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第六章 色模様

第六章 色模様



 季節は旅を続ける上で一番辛い時期、真冬の一月を迎えようとしていた。一行はレイリン大陸からヴィヴェリィ大陸へと移動し、大陸最大の街アウルテイスで冬を過ごすため山を越えようとしているところであった。

 さすがに真冬の山の生活はきつく辛いものだった。寒いというよりは既に痛いという感覚の方が強く、吐く息は白く皆無口だ。手がかじかみ、魔物が出ないことが唯一の救いかもしれぬ。リスレルをかばいながら歩くアリスウェイドは、しばらくぶりに辛く寒い冬の

旅を迎え、自分はともかく、リスレルが味わっているであろう相当な辛さを思って胸が痛くなった。

 ---------十八の娘の体験することではない

 アリスウェイドは痛感していた。仲間たちを振り返ると、みな一様に疲れた顔をしている。真冬の野宿は死にも直面する。魔法を使う人間が三人もいるからこそ出来ることだが、そうでもなければ冬の山を越えようなどとは思うまい。

「少し休もう」

 アリスウェイドは低く言い、セシルに頼んで暖をとるための魔法をかけてもらい、仲間たちの顔にも少し赤みがさしてきた。

「やっぱり寒いね。半端じゃないよ」

 ナタリアが膝を抱えて言う。

「・・・」

 ジェルヴェーズは答えない。この女は、あまり寒そうには見えない。いや、実際寒いには違いないのだが、彼女はそういった感情をあまり表に出さないのだ。夏だとて、どれだけ暑くても涼しい顔をしている。

「ハニー、俺が暖めてあげようか」

「金もらったって嫌だね」

 ナタリアとガラハドのやりとりも、そろそろお約束となってきた。

 ちる、と風が吹き、リスレルは顔を上げた。

「なんだろ・・・・・・近くに泉があるのかな。そんなにおい」

「リスレル猫みたい」

「うーん・・・結構近いかも」

 リスレルは立ち上がった。

「どうしたの」

「ちょっとお水汲んでくる。残り少ないんだ」

「気をつけなさい」

 アリスウェイドの言葉を背に受けて、リスレルはちょっと離れた、泉があるであろう場所まで歩いていった。

 そしてその直後である。

「きゃあああああっ!」

 リスレルの悲鳴が乾いた山の空気を引き裂いたのは。

 一同は顔を見合わせ、一瞬後には弦を離れた矢のようにだっとばかりに駆け出した。悲鳴の聞こえてきた方角、リスレルの向かった方角にである。真っ先に泉のほとりに着いたアリスウェイドは絶句した。

「---------」

「おじ様!」

 リスレルは---------いつぞやの銀髪の剣士にとらえられていた。両手を掴まれ、既に身体の自由はないに等しい。アリスウェイドが絶句したのは、リスレルが捕われの身になったからでも、あの銀髪の青年がいたからでもなく、その銀髪の青年が、驚くべきものを

もってして今、リスレルをかどわかさんとしていることだった。

 銀髪の青年は---------アルセストは、何百という鳥を従え、それらに何か綱のようなものをくくりつけて、その綱の先に人が二人も入れれば充分という籠を背後に控えていた。 鳥を使った気球だ。

「な・・・」

「あーっ、放火魔!」

「あの男・・・!」

 ディアスが思わず強い呟きをもらす。

「ふっふっふっふっ・・・大分待ったが・・・ここいらが潮時だ」

 アルセストは不気味に言い放ち、アリスウェイドに向かって、

「もらっていくぞ」

 言うや、腕をサッ! と払い、それが合図だったのか、鳥たちがいっせいに飛び立って彼とリスレルを乗せた篭はあっという間に浮かび始めた。

「エストリーズ!」

「〈雲裂〉!」

「〈風照〉!」

 カッ・・・

 ---------ヒュゴオオ!

 エストリーズとセシルの魔法がほぼ同時に炸裂した。魔力は完全にアルセストを捉え、その籠、率いている鳥もろとも、墜落するはずであった。

「---------嘘!」

 アルセストの哄笑と共に、彼の腕の一振りと共に、二つの強力な魔法は宙に舞い標的を失って粉々に砕け風に溶けた。

「嘘・・・」

「リスレル!」

 セシルの絶句はしかし、アリスウェイドの声でかきけされた。


 こうしてリスレルは、一同の目の前でアルセストにさらわれていってしまったのだ。



 アリスウェイドの行動の起こし方は早かった。彼らはこの後ほとんど不眠不休で山を越え、街に到着して宿を決め、まずは疲れを落とすため死んだように眠った。サラディンはそんな暇あるかと抗議したが、アリスウェイドは一日や二日休んだところでもう結果が出

てしまっている、今は身体をいたわり、来るべき時にそなえて鋭気を養うべきだと言われてすごすごと引き下がり、結局仲間が起き出しても一人だけ最後まで眠っていた。彼らは食事をしながらあの銀髪の剣士は一体何者か、そして何が目的でリスレルをさらっていったかを話し合った。

「目的はだいたいのところわかっている」

 アリスウェイドが見たこともないような堅い表情で言った。

「リスレルは昼夜関係なく、何の制約もうけずに魔法を使うことができる。それは剣で生きている者にとっては実感のわかないことだが、魔法を少しでも知っている人間からすれば天地が引っ繰り返るほどの騒ぎだ。喉から手が出るほど欲しいものだ」

「そ、そうなの?」

「まあね」

 ナタリアの問いかけにも、ジェルヴェーズはしれっとして答えた。彼女は彼女なりに何かを考えているのか、いつにもまして無口だ。

「あの男・・・」

 セシルが悔しそうに呟いた。

「なんで? どうして魔法がきかないの」

「そういえば・・・前の時もそうでした」

「そうね。はじかれて・・・信じられないわ。魔法がきかない人間なんて・・・いるはずないのに」

「すごい自信だね」

 ナタリアの言葉に、セシルは神妙にうなづいた。

「そうよ。魔法っていうのはね、そもそも自然の力から成り立っているものなの。草原を渡る風はなぜ吹くと思う? 真夜中に星が流れるのはどうして? つきつめて考えていくとそれをしているのはみんな自然の力なの。人間の力では風を起こすことも、星を降らせ

ることもできない。私たちが普段魔法と呼んでいるものは、その自然の力を凝縮して使えるようにしているだけにすぎない・・・。

 私たちが魔法の力で隕石を呼んだとしても、それは自然の力があるからなの。だから …どれだけ魔法石の研究が発達しても、私たちは自分たちの力だけではそよ風ひとつ起こすことなどできないのよ。人間は自然の助力なしでは生きていくことはできない・・・それは人間の一部が自然だからではなく、人間が自然の一部だから。自然の一部である以上は、自然の恩恵の一部である魔法を修業次第で使うこともできるし、逆に魔法を受けるということも当然あるわ。人間が人間である以上は魔法がきかないなんてありえないのよ」

「じゃあリスレルをさらっていったあいつは・・・」

 ナタリアは絶句した。全員が恐ろしいことを考えてそこだけ重苦しい沈黙が広がった。

「人間じゃ・・・ないってこと?」




 気が付くととても寒い部屋にいて、そもそも意識を戻したのは部屋がひどく寒いせいだということに気が付くのに、そう時間はいらなかった。身体を起こすと手足の先が痺れており、全身がカタカタと小刻みに震えている。頭痛がするし、吐き気もする。リスレルは白い息を吐きながら辺りを見回した。

 窓一つしかない部屋。暖炉すらない。

「・・・」

 しばらく放心して部屋を見て、そして思い出した、拉致されたと。

 それに気が付いてリスレルは脱兎のような素早さと勢いでまず窓に飛び付いた。そこから見える風景は絶景というかなんというか・・・切り立った崖や、彼方に見えるくろい山脈や、霧のようにたなびく薄雲、ずっと下に胡麻粒のように見えるのは、村落かなにかであろうか。ああそうだ・・・そんな風景を見ながらリスレルは遠いところで考えていた、

 自分は、いつかセシルの家に火をつけたあの青い影にさらわれたのだ。

 ひどく腕のたつ男。魔法のきかない男。恐ろしい男。リスレルは恐怖にかきたてられ、急かされるようにして掌と掌を肩の幅で向かいあわせた。

 ヴ・・・ン

 ドォッ

 一瞬目の前が白くなり、胸の辺りが熱くなった。彼女の魔法は空気を裂き、窓枠を粉々にしてガラスを溶かし溢れ出た炎の舌が表に向かって炸裂するはずであった。

 が。

「うそ・・・・・・」

 白い息と共に絶望のつぶやきを、リスレルは吐いた。窓は詠唱を始める前と少しも変わらない姿でそこにあった。あの男・・・あの男に魔法はきかない。しかし、物質に魔法がきかないというのはどういうことだ。リスレルは途端に、言い知れぬ恐怖を覚えた。

 するとそこへ、するりという気配と共に、あの男が入ってきた。リスレルは恐怖を通り越した怒りの瞳で男を見た。

「気が付いたか」

 しかし彼女の鋭い視線など気にも留めない様子で、冷たい声で男は言った。

「・・・あなた誰よ。・・・いきなりさらってきてなんのつもり」

 リスレルは震える声で聞き返した。それは決して寒さだけのものではない。

 怯えている---------怯えている自分が恐ろしい。この男にではなく、恐怖することに恐怖している。

「そんなことは考えなくていい。食事は一日二回・・・呼びに来たらすぐについてこい。

 それができないのなら食うな」

 言うと、男は出ていってしまった。

「ちょっ・・・!」

 リスレルの制止も聞こえなかったのか---------聞き耳もたなかったのか、男は扉を閉め、ご丁寧に鍵までかけて出ていってしまった。かつかつと、男が歩く音だけがリスレルの耳に聞こえてきた。

「~~~~」

 リスレルは立ち尽くした。寒さと怒りに震えた。言い様のない恐怖と不安に怯えた。そしてアリスウェイドが恋しくなって、紫の瞳に涙をためた。それくらいが、リスレルにできる精一杯のことだった。



 青い男は食事の時だけ部屋にやってきた。リスレルははっきり言って寒くてろくに眠ることもできず、薄い毛布にくるまってじっとしているだけだから、すぐに立ち上がることもできるのだが、この男はいったいどういうつもりで暖炉もないような部屋に自分を閉じ

こめたのかと思うとちょっと恐ろしい。生かすつもりが最初からないのだろうか。その割に食事の時間には呼び出すというのがよくわからない。

 リスレルはきっと忘れられない、初めて口にしたときの、この館の食事のまずさを。

 連れていかれた食堂は意外にも小さなもので、入って小さなテーブルがすぐ目につく。

 隅にある扉は厨房の入り口のようだが、大した広さではないのはここからでもよくわかる。出された食事は、なんだかわけのわからないどろどろした液体のようなもので、冷めて固くなりつつも辛うじて液体の名残を残している三日前のスープが一番近いように思わ

れた。

「・・・」

 皿を出されてリスレルはちょっと固まったが、青い男が表情も変えずに黙々と食べているところを見ると、ははあ、これは旅の途中で時々遭遇する、みかけは悪いが食べるととてもおいしいものの仲間に違いないと思って口にすると、これがとんでもなく、この上な

く、他に類を見ないくらい、目の前に星が散るほど、くらくらするほど、気が遠くなるほど、非常に、まずかった。

(゛うっ・・・)

