはなるべく下を見ないようにして歩いた。ちらりと下を見ると、くらくらするほどの高さである。一番下まで延々と螺旋の道が続いているのが分かるが、ここからではまだまだ、目指す場所すら点のように小さい。目を離さなければ、見ないようにしなくてはと思うのだが、なかなか目を離すことが出来ない。知らない内に目がまわって、ぐらりとした時、
(え?)
初めて身体が傾いだことに気づいた。落ちるのかも、と他人事のように頭のどこかで思った時、目の前にいたセシルの頭もぐらりと傾いだ。
落ちる、と思った。
しかし落ちなかった。こんなこともあろうかと殿をつとめていたディアスが、案の定自分の考えていた通りになって彼女の腰を抱きかかえて止めたのである。
「え・・・あ・・・ディアス・・・」
「あ・・・じゃない。しっかり前を見ろ。もう下は見るな」
「は、はい」
エストリーズはディアスに導かれるままに手を岩肌に置き、そっと伝って降りはじめた。 つまりはそれだけ、今彼女が歩いている場所が狭いということになるが、すべてはそうではなく、先頭を行くアリスウェイドが今歩いている道はふつうに歩けるようだし、もう少し行けば並んで歩けるほどの広さの道もあった。ディアスは並んで歩ける時はエストリーズを壁側に歩かせ、そうでないときは今のように後ろから指導したり、先に立って手を引いたりした。各々、自分のことで精一杯の仲間たちはそれに気づく由もなく、前を向いたままだったが、エストリーズと仲間たちの間には、そうする内にどんどん距離が開き始めた。エストリーズは最初それを見て慌てて足を速めようとしたが、
「慌てなくていい。自分の速さで歩くんだ」
と、ディアスにいつものようなひんやりした声で言われて、ゆっくりと行き始めた。何時間もそうして螺旋を下って行き、気がつくと今では見えなかった一番下にあるはずの台座が小さく見え始めた。エストリーズが思わず上を見ると、まだまだだと思っていた割に、ようやく半分が過ぎようとしているところだった。
「上も見るな」
苛立たしげなディアスの声に彼女は慌てて歩を進め、やがて慣れてきて、辺りの道の傍に雪が積もっているのに気がついた。道は、その頃になると大分広くなってきて、悠々とまではいかないが、なんとかふつうに歩ける程度までにはなっている。
「雪が・・・」
思わず呟くと、ディアスも周囲を見渡して、
「近づいてきているようだな」
と言った。
「でも・・・おかしくありませんか。だって確か『氷雪の宝玉』に異変があったからこそ火山の活動が停滞していて、だからといってこの辺に雪が積もるというのは人為的なものでしか考えられないのでは」
「そうだな・・・その通りだ」
ディアスは眼下の道を行く先頭のアリスウェイドを見た。恐らくあの男も同じことを考えているに違いない。
所々で休み、ある時は水を飲みある時は軽食をとり、彼らは下に行くにつれ雪深く、気温の低くなっていく螺旋の道を降りていった。
そしていよいよあと半周という段になって、彼らは目指す台座の側に不穏な気配を感じた。台座の奥―――ここからは見えない場所に、なにかいる。
既に何人かが剣の柄に手をやったまま、とうとう彼らは宝玉を収めていた台座に到着した。
美しい台座であった。
高さはリスレルの腰程度まであり、透き通った水色の石が台形に形づくられている。表面は、なにやら円陣のような紋様が描かれており、彼らの見たことのない文字がいくつも踊っていてそれだけでも美しく、削った氷の細かな破片が日の光を受けて光るかのようにきらきらと輝いている。そしてそのちょうど円陣の模様の中央に、不自然な窪みがあった。 明らかに何かがあったような、半円状の円い窪み。
「ここに宝玉が・・・」
