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第二章 青い狼

                 第二章 青い狼



 昼過ぎ、新たにスヴェル王国へ旅立ったアリスウェイドとリスレルを見送り、セシルたちはしばらく―――――といっても一週間ほどだが―――――スウィントネス家に滞在することにした。始終魔物の影を警戒し不寝番を交替で行なっている旅を続けた後では、ふかふかのベットと屋根のある生活は有り難く、心がほっとするものではあったが、一週間以上それが続かないというのは、セシル以下他の仲間たちもわかっていた。仕事をずっとずっと続けていて、休みたい休みたいと思いつつも、二日以上休んでいると仕事が恋しくなるのと似ていて、自分の根底にあって冒険に突き動かしているものは旅が好きだという気持ちだということを、四人はよくわかっている。

 その夜久々に自分の部屋でくつろぎ、今また眠ろうとして風呂から戻ってきたセシルは懐かしい窓からの風景をバルコニーに出て見つめている。

「・・・・・・・・・」

 故郷の風景。見慣れた愛しい風景―――――――。

 目を細め、本当に久しぶりに帰郷したのだという実感を噛みしめる。こんなにも大好きであったこの故郷、この風景を、あまりにも簡単に捨ててしまったのには理由がある。

 セシルは、冒険の旅を始めるまでは、家を継ぐつもりでいた。一人娘だし、義務というほど大層なものを感じてはいなかったが、そうするのもごく当然のように思っていた。紋章学は好きで勉強しているのだし、このまま紋章学者たちと共に二人三脚で紋章学を学ん

でいくのもいいかな、くらいに思っていた。両親は名家の人間に珍しく放任的というか保守的なところがなく、紋章学も両親が紋章学師で家が代々そういう家だから、という理由で始めたのではない。仕事柄毎日色々な人間が出入りし、実験室で紋章の実験をするという光景を幼い頃から見続けていたセシルは、次第に紋章の持つ魅力に取りつかれていき、自分から紋章学師になりたいと両親に願い出たのは十三歳の時だった。それまで両親は紋章学とは無縁の生活を娘にさせていたが、後から聞くと、紋章学をしたくないのならそれでもいいが、したいというのならそんなに喜ばしいこともなかったと話している。やはり紋章を学ぶ面白さを知っている両親からすれば、その喜びを娘にも知っておいてほしかったのだろうか。

 紋章学とはそもそも古代、紋章そのものに秘められた万物の能力を研究する学問で、当然紋章学者と紋章学師がいる。前者は紋章のなんたるかを研究し、個々の紋章の持つ力を研究する。後者はその学者のために、自ら実験台となって未だ解明されない未知の紋章の

力を実際に使ってみる。天文学や召喚学と違って未知の紋章を身体に刻み使うことは、時に非常に大きな危険を伴う。まったく効果のわからない紋章を使うということは、それ自体が死の紋章であったり、巨大な隕石を呼び寄せる紋章であるかもしれないという可能性

を秘めているからだ。セシル自身、仲間の実験に立ち合って三度ほど生命を危険に晒した事がある。居並ぶ学師の中でも、これだけ危険を終始伴う、死亡率の高い職業は珍しいといえよう。

 それでも紋章学を学ぶ理由はなぜかと、誰もが彼らに問う。なぜか・・・自分でもわからない。いや、きっとよくわかっているのだ。わかってはいるが、あまりにも大切なことすぎて、口ではうまく説明できないのだろう。紋章学師の誰もがそうなのではないか、セシルはそう思うことがある。心のどこかではよくわかっている、わかっているからこそ死の危険にこの身を晒すことができる。しかし言葉という見えないが確実に形あるものに現わしてしまうと、突然その理由は色褪せて下らないものに見えてしまう。それがわかっているから、誰もがうまく言えないと逃げるのではないだろうか。

 紋章学師を続ける理由、そもそもそれだけの魅力を紋章学に感じる理由―――――。

 それは、未知を発見することではないだろうか。セシルは思う。自分がどうなるかわからないものをその身体に刻み実践するというのは恐ろしいことである。それと同時に非常にスリルがある。そしてそのスリルと恐怖のぎりぎりの線を耐えて無事であった時の快感

といったら、筆舌しがたいものだ。

 無論いつも未知のものに触れることはない。大抵はもう解明済みのものを身体に刻むことになるのだが、その紋章の力が肉体にうまく適応するかは紋章を刻むまではわからないし、刻印そのものが失敗する例も数多くある。その紋章がどんな力を秘めているかわかっていても、決して安全なものではないのだ。他人がどうなるかその目で見てはいても自分で実際に紋章の力を身につけた時の気持ち、裏腹に紋章が持つ危険さを知っているがゆえの不安と恐怖。要するに死をも乗り越えるほどの探求心と好奇心がないと紋章学師などやっていられないということだ。その証拠か、恐怖ゆえに発狂する人間が年に数人はいる。しかしそれ以上のものを感じる時・・・セシルは文字どおり、表現できないものを感じる。 恐怖でも喜びでもない。きっとその感覚は、あまり感じる者がいないゆえ、言葉として現わされていないのではないかと思うほど微妙で危うい、淡いものだ。