 リスレルは思わずうつむいた。なんというまずさ。涙が出てきた。

(うううううううう)

(おえええええ)

 なんとか最初の一口は飲み込んだが、喉を通って食道、胃袋と、もろにその液体が通過する過程が体感できて、リスレルは鳥肌をたてた。小さい頃砂遊びをしていて誤って口に入った砂のような食感。雨上りの庭のような土の匂い。もったりとして粘液のような得体

のしれない食べ物。おまけに決定的なのは、冷たいことだ。

(・・・人間の食べ物じゃ・・・・・・ない・・・かも・・・)

 リスレルは絶望した。寒くて眠れないような部屋に閉じこめられ、することもなく、逃げられず、だとしたら唯一の楽しみでかつ体力を温存できる方法が食事であったはずなのに、これでは逆だ。朝晩とこんなものを食べさせられるのは拷問に近い。リスレルは悲しくて泣きたくなった。が、男は別に何の様子も見せずに黙々と食事している。

 そういえば寒くないのかしら、とリスレルは思った。この食堂には暖炉はあるが炎など

最初から縁がないかのように寒々としている。しかし男の様子をじっと見ていると白い息を吐いているようにも見えぬ。

 このひと人間なのかしら、リスレルがちらりと思ったのも無理はない。凝視するリスレ

ルに気が付いたのか、男は顔を上げてリスレルを見た。

「・・・・・・」

「なんだ」

 するどい紫の瞳。切れ長で剃刀や鋭い切れ味の手刀剣が思い浮かぶ。

「・・・名前くらい・・・・・・教えてよ。いきなりさらってきて・・・---------それくらいしてもいいんじゃない」

 男は持っていたスプーンをカチャン、と置いてリスレルを見た。それにリスレルは一瞬怯んだ。恐い。魔導師にとって戦闘手段が魔法以外にないのは周知の事実である。その魔導師が最も恐れるのは身の危険を感じた時魔法が使えないことだ。この男には魔法が通じないのだ。同じことだ。

「・・・アルセストだ」

「---------」

 しかし意外にも男は名を名乗った。

「・・・アルセスト・・・」

「アルセスト・フォン・エンデュミリオンだ」

「フォン・・・」

 リスレルの脳にきちんと情報が送られるまで、そしてそれを理解するまで、しばらく時間がかかった。

 そしてそれがやっと正しく理解出来た時、リスレルの声はかすれていた。

「・・・嘘よ。古代貴族は大分前に滅んだはずよ」

 表情を変えずにアルセストは言った。

「残念ながら一人残っていたのさ。まあ本当の意味で最後の一人だがな」

「・・・・・・」

 リスレルは少しでも驚きと同様を中和しようとすー・・・・・・と息を吸った。修道院で習ったことがある。古代貴族---------……十数年前に滅亡した種族。唯一『フォン』の称号を持ち、魔法が一切通用せず、様々な特殊能力を持つという。

 それなら、とリスレルはようやく納得した。

(魔法がきかないはずだわ)

 彼ら古代貴族は何も伊達で『古代』を名乗っているわけではない。古代からの血を引いていればこそ、共に気の遠くなるほどの時間を生き抜いてきた魔法が通じないのだ。毒を長い間飲んでいればじきに毒のききにくい身体になるように、魔法と共に時間を生きてき

た古代貴族は身体を流れる血を完全に魔法と同化させるほど古い時代から存在する。つまり魔法がきかないのではなく、彼らの存在そのものが一種の魔法なのだ。毒に慣れた者の血がわずかな毒を含むように、また彼らも長い時間をかけて魔法と融合してきたのだ。彼

らの存在ほど恐ろしいものはなかったと文献にも載っていたが、やはりその絶対的な恐怖と独特の気位の高さ、そして特殊能力の数々で人々から疎まれ、恐怖の対象となりとうとう数十年前滅ぼされた。三十年ほど前のことだから、そう昔のことではないはずだ。

 そうこうするうちアルセストの食事が終わり、

「終わりか」

 と聞くのでなんと言っていいのかわからずそのまま沈黙していると、黙って立ち上がるので、怒ったのかな、と思ったが、すぐに食堂を出たので部屋に戻されるんだ、とちょっとうんざりした。リスレルにとって何の楽しみも希望も湧いてこないというのがこの館の現状であった。

 リスレルはアリスウェイドを想った。早く助けにきてほしかった。ふつうならとてもではないが、自分の誘拐された時の状況も特殊だし、見つけだすのには相当困難だと思われたが、しかしリスレルはアリスウェイドを信じていた。必ず、どんなことがあっても絶対助けに来てくれると信じていた。

 知らない内に夜になり、ふと顔を上げると寒々とした澄んだ夜空に九星が瞬いていた。

 リスレルは瞳に溜まった涙が凍る気がして、慌ててごしごしと瞳を拭い、そして身体のあちこちをきつくこすりながらやがて眠った。



 その街で有名な占い師の名を聞くと、それは世情にどうも疎い傾向のあるサラディンですら聞いたことのある占い師だった。

 一行は早速その占い師のいる建物へと向かい、怪しげな香の煙の漂う中をしばし待たされ、やはり怪しげな暗幕の向こうに案内されて、テーブルの上に大きな水晶玉を置いて座っている占い師と会いまみえた。

「単刀直入に言おう、娘を探している」

 どんなご用件でと尋ねられる前に、アリスウェイドは早口で言った。

「私の弟の娘で名はリスレル。髪は金で目は紫、身長百六十センチ体重五十キロ、歳は十八、職業は魔導師だ」

「うわ・・・」

 サラディンは思わず呟いた。アリスウェイドのこんな、なんというか・・・切羽つまったところを見られるとは思ってもいなかった。ナタリアもその剣幕に驚いて、

「ね、ねえねえジェルヴェーズ」

「なによ」

「なんで体重わかったんだろ・・・」

「なにドキドキしてんのあんた・・・」

「だだだって」

「・・・この前風邪ひいて倒れた時抱き上げたからじゃないの」

「そんなんでわかんのかなあ……」

「・・・・・・さあ・・・聖位剣天だからね。あたしたちではわからないようなこともそういうのでわかっちゃうんじゃないの」

 そう、だってアリスウェイドは自分の正体を一目で見破ったのだから。この素性を。

 アリスウェイドの剣幕に一瞬怯んだ態を見せた占い師だったが、それは慣れたもの、ローブのなかでうなづいて、

「・・・占いましょうとも。その前に・・・」

「なんだ」

 アリスウェイドは苛々として言った。ああして眠り体力をつけた以上は、一分でも惜しい。こうしている間にもリスレルに何か起こっているのかもしれないのだ。

「前金ですので」

「いくらだ」

「左様急ぎのようですからな・・・特別にまけてそうですね・・・お客さまがたは最初のお客さまなのでおおまけにまけて、」

 占い師は一瞬言葉を切り、

「金貨三十枚」

 と言った。

「三十枚!?」

 仲間たちは思わず頓狂な声を出した。金貨三十枚といえば、だいたい王国の新米の騎士の給料が金貨十五枚前後で、金貨十枚で四人家族が一月そこそこいい生活ができるほどの金額だ。現代額でいえば金貨一枚三万円ほどになろうか。

「三十枚~~ぼりやがる」

 爪を噛みながら悔しそうに言ったのはナタリアだ。高級飛行船の一等客室に泊まることのできる金額である。サラディンが続いて身を乗り出し、

「じゃ、じゃあオレたちが一見じゃなくて常連で、まけにまけなかったら?」

「やっぱり三十枚」

「あんたいい商売してるなあ」

「お嫌なら他でどうぞ。私は困りません」

 向こうはこちらが急を要していることを知っている。足元を見ているのか、それとも通常料金なのか、それにしてもいきなり金貨三十枚というのはきつい。仲間たちが顔を見合わせたのと同時に、今まで黙っていたアリスウェイドが口を開いた。仲間たちからすれば

今の彼は、なにかに憑かれたようになっていて温厚な普段の彼とはまるで別人、なんだか声をかけるのすら憚れるようであった。

「薬草で色々な薬をつくる占い師もたまにはいるそうだな」

「ごもっとも」

「昔魔女が作っていたような怪しげな薬もたまにはあるというではないか」

「---------なにがおっしゃりたいので?」

「昔も今も高位の戦士の血は媒介として非常に高い効能を持っていたという・・・一滴金貨十枚で取引された時代もあるというではないか」

「・・・まあ・・・それは一番高額な時代ですけどね」

 シャッ

「わーっおお落ち着いてアリスウェイド!」

 サラディンが慌てたのも無理はない。アリスウェイドは無言で短剣を引き抜き、占い師をきつく見つめたのだ。しかし彼が起こした行動は仲間たちがひやりとして心配したようなことではなく、短剣を自らの左腕に突き刺したというものであった。

「な・・・!」

 ぼとぼとと音をたてて真紅の血が水晶玉の上に流れた。それは透明な球体を覆ってそれでもなお止まらず、テーブルを浸し始めている。

「世間では聖位剣天と呼ばれる男の血だ。さぞかし魔導研究の際役立つだろう。おおまけにまけて金貨十枚にしてやる。十枚で占え」

 立場は最早逆転したものといってよかった。占い師はアリスウェイドの行動に泡をくらい、後ろにのけぞって両掌を彼に向けた。

「そ、そんな・・・うちは特別割引は」

「しないというのならこちらにも考えがある」

 占い師の眼前に迫った、アリスウェイドの緑色の瞳が危険に光った。その目は、いくつもの戦乱をくぐりぬけ、屍の山を築き、返り血で全身を真っ赤に染め、魔物すら恐怖のどんぞこに落とした一人の男の生き様をありありと映していた。その瞳は、最早アリスウェイドのものであってアリスウェイドのものではなかった。聖位剣天という一人の『戦士』の瞳であった。ぴくり、と手に持った短剣が動いて、どくどくと流れる血をみた後ということもあって占い師は顔色を失った。側にあったガラスの瓶を取り出してそこに血を入れ、水晶はテーブルの下から出した布できれいに拭き取った。

「わわわわわかりました。それでは金貨十枚で・・・き、金髪の・・・魔導師・・・紫の目の・・・」

「わかればいい」

 腕を組んで威圧するように占い師を見下ろしたアリスウェイドは、仲間たちのみたことのないアリスウェイドであった。生々しい流血を目の前にして今しも倒れそうになっていたエストリーズは、ディアスの叱咤によって辛うじて立っている。ヴィセンシオが近寄ってきて、

「傷をみせてください」

 とアリスウェイドの左腕を診た。

「まったくとんでもない無茶をしますねあなたという人は・・・」

「なんでもないことだ」

 アリスウェイドは彼の方は見ず、占い師だけをきつく凝視している。それを見てヴィセンシオは、この男をこんなにしてしまう人間、それは、リスレルくらいなのかもしれないと思って心のどこかでぞっとした。



 拉致されて二週間が経とうとしていた。食事は相変わらずまずくて、胃が食べるものを要求しているのにも関わらず口が受け付けなかった。とにかくまずいのだ。空腹にまずいものなし、とはよく言ったものだが、とてもではないが理性のある人間の食べられるもの

