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第七章 未来孕む過去

第七章 未来孕む過去

 



 三月も半ばとなり、春の声が聞こえようとしている。

 なんとなくぴりぴりとしていた風も、ようやく暖かさをはらみ、草原を渡る様もどこかやさしげだ。このままこの大陸にいては危険だと主張するサラディンも、

「あの男がいればどの大陸にいても危険なことに変わりはない」

 という聖位剣天の言葉と、それを後押しする仲間たちの言葉に自分の意見を呑み込んでしまった。そう、リスレルを狙っている限り、あの男が危険であることになんら変わりはないのだ。またアリスウェイドがヴィヴェリィ大陸にそのまま逗留し、今またどこか行き先でも決まっているかのような確かな足取りで道を行くのには理由があった。世界各地にいる彼の友人には国王だとか名のある学者だとかが不自然なくらい多い。有名無名に関わりなくそういった人格者たちと知り合いであるのは、英雄にありがちな特殊体質とでもい

おうか。幼少のリスレルを探す傍ら旅を続けていたアリスウェイドは、実に多くの人々と関わりをもってきた。庶民の生活を膚で知るためにお忍びで旅に出た即位前の王子王女、まだまだ半人前の学師、名誉そっちのけで野山で研究を続ける学者・・・。

「その内の一人に会おうってのね」

 ナタリアが風に乱れる髪もそのままに言う。

「まあそうだ。会えるかどうかはわからんがね。あちら次第だ」

「で、今度はどこの王様よ」

 ナタリアはにやにやして言った。これが冗談に終わらないというのが、この男と旅をしていてやめられない理由の一つだ。

「王ではない女性だよ」

 風の吹いていった方向を見ながら、アリスウェイドはさらりと言った。

「女性・・・」

 その時のリスレルの呟きを、一体誰が聞き取ったであろうか。友達でもなく相手の職業でもなく、アリスウェイドは女性と言った。

 ルーディを含め女の知り合いはいくらでもいる。しかしそれなら友達だよ、でもいいし、或いは相手の立場、例えば学者だよ、でもいいし、もっと言えばルーディのように古い友人だと言ってもいいのだ。それをわざわざ女性と言ったからには、アリスウェイドにとってはその人は地位や立場に関係なしに「女」なのだ。そんな事は初めてなだけに、リスレルは胸が騒ぐのを禁じえなかった。前へ進むたび深くなっていく不安を持て余しながら、リスレルはいつもよりずっと無口になってアリスウェイドの横から見える風景を見ていた。

 教皇ベアトリーチェはその時、生命の女神シェヴィロトに捧げる夕の祈りを終えたばかりであった。少し歩けば海を一望できる崖がほど近い神殿の大ホール、潮風の香りと淡い夕焼けの光がここまでもれてきている。ひざまづいていた姿勢から立ち上がり、今一度姿のないシェヴィロトに目礼を捧げたその時、司祭見習いのルサンヴィラがやってきて静かに告げた。

「教皇様、お客さまでごさいます」

「・・・お客? わたくしに?」

「はい。なにやらあやしげな冒険者の風体でございますが、いかがいたしますか」

「冒険者・・・」

 鈴のような通った声で小さく呟いてから、ベアトリーチェは一瞬、本当に一瞬だけなにかを思い出すような考えるようなまなざしをしていたが、すぐに、

「そのお方、名前を名乗りましたか」

「はい」

 ルサンヴィラは大真面目な顔をしてうなづいた。

「アリスウェイドとおっしゃる方です」



 ほがらかな笑い声が部屋中に広がった。

「この娘は、小さい頃からこちらで修業をしているのでご存じなくても無理はないでしょう」

 教皇は雨上がりの水玉のような笑顔で言った。その横で、ルサンヴィラはなんともいえない面持ちでこの大勢の客に紅茶を黙って出し続けている。

 アリスウェイドという名前だけでも変わっていてそうそこらにないというのもあるが、ふつうなら名字を名乗られて気付くはずである。知っていて当然の名前を知らなかったがゆえの、ルサンヴィラの「あやしげな冒険者」に対する態度はむしろアリスウェイドにと

っては好ましく、仲間たちにとっては新鮮な驚きであったといえよう。むろん、お祭り騒ぎが大好きなこの連中のこと、そういった人間がまだいるということも楽しくて仕方がないらしい。ナタリアが退屈しないというのは、きっとこの辺りからくるものであろうか。

「でも本当にお久しぶりですこと」

 ルサンヴィラが部屋を出ていき、紅茶の香りが部屋に広がる頃、教皇ベアトリーチェはやわらかな笑顔でアリスウェイドに言った。

 リスレルの胸がちくりと痛んだ。

 ウエーブしたなめらかな黒い髪・・・大理石のような白い肌。眉はまるく、切れ長の瞳は黒曜石のように神秘的な光を絶やさない。

 それでいて、近寄りがたいところなどまるでなく、なにものをも受け入れるやわらかいものを備えている。実に魅力的な唇は終始にこやかな笑みで三日月のようになっており、そこから時折こぼれる白い歯がまぶしいばかりだ。馬鹿の上に百個くらい馬鹿がつきそうに馬鹿正直なサラディンなどは、ほわ、と口を開けっ放しにして見惚れているのをヴィセンシオに小声で注意され、続いてまぶしげに目を細めたまではいいが、手までかざして実にまぶしそうにするので、教皇がにこにこと「?」という顔になったのでまたしてもヴィセンシオに、今度は肘鉄をくらわされてしまいうつむいている。

 美しい大人の女性、という言葉がなんの抵抗もなしにリスレルの頭をよぎった。

 悔しいを通り越して、納得してしまうような人だ。こういう女性は、異性からはもちろんのこと同性からも好かれるに違いない。いきなり奈落のどん底に突き落とされたような言い知れぬ絶望と不安と劣等感がリスレルを包み込んだ。いま自分がいるのは神殿の応接室などではなく、冷たく、ねっとりと絡み付くような濃い闇のなかのような気がしてならない。

「・・・それではそちらが探しておられた姪御さんですわね?」

 リスレルははっとして顔を上げた。

「正確には弟の娘ですが。以来こうして、旅を続けております」

 リスレルはちらりと教皇を見上げた。それに気付いて、とけてしまいそうにやわらかな笑みを向けてくる。

 ------------------。

(---------え?)

 彼女の中の教皇としての何かが、リスレルを見て反応した。なんだろう? 邪悪なものでは決してない。しかしなんだろう、この風の中に微かに混ざる、花の香りのような違和感は。

 思わず眉を寄せようとしたその時、遠慮がちに部屋の扉がノックされて、ルサンヴィラが、いかにもこうして来たのは自分の本意ではないといわんばかりの顔で来客を告げた。

「どなたです?」

 教皇は珍しく不快感を顕にして問い掛けた。来客というのなら今も来客がある。それを伝えたはずなのに、それでもこうしてルサンヴィラを通して会いたいと言うとは何事か。

「あの・・・」

 ルサンヴィラはちらりと客たちを見てから、一度短い間を置いて告げた。

「・・・陛下・・・でございます・・・」

 気色ばんでいた教皇の顔色が、わからぬほど微妙に変化した。



「しっかし顔の広い男よね」

 ナタリアは少し前を行くアリスウェイドの背中を見ながら傍らの相棒に言った。

「シェヴィロトの教皇っていったらあたしだって知ってるわよ」

「・・・・・・」

 ジェルヴェーズは特に感想がなかったので何も答えなかった。自分の正体を見破ったのだから、教皇の一人や二人、知り合いにいてもおかしくなかろう。

「それにしても、」

 ナタリアはすっかり昇り始めた月のわずかな光で照らされる庭を見ながら尚も続けた。

「陛下って言ったらさ・・・王様のことなんじゃないのかな。

 ・・・なんでそんな人が神殿に?」

「・・・・・・」

 ジェルヴェーズは答えずに、自分も庭に目を馳せたまま歩いているだけだった。

 アリスウェイドを愛する者の、というよりは女の勘で、リスレルは過去のあの二人に何かあったことを、自分では認めたくないというその気持ちとは裏腹に、薄々と気がついていた。でなければ、その容姿で異性はおろか同性すら魅了してやまないくせに、まったくそういうことに興味を示さないアリスウェイドが、教皇との関係を尋ねられて「女性」などと答えるはずがない。リスレルは教皇ベアトリーチェの、成熟した女性の醸し出す匂うような美しさと、世俗に触れていないだけに漂わせる独特の静かな空気を思い出していた。

 つやつやとした、ゆるくウエーブした黒髪。それを縁取るような、大理石のような白い肌。白いだけではない、まるで水が滴るようになめらかに潤った肌だ。まるい眉。切れ長の黒曜石の瞳。紅をサッと刷いただけの、きゅっと小さい唇。とても女っぽいのに、少しもいやらしさを感じさせない。魅力的な女性だ。リスレルはアリスウェイドとベアトリーチェが並ぶ様を想像して、そのあまりの完璧さに自分で嫌気がさして、思わず枕に顔をうずめた。

「~~~~」

 それを隣で見ていたナタリアは、自分の向かいのベットに荷物を置き一息ついていたセシルに、

「? ・・・リスレルどうかしたの?」

 と小声で聞いた。ナタリアは、セシルよりはこういう時の勘がにぶい。セシルはまあ先ほどの様子からいってだいたいリスレルが何を考えていたかをわかっていたので、

「・・・さあ」

 とだけ答えておいた。



 数人の供のみを従え、忍びでやってきてベアトリーチェと数十分話しただけでひっそりと帰っていったアンティエメ国王スティリオンを見送ってから、教皇ベアトリーチェは鉛のように重くなった心を持て余して、そっと庭へと出た。三日月の冷たい光は心地よく、緑であふれる庭を淡く、青く染めている。

「・・・・・・」

 しかしいつもは美しく、命を漲らせて輝いているようにも見えるこの庭も、今のベアトリーチェには霞んで見える。

 国王の熱心さには、本当に感心させられる。彼の熱意は、時に戸惑うほど、時にほだされてしまうのでは、と思ってしまうほどに大きく、深いものだ。貴女の教皇という立場だけが目的ではないのです、という言葉も、普段なら空々しいものに聞こえるかもしれないが、彼のあふれる情熱に裏打ちされて、今ではその言葉に込められた誠意が迸るかのようだ。

 しかし自分は・・・

 思わずため息をつき、柱にそっと手を置いてベアトリーチェが月を再び見上げた時、異変は起きた。

 突然、音もなく庭の茂みの数々から、数人の黒装束に身を包んだ男たちが現れ、ベアトリーチェが誰何する前に、誰かを呼ぼうと大声を出す前に、あたかも疾風のごとく移動し、そのうちの一人がベアトリーチェの後ろに回って彼女の口を塞いだ。恐怖と、あまりにも突然のことでなにが起こったかよくわからないまま震えるベアトリーチェに、別の男が静かに近寄ってきて、スラリと腰の短剣を抜きその細い首元に突きつけた。

「教皇殿・・・」

 男の声は押し殺していて低く、抑揚がないのにも関わらず、叩きつけるような薄気味の悪い強いものを孕んでいた。ベアトリーチェは鳥肌がたつのがわかった。

「アンティエメに嫁ごうとなさるのなら・・・我々にも考えがある」

 全員覆面をしていて目だけしか見えない。その目も、細くて妙に光っていて、とてもとても人間のものとは思えないのだ。

「このまま教皇としてやっていた方が御身の為でございますぞ。でなければあの王に嫁ぐ前に、」

 キラリ、と喉元に突きつけられた短剣が冷たく光った。

「王には嫁げない身体になってしまうかもしれませんな」

 くつくつという笑いが耳元で響き、自分を囲んでいた男たちもそれにつられるようにして不気味に笑った。

「それともそんな気が起こらないように我々が今そうしてさしあげてもよろしいのだが・・・」

「!」 

 ベアトリーチェは戦慄した。男の手が、自分の腹からゆっくりと下腹部へと移動し、足と足とを割って侵入しようとしている。抗おうとしたが、がっちりと押さえられて身動き一つできない。

 恐怖で身体が石のようになり、ベアトリーチェは涙に濡れた目で空を見上げた。

「なにをしている!」

 闇と静寂とを引き裂いて、ディアスの怒声が回廊に響いたのはその時であった。

 曲者たちはいっせいに声のした方を見、ディアスが早くも抜き身の剣を片手に走り寄るのを見るや、目を見張る速さでいっせいに逃げた。庭の奥へと行き、塀の下で一人が屈むと、いっせいにそれを台にして全員が塀をよじのぼり、最後の一人が塀の上から台となっていた者を引っ張り上げた。

「あいつらは・・・!」

 正にあと少しというところで逃げられ、塀を見上げてディアスは信じられないように言った。が、そこで気がついて振り向けば、恐怖に身を竦ませへなへなとそこへ座り込んでしまった教皇がいる。

 ディアスは慌ててそちらへと駆け寄った。

「教皇殿! 大丈夫ですか!」

 ディアスはベアトリーチェの肩を掴んで揺すった。恐怖で顔は蒼白となり、微かに震えている。

 騒ぎを聞きつけて、回廊の向こうから大勢の人影が走り寄ってきた。




「バリウィン・・・? バリウィン王国の暗殺集団だというのか」

 サラディンの問い掛けに、ディアスは壁に寄りかかり腕を組んだままゆっくりとうなづいた。

「まだ師の元で修行中のことだ。庵にある男がやってきて師にいくつか技を教えて欲しいと言ってきた」

 その男は手始めに自分の獲得しているいくつかの技を師やディアスを始めとする庵中の剣士候補生たちの前で披露して見せ、素人やなまなかの者には危険だからと言っていつもはそういった手合いを断る師の口を先んじて封じた。その時使っていたのは、独特の形をした短剣で、柄の部分は短いのに刃渡りがとても長いのだ。そして、先ほど逃げていった男たちが持っていたものとまったく同じ形状のものであった。