エストリーズが小さく呟き、あまりの異変に見たこともないような厳しい表情を浮かべていたアリスウェイドが、またもやおかしな気配に気づいて顔を上げた。
台座の奥の壁は楕円のような窪みとなっていて、無論行き止まりなのだろうが、そこは壁も凍っていて白く、わずかに光を帯びている。そこに正座し、こちらに背を向けている男---------その男こそが、先程から何度か感じたおかしな気配の正体であった。なにが恐ろしいといって、気配を感じるまで誰も彼の存在に気がつかなかったということだ。
「そうだ! もっと激しく---------火山など凍らせてしまえ! 命がほしいならいくらでもくれてやる---------!」
「な、なにあいつ」
ナタリアがその叫び声に反応し、まず一番に抜刀したのはジェルヴェーズであった。その音と気配に気づき、男がびくりと身体を震わせてゆっくりとこちらを振り返った。
その異様な姿に、誰もが立ち竦んだ。
人なのかと問われれば---------人なのであろう。しかし、異常なまでに痩せている。 立ち上がるのも危険なくらいにその手足は細く、まさに骨の上に申し訳で皮をつけましたといった感じだ。ナタリアは宿屋で食べた鳥の唐揚げの、すっかり肉を食べた後の骨の部分を思い出した。身体全体は、病気とか、単に痩せすぎとか、その度合いをとうの昔に通り越したのだろう程度の予測は容易にできるほど薄い。ぺらぺらで、そよ風が吹いても倒れてしまいそうだ。身体というよりは紙といったほうがいいのかもしれない。顔は、頬がこけ、目が落ち窪み、全体にねずみのような顔色をしている。エストリーズは天文学院にいた頃本で読んだ飢饉の絵を思い出し、リスレルは修道院の地獄絵を思い出した。髪は所々抜け落ち、残った髪の毛も細くてぱさぱさになっている。白目の部分が黄色く濁っていて、その目の下のくまのような恐ろしい襞は、最早彼が何日どころか何ヶ月も眠っていないのだろうと想像に易い。
そしてその手に重そうに持たれている人の頭ほどのものが---------『氷雪の宝玉』であった。
「なんだ・・・お前たちは」
男は不気味な声で呟いた。
「ああそうか、」
と、己の手元の宝玉をちらりと見、くつくつと笑った。その薄気味悪さに、ナタリアですらぞっとした。
「これを取り戻しに来たのか。無駄だ無駄だ。俺は辞めない---------命と引き換えに火山を凍らせると誓った!」
男が宝玉をかざすと---------彼らの周囲に、空間を引き裂くような音が轟いた。
激しい風の応酬に彼らは一瞬目を細め、周囲にうす水色の光がサッと疾ったと思うと、それが消え消えるのと同時になにかが現れるのを見た。
「氷狼!?」
ナタリアが叫んだ。
向こう側が透けて見える、水色の狼。微動だにしなければ、氷の彫刻だと言われても疑うまい。
「違う。フェンリルは上級精霊だ。神にも等しい力を持つ精霊は人に召喚されることはあっても、そう易々と命令に応じたりはしない」
アリスウェイドが構えながら言う。セシルも錫杖を構え、いつでも詠唱できる体制に入りつつもうなづいた。
「そうよ。上級精霊なんて精霊学師の、よほど長けた人でないと召喚することはできない。 できても完璧に操るなんて不可能よ。あの人は、見たところ学師にはとても見えない」
「恐らく宝玉の力で呼び出したか、作り出したか---------」
セシルは小さく詠唱を開始した。相手に悟られぬよう小さく、どのような攻撃にも勝るほど早く。
「邪魔する者は容赦せん! 俺は自分の命と引き換えにこいつらを呼び出し、火山を凍らせると心に誓ったのだ!」
男が叫んだ途端、周囲にいた透き通る狼たちがいっせいに動き出し、一塊になって空中で渦巻きになると、凄まじい烈風となって襲い掛かった!