ではないことは、リスレルは無理して頑張って食事をしようとした最初の三日間で嫌というほどわかってしまっていた。部屋は相変わらず寒く、魔法で暖をとろうにも、空腹で体力が見る見る落ちていき、身体を暖めるために使用していた、辛うじて続いていた魔法の持続時間も、今はほとんどなくなったといってよかった。寒いというよりはもう全身が痺れて、リスレルはめまいと同時に視界がかすんでいくのを感じていた。

(おじ様・・・)

(早くたすけにきて・・・)

 最早震える体力もないままに、リスレルは一日を過ごした。夜はいよいよ寒く、窓の外の木枯らしが部屋の中にまで押し入って空気を凍らせてしまいそうだ。それでもリスレルは健気に身体をこすり、なんとかして食事をしようと思い、ひたすら愛するアリスウェ

イドの助けを待っていた。

(・・・さ・・・さむ・・・い・・・)

 そしてその夜、薄い毛布にくるまって横たわったリスレルの心臓が、とうとうその活動を停止した。息は止まり、人として生き物としてのすべての熱はリスレルから無情に去っていった。

 リスレルはこの夜、死んだ。



 しかし誰も見ていないこの寒々とした部屋の中で、人知れず今、異変が起きようとしていた。

 空に瞬く九星のうちの一つがキラリと光り、続いて他の九星が応えるように一度ずつキラリキラリと瞬いた。

 シュル・・・

 シュル・・・

 糸の衣擦れのようなわずかな音がしずかに室内にこだました。どこから響くのか、それはわずかにではあるが空気を震わせ、着実にそこに顕現しようとしていた。

 シュル・・・

 小さな小さな金の糸のようなものが数本、リスレルの指から伸びている。いや、指ではない、彼女の指輪からだ。乳紫色の、どこぞの占い師が紫凛石と名付けた母の形見の品。

 そこから今、まどろこしいほどゆっくりと髪の毛ほどの細い金の糸が数本、伸びてきている。まるで生き物のように、そこに意志があるかのように細い糸は段々と伸びていき、リスレルの首筋に一本、手首に一本、足首、腹、心臓の辺りにそれぞれ一本ぴたりとくっ

つくと、にぶい光を発し始めた。それは場所によっては緑や青に光り、別の場所では赤かった。光は最初蛍のそれのようにわずかで心許なかったが、やがてリスレルの全身を覆うと、春の日の午後のように暖かい光で、リスレルの全身を覆い始めた。

 次の朝、そしてリスレルは、何事もなかったかのように目を覚ました。



 その朝、アルセストはあることに気が付いた。朝食にリスレルを呼びに行った時、彼女

が毛布にくるまってカタカタと歯を鳴らしている。

「・・・・・・」

 切れ長の紫の瞳をおおきく見開いて・・・青年は問うた。

「もしかして---------」

 リスレルは恨みのこもった瞳でじろりと見上げる。

「寒いのか?」

「気が付くのが遅いのよ」

 出せる限りの大声でリスレルは抗議した。この男は! 知っていて放っておいたわけではなく、寒いという事実に気が付かなかったのだ。なんということだ。アルセストは今までの態度ではちょっと考えられないような表情で言った。

「それはすまないことをした・・・・・・俺は人と違って寒さというものを感じることがない。

 今まで少しも気が付かなかった」

「そりゃ滅亡させられるはずだわ」

 リスレルは口のなかで呟いた。アルセストが近寄って、

「立てるか?」

 と聞いたので立つと、

「ついてこい」

 と先に立って歩き始めた。なにしろ空腹だし体力が限界に近付いている。リスレルはふらふらして途中何度も転びかけ壁に激突しながらなんとかアルセストについていった。

「入れ」

 案内された部屋は暖炉がついていて、窓も大きく、小さいが机もついていた。アルセストは暖炉の前で小さく何かを言って手を突き出し、また何事かを叫ぶように言うと、ボッという音と共に炎が勢いよく燃え盛った。たちまち耳鳴りがするほど寒かった部屋に淡い

薔薇色の空気がたちこめ、じんわりと暖かくなってきた。

「わあ・・・」

 リスレルは思わず声をあげ、手をかざして火の恩恵に浴した。

「今日からここで暮らせ。退屈なら棚に本もある」

 そう言ってアルセストは部屋を出ていった。食事は結局この朝ありつけなかったが、リスレルはそれでも大丈夫な気がした。部屋に鍵がかけられることは、その三日後からなくなった。そもそも建物のすべてに魔法が効かないのだから、表をほっつき歩かれても逃げ

られる心配はないわけだ。アルセストが入ってほしくない部屋は最初から施錠されていたし、そういった部屋以外、リスレルは自由に館の中を行き来することができた。特に書庫には古くて難しい本がたくさんあり、リスレルの知的好奇心を大いに刺激した。食事は相

変わらずまずかったが、徐々に慣れてきて、三分の一くらいはようやく食べられるようになった。ある日窓から表の景色を見ていたリスレルは、眼下の道をアルセストが歩いているのを見て、ああそうか、と思った。

(この館には結界が張られているんだ)

 だから自分の魔法もきかない。建物の周囲に魔法が張りめぐらされているのではない、建物自体が結界となっているのだ。結界を内側から魔法で破壊することは不可能である。

 ということは、ここから脱出するには建物から出なくてはならない。しかしそれが不可能なのは、リスレル本人にもよくわかっている。館の内部を自由に歩けるようになってから最初にしたことが出口を探索することなのだ。しかし脱出は、物質的にも到底不可能だ

った。リスレルは根気良くアリスウェイドや仲間たちが助けてくれることを待つしかなかったのである。

 ある日食事が終わった頃、アルセストが言った。

「その指輪を見せろ」

 威圧的で、見せてもらって当然という態度だった。リスレルは指輪をしているほうの手をかばうようにしてもう片方の手で覆った。

「・・・なんでよ」

「いいから見せろ」

「嫌」

 アルセストの顔色が変わった。

「見せろといっているのがわからないのか」

「嫌って言ってるじゃない。あなた私をさらってきたのよ。そんな人間に大事なおかあさんの形見を渡すわけにはいかないわ」

「形見・・・だと?」

 アルセストはリスレルの言葉を受けて呟き、口の端を釣り上げて笑った。

「ふふふふふ・・・・・・これはおかしい・・・形見・・・形見だと? お前は本当にそれが単なる石以外のなにものでもないと思っているのか!」

 ガタン、妙に強い調子でアルセストが立ち上がった。リスレルは怯えて後じさる。

「いいからその指輪をよこせ」

「---------嫌!」

 しかしこの答えはアルセストも予想していたのだろう、フッと口元を歪めると、するりと腰を屈め、リスレルの顎を掴み、

「ならば、俺のものになれ」

「---------っ」

「同じことだ」

 知らない内に腕を掴まれ、腰に手がまわされていた。

「やだったら・・・嫌---------!」

 リスレルは暴れたが ---------男女の力の差は歴然としていた。

 おまけにアルセストは剣士である。腕力は人一倍のはずだ。

「やーーーーーーーっ」

「おとなしくしろ」

 それでもリスレルは必死に抵抗した。椅子から落ち、床に組み伏せられ、それでもリスレルは暴れて抵抗した。元々それ以上するつもりがなかったのか、それとも思わぬ抵抗に今日はこの辺りでと思ったのか、アルセストは突然立ち上がり、床に転げてしまって尚自

分を睨むリスレルを見下ろし、

「---------まあいい。時間は充分ある---------しかし覚えておけ。お前は俺の手のなかにある。俺のものになるか、それが嫌ならその指輪を渡すか---------二つに一つだ」

 そう言うとアルセストは食堂から出ていった。抵抗の余韻の熱、息切れを残しながら、リスレルは床から立ち上がれないでいた。


 部屋に戻ると取り敢えずほっとした。あの男の性格からして寝ている時に襲われるとはとうてい思えなかったし、なにより暖炉に火があるのが今のリスレルにとって一番の幸せだった。窓から空を見上げると、山中ということもあってか星が一段と美しく冴え渡って

いる。リスレルはアリスウェイドと二人で旅をしていたときのことを思い出し、気分を静めるために声に出して九星を数え始めた。

「あれがテミストクレスあれがエステーヴ・・・」

 そして最後の一つまで言ってしまうと、心はいくらか落ち着いていた。

(・・・・・・)

 今まではアリスウェイドと共にいたから、あんな風に身の危険を感じることはなかったといっていい。彼は、アリスウェイドは、いつも自分を身を挺して守ってくれていた。あんな根底からの恐怖を味わったことは、リスレルにとっては初めての体験だった。そう、恐ろしかった。自分を女とも、人間とも思っていないような無慈悲な目。容赦のない強い力。存在そのものが侵される恐怖を、リスレルは初めて知ったのだった。もう一度、いやこれから何度もあんなことがあるかと思うと、不安と恐怖で気が狂いそうになる。リスレ

ルは自分を励ますようにもう一度九星を見上げた。ひときわ強く輝いて見えるのは、真冬で空気が澄んでいるということと、山深い場所にいるという二つの理由があるからだろうか。アリスウェイドがいたなら空に近いからだよ、くらい言ったかもしれない。

 九星の第六星は音の神アウヴェルスの星である。九星はすべて、世に不動のもの、世界があってもなくても存在する不動のものばかりだが、アウヴェルスはその特徴を顕著に表しているといってもいい。音というものは絶対にあるものである。なくならないものであ

る。それは天地や破壊の概念が変わらずにあるのと同じに存在しないことはないものなのだ。アウヴェルスの守護色は白、守護数字は六、守護方角は北北西、守護樹木は石榴、そして守護鉱石は真珠だ。アウヴェルスは粒のものや白いものが好きなのだろうかと、幼い頃リスレルはよく思ったものだった。真珠は、鉱石というには少々抵抗があるが、ともかく守護鉱石になった由来に、なんでも古い文献で、そのなめらかな輝きまるみを帯びたかたちは天上の楽奏でられるごとく、という言葉があるらしく、きっと音の神はそんな理由で真珠を選んだのかもしれない。また、第一星には時の神テミストクレスが住まわっている。時こそが一番初めに成り立つ概念であり、すべてを始まらせるものなのだ。テミストクレスの守護色は黒、無と同時に全てという意味を持つ黒は、いかにも時の神の護る色と納得がいく。守護数字は第一星にならって一、守護方角は北、守護樹木は桜、守護鉱石はオニキスである。いつも、テミストクレスを思い浮かべる時、リスレルの頭には、世界がまだ無であった頃、光もなく風もない頃、真っ暗な宇宙を背にしてそびえる一本の桜が浮かぶのだ。それは濃い桜色で黒い空に美しく映え、淡い光を纏ってただ静かに立っている。

 リスレルは帰りたくなった。帰る場所はないが、アリスウェイドと共に旅をし、リスレルの今までの価値観を育て上げてきたものがアリスウェイドとの旅ならば、彼女の帰る場所はアルスウェイドそのひとだということになる。

(おじ様・・・)

(---------・・・会いたいな・・・)

 しかしこの日から、リスレルは毎日のように、アルセストとの緊迫した毎日を送ることになる。顔を見ればこの銀髪の青年は指輪をよこせ、嫌なら俺のものになれと言って迫ってくる。その様子が恐ろしいまでに真剣でとても冗談ですまされる範囲ではないというの