「しかしそれだけで確証が掴めたとは言い難いんじゃないのか」

「オレもそう思う。そんな形の短剣はどこにでもある。はなからそうやって決めつけるのは危険じゃないか」

 しかしガラハドのそんな言葉にもディアスは静かに首を振った。

「オレはこの目であいつらが逃げていくのを見た。それは身軽に、神殿の塀を越えていくところをな」

「なにもなしでか」

「仲間が一人台になってそれを踏んで行くんだ。そして最後に上った奴が台の男を引っ張り上げた。お前、そんな芸当ができるか」

 サラディンはぷるぷると首を振った。表に直接面しているような神殿の塀は、分厚く堅固でとても高く造られている。数メートルもの高さの塀など、梯子でもない限り越えられるものではないのだ。

「師の元へ来た男は庵の庭の、五メートルにもなる林檎の木を軽々と飛び越えた。男はバリウィンの暗殺集団にいると言った」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 誰もが沈黙した。ガラハドとサラディンは顔を見合わせ、クロムは相変わらず黙っている。が、その瞳はいつもの無表情というよりは、何かを考えているようにも見える。

 その時扉が開いて、やれやれと言いながらヴィセンシオが入ってきた。

「教皇殿の様子はどうだ」

 ガラハドの問いに、ヴィセンシオはうなづきながら答える。

「ようやく落ち着いてきたようです。女性たちが側についているから、まず大丈夫でしょう」

 うちの女性たちはあらゆる意味で無敵ですから、とヴィセンシオは付け加えて椅子に座った。

「おや、アリスウェイドがいませんね」

「オレが連中の話をしたら周囲を見てくると言って出て行った」

「なるほどな。ディアスの言葉通り、もし連中が暗殺を生業とするのなら、間断なく襲ってくるのが筋というものだ。さっき追い払ったからしばらくは来ないだろうというこちらの油断を縫って、奴らはやってくる」

「そ、そうなのか」

 サラディンの問い掛けに黙ってうなづいたガラハドを見て、サラディンは思い出していた、この男が騎士で、以前は伯爵に仕えていたことを。その程度にもなれば、似たような事件がいくらでもあったに違いない。

 剣を鞘ごと掴んだまま、アリスウェイドが廊下の冷たい空気と共に部屋に戻ってきた。

「教皇殿が会いたがっている。行くか?」

「無論だ」

 ガラハドが答え、ディアスとクロムは黙って寄りかかっていた壁から離れ、ヴィセンシオはもたもたと支度するサラディンを急かしている。

 十畳ほどの広間で、教皇は全員が集まるのを待っていた。普段は広く感じるこの部屋も、五人もの女性がそれぞれ立っているのを見るとそう広くも感じられない。隅のテーブルにつき、少し飲んだ後の見られるグラスの水、教皇は大分落ち着きを取り戻したようだった。

 ディアスがドアに近づくと、ビリビリと痺れるような空気の抵抗を微かに感じた。ノックすると、厳しい誰何の声がする。

「オレだ。ディアスだ」

 扉の向こうでしばらく間があった。

「では問題です」

 扉の向こうのナタリアの声が聞こえてくる。ナタリア、やめなよというたしなめる声と、だってホンモノじゃなかったらどうすんのよ、というひそひそ声が聞こえてくる。

「なんだと?」

「ディアスの出身の村はなんという名前でしょう」

「・・・馬鹿馬鹿しい質問をいちいちするな」

「ホンモノのディアスだったら答えられるハズよ!」

「いい加減にしろ!」

「怒ってる・・・ホンモノだわ」

 扉の奥で微かに気配がした。

「いいわ、入って」

 中に入ると、教皇が立ち上がって彼らを迎えた。ディアスがジロリとナタリアを睨むと、なにようと低く言い返してきた。

「ホンモノかどうか確かめただけじゃない」

「確かめ方というのがあるだろう」

 二人のやりとりを、ジェルヴェーズが呆れたというよりは、馬鹿馬鹿しすぎて相手にしていられないというような顔をして聞いている。

「ベアトリーチェ殿」

 アリスウェイドがまだ緊張の色がとけない教皇の側へ行った。全員が入ったのを見届けて、セシルが何事か小さな声で短く詠唱すると、

 ・・・・・・ィンン・・・

 と、空気が微かに鳴る気配がした。それで最後尾にいたサラディンは、ははあ、なにかの紋章で結界でも張っていたのだな、と得心する。

「襲われる心当たりがおありか」

 部屋の奥では、早くもアリスウェイドの質問が始まっている。それはそうだろう。命の女神シェヴィロトと言ったら、不動の九星に住まう神のうちの一柱だ。九星神のなかで神殿があるほど民間に浸透している神に仕える教皇が、どうして他国の暗殺集団に狙われるというのだ。それは、不自然というのならあまりにも不自然だ。

「・・・・・・・・・」

 教皇ベアトリーチェはしばらく目を伏せ、何事か考えているようだったが、やがて決心したかのように顔を上げた。

「こうなったらすべてをお話しいたしましょう」

「教皇様・・・!」

 傍らにいたルサンヴィラの制止の声にも、彼女はやんわりと答えた。

「良いのですルサンヴィラ。どなたも信頼できる方々ばかりですから」

 ベアトリーチェはまた少しだけ沈黙し、そしてゆっくりと話し始めた。

「わたくしの私的な話で恐縮なのですが・・・」

 ベアトリーチェはまっすぐ前を見たまま話し始めた。

「・・・・・・実は、・・・・・・―――」

 そこまで話そうとして言い淀んだ教皇の後を、たまりかねてルサンヴィラがひきついだ。

「教皇様は、アンティエメ国王陛下に結婚を申し込まれているのです」

「---------」

 アリスウェイドが微かに身じろぎしたように、リスレルは感じた。

「はあーそうですか。なるほどなるほど」

 ヴィセンシオが間抜けた返事をしている。

「なにがなるほどなんだよ」

「先ほどの来客と曲者の集団との関係ですよ」

「うん?」

 わからない顔のサラディンに、今度はガラハドが説明を始めた。

「アンティエメとバリウィンは現在水面下での競争が熾烈化している真っ最中のはずだ。 昔から仲の悪い国でな。最も、アンティエメの極力の友好的な態度に対してバリウィンが一方的に敵対心を持ち続けているから仕方なくアンティエメの方も喧嘩しているという見方もある」

「あんた詳しいなあ」

 ガラハドは苦笑いだけでサラディンに応えた。騎士であり、主を探しているのなら、これくらいの事情に通じていてもおかしくないという他の仲間の納得も、世間知らずのこの男には通じないのだ。

「つまり---------」

 それでも、両国の仲が悪くてその片方に結婚を申し込まれているからというだけで教皇が襲われる意味がいまいちわからないという顔をしているサラディンのために、セシルが仕方なしに説明を始めた。これでは、ヴィセンシオが心配して思わずついてきてしまうのもよくわかる。

「聖職者も教皇クラスにまでなると、政治的に強い立場にあるわけよ。本人が望む望まないは関係なしにね」

「だって・・・政教分離だろう。宗教は政治には関与できないんじゃないのか」

 セシルは、つくづくこの男のめでたさにため息すらつきたくなって、それでも辛抱強く続けた。

「それはそうよ。でも逆に、教皇までいる神殿の、ということは、言い換えればそれだけ民間に浸透して支持者も多い神殿の一番偉いひとが、例えば長年戦争してきた国の国王二人に、公的に会見してもうそろそろおやめになったら、なんて言ったらどうなると思う? 内心どんなに気に入らなくても、そうするつもりはなくても、公に会見している以上その事実は民間にも伝わる。あの国の王様は教皇に何かを諭されたに違いないのに、相変わらず戦争をしているなんて言われるようになったらどうする? 例えばそれを聞いたのが信者じゃない人だとしても、あれだけの偉いひとになにか言われたのに相変わらず変わらないなあ、と思うことがあるとしたら? それは一人や二人なんて数ではないはずよ。国王がそれだけ立場のある人に何か言われて・・・なにもしないとしたら? 例えば熱心な信者に交易に大きな影響力を持つ人がいたら?」

「あ・・・」

「それに話がそこまで大きくならないとしても、そこまでやって少しも善処しなかった場合、教皇の言葉は完全に無視されたことになります。それだけ立場ある聖職者の言葉を公に---------つまりは世界中に向かって大声で---------無視したら、それはいくらなんでもまずいでしょう」

 元僧侶だけにそういう話には明るいヴィセンシオまでもが説明に入る。サラデインは口をポカン、と開けて茫然としている。それを見て、あなたは家を継がなくてほんとうによかったですよ、とヴィセンシオは心の中で呟いた。

「国王陛下は、そういった教皇様の政治的影響力をご存知の上で結婚を申し込まれたのです。そしてそれが目的で貴女と結婚したいわけでもない、と」

「・・・・・・」

 ベアトリーチェは何か辛いことでも思い出したのか、微かに眉間を寄せてそっと目を伏せた。

 一同に気まずい空気が流れた。

「お返事は、どうなさるのです」

 冷たい声でジェルヴェーズが言った。彼女は、こういう時に遠慮というものをしない。 このタイミングでこういうことを聞けるだけの神経を持ち合わせているのは、多分仲間内ではジェルヴェーズだけだろう。

「・・・わたくしは、今週末にも巡礼に向かわなくてはなりません。それは教皇としての大切な務め・・・それよりも前にお返事することはできませんと、そう陛下に」

「そして巡礼の旅が終わるまでに返事が欲しい、そう陛下は言われたのでしょう」

「・・・・・・はい」

 ジェルヴェーズの尋問のような容赦ない言葉に、ベアトリーチェは短く答えた。多分、これだけの女性に求婚しているのなら、返事はいつまでかかっても良いと国王は言ったのだろうと思っていた他の仲間たちは、その言葉に仰天した。

「な、なんでわかったの」

「そんなの。渋る相手にいつまでも待つからなんて言ったら、ずーっと返事待ちさせられるじゃん。相手は国王だよ。いつまでも独身ではいられないんだ。きっと周囲だって反対したんだろうに、国王はなんとかして教皇様と結婚したいから、期限付きで返事がもらえなかったらそれはそれで諦めるという条件つきで周囲を説得したんだよ。じゃないと周囲を黙らせることが出来ない、ひいてはいつか自分の弱味になってしまうかもしれない」

「その通りだ」

 ガラハドもうなづく。彼女の意見には、何の落とし穴もなかった。完璧な理論だった。

「し、しかし---------」

 サラディンはようやく話が見えてきて事態の大きさに耐えかねたように立ち上がった。

「つまりバリウィンはそれだけの政治力を持つ教皇殿に、アンティエメには嫁がれては困るんだろう」

「そうですよ」

「・・・だったら・・・・・まずくないか」

 いよいよ直面した事実に、その場の空気が一層重くなった。

「当然・・・その巡礼の旅で、狙われるね」

 他人事のようにしれっと言ったジェルヴェーズの言葉は、一同の胸に重く響き渡った。



 いつもなら、そういったことには嬉々として---------しかも人助けなのだから---------依頼されたことと向き合うリスレルも、この時ばかりは気が進まないようだった。

 友人の問題でもあるし、そこまで聞いてしまってアリスウェイドが何もしないはずがなかった。つまるところ、彼らは教皇とその一行が巡礼の旅に赴く間、彼らの無事を守るための護衛をすることになったのだ。

 しかし巡礼の旅が前から決まっていたとはいえ、支度にはそれなりの準備というものがある。

 にわかに慌ただしい空気を帯びてきた神殿内で、自分は支度をするといっても旅慣れている上荷物が少ない。しょうがないからすることもなしに神殿内をうろうろしていれば、当然教皇が襲われかけたことや、それを助けた冒険者たちの話にもなり、ひいては剣天アリスウェイドの話題にもなる。そして口さがない女たちの話題は、次第に若かりし頃のベアトリーチェとアリスウェイドの話へと発展していくのだ。

 なんでも二人は、まだアリスウェイドも剣秀程度で駆け出しの頃、そしてベアトリーチェもまだ司祭か何かだった頃に出会い、恋仲にまでなったが、ベアトリーチェの資質を知る神殿側の猛反対と巧みな妨害によって、結局二人は結ばれることはなかったらしい。

 それは、話している女たちによって内容がどれも微妙に違うものであった。

 二人の仲は神殿の者が壊したという話もあれば、互いの輝かしい将来のために話し合って別れたという話もある。解けないような大きな誤解を抱き合って訣別したという話もあれば、ずいぶんどぎつい内容でとても上役の耳には入れられないようなとんでもない話まであった。

 しかしそのどれが真実であろうとなかろうと、二人がそういう関係であったということは揺るぎようのない事実のようであった。

 噂を耳にしたのは無論リスレルには限られず、彼女が耳にしたということは他の仲間たちの耳にも少しは入ったのだろうが、そこはさすがに全員冒険者としての経験も長く、立ち入ったことなどはしないで、知らないふり聞こえないふりを決め込んでいるようだった。

 そういうことには疎い男性陣も、さすがに女たちが噂をしているような場所までは行けないにしても、なんとなく空気でわかってしまうものらしい。

 旅立ちの朝、入り口で待つ供の者と仲間たちが見守る中、アリスウェイドとベアトリーチェが二人してやってきた時には、さすがに気まずい雰囲気になったものだ。

 ---------もしかして。

 リスレルは不穏に鳴り響く胸の鼓動をおさえようと必死になりながら、不謹慎だと知りつつも、こんなことを考えていた。

 ---------教皇さまが返事を渋るのは、

 思わず拳を握る。

 ---------・・・・・・おじ様が忘れられないから・・・・・・?