「!」
その寸前にセシルが詠唱の完成と共に錫杖を前に突き出し、彼女の左肩あたりが深紅色にポウ、と光った。光は一瞬で彼らを包み込み、半円のドームのようになって氷や雪を含む凄まじい風から彼らを守った。風はしばらくして止み、つむじ風が巻き起こった後のように彼らの髪をすくった。
「やるう」
唸るようにしてナタリアが言った。しかし、早くも新たに召喚された狼たちが五体、こちらの様子を伺っている。
「目には目をなら、古代秘宝の力には古代の力よ」
じり、と仲間との間合いを詰め、セシルが低く言う。
「攻撃はできない?」
「できない。あの狼の力と私の持つ紋章の持つ力は五分五分---------互いの力を相殺する程度にしかならないわ」
「充分だ。防御に専念してくれ」
アリスウェイドが彼に聞こえないように言った。セシルは小さくうなづく。
「邪魔はさせんぞ! 俺の後ろには火口の側道に面した孔がある。そこからずっと冷気を送りつづければ、火山は凍りつく!」
ゴォ、という不穏な轟音が一瞬大地を揺るがした。なるほど、彼の背後、その足元から、濃いあんず色の光が柱のように伸びている。その孔の向こうは恐らく、まだ冷やされていない溶岩の海であろう。
「必ず果たすと誓った復讐を成就させるんだ!」
「---------」
ガラハドはその言葉でなにかわかったような気がした。
「復讐・・・?」
「そうだ。火山が凍ればマイエスの工場も風車も動かなくなる。あいつは破滅だ!」
それでガラハドはすべてを理解した。
暗黒街で聞いた、一見今回のこととは無関係そうな、役に立たないと思っていた情報。
消えた男。街の名士の息子の、親友。
「お前はザーディだな」
ガラハドは抜刀もせずに一歩前へと出た。
「ガラ・・・!」
「しっ」
ガラハドはゆっくりともう一歩踏み出した。
「なにがあった。お前とリリンの息子に、一体なにがあったというんだ」
「ち・・・近寄るな!」
ガラハドは立ち止まった。宝玉を片手に、息をするのにも全身全霊を傾けるほどに痩せ衰えたザーディは、ぜいぜいと肩で息をし、怒り狂った牛のような目でこちらを睨んでいる。口からは涎がだらだらと流れ、手足は微かに震えている。
鬼気迫る姿であると同時に、復讐に燃えるその姿は、恐ろしく醜く感じられた。
---------なんという姿だ。
サラディンは戦うことも忘れて、茫然とそこに立ち尽くしていた。
---------復讐にすべてを賭ける―――その姿はこんなにも醜いものなのか。
ならば、父の仇とクロムをつけねらう自分も・・・?
「なにがあった」
前方では、ガラハドの説得が続いていた。
ザーディは、近寄ろうとするガラハドを見ながら近寄るなとでも言いたげに首を振った。
「あいつは・・・あいつは俺を裏切った」
かつての日々が去来し、ガラハドは目を細めた。さらに近づく。
「寄るな!」
案ずるな、オレはお前の味方だ。オレとお前は同じものなのだから。
「なぜ彼がお前を裏切った? 親友だろう」
「エ・・・エメレイリを・・・エメレイリを奪った」
ガラハドは目を細めた。
エメレイリ・・・それがお前のオーレリーの名か。
ザーディは後じさる。じりじりと、孔が背後に迫る。
「俺も彼女のことが好きだとわかっていて・・・奪っていった。自分の方が金持ちだからと」
「それは違う」
今まで優しく諭すような声だったガラハドが、急に強い口調になった。
「敗北と裏切りを取り違えるな。エメレイリは、彼を選んだ。彼が金持ちだからでも、町の名士の息子だからでもない。彼を愛しているから彼を選んだんだ」
ザーディは痩せ細った顔に涙を流しながらその言葉を否定するかのように首を何度も何度も振った。
「ち・・・違う」
「違わない。現実を見るんだ。辛い現実だ。しかし受け止めなければならない現実なんだ。
お前が火山を凍らせることに成功しても、エメレイリはお前のところには行かない」
「違う! 違う!」
ガラハドが一歩近づくたび、ザーディは後ろに下がった。じりじりと、ガラハドは彼に迫っていく。
「さあそれを渡すんだ。そして街に帰ろう。お前を愛し癒してくれる女性が、きっといるはずだ」