も無論だが、抵抗するすべがなくてリスレルは次第に恐怖以上のものをアルセストに感じるようになった。それでも夜寝ている時といった、自分が無防備な時に襲われたり指輪を奪われたりすることは絶対にないということは、彼女は重々承知していた。彼は戦士では

ない、剣士なのだ。剣士は誇りが高い。死んでもそんな真似はしない。

 かつてアルセストと初めて会いまみえたのは、忘れもしないセシルの屋敷を襲撃された時であったが、あの時は仕事だったのだと割り切っている。それでも剣士たる者が他人からなにかを盗もうとするのを初めて見たし、それを知ったリスレルは大層驚いた記憶がある。剣士はそれだけ汚れたことを嫌うのだ。だからこそディアスはアルセストを目の仇にしている。アルセストは剣士の名誉を著しく貶めたからである。アルセストが剣士としては異例のことをしたにしても、己れ自身の利己のために汚いことするほど落ちた男ではないことは、目や立ち居振る舞いだけでおのずとわかってくるというものだ。しかも彼は古代貴族である。リスレルから彼女の承諾なしで指輪を奪うなど、彼のプライドが許すまい。 だからこそアルセストは自分をさらい、ゆっくりと時間をかけて指輪を手に入れるために監禁しているのだ。

 最初食事の回数は二回だったが、その内えらく不定期なものとなった。朝来なかったり夕食がなかったりすることもしばしばだった。食事の時以外、アルセストは一切姿を現わさず、館のどこにいるかもリスレルにはわからなかった。

 またアルセストは、よく館を留守にした。二、三日どこかへ行くことなどはしょっちゅうで、一週間帰ってこないことも珍しくはなく、そういう時は必ずリスレルに留守にする旨を伝え、食事は勝手にしろと言い置いて出て行く。はっきり言ってしまえばリスレルは

その方があのどまずい食事を口にしなくて済むし、身の危険を感じたり言い知れぬ恐怖を覚えることもなく、却ってほっとしている。このまま帰ってこなきゃいいのに、とも何度も思う。食事は台所の固いパンをかじっているが、あのくそまずい食事よりはずっとましというものだ。また、この台所に立ってあの粘土みたいなスープをアルセストが作っているところを想像すると、なんだか妙におかしかったりする。

 そして今日も、昼すぎにアルセストはどこかへ出掛けていってしまった。リスレルにわかるのは、窓のすぐ下をのぞくと麓に通じる道があって、そこをアルセストが下っていくことくらいだろう。そしてその道は玄関につながっており、リスレルの想像どおり麓に通

じる道はここ一本なのである。

 冬の山道を早足で下りつつ、アルセストはかなたに聳える青い山脈を見た。今日は随分と天気がよく、ここまで山々が見渡せるのは珍しい。

「・・・・・・・・・」

 アルセストはしばらく立ち止まって山々に目を馳せていたが、やがてまた元のように早足で歩きだした。どうも青く光る冬の山を見ると、昔のことを思い出さざるを得ない。昔のことなど思い出すのは、もう十何年ぶりだろうか。

 アルセストは、世界で最後の古代貴族エンデュミリオン家の一人息子として生まれた。

 既に他の種は絶えて久しく、親戚も皆滅んでしまっていた。そのためアルセストが文字通り最後の古代貴族としての種を保つ運命にあり、こういった場合にありがちな血を保つための親戚筋との婚姻も一族の滅亡により不可能であった。ためにアルセストは庶民の女

を迎えることが、生まれた時から決まっていたのである。母も一族の人間であったが、もっとも庶民といっても、多くは他の貴族の子女などが嫁にきていたが、古代貴族にとっては貴族も庶民も大して変わらなかったに違いない。それほど古い家系なのである。

 古代貴族の種は幼少時より古代貴族としての素質を持ち合わせているというが、アルセストは正に、生粋の古代貴族といってよかった。物心ついてより誇りが高く、不正を嫌うが目的を果たすためには手段を選ばない。三歳なのに五歳程度に見られても珍しくないく

らい、アルセストは見かけより大人びて、賢く見える子供だった。実際賢い子供だった。

 五つくらいのときであったろうか、その頃よりもう家庭教師のようなものがついていて勉強だけでなく遊びや武芸などのすべてを学んでいたのだが、ある日その家庭教師が父である当時の公爵に、ぼっちゃまにはほとほと困りましたと汗を拭きながらやってきた。不

思議に思った父が、どうした、息子は手がつけられないほど反抗的かねと問うたところ、家庭教師曰く、いいえ、たまたま昨日来られたコルモン大陸の使者の方が帰られるのが窓から見えたもので、ぼっちゃま、コルモン大陸とお日さまと、どちらが遠いでしょうとお

尋ねしたところ、お日さまのほうが遠い。お日さまの方から人が来るなど聞いたことがないとおっしゃられたのですと言った。父は、ほう、五つにしてはなかなか賢い返事だと大層感心して、しかしそれでなぜ困るのだと再び聞き返した。家庭教師は、今日もまた同じ使者の方が来られたので、もう一度同じことを聞いてみたところ、ぼっちゃまはお日さまのほうが近いとおっしゃられましたと言う。父が眉を寄せ、それでは昨日とは違うではないかと身を乗り出したところ、家庭教師は、はい、わたくしも同じように申し上げたところ、ぼっちゃまは、目を上げるとお日さまは見えるがコルモン大陸は見えない、とこうおっしゃったのです、と困ったように言った。父は大層驚き、また幼い息子の賢さに感心して将来を楽しみにしたという逸話が残っている。大人ですら油断すれば足元をすくわれてしまいそうにアルセストは賢い少年であった。つまり、独特の特殊能力に加え数々の才能やその誇りの高さは、正に典型的かつ非常に優秀な古代貴族としてのアルセストを形成していたのである。そう、稀に見るほどの天才肌の少年であった。人々は生粋の古代貴族と、誉め言葉とも嫉みとも、或いは恐怖とも受け取れる言葉で噂したものだった。

 アルセストが十の時、運命の日は訪れた。エンデュミリオンの屋敷が突然襲撃されたのである。突然といえば本当に突然であった。

 襲撃してきたのは政敵のある貴族だったが、それだけではなく傭兵もいれば魔導師もいた。理由は、古代貴族としての能力を使っての謀反の企てと、危険分子取り潰しという名目だった。理由はどうでもよかった。とにかく彼らは、その魔法の通じない不可解で強靭な身体、人それぞれとはいえ持ち合わせた様々の特殊能力、明晰な頭脳、優れた運動能力を恐れ、そしてその独特の、時に高慢とも思える誇りの高さを疎んじたに違いないのだ。 母も殺され、父も殺された。屋敷は燃え、使用人は悉く敵の刃にかかった。アルセストは最後に残った古代貴族の種であったから、当然草の根わけてでも探すよう命じられていた。しかし、家庭教師が最後自ら部屋に火を放ち方々から出火していたことも手伝い、屋敷は丸焦げとなった。中にいたはずの家庭教師も使用人たちも、かたちすら留めずに死んでいった。そんな中で幼い少年が生き残れるはずがない、出口という出口は塞いでいたのだからという理由から、アルセストも焼死体のなかにいるだろうとの判断が下され、捜索は打ち切られた。しかしアルセストは、襲撃と同時に異変を感じとった家庭教師の手により、地下の通路に逃がされていた。彼の判断がここまで早くなければ、アルセストは間違いなく敵の凶刃に倒れていただろう。家庭教師はこう言った、ぼっちゃま、この後時間が経って、何もなければ出てきなさいませ。その時は私もこちらに来て助けに参りましょう。 しかし上で悲鳴がしたり、ただごとならぬ音がしたならば、なんとかしてここから逃げだすのです。そして三日の間は誰にも姿を見られてはなりません。またその間は警備も厳しく、見張りが所々いるやもしれません、逃げるなら、今日中か、それができないのなら一週間後になさいませ。

 そしてその直後階下で凄まじい音がして、家庭教師はハッとして後ろを振り向き、振り向くのと同時に扉を閉めた。闇の中に、アルセストはとり残された。

 彼の行動は早かった。家庭教師の言うことに間違いはない。今なら、屋敷の襲撃に人員を裂いているから警備も手薄なはずだ。逃げるのなら今しかないのだ。

 しかし脱出は難航を極めた。真っ暗で日の射さない地下通路は狭く、幼いアルセストが這いつくばってやっとの広さであった。しかし彼の古代貴族としての特殊能力はここで突然開花した。当人が暗闇で難儀していることを察知した肉体が本能と競合して彼に暗視の

能力を与えたのだ。

 こうしてアルセストは地下から脱出し、地上へと出て、喧騒に包まれる街をさっさと脱出して三日三晩歩き通した。そして森の樹の実や河の水を飲みながらなんとか生きていたのである。古代貴族はまた野性の動物を飼い慣らすという能力をすべからく持っていたか

ら、彼にとっては街で生きていくよりは楽だったのかもしれない。

 古代貴族としての特殊能力というのはまちまちである。母は持っていて娘が持っていない能力だとてあるし、誰も持っていないのに一人だけ持っている能力だとてある。その中で彼らに共通しているのは、魔法が一切きかない、そして野性動物を飼い慣らすという能

力だったろうか。魔法が自然の一部なら、その魔法の一部である古代貴族が自然と共存できるのは不思議なことではないはずだ。今にして思えば、父や母を殺した者たちは魔法が通じないという理不尽さに、同じ人間としての不公平を見たのかもしれない。魔法が通じ

ないことが人間らしからぬ恐怖を抱かせたとて、それは無理もないことだ。

 そうして森での生活を続ける内に、アルセストは旅の剣士---------後の彼の師となる男と出会ったのである。庵を結ぶにしては少し若めの、壮年の男であった。師は彼に何をしているのか、ここで暮らしているのかと尋ね、さらに彼の名を尋ねて静かに瞳を伏せ、そうか、ならばついてきなさいと言って歩きだした。アルセストがついてきてもついてこなくても、そんなことは構わないとでも言いたげな背中だった。

 アルセストはついていった。人として、いつまでも森で暮らすわけにはいかないことを、この早熟な少年はわかっていたのである。

 そして剣士としての修業を始めた。元より通常人よりも運動能力に優れたアルセストであったから、厳しいはずの修業も、こんなものかと思っていればそう辛くもなかった。古代貴族としての特殊能力は成長と共に著しく台頭を表わし、その中にはどんな寒さも感じ

ることなく、それによって死ぬこともないというものや、おそらくは幼少の頃の森での生活が影響したのであろうか、どんなものからも最大限の栄養をとることが可能だった。彼が食事の際味にこだわらないのはこのためである。

 成長するにつれてアルセストは自分の立場がどういうものかがわかってきた。自分は一人残った最後の古代貴族なのだ。動物に例えるのなら絶滅寸前といってもよい。古代貴族が何かの秘宝の番人だとか、またはそれに辿りつく鍵を握る存在なのだとしたら、アルセ

ストはなんとしても自分の血を絶やさぬことに専念し、再びエンデュミリオン家の当主として世界に返り咲くことを目標としていただろう。しかし古代貴族の存在そのものには、そう重要な意味というものはない。ただ、古代から生きてきた歴史の証人であり、人知の