 それが何か掴みきれぬまま、セシルは二十三になってしまった。

「・・・・・・」

 夜風に当たりながら・・・新鮮な風を思い切り吸い込む。もう何年になるか・・・こうして自分が旅を始めたのは。

 目を瞑ると思い出す・・・三年前、二十歳の頃にクロムと出会った日のことを。

 出会いは強烈だった。

 クロムは普段から無口な男である。まったくしゃべらないと言ってもいいかもしれない。 一年の内、口をきいた数を数えた回数は片手で済む場合もある。それくらい口をきかない。

 彼と出会ったのは三年前の初夏、暖かいが暑すぎず寒すぎない気持ちのいい気候の頃であったか―――――夜の街に繰りだしたセシルの目的は、今以てよくわからない。単なる夜遊びだったのかもしれないし、飲みに行きたかったのかもしれない。一人で屋敷にいた

くなかったのかもしれないし、はたまた一夜の相手を求めていたのかもわからぬ。今となっては理由や動機などどうでもいいことだ。街に出てセシルはふらりと酒場へ入った。  行きつけでもなんでもない、まるで旅人が夜の闇の中光に吸い寄せられるのにも似て、セシルはふらふらとその酒場に招かれていった。一人でうまくもまずくもない酒を飲んで何時間経ったかはよくわからぬ。

「――――――――――」

 酒場の隅に、彼はいた。

 周囲の喧騒などまるで聞こえないかのように、独特の静かな・・・というよりは、沈黙にも近い静けさを含んだ空気の中、黙々と飲んでいた。そのオリーブグリーンの瞳。

 セシルは胸騒ぎを覚えた。危険なものに対するそれではない、この男はなにかある、今の生活に不満も退屈も感じてはいないけれど、そんな自分の生活に一石を投じる何かを持つ男。

 セシルの凝視に気付いているのかいないのか、男は黙々と酒を飲んでいる。まるでなめるように杯を傾けているが、元来強いのかあまり顔に出ないのか、ほとんど様子は変わらない。石のようだ、セシルは思った。なりからして冒険者だろう。セシルはますますこの男に興味を覚えた。時は深夜に近付き、喧騒の渦となっている酒場を横切って彼女は男の座っているテーブルに歩み寄った。突然近付いた影に、男はわずかに顔を上げる。

「座ってもいい?」

 我ながら娼婦みたいな言い方だ―――――セシルは思った。本人は気が付いていないが、同じ台詞でも、言う人間の放つ品性が違うとまったく違って見えるということを、彼女は知らない。彼女から滲み出る生れ付きの育ちの良さから出る気品は、どう頑張って下品に振る舞っても彼女を娼婦には見せない。その空気が、男の警戒を解いた。

「・・・」

 コトリ、と杯を置いて男は酒を注いだ。セシルは勝手に了解の意と解釈してそこに座り忙しそうに立ち働いている酒場の娘に新しい杯を持ってきてもらうよう頼んだ。

 二人はしばらく何も言わなかった。傍から見れば、店が混雑していて仕方なく同席になった他人どうしにしか見えまい。

 あちこちから響きわたる笑い声。大声で話し合う人々。夜半過ぎでもその勢いは衰えず食事も酒も追加が止まることはない。

 そこから取り残されたように、二人は酒場の隅にいた。

「・・・」

 肘をついて放心したようにそれを見つめるセシル。

「みんな・・・こうやって一日を生きぬいてるのね」

 呟くようにして言う。まるで切り離された別の世界にいるようだ。

「息をしている以上仕方ない」

 ぼそり、男が初めて口を開いた。低いが聞き取りにくいわけではない。暖かみのある声だ。

 その答えが、セシルには気に入った。

 彼女は身体を男の方に向け、新鮮なものを見るような目で彼を見た。

「・・・ふうん」

 どちらがどう言って相手を誘ったのか―――――今から思うとクロムが誘うはずがないのだが―――――忘れたというより、思い出せないのだが、とにかく気が付くとセシルは酒場の二階にいた。

 その夜のことは、セシルは今でも忘れることができない。

 クロムは、しなやかな獣のように動いた。

 ほれぼれとするほど精悍なその体の下に組み敷かれ、セシルは、無口なこの男の胸の奥にある強い情熱を知った。嵐にもまれる木の葉のように翻弄され、激しく蹂躙されながら彼女は、その一つ一つを悉く歓びに組み変えられ、初めて教えられる快楽に恍惚とした。

 狂おしいほどに丹念な愛撫とそのやるせなさで、クロムはセシルをより深い陶酔の旅へと誘った。身体のあちこちに刻んだ紋章の数々が、彼に触れられるたび、まるでそこだけが氷山の中で激しく燃えている炎のように熱く熱く燃え上がり、セシルの思考を麻痺させ