「リスレル、どうしたの。行くわよ」

 セシルの呼びかけにハッと我に返り、リスレルは慌てて駆け出した。教皇を乗せた特注の馬車は走り出している。

 不安で疼く胸を持て余しながら―――リスレルは仲間の背中を見つめていた。

 


 聖地までは二週間、どんなに急いでもそれくらいはかかるという。

 しかし目的が教皇の巡礼とあらば、そう急ぐわけにはいかないだろう。供の者までいるのでは、急ごうとすればするだけ彼らの反発をかう。反発をかえばそれだけ護衛がやりにくくなる。敵はそこを突いて攻撃してくるだろう。

「急がなくてもいいから丁寧な仕事をしろとはこういうことだな」

 隣でゆっくりと回る馬車の車輪の音を聞きながら、ガラハドはナタリアに言うともなしに言った。ナタリアが時々困惑するのは、終始軟派な態度をとるのなら自分の対処の仕方も自ずから決まろうに、どちらが本当のガラハドかわからない位、時折こうして彼が真面目な顔でまともなことを言うということであった。

「まあ急ぐ旅じゃないし・・・急いで相手につけこまれるなら、二週間が三週間になったって四週間になったって油断なくやるべきだね」

 うむ、とガラハドは今度はナタリアの顔を見ながら小さく答えた。

「しかし・・・聖地に巡礼しようというのに、人の血を浴びてもいいものかな」

 皮肉めいたガラハドの言葉に、思わずナタリアは彼を見た。

 ガラハドは、まっすぐ前を見ているだけであった。


 教皇の乗る馬車は供の者の身の回りのものも乗せ、さらに教皇の側近くに仕えるルサンヴィラと教皇自身が乗るということで、けっこうな大きさのものであった。供の者たちは、これはさすがに十数名が一様に馬車に乗るわけにもいかず、周りを取り囲むようにして歩くというのが慣例となっていた。

 さらに先頭、つまり馬の前を前衛で守るのはアリスウェイドとディアス、馬の真横辺りに、右にリスレル左にエストリーズ、そして馬車の横には右側にジェルヴェーズ、右後衛でサラディンとヴィセンシオ、左側はガラハド、左後衛でナタリア、馬車の後ろについていくようにして後衛を守るのがクロムとセシルであった。普段は数が多く、街を歩いていても目立って仕方がないだけの大人数の一行も、こういう時には少しは役に立つということだ。

 やがて一行は森へとさしかかり、時折小鳥がこのものものしい道行きを珍しそうに見下ろしている。

 出立して三時間、一行は早くも異変を迎えようとしていた。

「お待ちあれ!」

 反射的に御者が手綱を引いた。アリスウェイドは後ろのジェルヴェーズに目顔で知らせ、さらにジェルヴェーズは後ろのナタリアやクロムにそれとなく注意を促す。

「何者だ」

 声高にディアスが誰何した。早くも手は柄へとまわり、いつでも抜刀できる体勢にある。

「焦られるな。我々は敵ではない---------我々はアンティエメ王国の者だ」

 窓から覗く教皇の横顔が微かに強張るのを、サラディンは確かに見た。

「---------巡礼の道行きと知ってのことか」

「無論---------敵意はない。しかし、こういう時にではないとお話しできないと思ってやってきた。教皇ベアトリーチェ殿にお目通り願いたい」

 相手の紳士的な態度に---------ディアスの緊張が少しだけほぐれた。

「体勢をゆるめるな。信用してはいかん」

 諌めるように、まるで短く鋭い鞭のように低く、ぴしりとアリスウェイドが言った。

「! ---------」

 ディアスは顔が熱くなるのを感じた。そうだ。どうして相手がそう言っただけでそれを信用する。自分は、いつからこんな甘い人間になってしまったのだ。

「それはなりません。例えお手前方が本当にアンティエメの方々だとしても、教皇殿に目通りさせるわけにはいかない」

「異なことを。例え、とは---------」

「国章があっても信用するわけには行かない---------ご理解いただきたい」

 さらにアンティエメの使者が言い募ろうとした時、馬車の扉が開いて高い声がそれを制止した。

「アリスウェイド様」

「教皇様、いけません・・・!」

 扉の向こうで、ルサンヴィラの声も聞こえてくる。護衛の者たちは途端に緊張し、神殿の供の者たちはそれだけで浮き足立った。

「ベアトリーチェ殿・・・」

 振り向いて目を細め、アリスウェイドは思わず彼女の名前を呟いていた。昔はもっと間近で、そうもしかしてその耳元で囁いていたかもしれないその名を。

 教皇ベアトリーチェは馬車の戸口のところで立ち尽くし、供の者が慌てて出した折畳式の小さな階段には目もくれず、そこから使者たちをまっすぐに見据えた。

「高所から失礼いたします・・・ルイヴェ殿」

「おお・・・」

 使者たちはベアトリーチェの姿をみとめると、いっせいにそこへひざまづいた。

「供の者が緊張しております・・・御用は手短に」

「本日は、お願いしたきことがございまして参上した次第でございます」

「お願い・・・?」

 ルイヴェ、とベアトリーチェが呼んだ男は走るようにして側に寄ろうとした。が、それはガラハドとナタリアが前に立ち塞がったおかげで、失敗に終わってしまった。

「ベアトリーチェ殿、なにとぞ、なにとぞわが国に・・・わが主に嫁がれてくださりませ。 陛下は本気でございます。もし貴女が例え教皇という立場になくとも、陛下は貴女を愛したでしょう。あなたでなければならないと・・・我らを前にして陛下はきっぱりと仰られたのです」

「---------」

 ベアトリーチェの眉根が、側にいたナタリアですらわからないくらいに微かに寄せられた。しかし、例え馬と御者の影を挟んではいても、リスレルにはそれがはっきりと憂いの表情に見えた。

 なぜ---------なぜそんな悲しそうな顔をするのだろう。嫁ぎたくないのは、嫁ぎたくない理由は―――

 シャッ・・・

「危ない!」

 リスレルの思考は、ナタリアの怒声ともとれる声でプツンと切れた。リスレルはハッと顔を上げた―――教皇が立っていた馬車の入り口―――そこに太い矢が深々と突き刺さっている!

「早く中へ!」

 ナタリアは抜刀しながらもう片方の手で教皇を乱暴に押しやると、急いで中に入らせた。

「セシル!」

 ナタリアのその怒鳴り声で---------魔法を使う三人が一斉に反応した。最初に動いたのは詠唱の早いリスレルだった。

「<捕縛>!」

「大地の紋章の名において!」

「さながら太陽の光のごとく散りて行け!」

 ァァァァァアアアアアアアア・・・

 なにごとか、波の上を凄まじい勢いで疾る風のような微かな音がした。それをほぼ直感で聞き取って、ガラハドが

「行け!」

 と怒鳴った。

 馬車左方まで来ていたサラディンとディアスがほとんど同時に矢の飛んで来た方向に走って行った。

「周囲を囲まれているぞ・・・油断するな!」

 ガラハドの人に命令することに慣れた声、てきぱきと隙のない指図に、仲間たちは従った。この男は---------ジェルヴェーズは抜刀し周囲に油断なく目を疾らせながら思う。

 この男は、よほどの騎士だったのだろう。これほどの複雑な状況で、ああまで冷静に色色と判断ができるというのは、誰にでもこなせる芸当ではない。

「ジェ・・・」

 ザシッ・・・

 ヴィセンシオが警告しようとするのと、ジェルヴェーズが飛んで来た矢を剣で薙ぎ払うのと、ほとんど同時だった。ヴィセンシオは、サラディンならともかく、貴女にそんなものは無用でしたねとでも言いたげな顔でにやりとジェルヴェーズに笑ってみせた。

 ザザザッ

 ザクザクッ

 あちこちから、次々と馬車めがけて矢が飛んで来た。

「教皇様! 絶対に出られないでください!」

 ヴィセンシオは怒鳴りながら、飛来してくる自分の指ほどもある矢を薙ぎ払うのに苦心している。速くて見えないから、気配と音だけで薙ぎ払っているが、ジェルヴェーズのようにはいかない。ヴィセンシオをそれた矢が何本も馬車に刺さり、或いは彼の首筋ギリギリをかすめた。

「セシル!」

 彼が悲鳴に近い叫び声を上げるのとほとんど同時に、セシルの詠唱が完成した。先ほどは、最初の一矢の飛んできた方向のみに気をとられて、そちらだけに魔法を差し向けた。 が、予想よりも多い数に囲まれていて、とても魔法でそれを防ぐより他に方法が見つからない。

「<結界>!」

 ィィィィィィィィィィィィィィィィ・・・・・・

 ---------

 パン!

 パァン!

 矢が弾かれるにしてはおかしな音だ---------ヴィセンシオは素直にそう思った。パツン、という音がして足元に何かが転がったので見ると、弾かれたどころか、五等分くらいに割られて矢はほとんど原型を留めていなかった。ヴィセンシオは思わず口笛を吹いた。

 周囲を取り囲む、異様な気配は既に消えている。

 サラディンとディアスが、一人の男を引きずるようにして連れてきた。その男は、教皇ベアトリーチェを神殿の庭で襲った者達と同じ、黒装束を着ていた。

 教皇はすっかり怯え、馬車の中にいればいいものを、中にいるのも却って恐ろしいと、扉だけ開けて誰かの目の届く場所にいる。ルサンヴィラと共に扉のすぐ内側に座るその疲れきった様子は、見るも痛々しい様子であった。

「森の中で目立つ格好をしたものだな」

 縄を打たれ、そこに座らされた男に、アリスウェイドは屈んで言った。

「こいつがバリウィンの者だというのはわかっている。うまくすれば、この男を連れて行って生きた証拠にもできるぞ」

「うむ・・・しかしそう簡単に」

 アリスウェイドがディアスの方に顔を向けた途端、男がうっ、と呻いた。

「あっ・・・」

 誰かが上げた小さい悲鳴。男はそのまま、音もなく地面に倒れた。

「しまった・・・!」

 アリスウェイドは倒れ伏した男の口の中に無理矢理指を入れようとしたが、歯を食いしばっていてそれも出来なかった。

「おじ様・・・」

「毒を飲んだ。もう死んでいる」

 アリスウェイドは無表情のまま立ち上がった。

「奥歯にカプセルでも入っているのかもな」

 大して惜しそうな表情も見せず、ガラハドがしれっと言った。

「潔い」

 しかしベアトリーチェはそうはいかなかった。

「! ・・・・・・」

 彼女は命の女神シェヴィロトの教皇である。この地上に在る限り、それは言い換えれば、彼女はシェヴィロトを信仰する上での最高責任者であり、同時にシェヴィロトの代理人でもある。目の前で、こうも簡単に人の命が損なわれるということに慣れていないせいもあり、その衝撃は護衛の彼らが想像しているよりずっと大きく深いものであったはずだ。

「教皇様」

 気づいたヴィセンシオが側へ寄り、ひざまづいてルサンヴィラにも小声で様子を窺っている。閉じかけた扉の隙間からしか見えなかったが、教皇は顔面蒼白となり、気分でも悪いのか口元を押さえている。

「ご気分がすぐれないようです」

「いきなり弓矢で攻撃されちゃあね」

 ナタリアは剣をしまった鞘ごと、肩にかついでトントンと叩きながら馬車の屋根を見上げた。

「あーあー・・・見てよ。あれじゃ屋根から星が見えるわ」

 つられてサラディンが見上げれば、指の太さほどもある矢が数本屋根に突き刺さり、ナタリアの言ったことが少々大袈裟であるにしろ、刺さった矢が太いだけに雨が防げるかどうかは甚だあやしい。

「とにかくあの矢を抜こう。被害の確認と・・・私はこの男をどこかに葬ってくる」

「オレも行こう」

 軽々と男の死体を担ぎ上げたアリスウェイドと、それについて行ったディアスの背中を無言で見送り、仲間たちは行動を起こし始めた。セシルは結界の範囲を馬車周辺にまで狭め、教皇が表に出て外の空気を吸えるようにした。その間、男性陣はクロムとガラハドが屋根に上って矢を引き抜いた。軽いというのなら女性陣のほうが軽いのだろうが、あの矢の太さと、馬車の屋根という立地から、力があるとはいえ彼女たちに任せられる仕事ではなかった。また女たちは、数名が傷を負った神殿からの供の者たちの手当てや、ルイヴェ以下、アンティエメの者たちへの治療に勤しんでいた。両者はそれぞれ数人が矢に当たったり掠ったりして負傷していた。

「ヴィセンシオ、それ終わったらこっちも頼むわ」

「いいですよ。少々お待ちください」

 供の者の腕に手をかざしながら、ヴィセンシオはにこやかにナタリアに言った。リスレルは、供の者たちが神殿の人間ということもあって治癒魔法を控えている。何を言われ、どう迫害されるかわかったものではないからだ。相手がヴィセンシオのように、いつでも絶対わかってくれるものと思っていては危険なのである。

 ヴィセンシオは神殿の人間の治療を終え、疲れた顔も見せずに立ち上がってルイヴェの治療に取り掛かった。教皇の側近くまで寄っていた彼は流れ矢に当たり、もしかするとバリウィン側としては、彼らがアンティエメの人間とわかっていてわざと射ったのやもしれぬ。

「う・・・」

「じっとして。・・・大した傷ではありません。ああよかった、骨までは行っていませんね。 太い矢なので心配していたのですよ」

 栓の役目も果たしていたはずの太い矢は、ナタリアによって非情にも抜かれ、血止めした布の下からはまだ血が流れている。だからといって刺したままにするわけにもいかず、ヴィセンシオはその辺のナタリアの長い傭兵生活で培った知識から来る迷いのなさに感心していた。

「ふう」

 セシルは汗をにじませて、地面の下草にそのまま座った。誰もが怪我人の手当てや周囲への警戒に気を取られて、彼女の様子に気がつくはずもない。治療が済むと、各々セシルのようにそこに座って休み始めた。

 しばらくしてアリスウェイドとディアスが戻ってきて、仲間の勧める水を口にしながらやはりそこへ座った。

 バリウィンからの襲撃で、はからずも小休憩のかたちとなった。 

「まずお聞きしたい」

 ルイヴェは腕の傷がまだうずくのか、包帯の上から手で押さえながら口火を切った。

「あやつらは見たところバリウィンの特殊集団・・・なぜあやつらに?」

 一行が思わず顔を見合わせ、一瞬気まずい空気が流れた途端、ルイヴェはハッとなって声を上げた。

「まさか・・・・・・我々がここに来ると知って・・・? 我々を狙ったのか・・・」

「だーっ」

 ナタリアが脱力してコケた。一同の空気も先ほどとは違いうんざりとしたものになっている。ベアトリーチェは馬車に乗るときに使う小さな階段の上に敷物をひいてそこに座っていたが、その間も終始無言で、冷たい水の入ったコップをじっと握っていた。