及ばぬ揉め事の取締役でもあるのだ。だからといって絶対に必要不可欠というものでもない。

 アルセストは幼少時の強烈な体験や剣士としての厳しい生活から、そして自身の冷静な性格も手伝って、古代貴族の種を残そうとする努力などする気にもならなかった。そんなことをしても、またいつの日か、自分の両親のように滅ぼされてしまうに違いない。それが自分の存命中かそうでないかということはこの際問題ではない。いつか滅ぼされてしまうもののために、そんなことはしなくていいということだ。どんな人間も自分自身の為に生きていく権利を持っている。古代貴族の種と権威を復活させたければそれでもよし、しかし自分は違ったということだ。だから、両親を滅ぼした者たちに復讐しようという気にもならなかった。憎いことには変わりないが、彼らには彼らなりの正当性があってしたことなのだ。古代貴族の持つ数々の特殊能力と魔法が効かないという特異性が言い知れぬ恐怖を彼らにもたらしたというのなら、反論もできない。アルセストは古代貴族の復権になど興味はなかった。それよりも、自分自身の世界を創る方に、彼の興味は向いていた。

 彼自身の、独特の哲学を生かしそれを法としそれを規律とする世界。いつしかまた、滅ぼされる者と滅ぼす者のいなくなるような世界。そして自分は、その世界の頂点に立つのだ。今までその遠大ともいっていい野望は漠然とアルセストの胸のなかに燻っているだけ

であったが、それが次第に具体的な形と色を象り始めたのは、そう、あのリスレルという娘の身につけている指輪を見た時からだ。あの指輪には絶大なエネルギーが込められている。それから、そんな指輪を持っているあの娘自身にも、解せぬことが多い。母の形見とか言っていた。形見・・・死してもうこの世にいないというのなら、いったいその母こそ何者なのだ。

 そしてもう一つ。

 あの指輪と、リスレルという娘の魔法能力は、直接関係があるのか? つまり、あの指輪が絶大なエネルギーを持つことに変わりはないが、リスレルが昼夜を問わず魔法を使えるということに、指輪は関与しているのか。しているのならあの石の正体は何か、そして

関与していないのなら、リスレルは何者なのだ。

「・・・・・・・・・」

 青い山脈を見渡していたアルセストの、小さな吐息が山の空気に溶けて消えた。



 アルセストが帰ってきたのは結局一週間後の夕方だった。食堂の方で気配がするので、もう食事をしているのかと思って入ってみて、アルセストは絶句した。

「------------------」

 暖炉があかあかと燃えているのはリスレルがいることからまあいいとして、湯気が厨房から立ちこめていたのだ。そしてそれと共に充満する匂いは、まだ両親が健在であった頃や庵での生活、街に出た時酒場で漂うのと同じ匂いであった。

「なにをしている」

 厨房の入り口に立って、アルセストは鍋をかきまわしているリスレルに言った。まったく気配がなかったのと、料理に夢中になっていたのとで、リスレルはびくりとしたが、すぐに向き直り、ちょっとだけばつの悪い顔をして、

「・・・ご、ごはん」

「---------何?」

「ごはん・・・つくろうと思って・・・だってずっとパンばっかじゃつまんないし、あったかいもの食べたかったし」

 それでこの湯気か・・・アルセストは周囲を見回し、

「・・・一人分か」

「え・・・み、水を足せば二人分」

「それじゃあ早くしてくれ」

 とげとげしい声で言い、アルセストは背を返した。リスレルはちょっと驚いた顔になったが、すぐに鍋をかきまわし、あたためていた皿を取りに奥へ行った。

 アルセストは、はっきり言って食べることにあまり興味がない。味の良し悪しで生きる死ぬの問題にはならないからである。だから、きのうまで美味だった食事がいきなりまずくなっても、こんなものだろうと思う。苦痛に思わないのだ。しかしリスレルのつくった食事を食べると、なるほど自分の食事が彼女の口に合わなかったということがわかってきた。確かに自分のつくる食事はまずいかもしれないと思ったのだ。いつも一人で、何も不自由せず自分の面倒を自分で見て、現状に満足できる状態にいつもあるアルセストは、自分がこうでも他人は違うかもしれないという思考が欠けていた。久しぶりに暖かくて味も満足できる料理に、リスレルはその日本当に何日かぶりにいい一日だったと思って部屋に戻った。アルセストは食事に気を取られたのか、今日は指輪を寄越せとは言ってこなかった。

 その内、アルセストが館にいても、食事はリスレルが作るという暗黙の了解ができあがった。アルセストにしてみれば、うまかろうがまずかろうがどちらでもいいのなら、リスレルにとって幸せなほうを選択させればいいと思ったまでだ。しばらくするとアルセストはまたリスレルに指輪を見せろ、寄越せと言ってきたが、リスレルが嫌だと言うと、前よりはおとなしく引き下がるようになっていた。しかし彼が諦めたようには思えないリスレルだった。

 ある日、ちらりとアルセストを見たリスレルは、その銀の髪、鋭い眼差しときりりとした口元、静かなたたずまいにアリスウェイドを見いだした。なんだか似ているな、と思った。無論容姿はまったく違うのだが、雰囲気がすごくよく似ている。そう、アリスウェイ

ドも静寂が服を着ているような静けさを持っていた。

 そしてそんなアリスウェイドを思い出して、リスレルは、ここの生活もいいかもしれないと思う反面、身の危険を感じずにはいられない状況と愛するアリスウェイドを想って、やっぱり帰りたいな、と思った。この青い男もこうして生活を共にしているといい人間な

のかもしれないが、この男とアリスウェイドとでは、過ごした時間の密度や思い出の数が圧倒的に違いすぎるのだ。

(おじ様・・・・・・)

(---------いまなにしてるんだろ)

 リスレルは、アルセストにはわからないように、そっとため息をついた。



 アリスウェイドは自分が一人で放浪の旅を続けていた時代を思い起していた。

 多くの英雄がそうであるように、またアリスウェイドも、何の変哲もない、将来の兆候など微塵も感じられないような、普通の家庭に生まれた。母はアリスウェイドが三つの頃流行り病で死んでいた。またその時代、今ほど世情は安定しておらず、戦乱が大地を揺る

がしていた時代であったから、アリスウェイドにとって人の死というものは考えられないほど身近なものだった。父は樵で、今思うとひどく体格がよく、近隣の樵の中でもよく頼りにされる存在だった。近所で難産で苦しむ主婦が出れば、男たちは真っ先に父の元へや

ってきていた。父はそうすると、どんな嵐であろうと村を出ていって隣の街まで医者を呼びにいき、大抵の場合途中で疲れて歩けなくなってしまったり吹き荒ぶ風に負けたりしてしまった年老いた医者を背負ってくるのだった。皆が父を頼りにしていたし、父もそれをまたそれを喜びとしていた。樵は体力があり、腕っ節も強いので、斧を持って戦えば生半可な戦士など相手にできるものではなかったが、その中でも父はやはり強かったように記憶している。少年であったアリスウェイドはまだこの時自らに何の自覚もなく、また漠然とながら、父のように樵になるのだろうとも思う一方、何かそれは違うのではないのか、と思いもしていた。

 ある日、父がまだ小さい男の子を連れてきた。アリスウェイドが五つの頃だった。身体の小さい、ひどく痩せている子供で、すっかり汚れた服と、煤のような汚れが身体のあちこちにある様子からも、この子供が戦災孤児だということは明らかだった。父はアリスウ

ェイドに言った、今日からこの子は家の人間だと。お前の弟だと。怯え、痩せこけてしまっている少年はなかなか家人に心を許さず家の隅で怯えていたが、半月もすると次第に慣れてきたようだ。名を聞いたが首を振るばかりなので、父がヴィラルクと名付けた。当然歳もわからなかったが、身体が小さくどう見てもアリスウェイドより年下だろうという近所の者の声もあって三、四歳だと見当をつけた。

 アリスウェイドとヴィルは仲がよかった。アリスウェイドはよく彼の面倒を見、またヴィルも彼を兄と慕った。二人は本当の兄弟のようだった。成長してもそれは変わらず、特にヴィルは、父とアリスウェイドの風貌や性格が段々と似てくるということに特別な疎外感を感じたりもせず、やっぱり親子なんだねえとしきりに感心した。十一歳になる頃、早くもアリスウェイドは未来の剣天としての兆候を見せ始めていた。斧よりも剣を好み、樹を伐りだすよりは稽古に熱中することの方が多かった。同じ頃ヴィルは、ちょっとした樹なら、父に手伝ってもらって伐られる程度になっていた。

 十三の頃、アリスウェイドは旅に出る決意をした。三年くらい前から、自分は樵に向いていないのではないか、証拠に気が付くと剣で稽古をしているということに気付いてはいた。しかし父や弟を置いて旅に出るということ、そして自分の年齢も考えると、まだその考えは早いように思われた。よくよく熟考して、それでもまだ旅に出たいのならそうすればいい。そして十三、早くも父の若い頃のようにとてもその年齢には見えない立派な体格と身長になったアリスウェイドは、旅に出る決意を家族に明らかにした。父は、そうか、頑張ってこいよと言ったのみだった。斧より剣を好む息子が、このまま樵になるとは考えていなかったようだ。弟は、父よりも反応が過剰だった。目をむいて驚いていたし、えっ、と上げた声もやはり大きかった。食卓では散々アリスウェイドを止め、それでもだめかと思うと、今度は夜彼の寝室にやってきて説得に当たった。アリスウェイドはどんなことを言われても無理だよと静かに言った。そして父さんを頼むよ、お前なら立派な樵になれるからとも言った。

 二日後にアリスウェイドは旅立った。世界中のあらゆる国、あらゆる街、あらゆる村をまわった。なぜ旅を続けたのかはわからない。剣が好きだ。戦士になりたいとも思っている。しかしアリスウェイドを旅立たせた決定的な理由は、もっと違うところにあった。

 小さい頃から一人でいることが好きだった。父も母も愛してはいた。しかしそれとは違う感情で、アリスウェイドはいつも一人でいたいと思っていた。無論弟のことも愛している。彼が来たから、とかそういう問題ではない、それ以前からアリスウェイドは、いつか

たった一人になって、旅をしたいと心のどこかで思っていた。空を飛ぶ鳥のように、自由に気の向くまま旅をしたいと。

 そう、アリスウェイドは、孤独になりたかったのだ。それが何故かは、よくわからなかった。少なくともその時点では彼にはわからなかった。数年に一度は家に帰った。暖かい料理と笑いに包まれると、やはり家はいいと思ったが、ずっといたいとは思わなかった。

 いてはならないような居心地の悪さがあった。旅を続け旅を重ねるごとにそれは深まっていった。アリスウェイドが十八の時、ヴィルはある女性を連れてきた。それがアデレード、すなわちリスレルの母であった。なんでも森で迷っているところでヴィルと出会った

らしく、弟はすっかり彼女が気に入ってしまい、またアデルも彼のことを憎からず思っていたので、簡単に家に居候となり、一ヵ月後には二人は結婚してしまった。アデルは眉のまるい、笑うとくずれおちてしまいそうに頼りなげな、はかなげな感じの女性だった。お

となしく温和で、いつも口元にやわらかな笑みを浮かべていた。アリスウェイドは弟に、いかにもお前の好きそうな女性だと言ってはからかった。その頃アリスウェイドもそろそろ名も顔もそこそこ売れるようになってきて、位はないものの、剣秀の称号を得ていた。