とろけさせた。今まで出会ったどの男も、彼女をこんな風にはしなかった。

 触れられるたび熱くなった身体の紋章の熱さを・・・セシルは未だ覚えている。身体で覚えているのだ。

 結局その夜はその宿で一夜を過ごしたのだが、朝気が付くと男はいなかった。ご丁寧に泊りの代金の半額だけがテーブルに置かれていた。セシルは階下に降りてカウンターで彼がどこに行くか耳にしたかどうかを尋ねてたが、それは徒労に終わった。旅人相手の宿屋

である。いちいち誰がどこにいくかなどという関心は払っていられないのだ。セシルは思考をフルに回転させた。

 あれは冒険者だ。それは間違いない。単独か、多くても二人程度で旅をしているに違いない。それも男とだ。それ以上なら黙って別の宿に一泊したりはしないし、女と一緒なら自分と寝るはずがない。男との二人連れなら、突然帰ってこなくても理由くらい想像でき

るはずだ。つまり気軽に外泊できる。問題はいつ、そしてどちらの方向に旅立つかだ。セシルの住むこのノルティスの街は、コルモン大陸で知らない人間はいないくらいの大きな街だ。四方に出入りのための門があるが、一番大きく冒険者の使用率が高いのは南北の門

である。両方の方角にそれぞれ遺跡が数多くあるからだ。

 あの男・・・どこから来てどこへ行き、そしていつ旅立つのか?

 焦燥がセシルを襲う。

 忘れられない夜を過ごしただけの理由ではない。

 そうではなく、あの男が唯一他の男と違ってセシルにくれたもの、それはあの熱だ。

 触れられるたび燃え上がるように熱くなる身体の紋章。今まで経験したことのない熱。

 あの男は、絶対に自分に何かをくれる男だ。そしてまた確信はないながらも、ほとんど確実に自分も同じくらいのものをあの男に与えられるとわかる。否、わかるのではない、知っているのだ。これは本能だ。セシルの全身が、セシルの細部にまで到る神経が、細胞

が、彼を追え、あの男と共にいるのだと訴え叫んだ。

 立ち止まるわけにいかなかった。

 セシルは急いで行動を起こした。

 家に帰り、旅の支度をした。荷物はそう多くはない。錫杖、わずかな着替え、路銀。忘れてはならないのが冒険の旅に出る学師の強い味方、学術書だ。研究院に残って研究を続ける限りは魔法を習得したり新しい紋章を刻んだりできるが旅の空ではそうはいかない。

 しかし冒険を続けていく以上能力や技巧の発展を拒むことはできない。

 エストリーズが院長に贈られた本のように、自分の技能の程度に合わせて開いた頁に求めるものが記される。いつしか誰かの手から世に出た強い味方であった。もっとも本の形態が携帯用の研究場所であるということに変わりはないので、いつも回答があるというわけではない。あくまで平等な学問を提供するためのものだ。どれだけ強い呪文を欲したところで、自分の技能がそれに見合うだけの充分のものでなければ、解答は一人で探せとそっぽを向くつれない教師のように、本はその頁に決して答えを載せたりセシルに助言したりはしないだろう。

 セシルはそれを背負い袋に放り込み、そして暦と方角を示す地図とを持って実験室に行った。魔法を使うというのではなかったが、暗く静かで集中できる場所は屋敷の中ではここくらいだった。

 後は運任せ、勘任せ。

 雑念を一切払ってあの男のことだけを考える。武骨な指先に触れられそこだけ火照った紋章の感覚。あの吸い込まれるような不思議なオリーブグリーンの瞳。ほとんど聞くことのなかった低い声。パッと目を開く。暦の一点がそこだけ主張するかのように点滅して見

えるのは周囲が暗いせいだ。わかっていても尚、セシルにはそれくらいのものにも頼るしか他に方法がなかった。正に溺れる者は藁をも掴むの精神で、彼女はその日付までに準備することにした。それはたった二日後だった。

 それでもいい、セシルは思った。だいたい冒険者はよほどの理由がない限り一つの街に滞在することはない。せいぜい長くて四日だ。だとしたら、長い間馬鹿みたいに待っているよりは、いかにも出発するような感じの日の方がいい。早すぎて相手が街のなかにいる

のなら救われるが、待ちすぎて相手が自分の知らない内にどこかに行ってしまったというのは、あまりにも間抜けすぎる。

 支度を終えて、セシルは少しの間だが冷静になる時間を与えられた。

「・・・・・・・・・」

 自分は―――――一時的な感情で行動を起こそうとはしていないだろうか。あの男がなんだというのだ。たまたまいつもと違う経験をしただけではないのか。激情に駆られ、今の屋根ある生活、安定した暮らしを捨てようというのか。大地に横たわり魔物と野盗の影に怯え雨の日も歩きつづける生活をしようというのか。

 もう一度よく考えるのだ―――――

 何度も何度も自問した。

 答えは同じだった。

 自分は一時の感情で出て行こうというのではない―――――あの男に確信に近いものすら感じるのだ。それが間違いというのなら、自分は学師をやめてもいい。それくらいの覚悟がセシルにはある。誰かにそう言ったのなら、簡単に覆すことができる。気が変わったのよ、気の迷いだったわ、あれはもう終わり。