「ルイヴェ殿・・・申し訳ありませんがもうお引き取りください」

 けだるい空気を無理矢理押しやるようにして、ベアトリーチェはやっとのことで言った。 しかも、ベアトリーチェのその努力があまりに報われないとなれば、益々空気は重くなってくる。

「なぜですベアトリーチェ殿・・・我が主は」

「迷惑だ。帰んな」

 ナタリアが吐き捨てるように言った。いつもは明快で、旅の潤滑油のような存在の彼女だが、一旦怒ったり機嫌が悪くなったりすると整った容姿も手伝ってその外見は相当な迫力を帯びる。今のナタリアの瞳は油を流したかのように異様にぎらぎらと光り、今にも人を襲わんばかりの獣の目をしている。怒っているのだ。

「あんたらが来てこっちの警戒が緩んだから教皇様が狙われたんだ。邪魔なんだよ失せな」

 ルイヴェは目を見開いて、この無礼な女はいったいなんなのだろうという、信じられない面持ちでナタリアを見たが、百倍凄い目で睨み返されたのと、周囲の自分に対するお世辞にもよろしくない感情が渦巻いているのに気づいて、口の中でもごもごと言いながら、結局助けてもらった礼や、ベアトリーチェに対する礼すらとるのを忘れて立ち去ってしまった。

「なにあいつ」

 その背中を見送りつつ、セシルが小さく呟く。

「よくあんなのが国王の側にいるわよ。ねえ?」

 傍らのエストリーズに毒づくが、エストリーズは困ったように弱く微笑して答えない。「あの方は・・・アンティエメの中でも少数派の方々で、決して陛下のお側近くにおられる方ではありません」

 ベアトリーチェが目を伏せうつむいたまま消え入るような声で言い、セシルは自分の憎まれ口が聞こえたかとハッとして口元を押さえる。

「良い方なのですが・・・・・・時々ご自分の理想に酔ってしまわれて周りが見えなくなるので出世できないのだと、いつだったか聞いたことがあります」

「当たってるー」

 ナタリアが膝を抱え愉快そうに笑った。まったくナタリアのすごいところというのは、誰を相手にしようが誰を前にしようが、自分というものを押し隠さない天真爛漫さにあるのではなかろうか。

「さあ、そろそろ行こうか」

 アリスウェイドが立ち上がり、皆がそれにつられるようにして立ち上がった時、セシルだけ、一瞬何かを言いたそうな顔になったが、すぐに思い直したようにして立ち上がった。 それに気づいていたのは、側にいたクロムだけであった。

 ガラガラガラガラ・・・

 馬車の車輪がゆっくりと進む音も、セシルには苦痛に感じられる。

 先ほど休憩したときに張っていた結界の紋章は、移動の際には張ることができないので、今は解いている。何故となれば、固定された空間の中を不可侵にしたくて結界を張るのに、その空間が移動していては結界のポイントが定まらないからだ。

 先刻セシルは大地の紋章を使って曲者を捕縛しようとし、さらに結界を張っていくつもの矢から仲間たちを守った。が、敵の矢は予想よりもずっと太く、速く、強かった。セシルの張った結界はなんとかそれに耐えたが、あの攻撃があと数十分続いていたら、セシルはどうなっていたか自分でも想像がつかない。膜のようにして敵の攻撃から自分と仲間たちを守ったセシルはしかし、その膜が脆弱化し、矢の攻撃に段々と弱っていく過程を、結界の紋章を身体に刻んでいるがために身体で受け止めてしまったのだ。さきほどのように少しくらい話すのならなんともないが、充分な休憩をとらずにこうして周囲を警戒しつつ歩くというのは、今のセシルには少々辛い話だ。自分の予想の甘さに歯噛みしながら、セシルはなんとかこらえようとしていた。次の休憩で、結界の紋章の詠唱を組み替えてもっと強力なものにし、あれ以上の攻撃に耐えられるようにすればいい話だ。できるなら、どこかの街で強化の紋章を刻むのも一つの手段である。

 汗が小さな真珠の粒のようになってこめかみや額に浮かんできた。セシルは段々と歩く足がもつれ、重くなってくるのを感じていた。ガラガラという車輪の音も遠のき、最早自分が前のめりになって歩き始めていることにも、セシルは気づいていなかったに違いない。

 フッ・・・

 意識が遠のいた。倒れる、セシルは朦朧としながら全身の脱力から逃げ出すことができなかった。

「・・・・・・」

 しかし予想とは裏腹に、彼女は倒れることはなかった。いや、倒れたのだが、その寸前でクロムが支えたといってよかろう。

「ク・・・」

 セシルが何か言う前に、クロムは器用にも歩きながら彼女を抱き上げ、馬車の尻尾といわれる部分、上に荷物を乗せたりするときに足がかりにする出っ張りに彼女を座らせた。

「・・・・・・・・・」

 何かを言おうとしたが、言葉が出ない。全身の倦怠感と、いくら力を入れようとしてもぐにゃりとなるおかしな脱力感、セシルは抵抗することも忘れて、しばらくそこに座り続けていた。いつのまにか眠ってしまったことにも、気がつかなかった。


 夜になっても森を抜けることはできなかった。

 セシルはクロムに庇われて少し休んだおかげで回復しており、食後の思い思いの時間、エストリーズとリスレルに頼んで結界を張っていてもらうように頼んだ。詠唱の内容を組み替え、より結界を強力にするためには、一度結界を解かねばならないからだ。

「・・・時間かかる?」

 リスレルは不安そうに聞いた。エストリーズも何も言わなかったものの、明らかに動揺している。

「そんなにかからないと思う。・・・どれくらいまで頑張れる?」

「え・・・えと・・・い、一時間が限度かな・・・」

「エストリーズは」

「わたくしは・・・今日は星も月も出ていますから・・・もう少しいけるかと」

 セシルは考えた。

 リスレルは若いのに強力な魔法を使う。結界術も心得ているはずだ。エストリーズにしても、天文学者をあらゆる危険から守るための術の二つや三つ、知っているだろう。が、やはり結界を張り、いかに完璧に敵の侵入を防げるかという点においては、天文学師も魔導師も紋章学師には遠く及ぶまい。それは、例えて言うなら戦士がいくら弓に長けていても、本業の狩人や平生弓で戦闘している弓士にはかなわないのと似ている。所詮戦士は剣で戦い、弓で生業をたてたり自分の命を守ったりはしないからだ。紋章学師の刻む結界の紋章は、相手の侵入を防ぐためだけに古代の人間が完成させたものである。相次ぐ戦闘から偶然生まれたものや、研究対象を守るためだけに開発されたものとは、それこそ雪と墨汁くらいの差があるのだ。そして魔道に長けているだけに、エストリーズもリスレルも、そのことは痛いほど知っている。

 二人は不安そうに互いを見た。

「じゃこうしよう。一時間っていうのは、私の結界のレベルを保ち続けるのなら一時間ってことよね」

 リスレルは幾分不安そうな顔でこくりとうなづいた。あれだけ完璧な結界を保ちつづけるのには、それくらいがギリギリ限界だ。リスレルやエストリーズの術が未熟というのではない、紋章学師の結界の紋章が完璧すぎるのだ。

「三十分ずつ交代っていうのはどう。そしたらすごく疲れるっていうこともないし、次に耐えられるだけの余力も残る。私のはどうやっても二、三時間はかかる。二人で一時間ずつ頑張ってもらって披露困憊されたら大変だものね」

 セシルはどうかな、と二人に提案した。

「・・・それくらいならなんとかなるかも。でも私セシルのみたいに完璧なのなんてできないけど」

「あそこまで行かなくても、近いものはできるでしょ。それでいいの。三十分ずつなら、そんなに疲れないと思うし」

 お願い、と手を合わせて拝まれてしまっては、いつもはほとんどそういった自分の要望を押し切ろうとはせず、アリスウェイドや他の仲間の意思を尊重しているセシルだけに、リスレルもエストリーズも、断れるものではなかった。また二人も魔術を使う身ゆえに、セシルの気持ちが痛いほどわかるというのも理由の一つだったろう。わが身と仲間を守るために術を強力にしたいと頼む仲間の申し出を、なんで断ることができようか。

「・・・やってみる」

 リスレルの言葉にうなづいたエストリーズを見て、セシルはじゃあお願い、と明るい声で言った。そして仲間にも、少し離れたところで焚き火を囲っている神殿の者たちにも、絶対に自分に話し掛けないようにと言うと、ほんの少し離れたところに自分の教本を持って歩いていき、胡座をかいて精神統一し始めた。しばらくしてパラ、パラと紙がめくれるような音がして、エストリーズは始まった、と思った。自分も両手を合わせ、目を閉じ息を深く吸う。頭の中心の芯から、まっすぐに棒が伸びているのをイメージする。

 ピィィン・・・・・・

 どこかで微かに鳴った結界の音を聞いて、リスレルは、やっぱり自分たちのじゃ三十分が限度だろうな、と思っていた。そして振り返ってセシルの背中を見ると、教本を前に結界強度の組み替えが始まっている。教本とは、エストリーズが天文学院を出る時にも院長から餞別として受け取った学術書の別名で、冒険者で魔法を使う者なら必ず持っているものだ。彼らはその多くが修行の修了前にその学び舎を出るので、本来そこに残って習得すべき術を手に入れられない。が、冒険が進むにつれ、敵は強力になってくるし、仲間たちの剣の技も見る見る向上してくる。それに合わせて術を駆使できないというのは、冒険者としては致命的である。であるから、教本を持たされる。これは、自分が既に習得している術などは基本から理論、実践などが明細に渡って記述されており、いつでも復習できるのに加え、自分が旅の過程で未修得の術を使えるまでに達した時、その術を教師の代わりに頁に事細かに示し教えるというものだ。これなら、正規に過程を修了して冒険に出る者たちと術の習得においては何の差もなくなる。無論のこと、教本の白紙の頁に自動的に新しい術が書き加えられ、それを使えるようになったからと言ってそれで油断してはならない。一、二度実際の戦闘で術を使ってのち、必ず次に立ち寄った魔導師ギルドに赴きそこのメンバーの指導で復習と確認をすることを怠ったまま術を使いつづけると、間違った使い方をしたり体力の配分を取り違え、自分自身に大きな危険をもたらすことになる。

 リスレルは隣で精神統一を続け結界を張りつづけているエストリーズの、実際今の時点では何の役にも立たないが気休め代わりに開いたであろう教本をちらりと見て、見開きのページに八割近くびっしりと字が書かれているのを確認し、エストリーズはすごいなあ、と自分も教本を開いた。結界のことを述べてあるページは、リスレルの教本は六割程度、まだ空白部分が目につくページにある。魔法を使う者の資質はそれぞれ違うから、当然最初のページの左上から順に埋まっていくというものではなく、五頁目の真中に突然文字が出てきたり、紙の左上と右下にだけ文字が浮かんでくるという場合もある。数学が人一倍できるからと言って、英語が堪能ではないのと同じだ。

「なんか大変ねえ」

 それを見守っていたナタリアが膝を抱えてリスレルを見ると、緊張して強張っていた自分の顔が、幾分緩むのをリスレルは感じていた。

「ねえねえじゃあリスレルもさ、例えば、火の魔法をより強力にしたかったらああいう風にするわけ」

「ううん。私だったら、同じ種類の魔法で強力なものを習得したかったらそれを初めから覚えないといけないの」

「? どういうこと?」

「紋章っていうのはね、基本的に一つなの。例えば、火を使って敵を攻撃する魔法っていうのは、いくつもあるのね。螺旋状になって相手を攻撃して、相手の退路を奪いつつ確実に倒す術、一度にいくつも火柱を出して攻撃する術」

「うんうん」

「そしたら、おんなじ火の魔法でもやっぱり種類としては違うでしょ」

「そう・・・だねえ」

「それに比べると、火の紋章は一つだけ。火の紋章を使ってどういう魔法を使うかになるのね。螺旋状になって相手を攻撃して、相手の退路を奪いつつ確実に倒す術、一度にいくつも火柱を出して攻撃する術の詠唱を覚えて、その術の理論を習熟してからではないと、紋章の力を百パーセント引き出すことはできないの。火の力を持つのは紋章、その力を借りて状況に合わせた魔法を紡ぎだすのが自分」

「うーんとつまりぃ・・・」

 ナタリアは頭をぽりぽりとかきながら言った。

「いっつも『何々の紋章において』って言ってるのは、紋章の代わりに術に命令してるわけ」

「そう。紋章っていうのは、それだけの力を持っているの。紋章の名において、自然界に命令できるほどのね。紋章学師は、紋章を持っている私が命じているのは、紋章が命じているのだからという前置きで自然界に呼びかけて魔法を使っているの」

「すげえ・・・やるねえセシルも」

「ふふふ。そうだね。・・・あっ」

 リスレルはちらりと空を見上げて声を上げた。魔法を使う者特有の、術を見聞きする感覚そのものが、結界の力が弱まってきていることを告げている。先ほどまではピンと張りガラスのように艶を放っていた結界が、今は張りを失って心持ち萎びていくような、そんな感覚がする。間もなく三十分だ。セシルの詠唱組み替えは、まだ終わらない。

 リスレルは手を合わせ息を深々と吸い、そこで一旦止めてゆっくり、少しずつ吐き始めた。髪の毛が地面につき、跳ね返ってそのままさわさわと波立つ気がする。

 ィィィンンンン・・・・・・

 リスレルの結界が完成した。それを気配で察して、しばらくしてからエストリーズがスッと目を開けた。前髪が汗で額に張りついている。エストリーズは大きく大きく息を吸って、しばらく硬直して、それからその息を一気にふう、と吐いた。エストリーズがため息をつくなど、珍しいことである。