 称号の中では最低のものとはいえ、十代で剣秀を得た者はいなかったから、称号を得た当時ちょっとした話題にもなった。普通称号や位というものは、同じように称号位を持つ者から直接許されるもので、だから自分で勝手に自分は剣天だとか剣秀だとか、名乗ることはできない。誰から称号をもらったかと聞かれれば速やかに答えねばならぬし、もし自分で勝手にそれらの称号を名乗ったという事が露見した日には、戦士の称号を辱めたとしてあらゆる戦士からの非難を浴び、称号・位冠を持つ者たちから制裁として命を狙われる羽目になる。

 年をとるにつれ、アリスウェイドの孤独を好む傾向はますます強くなっていった。ちょうど故郷から位置して星の反対側にいる頃、ヴィルから子供が生まれたという報せが入った。その頃アリスウェイドは傭兵として戦に参戦していたので、生憎駆け付けることはできなかったが、祝いの手紙を小切手と共に送った。

 そしてその半年後、小さな子供を庇って父が伐りだした大木の下敷きになって死んだこと、死に顔は安らかで満足そうだったことが伝えられ、その数年後、今度は戦乱に巻き込まれ弟夫婦が死んだことを知らされた。

 アリスウェイドは愕然とした。期せずして、彼は天涯孤独になってしまったのだ。

 そしてそうなってから、彼は初めて家族がいるからこそ旅をしているのだということに気付いた。この世でたった一人きりになって、孤独を好みたがるのは家族の暖かみをわかっていて、帰るところがあるからだということに気付いたのだ。空を飛ぶ鳥は、自由なだけではなく孤独だということを知ったのだ。

 そして気が付いた時、彼は家族を失ってしまっていた。戦が終わり、故郷に帰って生き残った者たちを探しだせば、生まれた子供の生存も絶望的だと言われた。孤独になって初めて、孤独の淋しさがわかったような気がした。

 アリスウェイドは放浪の旅を再開したが、胸の奥にまるで穴の開いたような、空虚な重さがついて離れなかった。自分は、帰る場所をなくしたのだ。戦に疲れて家路についたところで、暖かい料理も屈託のない笑顔もない。家すらも、戦乱はアリスウェイドから無残に奪っていた。アリスウェイドは立ち尽くす思いだった。

 そしてその一ヵ月後---------彼は、あの戦乱で生き残った子供がいるという噂を聞いた。それがアデルとヴィルの娘かどうかはわからなかったけれども、その確信はどこにもなかったけれども、アリスウェイドはその一縷の望みに賭けたい気分だった。その子供が

いるという噂が耳に入れば、星の裏側にだって行った。言ってしまえば、その娘とアリスウェイドは血のつながりが一切ないことになるのだが、彼はそんなことは気にもかけなかった。大切なのは血のつながりよりも思い出だった。その生き残りの娘は父やヴィルや、たった数年の内の数日分しか会っていないアデルとアリスウェイドをつなぐ唯一の存在なのだ。彼らが確かに生きていたという証拠なのだ。その娘が生きている、それだけで、アリスウェイドは彼らと過ごした日々を確かなものとしてとっておくことができる。

 自分とまったく同じ思い出を共有している者がいなくなった、それは、自分という存在があたかも幻になってしまったかのように、こころもとないものになってしまう気がしてならなかった。だからアリスウェイドはその娘を探した。死んだという確かな証拠が手に

入るまで、彼は諦めないつもりだった。

 そして大陸という大陸、国という国を探し回って二年---------。

 アリスウェイドは、やっと生き残った娘がマエリガン修道院にいるという話を聞きつけた。

 聞けば、その娘は金の髪と、すみれ色の瞳をしているという。

 一目散で修道院に向かった。入り口の受け付けで自分がここに来た旨を告げる。驚いたシスターの顔。この時既にアリスウェイドは聖位剣天の位冠を己れのものとしていたので、多少怪しまれはしたが、そこは相手もシスターながら魔法を操る者ばかり、ただちに彼が何者か看破したらしい。

 その後院長に会い、アリスウェイドは事情を説明してその娘を引き取りたい旨を打ち明けた。最初院長はそれがどういうことかわかっているのか、責任は持てるのか、色々と尋ねてきたが、アリスウェイドの心は揺るがなかった。院長はしばらく沈思していたが、やがて重々しくうなづくと、いいでしょうと言って立ち上がった。自ら案内しようというのだ。この時リスレルは八つになっていた。

 娘の名は、リスレルというのだそうだ。美しい名前だ、アリスウェイドは思った。

 ひとしきり歩くと中庭が回廊の向こうに見えてきた。リスレルは庭にいるらしい。

 そしてアリスウェイドはリスレルと出会った---------。

 初めて会う弟の娘は、容姿は母そっくりで、一つだけ母親に似ない凛とした面立ちは、まぎれもなく亡き弟のものだった。すぐには言葉が出なかった。シスターの影から、おずおずとこちらを見上げるリスレル。

「すぐに旅立たれますの?」

 尋ねられ、そのすみれ色の瞳に見入っていたアリスウェイドはハッと顔を上げた。

「---------いえ・・・いきなりでは彼女も戸惑うでしょう。しばらく近くの宿に逗留しこちらへ通わせていただきます」

「それではこちらにお泊りなさいませ。その方がリスレルも早く慣れるでしょうから」

 そしてアリスウェイドは、以後九年間、この血のつながっていない弟の娘と旅を続けてきた。どんな時も離れたことはなかった。お互いをいたわり、慈しんで暮らしてきた。

 こんなにも長く離れるのは---------初めてなのだ。

 幌馬車に揺られながら、アリスウェイドは思った。あれからやっとわかったリスレルの所在を具体的にさらに突き詰め、今一行はアルセストの館の麓にある村まで向かう馬車に乗せてもらっている。冬のことでなにかと運ばなくてはならぬし、そんな時に突然十人も

の大勢で乗せてくれと言われた時には、かなり迷惑そうな顔をされたが、金貨五枚でやっと乗せてくれた。狭い馬車の荷台の中で、大きな身体を抱えるようにして昔を思い出しているアリスウェイドをちらりと見て、ナタリアは思い切って聞いてみた。思い余ってと言ってもいいかもしれない。

「なんでそこまで固執するの・・・?」

 アリスウェイドは彼女を見た。

「---------」

「だって・・・---------・・・・・」

 その瞳の光に、ナタリアは居心地が悪くなったかのように身じろぎして言葉を呑み込んだ。

「いや・・・君の言いたいことはよくわかる。リスレルと私は言うなれば赤の他人だ。血のつながりなどまったくない他人だ。しかし十数年も弟として暮らしてきた男の娘で、私とずっと旅を続けてきた---------血のつながりがなくとも、充分固執する理由はあるは

ずだ」

「そう・・・よね。そうだよね。九年か・・・長いね」

「ああ・・・。長いといえば長いかもしれない。あっという間と言えば、あっという間だったよ」

 ナタリアは微笑して幌の向こう側に見える澄んだ冬の空を見上げた。

 アリスウェイドもまた空を見上げ、そしてまたも思い出した、

 師・ドナルベインと出会った日も、こんな澄んだ冬の青空の広がる日であったと。



 父が死んだ。

 戦の途中に入った報せは、伐りだした木の下敷きになりかけた子供を助けようとして父がその木の下敷きになったというものだった。抜け出したくとも抜け出せない状況まで戦は追い込まれており、アリスウェイドはすぐに故郷に戻ることができなかった。やっと戦

が終わったのはそれから二ヵ月後で、アリスウェイドは故郷には戻らずそのまま旅を続けた。弟への手紙には、帰ったところでなにをするわけでもない、却ってそちらを騒がせてしまうからと、帰郷しないことを詫びておいた。何年も旅に出ている自分が帰ることで、弟がいつも気を遣って色々としようとしていることを、アリスウェイドはよくわかっていた。

 今自分が帰ったところで葬式がとうの昔に済んでいるのならば、帰る必要はない。生まれた子供というのに会ってみたい気もしたが、ちょうど舞いこんできた友人からの依頼の話を聞いて、子供の顔を見、弟の息災を喜びに帰郷しようとしていたアリスウェイドの心は帰らないことを決めていた。

 友人は彼に身辺警護を依頼してきたのである。げっそりとやつれ、昼夜を問わない刺客の襲撃に夜も眠れないというその友人は、すっかり人相が変わってしまっていた。そこで半年にわたる警護を続け、ようやく刺客を差し向けていた人間本人が死んだことにより、友人の周辺も静かになり、アリスウェイドはすっかり故郷に帰る気をなくして、またあちこちを放浪しようとしていた。

 冬の日のことだった。珍しく雲が晴れ、澄みきった青空が美しい。その日アリスウェイドは草原を渡っていた。と、目を向けると、彼の濃緑の瞳に、誰か多人数の人間が剣を抜いて戦っている姿が目に映った。そう遠くではない。近くに寄ると、どうやら一人の老人

に対して六人ほどの男が立ち向かっているようだ。今、凄まじい気合いの叫びと共に、最後の男が老人に立ち向かった。その速さといい、男の持つ殺気の凄絶さといい、当時のアリスウェイドがかなりの腕と判断したほどの戦士であった。

 老人が剣を振り下ろした。

 戦士が、轟音と共に吹き飛んだ。

「! ---------」

 弱冠二十三歳、今思えば、自分も若かった。

 抜刀し、アリスウェイドは叫んだ。

「なにをする!」

 すると老人は初めてこちらを振り返った。真っ白な髪は腰を過ぎても尚長く、顎髭も胸まで届いている。

 その鋭い瞳---------。まるで雪山の氷柱のような鋭さだ、アリスウェイドは思った。

 一分の隙もない身のこなし。全身から発せられる、すがすがしいまでの気合い。今自分が対峙しているのは、本当に老人なのだろうか。錯覚したほどであった。

「なに・・・命がほしいというから、とれるものならくれてやると言ったまでじゃ」

「! ・・・」

 どう考えてもあの男がこの老人にやられたとは考えたくなかった。恐らく自分があの男と戦っても勝てる見込みはほとんどないほどの手練れであったはずだ。動転していたのか頭に血がのぼったのか、この老人に正義はない、アリスウェイドは思った。その気持ちがそのまま殺気になったのだろう、老人は眉を上げ、

「ほう・・・来るか。ならばよい、来るがいい」

 カッとなった。アリスウェイドは今にも飛びかからんばかりの体勢となった。

 ザッ!

 老人がこちらを向き、収めていた剣を再び抜いた!

「儂に打ち込むことができれば剣鳳をやろう!」

 アリスウェイドはひどく馬鹿にされた気分になって打ち込んだ。

 ザウッ

 走り始めた直後、何だかわからないが風の塊のような、鋭いものが自分めがけて飛んできた。アリスウェイドは直感的に横に飛んでそれをよけ、直後に同じものが飛来してきてまた横に飛んだ。自分がよけた直後に虚しく地面を引き裂いたそれは、アリスウェイドが青くなるほどの殺傷力を持っていた。草原であったはずの大地から草を切り裂き、地面を露出させて尚飽かず、掘り下げるまでの威力であった。何度も同じように攻防を続け、やっとのことでアリスウェイドは老人に打ち込めるだけの距離へ近付いた。

 渾身の力を込めて剣を振り下ろした。

 ガキィィン!