 しかし自分に誓い、自分にそれだけの覚悟があると自覚する場合は違う。相手は自分自身であり、決して嘘をついてごまかすことも、言い逃れをすることはできない。セシルは決心した。旅立つ三時間前、両親の元へ行ってこれから旅立つ旨を伝えた。反対されるのがわかっていても賛成されるのがわかっていても、こういう場合は直前に言ってしまうほうがいいことは目に見えている。反対なら相手が止めたり家を出られないように措置を取る前に出ていくことができるし、賛成ならば早いに越したことはないからだ。

 両親は、ちょっと呆気に取られていたが、娘の瞳の光の強さを見ると、黙って、

「あ・・・そう」

「気をつけてね」

 と言ったきりだった。

 セシルは街に出た。勘が伝えるのは北の出口。北はさらに大陸の奥地へ入り、遺跡のある方角だ。全くの勘である。昼下がり彼女は門に寄り掛かってひたすらあの男が現われるのを待った。一時間、二時間・・・。太陽が次第に傾いていく。それでもあの男は絶対に来る、最初持ち続けていた確信は太陽が傾いていくのにつれて同じように傾いていった。セシルの全身を冷たい汗が伝う。

 ―――――もしかして、はやまったか?

 もしかするともう遺跡から帰ってきた後のことだったのかもしれない。もう出発してしまったのかもしれない。もうこの街には、この大陸にはいないのかもしれない―――――

「・・・・・・」

 セシルはぐっと拳を握った。だとしたら、やはり思い込みだったのだろうか。錯覚?

 激情に駆られて冷静な判断ができなかっただけなのか。奈落の底に落ちていく感覚。それだけの縁だったのだろうか・・・。

 しかし彼女は激しく頭を振った。違う。奈落の底に落ちていく感じがするのは、それだけ絶望を感じているということだ。自分は一時の激情だけでなくあの男に恋したのだ。絶対にそれだけは間違いがない。もしもうこの大陸にいないというのなら、高名な占い師に

聞きもするし、世界中を尋ね回ることだって厭わない。この街から出てしまった後で行方がわからないからといってだからなんなのだ。構うものか―――――。

「大きな男だったなあ」

「ああ。あんな鍛えた身体はそうはないよ」

 日が沈んでしまう前に対策を練らないと。彼女の横を何人もの冒険者たちが通りすぎては街を出ていった。なんとかしなければ。

(え?)

 セシルは今通りすぎた冒険者を振り返った。三人連れ。今―――――今、なんと言っていた?

「―――――あの」

「え?」

 呼び止められて冒険者は立ち止まった。

「あの、今・・・大きな男・・・って」

「ああ」

 そのことか、という顔で冒険者の一人は仲間とうなづきあった。

「背が・・・高かったんですか」

「うん。すっごい大きな男だったよなあ」

「見上げるようなとはあのことだね。二メートルはあるだろ」

「ど、どこに! どこにいました?」

「え・・・み、南の門」

「! ―――――」

 青ざめるのが自分でもわかった。あの男―――――彼女をこうまでしたあの男は、ひどく背が高かった。実際は百九十センチなのだが、この時のセシルに十センチの差は大した意味はないだろう。

「どうも!」

 セシルは砂もうもうといった感じで駆け出した。南門! ここからどんなに急いでも、三十分はかかる。混んでいる時間帯だから大通りを避けてもそれくらいかかる。地元の有利さというのか、裏道という裏道を使いきって彼女は走った。それでも駆け出した時にち

らりと見た広場の時計から、南門に着いた時の時計の針を見ると、二十分は経過していた。 まともに立っていられず、がくがくと震える膝を押さえながら、セシルはぜいぜいと息をした。日が傾こうとしている。それらしい人影は、ない。

「・・・はあ」

 激しい息の中からため息を一つついて、セシルは門の柱に寄り掛かり、そのままずるずると座り込んだ。

「何が勘よ・・・もう」

 小さく呟く。突然座り込んだ彼女を周囲が不思議そうに見ている。

 ああ・・・。

 セシルは空を仰いだ。西は茜色、しばらく白い空、そして徐々にコバルトブルーを帯びた空に。グラデーションというよりは、最早キャンパスのようで。

「・・・・・・・・・」

 これからどうしよう・・・。

 虚脱感でいっぱいだった。とにかく家には戻りたくない。両親が何かを言うはずもないが何か言われるのが嫌だったし、一度戻ってしまうと絶対にこの虚脱感を理由に行動を起こせないように思えた。それだけはだめだ。

 とりあえずどこかの宿にでも泊まるか・・・。セシルは立ち上がった。

(地元なのにそこの宿に泊まるってのも変な話よね)