「おつかれさん」

 そう言うナタリアに対して、エストリーズは疲れの残った笑みを浮かべてこたえた。

「まだあと一、二回はありますわ。今日は大変です」

「しんどそうだねえ・・・それにしてもさあ、」

「はい?」

「そんなに精神統一しなくちゃいけないくらいの結界なわけ」

「そう・・・・・・ですね。例えば、こうして他愛もない会話をしながら結界を張り続けている、というよりは『結界を張った状態』にしておくことはできます。できますが、とても微弱です。昼間のような矢が飛んで来た場合、防ぐことは無理でしょう。確実に飛んできます。 なにかをしながらの結界を張った状態では、矢が結界に侵入したことが素早く察知できても、それを防ぐことはできない。完璧に防ぎたいのなら、先ほどのように精神集中しなければなりません。それも、セシルの結界に比べれば、そうですね・・・七割くらいのものにしかなりません。私の今の実力では、二度、昼間のような矢が飛んでくればもう耐えられません」

「実は紋章学師って凄いのかもね」

 目をまんまるにして言うナタリアの、昼間の緊張とは打って変わったその愛嬌たっぷりの表情に、エストリーズも少し疲れがとれときてホッとして笑いかける。

「そうですね。割と学師の中では誤解されがちですが」

「・・・・・・なんで?」

「一般に、紋章学師とは古代の力を秘めた紋章を身体に刻んだ人のことを言います。と、ここまで言うと、大抵の人はなんだ、紋章さえ刻めばいいのかと思うわけです」

「・・・・・・まあ・・・そうだよね」

 ナタリアはそうではないのかという顔でこたえる。

「しかしそれは大きな誤解です。天文学師や召喚学師と紋章学師の決定的な違いは、自分が紋章を選ぶのではない、紋章が自分を選ぶのだということです」

「うーん?」

「紋章の器量が学師の器量に合わなければ、つまり紋章がこの学師はまだ自分を身体に刻むほどではない---------と判断したり、その者が未熟でそのことが紋章の怒りを買ったりすると、大変なことになります」

「例えば?」

「一番よく聞く話は、爆発を起こすとか。あとは、氷の紋章を刻もうとした時のことですが、対象となった学師は氷づけになってしまったそうです」

「それはまた冷たそうだねー」

 的外れな感想を呟きながら、ナタリアはセシルの身体に刻まれた紋章の数々を一つ一つ思い出していた。

「これらはまだいい方だと聞きます。重傷を負っても、それはそれで命は助かるようですから。でも最悪の場合、」

 エストリーズの、普段は春の陽射しのような暖かい瞳がキラリと光った。

「死にます」

「・・・・・・・・・」

 ダイレクトな、そして容赦のない言い方に、ナタリアはしばらく言葉が出なかった。普段そんなことをしそうにもない人間が突然そういった行動に出ると、周囲はどう反応していいのかわからない時があるという。正に今がそれであろう。

「そ、そうなんだ・・・危険・・・・・・だよね」

「そうですね。学師の中では多分一番危険な仕事だと思います。確率から言って、その次が召喚学師でしょうか。間違ってものすごいものを召喚することは日常的だと聞きます」

「は・・・はあ」

「我々天文学師が、そういう意味では一番危険が少ないのではないのでしょうか」

 リスレルを横目で見守るエストリーズを見ながら、ナタリアはエストリーズが召喚学師や紋章学師だったらどんな性格だったかな、とちらりと考え、やっぱりこのままの性格なんだろうな、と思い直した。天文学師も、ああ言ってはいるが少なからず危険の多い状況に遭遇するだろうし、相手が大自然そのものだけに一つを習熟するのにえらい時間がかかるのだとか。だとしたら、エストリーズのこの普段はたおやかでちょっと頼りないような性格、という見立ては、少し間違っているのかも、とナタリアは思うのだった。

 間もなく三十分が経つというので準備の為気息を整え始めたエストリーズを焚き火越しに見て、ディアスは複雑な気持ちになっていた。

 昼間の、自分のあの失態。

 相手がアンティエメの人間だと名乗り、それをやすやすと信じ、あまつさえ教皇の側に近づけようとした。

 昔の自分は、こんなではなかった。少なくとも要人の護衛中に、相手の言ったことを鵜呑みにして信じるなどということはなかったはずだ。なぜなら、自分はあの日あの瞬間に、人間らしい感情というものをいっさい捨ててしまったのだから。しかし、自分はそれでいいと思っていた。それが、愛する者すら守れなかった自分にふさわしいと、そう思っていた。鬼夜叉の凍りついた心---------それが自分だったはずだ。その自分が一体いつから---------あんな風に相手の言い分を簡単に信用するような、甘いものに成り下がってしまったのだろうか? それは遡って考えると、この仲間たち、アリスウェイドと知り合ってから、いや、エストリーズを旅の仲間に同行させるようになってからではないだろうか。

 いくら冷たくあしらっても、いくらきつい言葉で怒鳴っても、一心に自分への愛のみで慣れない旅についてきたエストリーズ。彼女のその心が、まさか自分の凍りついた心を溶かしているというのか。まさか。

 膝の間に顎をうずめ、やり切れない思いで火を見つめるディアスの隣にスッと座ったアリスウェイドが、気づいて顔を上げ自分を見上げるディアスの方は見ず、焚き火を見つめたまま聞かせるともなしに言った。

「相手の言うことをそのまま信用する---------それは時に、人として一番大切なものだ」

「---------」

「恥じることなどない」

 この男は人の心を読むのか―――ディアスはそんなことを考えながら、アリスウェイドにはこたえず、そのまま火を見つめていた。



 アナンダの水晶球には、三度目の結界を張り終えてぐったりとなったリスレルの姿がくっきりと映っている。

「くくくくく・・・無防備な。あの程度の結界では儂の攻撃は防げんぞ」

 アナンダは詠唱を始めながら、とうとうあの娘を手に入れられるという恍惚で興奮を押さえられなかった。今までは、水晶球の中でしかこうしてあの娘を見ることはなかった。 が、今となっては、それは水晶球の中だけのことではなくなる。文字通り、アナンダはリスレルを手に入れようとしているのだ。

 暗闇に蝋燭が一本灯っただけの室内に、水晶球だけが不気味に光っている。アナンダが詠唱を続け、それに合わせて動かした指がゆらゆらと蠢くたびに、どこからか一筋の煙が立ち昇っている。

 ふふふふふふふふふ・・・・・・もう逃がさんぞ

 いよいよ詠唱が高まり、煙の立ち込める部屋、くらくらとめまいがするほどの濃い香の香り、アナンダは汗を浮かべてさらに高らかに詠唱した。

 が。

 水晶球の中で、動きがあった。

 ぐったりと疲れて思わず横になってしまったリスレル---------あまりにも無防備なリスレルの側に、人影が近寄ったのである。最早剣天ですら、アナンダはしのぐ自信があった。しかし違った。

「!」

 シュウウゥゥゥゥゥゥ・・・・・・

 煙が見る見る水晶球に吸い込まれていき---------あれだけ高らかに、まるで歌うようにして編み上げられていた詠唱は、突然の不協和音のように止まった。室内には濃い香りだけが漂っている。

「・・・・・・・・・」

 アナンダの握り締めた拳が、白くなりさらには血がにじみ始める。

「あの女」

 搾り出すように呻くように、やっとのことでアナンダはそれだけを言った。

 これでは---------またも失敗か

 あの女から離れるまでは・・・・・・手が出せん

 本能が、もう一度挑戦してみろと彼を挑発した。しかしそれを振り払うように、アナンダは首を振った。

 だめだ---------シェヴィロトの教皇が側にいるのでは

 しかし儂は諦めん---------既に逃がさぬように捕縛している今、

 ---------必ず手に入れてみせる・・・・・・。



「お疲れですわね」

 目をぱちっと開けると、夜空を背景に教皇ベアトリーチェが自分を覗き込んでいる。

「わっ教皇さま」

 慌てて起き上がり、乱れた髪を直し服を直す。ベアトリーチェはくすくす笑いながら、「ごめんなさい、せっかくお休みしていたのに」

「い、いえ、いいんです。今寝ちゃうと、次がしんどいから」

 ベアトリーチェはセシルの方を見た。

 紋章学師は汗みずくになって印をいくつも結び、傍目にはぶつぶつと独り言を言っているようにしか聞こえないくらいの低い声で詠唱の組み替えを続けている。リスレルとエストリーズが三十分交代で結界を張りつづけてから、もうじき三時間になろうとしている。「よろしいかしら」

 と聞く教皇に、リスレルは慌てて隣を手で指し示した。そこへ座るとベアトリーチェは、「大変なことをお願いしてしまいましたね」

 と言った。

 リスレルはドキ、とする。

 夜の森を後ろにうつむくその顔---------透明で、虚無で、わからないくらいに悲愴で。 こんな表情---------これはどういう気持ちになっていればこんな顔ができるというのだ。

「---------」

「わたくしも、どうすればいいのかわからないのです」

 リスレルの思惑などわからないかのように、淡々と、ほとんど無表情に空を見上げる意外なあどけなさ。

 どうしよう---------リスレルは思わず泣きそうになった。

 こんな人が相手では、とても自分はかなうはずもない。アリスウェイドは、抑えていた昔の情熱がこの人によって呼び戻されるのを感じるだろう。

 尚も沈黙するリスレルを見て、自分の会話の持っていき方がまずかったとでも思ったのだろうか、ベアトリーチェは気を取り直したような顔になり明るい声で言った。

「きれいな石・・・いつも身につけていらっしゃるのね」

「あ・・・これ、お母さんの形見なんです。私はあんまり覚えてないんですけど・・・・・・シスター達もおじ様も、いつもしてなさいって言うし」

「おかあさまというと・・・アリスウェイド様の義理の弟さんの」

 リスレルはくす、と笑った。

「ふふふ・・・弟、ということになってます」

「―――え?」

「おじ様のお父さんがうちのお父さんを見つけた時---------痩せてたし身体が小さいから勝手におじ様よか年下だろうってことにしてたんですけど・・・・・・」

 リスレルはおかしくてたまらないとでも言いたげにくすくす笑いを止めないまま続けた。「ほんとは、おじ様より三つくらい年上だったんです。でも今まで弟としてやってきたし、今更それも面倒だからってことで、弟ってことになってます。ふふ、年上の弟」

「ま・・・あ・・・そうでしたの」

「面倒だからあんまり言わないんですけどね。弟でも兄でも、どっちでもいいことだし」 ベアトリーチェは笑顔でうなづいて、髪をかきあげたリスレルの手に光る紫凛石を見た。 その視線に気づいて、リスレルは指輪をはずしベアトリーチェに手渡す。

 その石が掌に乗った瞬間---------教皇ベアトリーチェは、自分の周囲の地面がいっせいに凄まじい勢いで風を放つ感覚に見舞われた。髪は舞い上がり、服が煽られる。周囲はまぶしいほどに白く、自分以外にはなにも存在しないかのような空間だ。

「教皇さま?」

 リスレルの声で、彼女は我に返った。

「---------」

 夜だ。さきほどからずっと続いている夜の景色。森と、焚き火と、目の前のリスレル。 周囲は白くなどないし、自分の髪も服も、乱れるどころか、そよ風すら吹いていない。

(これは---------)

 ベアトリーチェは直感した。目の前には、「?」という顔のリスレルがいる。

(この方は---------)

 聞いたことがある。その昔・・・

「できたわ」

 しかしベアトリーチェの思考は、焚き火の向こうで上がった明るい声によって遮られた。 セシルが全身を汗に濡らし、しかし顔は到って晴れやかに笑いながら、教本を掲げてこちらを見ていた。

 詠唱の組み替えが終わったのだ。





 魔法を使う三人の疲労があまりにも濃いので、翌日の出立は昼過ぎということになった。

 神殿からついてきた、教皇の供の者たちは初めいい顔をせず、そんなことは自分たちの都合だろう、そんな理由で巡礼を遅らせて、と聞こえよがしに言ったものだったが、滅多にものをきつく言わない教皇が、こればかりは低く、強く彼らを叱ったので彼らも思い直したようだ。

 それはそうだろう。神殿の者たちの傷は、まあヴィセンシオも手伝ったとはいえ供の者たちがほとんど自分たちが持ってきた薬などで治療したのだが、彼らだけで刺客からのあの襲撃に耐えられたかと言うと、それはまったく違うのである。一行のおかげで命が助かり、またこれからの巡礼の道行きをより安全にするために行程が一日遅れるというのなら、それはそれでいいはずだ。

 その朝命の女神に祈りを捧げた教皇ベアトリーチェは、自分の遭遇した奇跡的な出会いに感謝し、そして聖地までの道のりの安全を祈った。

 が---------その祈りは聞き遂げられなかったようだ。

 昼過ぎに出立し、三時ごろになろうという時、一行は再び黒装束の集団の襲撃を受けた。

 名乗りも上げず、連中はいきなりやってきた。

 ザザザザザザザザ・・・!

 パァン!

「きゃあっ・・・」

 矢の内の一本が馬車の覗き窓に直撃した。ガラスも、外から中が見えないように細工するための木の戸も、その一矢で粉々に砕けた。

「教皇様!」

 中からルサンヴィラの悲鳴が聞こえた。ジェルヴェーズが抜刀しながら中に向かって叫ぶ。

「頭を低くして扉の近くへ!」

 シャッ・・・

 シャッ・・・

「!」

 セシルは直感で、馬車の周囲にだけ結界を張った。既に敵が結界の及ぶ範囲内まで来ているのは気配でわかる。隣でクロムが、馬車を背中に黙って抜刀した。

 キィン!

 ガッ!