 しかし、彼の必殺の一撃はいとも簡単に弾かれた。

「う・・・」

 老人自身の剣によって阻まれたのである。腕の感覚がなかった。あまりにも強い力で防がれたので、腕が痺れているのだ。しかし老人も目を見張って自分を見ていた。

「ほう・・・儂に手を出させるとは・・・---------」

 そして老人はそのままアリスウェイドを彼の剣ごと押し込んだ。圧倒的な力で押し込まれ、彼は物凄い音をたてて地面に背中から倒れた。老人は背を返し、

「見込みがある。ついて参れ」

 言い放つと、茫然とするアリスウェイドを残して歩き始めた。

 これが、当時聖位剣天であったドナルベイン・バルタザールとアリスウェイドとの運命的な出会いであった。この後アリスウェイドは彼の庵で文字通り凄絶な修業を積み、当初の師の見込み通り、数年後に聖位剣天を引き継いだ。そしてその直後である、弟夫婦が死んだことを聞かされ、しばらくしてリスレル捜索の旅に出たのは。

 今思えば数奇な出会いであった。あの時、自分があそこにいなければ当然ドナルベイン・バルタザールとの出会いもなく、出会いがなければ、アリスウェイドが聖位剣天になることもなかったはずだが、師はアリスウェイドがそれを言うと事もなげに、

「そんなことは別の場所で会っていればいい話じゃ」

 と言った。あの日あの場所で出会うことがなくとも、出会う運命にある者どうしは、いつか必ず決定的なものによって引き合わされるという意味だろう。

 我流の剣で生きてきたアリスウェイドが唯一師と呼ぶ男がドナルベイン・バルタザールである。今年で八十六になるが、今も元気であちこちに出没しては世界の裏側まで届くような逸話を残してくれる。リスレルも三度ほど会っているが、最初にリスレルと師が出会

った時、リスレルは十一になりたてで、鋭い眼光の老人に最初は怯えたものだったが、じきに子供好きな師になついてしまい、アリスウェイドが止めるのも聞かずにその顎髭を引っ張ったりしていたものだった。二度目に会ったときはそれから二年後で、成長しいずれ

香り高い花を咲かせるであろう蕾のリスレルを見て、満足そうに微笑んだ。三度目はリスレルが十六の時だから、つい最近のことである。その時、庭で彼が飼っている山羊と遊んでいるリスレルを見て、ドナルベイン・バルタザールは目を細め、

「・・・うむ」

 と呟き、アリスウェイドをちらりと見て、

「・・・・・・おぬしの若さなら、気付かずとも仕方あるまい」

 と言った。

「何がです」

「その内わかろうよ」

 体よくはぐらかされてしまったが、こんなことはよくあるのでアリスウェイドは気にも留めなかった。

 アリスウェイドがそんなことを思い出していた、正にその時であった。

「おい、あんた達。ついたよ」

 馬車が止まり、呼び掛ける声が聞こえてきた。



 アナンダは暗闇のなかにいて、ようやくリスレルの居所を掴むことができた。一時は大分探したものだったが、それも捕捉前とでは労力が雲泥の差ほど違う。くつくつと不気味に笑うと、水晶玉に手を翳してアナンダは詠唱しようとした。

 水晶玉の中には、リスレルが茫然と窓の外を見つめている。あの指輪も一緒だ。

「私のものだ・・・私の・・・・・・」

 アナンダは声なく笑い、ゆっくりと掌を回転させて呪文を詠唱する。

 高らかに、不気味に、そしてゆっくりと完全に近付きながら。

 リスレル捕捉のための強力かつ長時間を要する呪文は、ここのところ香油で身体を清め鋭気を養い集中力を高めていた魔導師アナンダの手によってゆっくり、しかし確実に織り込まれていった。この日のために、彼は魔力を温存し続けてきたのだ。

 そして疲労と集中力の限界により息切れと脂汗にまみれたアナンダの手から凝縮された魔力が解き放たれ、いざ水晶玉の中に吸い込まれていった時---------。

 異変は起きた。

 ザウ・・・

「・・・何?」

 成功していれば聞こえないはずの音が耳を突いた。

 ダウッ!

 カシャ・・・ン・・・

「あう!?」

 送り込んだはずの彼の魔力はなにかに弾き返されて戻ってきたばかりか、それだけでは飽き足らず水晶玉を粉々に砕いた。アナンダに傷一つつかなかったのは水晶玉の力が強かったからに他ならない。街の占い師たちが使うような水晶玉では、アナンダは今頃その肉

体のかけらほども残さず砕け散っていただろう。

 驚愕と極度の疲労で、アナンダは吹き飛ばされたまましばらく闇の中に倒れていた。何が起こったのか・・・なかなか理解できないでいた。

「・・・私の魔法が・・・---------まさか・・・――――結界・・・!?」

 ぜいぜいという息の下から・・・そう呟くだけでもアナンダは気絶しそうなほどの体力を浪費していた。魔法にすべての力を使ったために、今や立ち上がることもできない。

「・・・・・・おのれ・・・・・・あの男・・・か・・・」

 アナンダの気配は、ここで消えた。

 体力と精神の限界がきて、彼は暗闇の中で気を失ったのである。

 麓から、その青い屋根の館は点のように小さく見えた。あそこがアルセストの住居に違いないのだ。

「さあ行こうか」

 淡々とアリスウェイドが言い、館を見上げる仲間たちをよそに歩き始めた。少し遅れて一同が続く。

「あいつ・・・あの男がいたら、どうする?」

 ガラハドは白い息を吐きながらアリスウェイドに聞いた。

「さあ・・・どうするかな」

 ガラハドはぞっとした。

 恐ろしいほど無表情なアリスウェイドのその濃緑の瞳には、殺気も怒りもなかった。こんな時にも関わらず、彼の瞳が何の感情も映しだしていないがゆえに、ガラハドは一層恐ろしいような気がしてならなかった。

 彼らは黙々と険しい山道を登り始めた。



 アルセストは、食事のときふと見たリスレルの横顔、その何気ない表情に、なぜ自分がこの娘にここまで固執するかがわかったような気がした。

 リスレルの面差しは、どことなく母に似ているのだ。

 あの炎に包まれた日以来二度と見ることのない母の顔・・・。

 さして復讐に執着しなかった自分・・・。

 しかし今、こうしてリスレルを見ると確かに似ている。頬から顎にかけての線の細さ、優しさと強さを秘めた口元。

(なんということだ)

(忘れていると、)

(・・・気にもしていないと・・・そう思っていたというのに)

(私の心はどこかで母を慕っていたというのか)

 気が付くとリスレルは自分をまじまじと見ている。

「・・・なんだ」

「あのさあ、」

 言いさして、リスレルは黙った。

「なんだ」

「んー・・・だからね」

「なんだと言っている」

 苛立ってアルセストは少しだけ声を荒げた。母に似ているからといって野望が変わったわけではない。いつかはこの娘を自分のものにしてみせる。

「・・・あなたとおじ様って、ちょっと似てるよね」

 アルセストは最初何を言われたのかわからなくて、眉を寄せて言われたことを頭の中で反復してみた。やっとその意味が掴めたのは二呼吸もした頃だった。

「似ている・・・?」

 リスレルはこくん、とうなづいた。

「髪の色もおんなじだし。名前の感じも似ているし」

「・・・・・・・・・」

 あまりのことに絶句しているアルセストをよそに、リスレルはアリスウェイドを思い出しながら言った。

「ちょっと優しいところも似てる、かな・・・」

「---------優しい、だと・・・?」

 その一言が彼の癇に触った。

 孤高の剣士。目的のためならどんな手段を昂じることも厭わない、最後の古代貴族。

 優しいと言われたこともなければ、そうなろうと努めたことも、またそうなりたいとも思ったことはない。またそういうものとは一切無縁の世界で生きてきた。

 アルセストはしばらく黙っていたが、やがてこみあげてくるものを抑えきれず、最初は低く、しかし段々と高らかに、笑い始めた。

「な、なによ」

「笑わせるな」

 真顔になってアルセストはぴしゃりと言い放った。

「優しいだと? この私がか。お前はまだ、自分の置かれている立場がわかっていないようだな!」

「攫ってきたくせに偉そうに言わないでよ!」

「黙れ! お前は自分が何者かわかっているのか? わかってもいないでよくそんなことが言えるものだ」

「私は私よ。他人にとやかく言われる筋合いないわよ! 自分だって何様のつもりよ。古代貴族古代貴族って、単なる絶滅寸前の動物と変わんないじゃない!」

「自分がどういうものかわかってもいない小娘に言われたところで痛くも痒くもないわ!

 剣天と旅をしているからといって必ずしも影響されるわけではないようだな!」

「こ・・・の」

 リスレルのすみれ色の瞳が激情と悔しさとで潤んだ。たちまち全身が淡く光り唸りを生じる。

 ヴ・・・ン

 ズザアアアアッ!

 瞬時にして成った魔力が金色に光りながらアルセストの全身を取り巻くように襲いかかった!

 しかし銀髪の青年はまるでまとわりついた蜘蛛の巣を払うかのように片手でそれを振り払った。たちまちリスレルの魔法は威力を失って霧消する。

「私に魔法はきかないと言ったはずだ」

 今や怒りに燃えた瞳をリスレルに向けて、アルセストは言い放った。

「---------来い!」

 アルセストはリスレルの腕を乱暴に掴んで半ば引きずるようにして食堂を出た。

「離してよ! 離してったら馬鹿ーっ!」

 ずるずると引きずられながらリスレルはそれでも抵抗した。

「嫌ーっ」

 リスレルは自分の部屋に連れていかれた。まるで荷物を放り込むかのように室内に投げ出され、

「しばらく反省していろ!」

 という言葉と共に、扉が閉まってカチャリという音がした。鍵をかけられたのだ。

「~~~~~」

 あまりに乱暴に放り込まれたので痛みで動けなくなったリスレルは、無念そうに扉を見上げた。

「なによ馬鹿っ! 死んじゃえ!」

「やかましい」

「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ーーーっっっっ」

 リスレルの罵倒を背中に、アルセストは廊下を歩いていった。

 しばらくして、館から青年の気配が消えた。

 リスレルは窓から見える、麓に向かって山を下りていくアルセストの背中に向かって、思い切り舌を出した。



 アルセストが館を留守にして一週間ほどが過ぎようとしていた。食事は一日一回、使い魔に運ばせていたから、飢えるようなことはないはずだ。そろそろ潮時かもしれない。  甘い顔をしているからああいうことになる。早く奪ってしまおう、あの指輪を、あの娘を。

 アルセストは十日目になって館へ帰ろうとしていた。途中、麓の村を通っていかねば館へ通ずる道へは行くことができないので、自然彼は村を通ることになるし、また村人とも顔を合わせることになる。村人はたまにだが館に野菜を届けたり薪を持ってきたりしてくれるが、それ以外はまったく両者は関わりを持たない。どちらかというとアルセストはこういう時に他人に関心を持たないし、村人は村人で、アルセストがただ者でないということに薄々気が付いているのだろうか、彼を恐れて必要以上に近付こうとはしない。