 パンパン、と埃を払う。ため息をついてこれからの行程を考え、もう一度空を見上げた時、セシルの顔色がわずかに変わった。

「―――――」

 それは、別になんでもない自然のいたずらだった。

 誰も不思議だねと言うはずもないし、平生の彼女でも気にも止めずに視界を元に戻すはずだ。しかし今のセシルには違った。

 空には、細い細い雲が、夜を迎えた空から昼でも夜でもない空、そして昼を終えようとしている空へと伸びていた。それだけのことだった。よくある夕方の光景。

 しかしセシルは何かを感じた。鼓動が高鳴る。

 とくん、とくん、とくん、とくん。

 激しい息遣い。苦しい・・・。

 とくん、とくん、とくん。

「―――――」

 セシルは息苦しさに耐えかねたように顔を手で覆い、そして開き直ったかのように顔を上げると、だっと走りだした。

「・・・」

 ―――――なんだろう? どうしてこんなに息苦しい。走ったからではない、悲しいからでもない。なぜ走っているのだろう? 何の為に、こんな確信に満ちた走り方を? そしてそんな風に街を駆けて、―――――一体どこへ行こうというのだ?

 もうすっかり日が暮れるという頃、セシルは北門に辿り着いた。

「準備はいいな」

 二人の人影が門を出ようとしているところだった。

「! ―――――」

 いた―――――。

 セシルの凄まじい勢いと足音に向こうも気付いたらしい、訝しげに振り返る。

「?」

 連れは一人だ。髪が背まである男。眉を寄せて不審そうにセシルを見つめている。

「・・・」

 あの男も気が付いたようだ。

「・・・いた・・・」

 あとは息が続かなかった。髪の長い男が尋ねる、

「・・・お前の知り合いか」

「・・・・・・・・・」

 ようやく息を整え、セシルは顔を上げた。

「私も行くわ。行かせて―――――もう決めたから。一緒に行くから」

「な・・・」

 髪の長い男―――――ディアスは、絶句したように呟き、そして一気にまくしたてた。

「なんだあんたは・・・こいつとどういう関係だ」

「宿代半分ずつの関係よ」

 ディアスのことなど見えていないようにセシルは歩み寄った―――――今日一日中探し回った男。

「あなたと一緒に行くわ。行きたい。何を言われても平気――――ついていく」

「・・・」

 オリーブグリーンの瞳・・・黙ったままだ。

「どういうことだ! おい、いったい何があったんだ」

「だから私も今日から仲間ってこと。よろしくね美形さん」

「び・・・! おい、なんだこの女は!」

 ディアスの抗議の声も聞こえない。

 セシルはにやりと笑って自分を見つめる男に手を差し伸ばした。

「まだ名前を言ってなかったわね。セシルよ」

 その手をじっと見てから、男はどうでもいい感じで握った。そして言った。

「クロムだ」

 そしてこの間中―――――ディアスの存在は一切忘れられていた。





 あれから抱かれたことはない。それでも彼を愛している。昨日よりも愛しているし、明日は今日より愛しているだろう。ディアスは最初どういうつもりで彼女がついてきたのかわからなかったようだが、その内になんとなく察したようだ。この男も、最初はあんな風

に猛抗議をしていたが、元来無口で、しかもこういう事態は抗議するのも面倒だと思ったらしく、しばらくすると戦いがぐっと有利になったことも含めて、セシルを認めるようになっていった。

「・・・ふう・・・」

 大きく伸びをしてから、セシルは部屋に入った。

「ふふん・・・今日辺り夜這いでもしちゃおうかな」

 そんなことを呟きながら、まだ疲れのとれない身体を横たえる。ベットに慣れないような身体になってしまった―――――前の生活では考えられないことだ。それでも今の生活が好きだ。

 じきにセシルは夢も見ないほど深い眠りについた。疲れがまだ完全に抜けていないのだろう。

 そしてその夜半過ぎ・・・密かに怪しげな影がいくつもいくつも蠢いている・・・。

 庭に。玄関に。門の側に。そしてとうとう建物の中へと。

 ・・・・・・   ・・・・・・   ・・・・・・

 真夜中・・・。誰も気が付かない。煙が廊下に充満し、なにかがぱちぱちと燃え、次第に勢いを増して燃え始め・・・轟音のような響きを誰かが耳にして、或いは小用に目が醒めて廊下に出て、初めて知る、