 と、クロムが敵がこちらに一太刀入れる前に進んで前へ出、先制攻撃した。馬車を後ろにしていたほうが背中を狙われなくて済むのに、近くにいるセシルのことを慮って、クロムは前へ出たのだ。セシルはすぐ近くにまで敵が近づいているかもしれないという恐怖と戦いながら必死に呪文を詠唱した。

「セシル!」

 サラディンの怒鳴り声が聞こえた。が、今のセシルにはどうしようもできなかった。今印を解き詠唱をやめれば、行き場を無くした絶大な力が、どこでどう爆走するかわからない。自分に返ってくるかもしれないし、仲間を巻き込むかもしれない、それだけは避けなければならない。

「風の紋章の名において・・・<裂迅>!」

 シャアアアアアアアアアアアアア・・・・・・

 ザシュッ!

 自分の呼び出した魔法ではない不自然な音が、すぐ後ろでした。同時にセシルの目には前方---------馬車の後ろから忍び寄ろうとしていた数名が引き裂かれるのが見え、まったく同じタイミングで生暖かいものが背中にかかるのが感じられた。振り向くと、胸元と顔を血で真っ赤に染め、腰を落とした姿勢のまま剣を引きずるようにして肩で息をしているサラディンがいた。彼の足元には、抜き身の短剣を持った黒装束の男が倒れていた。その首からは、まだどくどくと血が流れ出ている。

 サラディンが、自分でもかなりの数を相手にしながら、多少の無理をしてセシルを助けたであろうことは、火を見るよりも明らかであった。セシルは背中に浴びた血の生暖かさを感じて、改めてゾッとした。サラディンはクロムをじろりと見上げ、

「自分の女くらい自分で守れ」

 と言い放った。父の仇だということなど、すっかり忘れてそう言っていた。

 セシルは驚いて思わずクロムを見上げた。ちょっとだけ驚きをそのオリーブグリーンの瞳に映してサラディンを見てから、クロムもやはりセシルを見ていた。

 森の中はしばらく血の匂いに包まれていた。

「依頼・・・依頼だと?」

 闇の中で、その声はあまりにも冷たかった。

 冷笑。

 そんな言葉が、脳裏に浮かび上がる。それでも、こちらの下手に出た態度が相手の高飛車な態度を増長させたと思い直して、強く言い直す。

「左様。貴殿は金さえ払えばどのような依頼も受けて下さると聞いておる」

「我らは今、教皇の暗殺のために動いているが・・・護衛が手強すぎて近づくこともかなわん」

「教皇・・・・・・」

 声が反応した。それをいい方向へと動いた兆しと見て、彼らは勇んだ。

「教皇とはどこの教皇だ?」

「九星の一柱シェヴイロトの教皇・・・・・・ベアトリーチェ・レイノーリンです」

 相手の瞳が一瞬キラリと光った。

「なにしろ、護衛が手ごわい上・・・大勢ですので」

「そうだろうな」

「は?」

 しかし声の主はそんなことはどうでもいいかのように彼らを冷たく見据えた。

「断る」

 そして一瞬の間を置いて、ようやく抗議しようとした彼らを、アルセストはさらに冷たい瞳で睨み、柄に手をかけていた一人をさらに見た。

「ほう・・・抜くか。抜けるか?」

 アルセストは凄い笑いを浮かべた。

 途端に彼らは、彼の背後に燃え立つような紫色のオーラを感じた。それはゆらゆらと攻撃的に妖しくうごめき、いまにも飛びかからんばかりの敵意を孕んでアルセストを取り巻いていた。百戦錬磨、向かうところ敵なしと言われた彼らが、アルセストのその笑いだけに圧倒されてそこへ硬直してしまった。

 くつくつと不気味な笑いを浮かべながら、アルセストは彼らの脇をするりと抜けて、どこかへ消えてしまった。

 クロデンドルム・ブルーエルフィンという名前は、祖父がつけたものだ。

 ほとんど紫にも近い、濃い青の花だ。もっとも、クロデンドルムというのは学名で、通称はバッグフラワーと呼ばれているらしい。らしい、というのは、自分はあまりそういうことに興味がなかったゆえ、家族から伝え聞いた話をなんとなく覚えているだけにすぎないからだ。家族ではあるが、彼らは皆苗字が違う。この地方では、未だに同じ家庭内でも別々の名前を持つという伝統が残っている。しかしそれでは家族であるという共感を持ちにくいため、必ず系統の名前を苗字の後につける風習もしっかり残されている。 

 たとえばクロデンドルム・ブルーエルフィンだったら、本当はクロデンドルム・ブルーエルフィン・ガティミウスというのだ。しかしこの長ったらしい名前で、彼を呼ぶ者は滅多にいなかった。クロム、と皆省略して彼を呼んだ。

 クロムは、世界最大の植物園ガティミウス植物園の長男として生を受けた。ガティミウス植物園といえば、世情に疎いサラディンですら知っているほどの超巨大な植物園として有名で、この世のありとあらゆる植物を有していることでもその名が高い。よって、観光客も多いがそれ以上に多くの学者がやってくる場所でもある。また世界各地のあらゆる施設から照会がひっきりなしに来る事もあり、職員は全部で千人を軽く越えるはずだ。植物園だからといってそういったものに関係する機関だけが関わっているかというとそうでもなくて、例えば殺人事件の捜査の協力に携わったこともある。死体の衣服に付着していた微かな花粉の照会をはるかヴラソフ大陸の警邏隊から依頼されたときには、さすがの父も緊張していたようだ。

 とにかくそんな環境にいるのなら当然のこと植物に関わる仕事、ひいては植物園を継ぐ立場にありながら、クロムはまったくそういったことに興味がなかった。

 生まれた時から、植物に囲まれて育ってきた。

 植物というのは不思議なもので、人間と違って嘘をついたりごまかしたりはしない。幼い頃から一人で園内を歩くことを好んでいたクロムは、それこそ旅をしていては決して見られない貴重な植物や、絶滅寸前の樹木などと共に育ってきた。中にはもうガティミウス植物園にしか存在しない古代の草花もあり、ひどく敏感で、がさつな人間や荒々しい人間が近寄ると悲鳴のようなものを上げて怯える花もあった。また、どんなに世話をしてくれていても、面倒だと思って嫌々世話をしたりしている者に対しては心を開かず、どれだけ丹念に育てられても花も開かなければ新芽も出なかったという木もある。クロムは、ガティミウスでの記憶というのはあまり多いほうではないが、それでも強烈に覚えていることがある。

 植物の世話がうまいことにかけては園内の職員で随一、という男が、その植物の世話をすることになった。しかしどんなに彼が世話をしてもとうとう花は咲かず、季節が来ても実すら実らなかった。結局半年で彼は担当から外されたが、その後その植物の担当はなかなか決まらず、職員が交代で世話をしていた。が、クロムはある早朝、ぼおっと園内を歩いていて、見てしまったのだ。職員の中でも、なんでこういう男がこういう職についたのだろうと思うような、がっしりした体格でくわえ煙草でバケツ一杯にした肥料を両手に持っているようなタイプの職員が、その植物の側に屈みこみ、なんだか友達にするように話し掛けているのを。

「よお、なんだか今日は元気ないな。肥料くれてやる。ほれ」

 男は明るい笑顔で笑いかけ、その逞しい腕からは想像もつかないような優しさと慎重さでそっと肥料を植物の根元にかけている。その言葉のいちいちも、乱暴ではあるがどことなく優しさというか、愛を感じるのだ。

 そして三日後、真冬の正に季節はずれに、その植物は花を咲かせた。しばらく後にクロムが早朝に見た男がこの植物の担当にされた時も、クロムは一人だけ驚かなかった。

 もっとも、小さな頃からあまり自分の感情というものを表に出さず、植物園のことには興味がなさそうな息子のことであるから、その反応は誰の目も引かなかったようだ。

 人は見かけにはよらない、ということを、クロムはこの経験で知った。

 十五の誕生日を機に、クロムは旅に出ることにした。

 家族は、反対しなかった。

 父も、幼い頃から無口でおよそ植物などには興味のなさそうな息子を見ていて、この子は多分自分の後を継ぐことはないだろうと考えていたようだ。植物の世話を生業にするというのは、よほど好きでなければできることではない。好きでないものに無理矢理やらせても誰も幸せにはならないというのが父の考えであったし、他に兄弟がたくさんいるのだから、お前はお前の好きにしなさい、とそう言ってあっさりと許してくれた。クロムには弟が四人、妹が二人いるが、弟のうちの二人は植物園を手伝い、一人は農場で働き、もう一人は街でパン職人をしている。妹は二人とも、植物園の職員と結婚している。

 数年に一度帰ればいいほうだが、家族は文句一つなく受け入れてくれる。ふつうなら、手紙もよこさないで、と愚痴の一つや二つ言うところなのだろうが、家族はそれすらも言わない。クロムという男の性格をよくわかっているのだ。たまにクロムも旅先から連絡をする。といっても、手紙だと書くことがないので、だいたいは珍しい品物だったり家族の好きそうな本だったりを送ったりする。クロムは知らないだろうが、そういった品物を受け取るたび、家族はいかにも彼らしいな、と顔を見合わせて言うのだ。

 色々な経験をした。それは、あの広い植物園の宇宙よりもさらに広い世界の中での、正に未知の経験であったといえよう。戦争にも行った。用心棒もやった。刺客を務めたこともあったし、人探しをしたこともある。クロムはいつも思うのだが、例えば刺客といっても、アリスウェイドと旅をするきっかけとなったときのように『標的は世の中のためにならない者』とはっきり銘打たれるものもあれば、明らかに陰謀で相手が悪くなくても務める刺客というのがある。ディアスなどは、前者でなければ引き受けないタイプだが、クロムはというと、それはどちらでもよいと思っている。依頼というのは、依頼者の意思の『代理』だと思うのだ。自分が相手を憎んで殺したり、殺すことによって利益を得るのではないのであれば、結局は殺してしまうのだから一緒だ。

 十九の時に、腕利きの者ばかりを五十名ほど募集する張り紙を見た。ある屋敷へ夜中に訪れ、そこから目隠しをしてさらに移動し、そこで試験をし、通った者だけが雇われるという一風変わったものだったが、訳はすぐにわかった。

 ある貴族の屋敷の襲撃だというのである。

 特別な感想もなくクロムは襲撃当日を迎え---------命令されていた通りのことを遂行した。屋敷を襲撃し、手向かう者は殺し、後は依頼者の部下の指示通りにする。誰かが屋敷に火をつけ、混乱のさなか、クロムはやっとのことで庭へと逃げのび、そしてある男と対峙した---------それがサラディンの父親であった。

 ゴォォオオオオ・・・・・・

 燃え盛る屋敷を視界の隅に見ながら、二人は黙って向き合っていた。クロムも、この男がそもそもの標的だということは背格好を見てわかっていたし、男の方も、だいたいのことはわかっているようだ。この男の首には、莫大な賞金がかかっている。

 チャリン・・・

 男が静かに剣を抜いた。

「・・・・・・」

「ご貴殿・・・・・・お名をうかがっておこう」

「---------・・・・・・クロデンドルム・ブルーエルフィンだ」

 男の相好がふっとくずれた。

「美しい名前だ」

「・・・・・・」

 ゴォォオオ・・・

 遠くから、自分と同じように雇われた男たちの怒号が微かに聞こえる。ここが落ちるのも時間の問題だろう。

「私の首には、さぞかし多額の金貨がかけられていような」

「・・・・・・」

 クロムは答えなかった。なんといえばいいのかわからなかったし、なんという言葉がよいのかもわからなかった。

「ご貴殿・・・」

 男の声は低く、とても静かであるにも関わらず、焼け落ちようとする屋敷の燃える音や、遠くからの怒号や悲鳴に少しも流されることがない。こんな男を、どうして暗殺などしようと依頼者は目論んだのか。

「私の首はくれてやろう・・・・・・しかしその代わりと言ってはなんだが・・・一つ頼みがある」

 クロムは持っていた剣の切っ先をスッ、と下に向けた。

「・・・・・・私には息子が一人おる。よい青年に育ったがなんというか・・・人を信じすぎる面がある。誰に対しても警戒というものを抱かず、世の中の人間はみな善良だと思っている」

「・・・・・・」

「息子はしばらくすれば帰ってきて・・・この有り様を目の当たりにすることだろう・・・もう少し早く教えておけばよかった---------世の中は・・・世界はお前が思っているほど狭くも甘くもないと---------」

「---------」

「息子かわいさのあまり教えてやることができなかったのは一生の不覚・・・」

 ゴォォオオオ・・・

 屋敷の柱が倒れ始めた。目の前にいるこの標的を探す声がまだ聞こえる。

「そこでお願いしたい。私の首を貴殿に差し上げる代わりに、息子に伝えてほしい、今の私の言葉を---------私の気持ちを」

「・・・・・・」

 クロムはむっつりと黙ったまま答えない。

「わかっている・・・それはつまり、貴殿に息子の仇となれと言っているも同じ。しかしそうでもしないと、きっとあの息子は動きますまい・・・憎しみと怒りでしか、あの温厚な息子を動かすことなどできない」

「・・・・・・・・・」

 クロムはキッ、と切っ先を上に向けた。それを見て、男の顔色が微かに変わった。

「---------引き受けてくださると?」

 それは、例えばその場限りの口約束であったかもしれない。この約束の後、男は確実に死ぬのだから、後は約束を守ろうが破ろうが関係のない話なのだ。男は、果たされるかもわからない約束のために、こうしてクロムに命をかけて頼みごとをしている。クロムは黙って小さくうなづいた。