ザーディはさらに激しく首を振った。
「だめだ・・・どのみち俺は命を削って火山を凍らせてきた。もう助からないし、助かりたいとも思わない。街に戻っても針のむしろのような生活が待っている。みんなの白い目にさらされて生きるんだ」
「誰もそんなことは知らない。知らなければ、お前は肩身の狭い思いをしなくてすむんだ」
「そんなことはできない!」
ザーディは血の迸るような叫び声を上げ、すぐ後ろまで迫っていた孔に身を翻した。その時の悲鳴は、誰かの名前であったような、そうでないような。
「!」
ガラハドは思わず顔を背けた。
コツン、コツンという硬い音がして、そらちへ目をやると、水色の宝玉が転がり落ちようとしている。
「おっと」
アリスウェイドが慌てて走りより、孔に落ちる前にそれを掴んだ。
仲間たちの元に戻ってきて見せる、その宝玉を。
透き通った、澄んだ水色の水晶球のような宝玉。きらきらと輝き、辺りに冷気を撒き散らし、よく見るとその中には雪の結晶のかたちをしたものが、いくつもの種類になって上から下へとゆっくり落ちている。
「わあ・・・きれい。スノウボールみたい」
「これが『氷雪の宝玉』・・・」
仲間たちはしばしそれに見入った。
しかし、ガラハドだけはそこに立ち尽くすのみであった。
3
「さあ台座に戻すとしよう」
ナタリアは、てっきり台座の上の半円の窪みに宝玉を置くのだとばかり思っていた。なんといっても、円形の紋様の中心がそうなっているのだし、九年前の落石で落ちてしまったというのなら納得がいく話だ。
しかし宝玉を持ったアリスウェイドは、そこの窪みにぽんと宝玉を置くと、さらに上から少しだけ宝玉を下へと押した。
すると宝玉はするすると台座の中に入っていき、透き通った水色の台の中で、ゆっくりと沈んでいった。底まで沈むと、もう一度ゆっくり浮上し上まできてまた沈む。
「---------」
「完了だ」
ため息と共にアリスウェイドが言い、辺りはしばらく静寂に包まれた。
「・・・これで・・・これでなんで落石でずれたりするの」
「ああ」
アリスウェイドはそのことかと、ザーディのいた楕円の半洞窟の天井を見た。
「台座そのものがずれたんだよ。この位置の台座の中にあって初めて、フェンセルの施した魔法が成就するんだ。さあ始まるぞ」
アリスウェイドは仲間たちをもと来た螺旋の道まで急かした。
しばらく台座の中を心地よさそげにたゆたっていた宝玉は、何度か静かに上と下とを行き来し、そして突然カッと光ったと同時に、辺りに幾条もの光の帯を撒き散らした。その眩しさに、彼らは思わず手で顔を庇った。
キィィィィィン
鋼を鍛えるような涼しく鋭い音が短く響いたと思うと、辺りに漂っていた冷気が静まり、どこからか何か、たぎるようなふつふつとした音が聞こえてくる。
「凍りかけていた火山から冷気がなくなったんだ。さあ行くぞ、煮えてしまう」
アリスウェイドは仲間たちを先に行かせた。小走りになり、彼らは慌てて道を登り始める。辺りは見る見る熱気を帯び、次第に沸点を高めていく鍋の中の水のように、先程までの冷気が嘘のように暑くなってきている。空気がとろけるように辺りに蜃気楼を撒き散らし、見る見る全身から汗が吹き出てくる。
セシルが道の途中で振り返って錫杖を台座に振りかざし、何事かを叫んでから、また何もなかったように道を戻り始めた。
「台座に固定の封印をしておいたわ。もう落石でずれたりすることはないと思う」
アリスウェイドはうなづき、また放心してザーディのいた辺りを見ているガラハドの肩に手を置き、
「行こう」
と促した。
一行を追いかけるかのように熱気が地下から立ち込め始め、なんとなくあんず色のものが見え隠れしてきた。
一方サラディンは狭い道を急ぎながらも、先程のザーディの剣幕が頭にこびりついて離れなかった。
奴を仇と付け狙い、復讐しようとしているオレは、あんな姿なのか。
それぞれの想いを焦がすように、また地下の温度が上がってきた。
水晶球に映る、火山の中の様子・・・。
くつくつという不気味な笑い声が、闇の中に湿っぽく響く。
「 あの紫石・・・・・・もう逃がしはせぬぞ・・・・・・ 」
暗闇の中で、気配がふっと消えた。