 火が放たれたことを。

「火事だ!」

 まず叫んだのは誰だったか・・・とにかくその叫びに飛び起き、既に煙のまわった室内に茫然としつつ、激しく咳き込みながら廊下へ。その廊下も既に煙が立ち篭めている。

 火事の一報にまず飛び起きたディアスは、事態をすぐに察し、枕元に置いてある旅の道具一式と剣を引っ掴んだ。

「クロム!」

 叫んで振り返ると、彼は既に準備を終えている。二人で廊下に出ると、大騒ぎしている召使たちにまぎれてエストリーズの姿が見える。

「こっちだ」

 ディアスは彼女の手を掴み急ぎ吹き抜けの回廊から庭に出た。セシルもしばらくして出てくる。

「エストリーズ・・・! 無事?」

「は、はい・・・」

 エストリーズは気丈に答えたが、さすがに青ざめている。

「一体どういうことだ」

「みんな無事かね」

「お父さま・・・一体なんなの? 何があったの」

「・・・うむ・・・」

 セシルの父親アルヴィンは渋い顔をして答えた。名家ということは、敵も多いということだ。思い当るふしがいくつかあるらしい。

「それより・・・書物庫の紋章はいいの?」

「ああ大丈夫。禁水・禁火・禁侵入の紋章を使っているからね」

「・・・へたな魔法や鍵よりよっぽど信用できるわね」

「そういうことだ。それより怪我人の・・・」

 当主がそう言おうとした時、彼の言葉は、突然現われたいくつもの黒い影の登場によって消えようとしていた。

「―――――」

「クロム」

「・・・」

「セシル―――――この方たちは」

「あんまり好意的な連中じゃないみたいね・・・」

 錫杖を構えながらセシルは言った。

 じり・・・じり・・・

 近寄ってくる。ディアスとクロムは既に抜刀し家人の前に彼らを守るようにたちはだかり、突然の侵入者たちと戦うべく身構えている。

 ゴオオオオオ・・・!

 激しく炎上するスウィントネス家を背に、激しい戦いが始まろうとしていた。



 その頃アリスウェイドとリスレルは、昼すぎにスウィントネス家を出発し、そのままスヴェル王国へ行くかと思いきや、そのままノルティス―――――スウィントネス家のある街―――――で軽く昼食を済ませ、水と食料の補給をしてそのまま旅立つ―――――はずだった。夜も遅くなってから街を出たのには理由がある。

 二人が食事をしていた酒場で大人数による喧嘩が起こり、ばっちり巻き添えをくった二人は、怪我こそしなかったし参加もしなかったが、目撃者として今の今までずっと警邏局に留まらされていたのだ。やっと解放されて街に出た時は、真っ暗だった。

「・・・・・・」

「あーあー・・・」

 リスレルが薄暗い表通りを見て落胆の声を上げる。何故かというと今が巡礼の多い時期で、いくら宿屋が真夜中までやっているとはいえ、到底泊まれそうにもないということを彼女は旅の経験で知っている。その証拠に、宿の並ぶ看板には、すべて『満員御礼』の札がかかっている。酒場が開いていてもこれでは仕方がない。

「私は少々人がいいのかな」

 ため息をつきながらアリスウェイドはこんなことを言った。

「少々どころじゃないと思うなあ・・・すっごいお人好しだよ、おじ様」

「うーん・・・」

「でもそれでいいと思う」

「・・・ところでこれからどうする?」

 言われて、リスレルは酒場の明かりだけに照らされて薄暗くなった道を見渡した。

「とりあえずもうこの街に用はないから、適当に歩いて疲れて眠くなったら野宿っていうのは?」

「賛成だね。たくましい連れでなによりだよ」

 リスレルは微笑むと早くも東門のある方向へと歩きだしていた。



 二人が異変に気付いたのは、街を出てしばらくしてからだった。

 圧倒されるほどの星空の下、リスレルがいつものように空を見上げながら歩いていて、彼女は気が付いた。

 街の方角から煙が上がっている。

「おじ様・・・!」

 ノルティス街の中でもスウィントネス家は郊外の、丘の上あたりにある。煙はそこから上がっていた。

「む・・・」

 アリスウェイドはすぐに異変を察知し、

「リスレル」

 と声をかけて、街の方へと引き返していった。



 アルセストは、部下たちが火を放つだいぶ前に屋敷に一人、侵入していた。

 目指すは書庫・・・。そこには数々の貴重な紋章を保管した書物がしまわれている。自分にはなんの興味もないが、これも依頼人の注文の一つだ。

「・・・・・・」

 長い長い廊下の向こうに・・・その扉はあった。しかしその扉に辿り着く前に、空気が微かに震えるほどの抵抗を感じた。前方に目を馳せると、常人には見えない魔法の痕跡が彼の目に映った。侵入者を封じるための魔法だ。

 彼は口元を歪めると少しも歩く速度を落とさず歩き続けた。

 ズッ・・・

 ズゥオオオオオオ・・・!