 この日も、アルセストに気付いた村人の何人かが軽く会釈をしたのみで、アルセストは何事か考え事をしながら黙って歩いていた。

「・・・しかし随分大人数だったよ、十人くらいいたかな」

「そりゃあ多いよ冒険者にしちゃあ」

 ぴくり、アルセストの耳がその会話をとらえて動いた。

「突然俺の馬車に乗せてくれって・・・お前、十人だよ? えらい迷惑だったよ」

「それでその冒険者たちは?」

「何か知らないけど山を登っていったよ」

 アルセストは立ち止まってその会話を聞いていたが、ここまできて何か共通するものが多すぎると感じたのだろう、さすがに怪しいと思い、その村人に近付いて尋ねた。

「その冒険者・・・容姿はどんなだったか教えてもらえまいか」



 ちょうどその頃、一行はようやくのことでアルセストの館に到着していた。しかし扉は勿論頑丈に戸締まりがしてあるし、セシルとエストリーズは肌にぴりぴりと痺れのようなものを感じるという。

「結界ですね」

 大きな扉を見上げてヴィセンシオが静かに言った。

「これでは中に潜入しても我々は魔法を使えません。致命的です」

 他の学師二人に彼が言うと、二人とも神妙な顔でうなづく。

「ならばこうしよう」

 アリスウェイドが白い息を吐きながら言った。

「三人は結界を探して壊してくれ。護衛に・・・」

「オレが行く」

 サラディンが緊張に強ばった顔で言った。

「後はリスレルを探してくれ」

「サラディン、一人で大丈夫なの」

「ヴィセンシオもいる。魔法だけじゃなくて剣を使うんだったら平気だと思う」

「そうですね。なんとかなるでしょう」

 アリスウェイドはうなづいて扉を振り返った。

 一瞬のち、館内に凄まじい破壊音が響いた。



 使い魔たちが廊下の向こうから襲いかかってくる。さすがに簡単にリスレルを救出ということにはならないようだ。彼らは二手に分かれ、片方は結界を探すために庭に面した方向へ消えていった。さらにリスレル捜索にあたった他の者たちは二人あるいは三人一組と

なって散らばっていった。

 館は広く、使い魔たちは無限とも思える数で襲ってきた。

 しかし普通の戦士ならばともかく、アリスウェイドをはじめとして彼らは普通の戦士程度の腕ではなかった。ただ、倒しても倒しても襲いかかってくる。きりがないのだ。魔法援助がない今、この戦闘は非常に苦しいものになっているといってもよかった。こちらがこれだけなのだから、結界を探しに行った四人はどうしているだろう。内二人は非戦闘員も同じだ。自分もついていけばよかったかな、ナタリアはちらりと思った。

 アリスウェイドはガラハドと組んで、館の上へ上へと進んでいった。

「リスレル! どこだ!」

 叫びながら、彼は何度も何度も使い魔たちを斬った。息が乱れもしない。ガラハドは横で呆れながら、目につく扉という扉を手当たり次第に開けていく。結界が解ける気配はない。

「アリスウェイド! この階はすべて見た」

「・・・・・・」

 アリスウェイドは廊下の向こうに見える階段を見上げた。いるとしたら、ここより上の階だろう。二人はうなづきあって上の階へ進んでいった。階下ではナタリアの気合いを入れるような凄まじい声がする。その時館の中にいる全員の耳に、何か巨大なものが下から突き上げてくるような、唸るような音が微かにした。

 ズズズズ・・・ 

 ウィ・・・・・・ンンン・・・・・・

 と、しばらくしてさらに庭の方から突然爆音が響いた。そしてわずかながらに聞こえてくる、聞き慣れた詠唱の声。結界が解けたのだ。

 アリスウェイドとガラハドは再び顔を見合わせて、力強く互いにうなづきあった。背後から足音がしたので振り向くと、ディアスとクロムが別の階段からやってきたところだった。彼らも別の階からここに辿りついたのだ。ということは、必然リスレルはこの階のどこか、あるいはここよりも上の階にいるということになる。彼らは俄然奮い立った。

「リスレル!」

 アリスウェイドは声を限りにして叫んだ。

 余人の声ではない、戦場で味方を鼓舞し、敵を震えあがらせ、その存在のみで相手を恐怖のどん底に突き落とし、屍の山を築いた大戦士の声である。その声は、庭から屋敷のなかに入ろうとしていたヴィセンシオたちにも、間もなく追い付こうとするナタリアたちにも、リスレルのいる部屋にも、そして只ならぬ物音と爆音に気付き、今しも屋敷に到着しようとしていたアルセストの耳にも届いていた。

「おじ様・・・」

 部屋のなかで、表の物凄い音の連続に不安を感じただ怯えていることしかできなかったリスレルが、ようやくここで彼の声を聞きつけた。愛するアリスウェイドの声を。

「おじ様!」

 そしてまたリスレルも叫んだ。声を限りにして叫んだ。自らを閉じこめていた部屋の堅く厚い扉を叩きながら、必死に叫んだ。それを聞き取ったアリスウェイドは真っ先に声のする方へと走りだした。彼らがいる階のちょうど上の階だった。アリスウェイドが止む事無く続く扉を叩く音を頼りにようやくそこへと辿りつくと、

「リスレル?」

「---------おじ様!」

「下がっていなさい」

 叫ぶなり、彼は剣を構えた。リスレルは察して扉の前から退いた。アリスウェイドは二歩ほど下がると、スゥ、と息を整え、扉を睨んで剣を上段に構えた。空気が集中し、彼の目に渦巻いて見える。

 ---------ドン!

 一瞬のち、凄まじいアリスウェイドの剣圧で扉は粉々に砕け散っていた。

「すごい・・・!」

 追い付いたガラハドが思わず呟いたほどである。

「おじ様!」

「リスレル」

 リスレルはたまらずアリスウェイドにしがみついた。アリスウェイドは彼女をしっかりと受けとめ、すっかり細くなってしまった肩を抱き、絹の髪に指をすべらせた。

「あ・・・う・・・ひ、一足遅かった・・・」

 感動の再会を目にしてサラディンが無念そうに低く呟く。リスレルを救出して今のアリスウェイドのようにしがみついてもらおうと思っていたサラディンは、自分が結界の破壊を申し出ることでその可能性を自ら握り潰してしまっていたことに気が付かないでいたよ

うだ。

「まったく鈍いんですよ・・・」

 呆れたようにヴィセンシオが苦笑したその時だ。

「人の家に勝手に上がり込んで随分な所業だな」

 冷たい声が背後から聞こえてきた。

「!」

 ディアスがその声に敏感に反応する。

「貴様・・・!」

 そこには到着したアルセストが立っていた。銀の髪の影から、自嘲するような笑みが一瞬漏れる。

「まさか嗅ぎ付けられようとはな・・・」

 その視線はまっすぐアリスウェイドの腕の中で泣きじゃくっていたリスレルへと注がれている。リスレルはその視線にびくりとして慌ててアリスウェイドの影に隠れた。

 ディアスが殺気立った目でそこへ立ち塞がった。

「---------ほう」

「勝負だ。お前は剣士の名誉を著しく汚した。俺はお前を許さない」

 シャッ

 アルセストが優雅に抜刀した。

「よかろう」

 二人の剣士は対峙し、睨みあった。

 今にも切れてしまいそうな緊張感がその場を制した。

 キィン!

 ザッ!

 踏み込んだディアスにアルセストが一太刀入れる。が、予想していたのか、ディアスはそれを軽々と受けとめ、二人は剣を交えながらそこで睨みあった。力と力の押し合いで、剣がわずかに震えている。

 ガッ!

 飛び退くと、その反動で今度はディアスが下から突き上げるようにしてアルセストに斬り込んだ。切っ先を下にしてこれを受けたアルセストだったが、意外とディアスの刃風が鋭かったのか、一瞬顔を顰めてすぐにそれを弾いた。

 こうして二人は、まるで時間という概念そのものがなくなってしまったかのように何度も何度も斬り合った。たったの数十秒であったかもしれぬし、数日経っていたかもわからぬ。二人にはもはやそういった感覚がなくなっていた。

 そして何度目かの斬り合いで二人が息を切らせながら再び睨みあっていた時、階下より到着したナタリアとジェルヴェーズ、使い魔を一掃しようと組んでいたセシルとエストリーズが到着した。

「ディアス!」

 先頭のナタリアが思わず叫び、敵の応援部隊の登場にアルセストがむっ、と唸ってそちらを向いた瞬間、

「------------------」

「------------------」

 アルセストとジェルヴェーズの目と目が合った。

 二人は硬直した。

 紫の瞳と濃い空色の瞳が交錯する。

 ジェルヴェーズは、突然自分が暗闇の中にいる感覚に捉われた。それはまるで、地に足がついていないかのような、ふわふわとした実感のない奇妙な感覚だった。同時に、その感覚は彼女から、自分とこの紫の瞳の男以外、なにも存在しないかのような感覚をも与えた。あたかもこの暗闇の中で、光を受けているのはジェルヴェーズとこの男だけのようだった。息が止まり、目が離せなかった。そこに何の感情も浮かばない。恐怖でも驚きでもない、ただ無だ。しかしジェルヴェーズは、自分の意志でこの男から目を離せない、その事実がよくわからなかった。

 現実は急激に二人を引き戻した。

「ディアス・・・!」

 切迫したエストリーズの叫びで、二人を囲んでいた闇は晴れたのである。ハッとしてジェルヴェーズは元の風景に戻った視界をぼんやり見ていた。

「・・・・・・」

 アルセストは剣を引き、ゆっくりと身を引いた。学師二人、戦士七人、剣士一人、そして魔導師一人。自分がどう頑張っても、形勢不利なのは目に見えている。ここでこの剣士と戦って、よしや勝ったとしても、次がある。勝利に意味はない。

「・・・」

 アルセストはサッ! と身を翻すとリスレルを閉じこめていた部屋へ入り、窓へ向かって一目散に駆けた。

「! 待て!」

 しかしアルセストのとった行動は予想もつかないものだった。

 ガシャアン!

 彼は窓を破って飛び降りたのである。

「なっ・・・!」

 ディアスが絶句して窓に駆け寄り、下を見た。ここは換算すると七階か八階くらいの高さがある。とてもではないが無傷でいられる高さではない。例え剣天のアリスウェイドであってもだ。

 しかし彼らがそこで見たものはまったく予想だにしないものだった。

 アルセストは広げた翼が三メートルはあろうかという大鷲の足につかまって彼らの目の前にいたのである。

「! ---------」

 古代貴族の特殊能力を思い出して息を呑むリスレルに、アルセストは不敵な笑みを向けて言った。

「ふっふっふっふっ・・・ここはひとまず返してやろう。しかし忘れるな。私の目的は変わってはいない。何度でもお前を必ず攫い、必ず目的を遂げる」

 抑揚のない言い方に却ってリスレルは顔色をなくした。

「あっ・・・」

「こらーっ待ちなさいよこの放火魔!」

 叫んでいるのはセシルだ。無理もない、アルセストによって彼女の家はほぼ全焼したのである。

「・・・・・・」

 沈黙してジェルヴェーズは窓枠に手をかけ小さくなっていく大鷲の影を見た。

 紫色の瞳が、点のようにこちらを見ている。

 そしてそれは、間違いなくジェルヴェーズを見ていた。



 ともあれ、リスレルは仲間たちによって無事救出され、ようやく愛するアリスウェイドの腕の中へと戻ってきたのである。


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