 男はおお、と口のなかで小さく感嘆し、守られるかどうかもわからぬ約束をしてくれたクロムに、目の前で剣を掲げて深々と一礼した。

「ありがたい・・・これで心置きなく死ねるというものだ」

「・・・・・・」

「クロデンドルム・ブルーエルフィン殿。貴殿を仇と付け狙うであろう息子の名は―――

サラディン。サラディン・ド・ガーシャリーでござる」

 ヒウ・・・

 風が鋭く吹いた。どこからか、何か聞こえるような気がする。

 クロムは風に応えるように空を仰いだ。そして再び男の方を見る。

「承知した」

 男はすっかり落ち着いた顔になって大きくうなづき、剣を大きく引いて構えの形を取り、

「―――参る!」

 切るように言った。

 刃風は鋭かった。死ぬとわかっている、死ぬことを覚悟している男の剣ではないほどに。

 ゴ・・・ォォォ・・・・・・

 凄まじい火の粉と共に、屋敷が音をたてて燃え落ちた。それと同時に男も倒れた。

「・・・・・・」

 クロムは無表情な瞳のままで男を見下ろした。どこからか、馬の蹄の音がする。

「う・・・」

 それでも男にはまだ息があった。いや、息が残るように刺した。

「お、お見事・・・さ・・・あ、首を持っていかれよ・・・」

 クロムはつ、と顔を上げた。やはり勘は正しかったようだ。蹄の音は近づいている。

 そしてクロムはゆっくりと男に視線を動かす。いつまでもとどめをささないクロムを、男は目を見開いて見ている。

「それではご子息に伝えられますまい」

 ああ、こんなに言葉多く口をきいたのはどれくらいぶりであろうか。

「仇の名前を」

 男は口の端から血を流しながら、首を重たそうに持ち上げてクロムを見ている。驚いているのだ。頼んだ本人ですら、彼が本気にするとはまさか思わなかっただろう。

 クロムはなにも言わずに背を向けた。蹄の音が近づいてくる。クロムは一度だけ振り返り、蹄の音のする方へ、そしてまだ自分を凝視している男へと視線を移した。

 そして一度だけ、うなづいた。

 焼け落ちる屋敷を背にクロムはゆっくりと戻っていった。同じように雇われた数人が彼をみとめ、息を切らして生きていたか、と言い、標的を見つけたか、とも聞いた。クロムは黙って首を振った。同胞は、煤に汚れた顔で辺りを油断なく見周しながらそうか、と小さく言った。普段無口で、滅多に口をきかないクロムのこういう時の声ない言葉が、どれだけ信用に足るものかということを、短い間ながらに彼らはよくわきまえているのだ。

 そして彼らは結局標的を見つけられないままそこを去った。しかしなぜか依頼者は標的の死を確認しており、それについては何も言われることはなく、クロムは他の同胞と同じく、規定の報酬を受け取った。

 こうして、クロムは仇と付け狙われる身となったのである。



 そして今、仇と自分を付け狙う男とこうして仲間として共に旅をするとは、いかなクロムといえどもさすがに予想しえなかった事態であろう。焚き火から目を移して顔を上げると、自分を見ていたのであろうか、慌てて目をそらして気まずそうに視線を泳がせているサラディンがいる。そして、すぐ自分の脇ですうすうと寝息をたてているのは、絹糸のようなプラチナの髪を輝かせるセシル。恐らく、自分と出会うことがなければ、一生こんな生活とは無縁であったであろうセシル。それを悔いたり、彼女に対して申し訳ないと思っているわけではない。ただ、一度寝ただけでどうして自分についてくる気持ちになったのか――――それがわからないのだ。

「・・・・・・」

 あの時なぜ彼女を抱いたのか・・・・・・今もって理由はよくわからない。

 森を抜けてしばらくは、アンティエメもバリウィンも姿を見せることはなかった。

 一行はやがて平原へさしかかり、ナタリアの膝ほどまでに伸びた細い草が一面に広がって薙いでいる。草原に風が渡り草が倒れてかすかな金色に輝く様に、ジェルヴェーズですら目を細めて見入っている。

 日が傾き、西の空が赤くなりはじめた頃、ここヴィヴェリィ大陸で『サーマインの渓谷』と呼ばれる断崖までやってきた。

「今日はここで野営するようだな」

 というガラハドの呟きを裏付けるように、しばらくして断崖のすぐ側で馬車は止まった。

 神殿からの従者たちはこのようなところで、とめいめいが抗議しようとしたようだが、それに先んじてアリスウェイドが馬の首に触れながら、

「ここならば、背中から襲われることもないでしょう。襲撃しにくい場所の最たるものだ」

 と先手を打ったので言葉も出なかったようだ。

 焚き火を熾し、食事の支度をする。近くの小川へ行って新しい水を汲みに行きがてら、偵察も怠らない。食事といっても簡易食だが、教皇が共にいるということからなのか、旅をしているときのパンや干し肉とは違い少しばかり豪勢だ。それはまあ、冒険者が旅の行程で口にするようなものを、教皇本人がどう思うかはともかくとして神殿の者がいい顔をして口にさせるはずがない。

 教皇は断崖から一望できる渓谷や景色が見たくて、ひとり佇んでいた。

 その後姿は崇高にして美しく、そして孤独なものであった。

 アリスウェイドは気がついてしばらくその背中を見ていたが、彼女が凝視しているのがはるか向こうの夕焼けだとわかるとちらりとそちらを見、少し考えてゆっくりとその傍らまで歩み寄った。リスレルはそれを見て、心臓がとまるかと思った。仲間たちは、なにも気がつかないで一心に支度するふりをしていた。

 アリスウェイドが来るのは気配でわかっていたのだろう、彼が隣に立っても、ちらりとも目をくれずに夕焼けを見つづけている。アリスウェイドも彼女に話し掛けることもなく、彼女を見ることもなく、夕焼けを見つづけている。

「あのときのような夕焼けですな」

 夕焼けから視線をそらさず、アリスウェイドはぽつりと言った。

 小さな声で、ベアトリーチェもこたえる。

「ええ」

 アリスウェイドはそこで初めて夕焼けからベアトリーチェへと視線を移した。

「あの時から貴女は、少しもかわっていない」

「かわりましたわ。少なくとも・・・・・・年をとりました」

「それは私も同じだ。私が言っているのは---------あなた自身のことです」

「わたくし・・・自身」

「変わらず敬虔で、変わらず無垢だ」

「・・・・・・」

 彼女自身の現在の問題については一言もふれず、アリスウェイドは西の空がおどろおどろしいまでに赤く、しかし空が段々と東から冷たくてひんやりとした夜の色に染まっているのを見ると、では、と仲間たちのいる焚き火の方へ戻ってしまった。

 ベアトリーチェはしばらく立ち尽くしてすっかり夜になった地平線を見つめつづけ、

 リスレルはそんなベアトリーチェを見つめつづけていた。



 ベアトリーチェは悩んでいた。

 何に対して悩んでいるかといえば、それは無論彼女に現在降りかかっている問題にどう対処すべきかということだ。

 アンティエメ国王の求婚を受けるか否か---------彼女は迷っていた。

 ベアトリーチェが迷っている理由は、リスレルが密かに心配しているような事ではない。 つまり、アリスウェイドが忘れられないだとか、彼と再会して昔の気持ちが戻ったとか、そういうことでは全然ないのだ。確かに昔アリスウェイドとベアトリーチェは周囲が噂するような関係になりかけたことがある。しかし、互いに惹かれ合いはしても、アリスウェイドは剣に生き旅に生きる者としての道を、ベアトリーチェは神に仕え神と暮らしていく道をそれぞれ選んだのだ。もし本当に愛していたのなら共に神殿を出たと思う。

 なぜなら、自分はあの時迷いなく神と共に生きる道を選んだから。迷うことなく、というのは、結局のところは彼と生きる道などは大して自分のなかで大きな比重を占めていなかったということにつながる。確かに、アリスウェイドが旅立った時は寂しかった。しかしそれは、例えば懐かしい友人が訪ねて来てくれて、そしてまた帰ってしまった時のものとまったく同義で、尊敬し共に楽しい時間を過ごすことのできるアリスウェイドという得がたい友人の旅立ちに際し、彼が旅人ということも含めて一体次はいつ会えるだろうかという寂寥感にとらわれたことは事実だ。

 はっきり言ってしまえば、彼が訪ねてくるまで、アリスウェイドのことなど、たまに思い出すことはあれ、平生は日々の務めの中に埋もれてしまっていた。

 彼女が今悩んでいるのは、そんなことではなかった。

 自分は、神と共に生きるつもりでいる。一生を命の女神に捧げると誓い、これまで生きてきた。その選択に間違いはなかったと思っているし、この穏やかな生活を捨てる気もない。

 しかし一方で、そんな自分の立場など関係ない、自分自身を好きになったといって求愛してやまない男がいる。大層な身分の男が、そんな自身の地位などは忘れたような純真で

少年のような熱い瞳で自分をまっすぐに見つめる。その溢れんばかりの情熱に満ち満ちた言葉の数々に、ベアトリーチェはほだされかけている。

 そしてまた、教皇という自分の立場も大きい。

 九星という比較的浸透しにくい神の内の一柱でありながら神殿まであるという事実は、認識されにくいことだが大変なことだ。それだけ、命の女神の存在が民間に浸透しているということなのだ。それだけの影響力を持つ神の教皇である自分が、一国の王である男の妃となれば、微妙な影響を周囲に多々与えることになる。均衡を保っていたバランスも、崩れないと断言することはできない。

 自分は神と共に生きていくと決めた。その気持ちに、今も偽りはない。

 しかし迷いが生じて---------ベアトリーチェは気持ちを整理させるために巡礼の旅に出たのだ。

 ふと背後に動く気配があり、空気が動いた。振り返ると、先ほど自分が立ち尽くして夕焼けを見ていた崖の淵に、リスレルが座って足をぶらぶらさせている。下は、目もくらむような断崖絶壁である。なのに恐れるふうでもなく、放心して空を見上げる彼女の横顔は好ましいほどに無垢なものであった。ベアトリーチェは思わず微笑して立ち上がり、リスレルの横に行って自分も草の上に座り、崖に足を下ろした。

「気持ちのいい夜ですね」

 教皇の意外な行動に、リスレルは面食らった。自分のように足をぶらぶらこそさせていないが、こんな崖の上で教皇が足を下ろすなんて、ちょっと考えられないことだ。

「は、はい」

 リスレルはこたえて、またちらりと空を見た。まだ月は後ろの方にあるので見えない。 その代わり、不動の九星がここからはよく見えるのだ。リスレルは九星を何度も何度も数えては、また数えるという繰り返しをしていたのだった。

 視線の先にあるものを教皇も感じ取ったのだろう、ゆっくりと顔を上げて九星を見た。 命の女神シェヴィロトはそのちょうど真ん中辺り・・・そこに明るい緑色の光を放って鎮座ましましている。

「九星は星なのに、魔道師の多くはその恩恵に与ることができません」

 ベアトリーチェは星から目を離さず、静かに口を開いた。その横顔を見ながら、リスレルは黙って聞いている。

「それはなぜなのか・・・まだわかっていないようです。ですがわかっているのは・・・あの星星に関しては、神が棲んでいる、ということです」

「神様が・・・」

 ベアトリーチェはリスレルを見て微笑した。

「そうです。第一星にはテミストクレスが、第四星にはシェヴィロトが。あまり知られていることではありませんが、太古の昔は、九柱の神々はよく地上に降り立ったといわれています」

「地上に・・・?」

「ええ。記録も残っています。伝承などではなく、事実です。

 わたくしはその時思った---------九星が制約魔道師に恩恵を授けられないのは、それは天体ではないからだと」

「・・・・・・」

「あの星々は天体であり、そして天体である以上に神の住まわれる場所なのです」

 どうして教皇さまはこんな話をするのだろう---------月明かりを映して光る彼方の川の光を帯びて明るく映える瞳で、リスレルはベアトリーチェを見つめた。彼女はそのまま、リスレルの小さな困惑など知りもしないかのように立ち上がると、にっこりと微笑んで行ってしまった。リスレルはちょっとその背中を見送ったが、また星に目を馳せ、彼方に目を馳せ始めた。

 ベアトリーチェは、これで満足---------というわけにはいかなかったが、自分にできるのはここまでぐらいだと思っていた。これ以上のことを言うことはできるけれども、それは自分の役目ではない。それこそが、リスレルと終始共にいるあの頼もしい仲間たちの役割であり、アリスウェイドの役割なのだ。

 一人焚き火を見つめながらにこにこと笑っている教皇の横顔を、ルサンヴィラが不思議そうに見つめている。



 身を隠す場所のない平原では奇襲もままならないと思ったのか、黒装束の連中は突然やってきた。正面から立ち塞がるようにして、この平原に無数に広がるようにして。

「止まれ!」

「馬車の下に隠れていなさい」

 ディアスの逼迫した合図と同時に、アリスウェイドは神殿の従者たちに急いで囁いた。 チン、と剣を抜く音がして、彼が振り向きざま剣を抜くのと同時に、バリウィンの暗殺者は彼に飛び掛っていた。背後では、早くも剣戟の音が響いている。囲まれたのだ。

 ギッ!

 キィィン!

 アリスウェイドにいきなり、二人がかりで暗殺者が斬りかかってきた。彼はそれを切っ先を下にして受け、はね返しざま上から大きく薙いで二人共を斬った。馬が怯えて暴れ、直後に矢が雨のように降る。後方からの援護射撃だ。

「リスレル! 前に五人だ!」

 怒鳴った途端、馬車の陰から凄まじい爆裂音と共に緑色の光が迸った! 

 それは細い棒のように真っ直ぐ上に高く高く伸び、高い場所から何かを探すように一瞬止まったかと思うと、次の瞬間その標的をとらえて、

 カッ!

 激しく輝き、次の瞬間凄まじい速さで地上に降り注いだ。それと同時に前方で次々と断末魔の叫び声が上がり、今しもアリスウェイドに斬りかかろうとしていた三人が動揺して振り返ったほどだ。

 リスレルが弓隊をすべて排除したことを悟るとアリスウェイドは前方に向かって走った。

 馬車と馬を傷つけないように気を遣って戦うよりは、剣を振り回してもなんの心配もいらない場所での戦闘の方が有利だ。ただでさえ相手は普段暗殺を生業としており、奇襲作戦や不規則な戦法を得意とする。油断はしていられないのだ。

 いくら手練れの暗殺集団といえど、聖位剣天がてこずるような者は世界にそうはいない。 彼らはそれをよくわかっていた。わかっていたからこそ、一対一でかかっていくような方法はとらず、一度に数人でアリスウェイドに斬りかかっていった。そう、このときは五、六人はいたろうか。

 ザッ!