 結界は、すぐに侵入者を察知して強い反応を示した。青い円が現われ、円の中心からゼリー状のものがぱっと膜を張って侵入を阻もうとする。

 しかしアルセストが通り過ぎ様、手をスッ、と払ってしまうと、何事もなかったかのように結界は消え、難なく彼は書庫の扉に辿り着こうとしていた。



 エストリーズはまず火を消そうと思い、詠唱を始めた。

「我の要求に応じ仮の姿を現わし給え汝の右手、汝の左手をすぐさま開かせ給え・・・」

 ゴゴゴゴ・・・

「う?」

 ォォォオオオオ・・・

 突然屋敷の周囲に黒雲が立ち篭めた。どこから現われたかと考える隙も与えないほどに素早く。いや、現われたのではない、出たのだ。

「汝のその力・・・解放せしめ給え!」

 エストリーズがサッ! と左手を払った。

 カッ・・・

「〈第五の雲〉!」

 ポッ・・・

 ポッ・・・

 サァァァァァ・・・

「―――――雨が」

 ディアスは信じられないように呟いた。目の前で戦っていた敵も茫然と空を見上げている。雨すら呼ぶとは・・・天文学師とはおとなしいくせに恐ろしい。

「火が消えていくわ」

 セシルも空を見上げて呟く。全焼は免れた。

 しかし。

「! ―――――」

 セシルは絶句した。屋敷のひときわ高い場所にある時計台のその上に―――――人が。

 ゴオオオオオオ・・・。

 凄まじい炎に照らされて、不気味なまでに静かな青い影。その影が、

「・・・・・・・・・」

 スッと手を天に向かって差し出した。

 ―――――ゥゥッ

 と・・・雨が止んだかと思うと、次の瞬間あの青い影が手を横に振り払った。

 サアアアアア・・・

「え!?」

 エストリーズは信じられないように声を上げた。自分の呼んだ雲が、あの男のたった一つの動作で霧消してしまった!

「そん・・・な」

 ゴオオオオオオオ・・・

 火がまた強くなってきた。

「一体・・・」

 その時、目ざとくエストリーズが雨を呼んだことに気付いた黒い影の幾つかが、白刃を閃かせて彼女の前に立ちはだかった。

「待て! 天文学師は生かして連行せよとのマイエル様のご命令だ!」

 その誰かの声でエストリーズは剣の犠牲となることを免れた。その代わりに口と手とを同時に押さえられ、今連れていかれようとしている。他の仲間は目の前の多すぎる敵と戦うのに精一杯で気付きもしない。

「ディア・・・!」

 必死で助けを呼ぼうとしたがそれもかき消された。

 しかし、通常では気付かないほどか細いその声を、ディアスが聞き取った。

 そう・・・燃え上がる家は・・・恐ろしいほどあの時と酷似している。似ている状況において彼があまり思い出したくない昔を思いつつ戦っていたからこそ、その声が、いつしか自分を呼んだ声とあまりに似ていたからこそ、彼は気付いたともいえよう。

「! エストリーズ・・・」

 ディアスは向かい合っていた敵をかなり強引に踏み込んで倒し、急いでエストリーズを連れ去ろうとした男を追った。

 ザッ・・・。

 しかしその前にあの青い影が立ちはだかった。手には、既に手に入れた貴重な書物がある。

「ここは一方通行だ」

 青い影はぞっとするような冷たい声で言った。

「引き返してもらおうか」

 その言い方が―――――ディアスの神経を逆撫でした。この男―――――剣士だ。

「仲間を返してもらおう」

 シャッ!

 ディアスは剣を翻して構えた。青い影がその剣を見て微かに反応する。

「ほう・・・・・・貴様・・・剣士か」

 シャッ・・・

 青い影も静かに剣を抜く。

 切れてしまいそうに緊張した空気が流れた。青い影は盗みだした書物をそこに放り出し構えた。

「・・・・・・」

 ディアスは汗を浮かべながら間合いを詰める。

 空気だけでわかる―――――強敵だ。

 ギィン!

 ズザアアアッ

 二人の周りの草が巻き起こる衝撃で激しく薙ぎ倒された。

 ぎぃぃん!

 シャッ

 シャッ

 ガッ!

 剣と剣が噛みあう・・・ディアスは強い力に押され、負けないほどの力で押し返しながら青い影に言った。

「士道不覚悟・・・! 貴様それでも剣士か」

「ふ・・・下らんことを・・・そんなものに縛られているから目の前で仲間を奪われるのだ」

「! ―――――」

 ザッ!

 ―――――キィン!

 ディアスは勢いよく弾き飛ばされた。危うくそのまま背中から倒れかけたが、なんとか踏み留まった。

「なにかに固執するとろくなことにはならん」

「!」

 ザッ!

「ならば剣士などになるな!」

 ギィィィン!

 ディアスの渾身の一撃が青い影を押しやり弾いた。

「行け!」

 左方からの声に青い影はハッとした。

 紋章学師・・・!

 青い波動が彼を襲う!

 バッ・・・

 青い影は左手を突き出した。

 ギィィィンンン!

「! そんな!」

 セシルは青くなった。青い影が差し出した手に自分の魔法が阻まれている! まるでそこに膜があるかのように、魔法の波動が彼だけよけている。

「な・・・」

 パリ・・・

 パリィィッ

「遊びはこれまで・・・」

 完全に魔力が消えた頃を見計らって男が差し出していた手を直すと、まだ余力の残っているそれが小さな雷となって彼の身体を取り巻いた。

「そろそろ行かねばならん」

 青い影が後方の部下たちに合図すると、エストリーズを抱えた男も含めて、一斉に退却しようとしている。スウィントネスに滞在していた紋章学師五人はいずれも負傷してこれ以上戦えそうにもなく、もし可能だとして、不思議なことに魔法が一切効かないこの男がいたのでは、この男に構っている間に逃げられてしまう。

「お待ち・・・! エストリーズ!」

 落ちていた書物を拾い上げ・・・青い影は彼らを見た。

「またどこかで会おう」

 ディアスには嘲笑するような笑みを。カッとなって飛びかかろうとする前に青い影は一瞬の跳躍で元いた時計台の上にいた。

 ゴオオオオ・・・!