 ィィン!

 ィィィィン!

 さしもの聖位剣天も数で押されれば少しは動けまい---------彼らはそう思ったことだろう。それが敗因の一つだった。

 あっという間にアリスウェイドの一撃で倒された彼らであったが、しかし倒しても倒しても、その数は減ることはなかった。

 その頃馬車後方にいるクロムは、馬車の右脇を守っていたヴィセンシオとサラディンと共にその周辺に襲い掛かってきた敵と戦っていた。セシルは次々と襲ってくる矢の雨と敵の奇襲に、とてもではないが彼らを補佐する余裕など、今のところはないといっていい。

 ――――

 シャッ!

 ---------ザシュッ!

 横目には、ジェルヴェーズが次々と飛んで来る矢を打ち払っているのが見える。しかし余裕たっぷりでそれをやっていた銀髪の女戦士も、敵が複数近づいてきたのを見て一瞬気色ばんだ。

「我と我の息吹受ける者に害意なして飛来するものより我と我の息吹受ける者を守り給え!」

 その時セシルの詠唱が完成した。セシルの側にいたヴィセンシオ、サラディン、クロム、そしてジェルヴェーズの周辺の空気が一瞬震え、それからピィン、と何かがはじけるような音がした。ジェルヴェーズはその気配とセシルの言葉を聞き取ってだいたいを理解したらしい、またも飛んで来る矢の気配に吃となりながらも、背後から迫ってきた敵と対峙して凄まじい戦いを展開し始めた。その素早さと無慈悲な戦いぶりは、すぐ側で剣を振り回していたサラディンが吐き気をもよおすほどのものであった。

 そのサラディンに、一瞬の隙が出来た。

 そも、複数の敵と戦っていてそのようなよそ見をしていたサラディンがいけないのだが。 その一瞬にできた間を、奇襲を最も得意とする敵が見逃すはずがなかった。敵が風のように唸りを上げて短剣をふところより出してサラディンに迫った時、彼は必死の思いで二人の敵と戦っていた。初めからこの二人も、この三人目から気をそらすためにサラディンと刃を交えていたのやもしれぬ。

 気づいた時、すぐ目の前には敵の短剣が迫っていた。サラディンは息を飲んだ。避ける余裕が敵と戦っていてあるはずもない。ヴィセンシオもジェルヴェーズも、その時になって初めて奇襲に気づいたが、なんにせよお互い離れたところで戦っていてとてもではないが間に合わない。サラディンが覚悟を決めた時、彼は信じられないものを見た。

 突然クロムが彼の前に立ちはだかってその剣に敵の短剣を受け、無理な姿勢でそれをそのまま流し、相手がよろめいたところを上から斬ったのだ。どうやってあの距離を、という程度には、二人は離れて戦っていたはずだ。

 クロムは無理な体勢で攻撃を受け止め、あまつさえそれを流すという大それたことをやってのけたおかげでその腕が悲鳴を上げているのをわかっていたが、構わずに向かってくる敵を次々と蹴散らしサラディンの体勢が整うのを待った。

「よそ見をするな」

 ズザッ!

 飛び掛ってきた敵の顔面を殴り飛ばして、クロムは低く言った。

 激しい戦闘の勢いで、草が散り散りになって飛び散っている。

「なにこれ・・・」

 激しい息遣いの下から、ナタリアが信じられないように叫んだ。

 前方には、まるで波が砂浜に寄せるかのように、黒い装束の一段がひしめいている。

 すごい数だ。

 前衛のアリスウェイドはそれを見て鋭く目を細めた。仲間の体力はそろそろ限界に近づいている。

「くそっ」

 ディアスが敵をみとめて、歯を食いしばってそちらへ立ち向かおうとしたとき、アリスウェイドはしかし、静かにそれを止めた。

「? どうした」

 切れ切れの息の下で---------ディアスは尋ねた。なんだろう、自分を片腕で遮るこの男の、今まで見たこともない、得体の知れないこの空気は。

 と、前方の敵が、いっせいに飛び掛るようにしてこちらへ向かってきた。

 ス・・・

 アリスウェイドが静かに剣を構える。

 ザッ!

 ズザッ!

 目の前で複数の敵が彼に飛び掛る!

 シャッ

 シャッ

 アリスウェイドが凄まじい速さで二度、空間を切り裂いた。

 途端、

 ズザアアアアアアアアアアアア!

 という風をも切る音と共に、Vの形をした烈風が前方の敵を捕らえ、あっという間に彼らを巻き込み、ずたずたに引き裂いた。その断末魔の叫びたるや、ジェルヴェーズが眉をひそめたほどである。

「出た・・・! V字裂風剣」

 サラディンが夢中で叫び、それを聞き取ったすぐ近くのセシルも信じられないように呆然と呟く。

「あれが・・・」

 草原の向こうで風が唸り、風が唸るたび血煙があがっている。その速さは、本当にあっという間だ。さながら光のごとくとは、このことであろう。

 草原の上空、そう遠くないところで大鷲の背に乗って高見の見物を決め込んでいたアルセストは、それを見て微かにその瞳に驚きの色を映した。

「・・・ほう」

 彼がそうして感心している間にも、遠目からもわかるくらいの血飛沫が何度も何度も草原の緑を濡らしていた。

 本来裂風剣とは数万分の一秒ほどのおそるべき速さで空気を切り空間を裂く究極の技である。V字裂風剣は、本来ならば一度だけ剣を薙ぎ払って生み出す裂風剣の衝撃と威力を二倍、もしくはそれ以上にするため編み出されたものだ。

 数万分の一秒で切り裂かれた空間が生み出した烈風は光速にも近い速さで標的を捉える。

 V字裂風剣は一瞬で編み出された烈風が生まれた瞬間にもう一つ同じものを生み出し、平生のように標的を攻撃しようというものだ。

 しかし最初の一撃で発生した、引き裂かれた空間は発生と同時に敵を捕らえんと凄まじい速さで移動を始める。それに遅れをとらないよう、第二撃を発生させるための速さ、腕力というものがないと、この技は成功しない。前剣天・ドナルベイン・バルタザールといいアリスウェイドといい、改めて聖位剣天の恐ろしさを見せつけられた仲間たちであった。

 アリスウェイドはさらに走りながらそれを何度も何度も繰り返した。V字に引き裂かれた空間は、一人二人では飽き足らず一度に五、六人を巻き込み、巻き込んでは消え、消えてはまた発生した。

 仲間たちはその殺戮の有り様にただ呆然と見守っているだけであった。自分たちのよく知る男の、本当の凄まじさ、恐ろしさを、彼らは今初めて目で見、目で見ることによって本当に確認したのである。



 風は、なかなか血のにおいを流してはくれなかった。

「大丈夫か」

 戦闘が終わったと見て、ディアスが走り寄ってアリスウェイドに言った。後から思えばこんな見当違いな言葉もあるまいが、きっと自分も幾分は動揺していたのだろう。

 ディアスが近づいた頃、アリスウェイドはちょうど先ほどの戦闘で剣についた血糊を落としていたところで、剣を払うたびに鳴るシャリン、シャリンという音が妙に涼しげであった。ディアスは側に転がる無数の死体をちらりと見、そのあまりの有り様にさすがに青ざめた。そこには、最早人間としての原型を留めていないこまごまとした肉の残骸が無数に飛び散っているだけであった。赤々しいまでに赤い、まだ血を吹き出す血管、ちらりとのぞく白い骨。

「う・・・」

「弔ってやりたいところだが数が多すぎる。こんなことで時間を割いているわけにはいかん」

 剣を鞘に収め、アリスウェイドはしれっと言った。ディアスは死体から目を離すことができず、彼のその言葉でやっとのことで顔を背けると、もう大分向こうへ行ってしまったアリスウェイドを慌てて追いかけた。

 歩きながら、彼は前を見たまま言った。

「バリウィンは、よほど彼女をアンティエメに嫁がせたくないと見える」

 ディアスは自分の見たものがまだ信じられない思いで剣天の横顔を見上げ、それから、エストリーズにはあの死体の群れは見せられない、と直感的に思った。





 そよ、と気持ちのいい風が吹いた。

 心地よい、小川の側の夕暮れ。

 心痛著しい教皇ベアトリーチェは、その小川の側に立ち尽くし、またも夕焼けを見つめている。川といってもちょろちょろという音がする程度の、ちょっとまたげばあちらに行けてしまうほどの本当に小さなものだ。

 夕焼けに映えて、その大理石の肌も同じ色に照り輝いている。

 しかしその表情は、ほとんど苦悶にも近い懊悩の色をたたえていた。

「・・・・・・・・・」

 ベアトリーチェは、見てしまった。

 壊れた窓からのぞく、累々たる死体の山・・・青々とした緑の草原を血の川がぬらし、吹く風に生々しいその匂いをまきちらしていたのを。ベアトリーチェは、見てしまったのだ。

 ス、という微かな気配と共にアリスウェイドが彼女の横に立った。

 あたかも、彼女の決意を聞き取るためだけのように。

「アリスウェイド様・・・・・・」

 一拍置いて、彼はベアトリーチェの方を見た。彼女はまだ、夕焼けを見ていた。

「わたくしは、アンティエメに嫁ぎます」

 そこで初めて、ベアトリーチェは彼を見た。

 アリスウェイドは何も言わなかった。何の表情の変化も、なかった。

「こんなにも多くの人が・・・・・・こんなにも多くの命が奪われていくのを、わたくしはこれ以上黙って見ていられない」

 今一度夕日へとゆっくり視線を移す。すべてを覚悟し、支度の整った者だけが見せる潔い瞳。

「そしてこのまま・・・この状態が続けば、必ず戦争になる---------・・・・・・それだけは避けなくては」

 アリスウェイドはそっと瞳を閉じ、何かを思い出すかのように、追想しているかのように見えた。

 そして次にその目を開いた時、彼は初めて口を開いた。

「---------・・・貴女がそうおっしゃられるなら―――間違いはありますまい」

 ベアトリーチェはゆっくりと彼を見た。

 そしてその言葉が空気に溶け、ついには空の彼方に消えてしまう頃、満足したようににっこりと笑って一度だけうなづいた。



 ようやく教皇が聖地に到着し、命の女神に長い長い祈りを捧げている間、仲間たちは永続的かとも思われた緊張から放たれ、めいめいがくつろいだり休息をとったりしていた。 アリスウェイドは断崖の突端に立ち、一人、月が地平の彼方にのみこまれるのをじっと見つめている。

 恐ろしいほどに静寂な、すずしい夜。

 リスレルはその背中に一瞬だけ怯んで、しかしすぐに思い直して進んだ。側に寄るとアリスウェイドは、気配でわかっていたのだろう、わずかに彼女に向かって微笑んだ。

 リスレルは、言おうとしていたことを言ってしまうのが怖くて、言えばもしかしてアリスウェイドの気持ちが変わるのでは---------そんな気がして、言うつもりでこうしてやってきたといのに言うことがなかなかできない。さら、とどこかで風が吹く音がわずかにした以外は、なにも聞こえない、不自然なほどの静寂が辺りを支配している。

 沈黙に耐え切れずに、リスレルはとうとうアリスウェイドに言った。もしかして一人で旅することになってしまったらどうしようと、密かに思いながら。

「おじ様・・・・・・教皇様を止めなくていいの?」

 しかしアリスウェイドは彼女のそんな不安など消し飛んでしまいそうなやわらかな微笑でフッと笑顔になると、

「止める必要などないよ」

 と言ってまだ不安げなリスレルの頭にそっと手をおいた。



「・・・・・・」

「もうそんな顔をしないでちょうだい。決めたことなのだから」

 複雑な、悔しそうな表情を隠そうともしない、不満顔のルサンヴィラにベアトリーチェが困ったように言った。巡礼の祈りを捧げ、今こうして部屋で休み髪を梳き、ようやく彼女はほっと一息つくことができている。

「あなたには才能がある。じきに司祭になれるでしょう。神殿を、頼みましたよ」

「教皇様・・・」

 目に涙を浮かべ、ルサンヴィラは立ち上がったベアトリーチェを見上げた。

「わたくしは三十年近く聖職者として神に仕えてきた・・・残りの人生を女として過ごすのも、悪くないでしょう」

 窓辺に歩み寄りながら、ベアトリーチェは言った。

 眼下にそびえる断崖の突端、そこにいるアリスウェイドと、しずかに歩み寄るリスレルの姿が目に映る。その健気な様子に、思わずベアトリーチェの相好がくずれた。

 二人がその立場と生き方の違いゆえに、袂を分かったのは事実だ。

 命を尊ぶ立場と、命を奪うことで生きていく立場にあるという両極端な二人が昔、とうとう互いに自分の生きる道を選んだのは、それをどうしても譲れなかったからという理由にある。ベアトリーチェは命を奪うことで生業をたてるアリスウェイドとやっていくことはできなかったし、アリスウェイドは剣の道をすてることはできなかった。

 それはそれでもう昔の話---------若い頃の、甘苦く淡い、恋にも発展しなかった思い出だ。

(それに貴方の心には---------)

 クス、とベアトリーチェは微笑した。眼下のアリスウェイドがリスレルの頭においたその手の、なんともいえない優しさをそこに見たからだ。

(あの娘が住んでいる。貴方は、まだ気づかれてはいないようだけれど―――)


 ベアトリーチェは沈もうとする月に目を移した。

 恐ろしいほどの静寂のたちこめる夜。

 自分の選択は、間違ってはいない。後悔することも、ない。

 教皇は静かに目を伏せた。あたかも最後に自分によく言い聞かせるかのように。

(---------)

 望まれて嫁く、愛してくれるというのなら---------不幸はないだろう。



 ベアトリーチェが再び目を開いた時、すでに二人の姿はなく、月もわずかに弧を残して沈もうとしていた。

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