「くそっ・・・!」

 ぎり・・・ディアスが歯噛みした時だ。

「〈捕縛〉!」

 聞き覚えのある声が、後ろから響いた。同時に白い雲のような細いものがエストリーズを抱えている男たちを捕らえ、―――――一瞬の後に硬直させた。

 彼らはいっせいに振り返った。

「――――――――――」

「リスレル!」

 そこには、やっとのことで辿り着いたアリスウェイドとリスレルがいた。アリスウェイドは早くも抜刀している。リスレルの魔法を逃れた大多数が乱れるようにこちらへやってきてアリスウェイドに誰何した。

「何者・・・!?」

「名を名乗れ!」

 アリスウェイドはちょっと困ったように考えてから、彼らを見据えて言った。

「アリスウェイド・ジェラコヴィエツエだ」

 男たちは顔を見合わせる。

「アリスウェイド・・・!? 剣天のアリスウェイドか」

「ドナルベイン・バルタザールに称号を与えられたという・・・」

「なるほど面白い・・・名を上げるチャンスだ」

 チャッ・・・

 一斉に剣が抜かれた。が、

 ズザアッ

 次の瞬間突然吹いた突風のような衝撃に、彼らは斬られたことも気付いていなかった。

 剣を抜いた次の瞬間にアリスウェイドの剣圧で斬られたのだ。彼らはほぼ同じタイミングで倒れた。

「名を上げるチャンスはなかったようだな」

 アリスウェイドは淡々と言うと、時計台の上の青い影を見上げた。

 ゴオオオオオ・・・

「・・・・・・」

 青い影の方も今のアリスウェイドを見ていた。フッと消えたかと思うと今また目の前に現われ、再び書物をばさりと放り出して抜刀する。

「面白い・・・剣天とはどれだけのものか見せてもらおうか」

「・・・それは構わんが・・・戦い終わって逃げきれるだけの余力が残っているかな」

 青い影はハッと辺りを見渡した。

 紋章学師が新たに四人。大きな身体の戦士と、先程自分と対等に戦った剣士。魔導師らしき少女一人と・・・そしてこの剣天。誰かを倒しても別の誰かと戦わねばならない。剣天と戦った後にだ。果たしてそれは賢い選択か・・・。

「・・・―――――・・・」

 チッ、小さく舌打ちして、青い影はザッという音と共に後ろに大きく飛んだ。エストリーズを抱えて硬直している男たちの元まで。

「う・・・ア、アルセスト様」

 青い影はちらりと彼らを見ると大して関心のないように呟いた。

「たわけが・・・自分でなんとかしろ」

「そ、そんな・・・」

 ザッ・・・

 青い影は、次の瞬間には姿が見えなかった。

「あっ・・・」

「セシル、あのお嬢さんを早く」

「そ、そうだったわね」

「他の者は消火活動を! 怪我人はいないか!」

 混乱から解き放たれて、当主アルヴィンがてきぱきと動き始めた。セシルは完全に捕縛の魔法に捕われて身動きできない賊から易々とエストリーズを取り返し、盗まれた書物も結局は元に戻った。

 しかしディアスは一人そこに立ち尽くし、激しい怒りに胸をたぎらせていた。

(あの男・・・次は許さない)





 それから三日が過ぎた。

 賊の一人がうっかり漏らした、天文学師は生かして連行せよとのマイエル様のご命令だ、という言葉尻を聞き逃さなかった当主アルヴィンは、早速報復に乗り出した。相手はスウィントネスを昔から敵視しているサンセヴェリナ家の当主で、何度となくいやらしい方法でこちらの壊滅を謀ってきたが、今度のことで尻尾を掴んだ以上、最早一つの家としての形態を保てなくなるのも時間の問題だろう。

 その間スウィントネス家は急ぎ屋敷の建て直しをしていたのだが、大半は焼けてしまい、時間がかかるようだ。

「間に合ってよかった」

 酒を飲みながらアリスウェイドは言った。ここは街の酒場である。

「僅差だったね」

「ほんとにまあ・・・よくわかったわね」

「・・・色々な事情で街に夜まで足止めされていてね」

 ぷっとリスレルが横で吹き出す。

「?」

 不可解そうな表情で顔を見合わせるセシルとエストリーズ、コホンと決まりが悪そうに咳をひとつつくアリスウェイド。

「おじ様はねー、お人好しだから」

「はあ・・・?」

「お人・・・好し」

 ガタン・・・

 そんな話は聞いていないように、ディアスが突然立ち上がり、そのまま出ていった。

 この男はいつも突然だ。

「ねえねえ何かあったの?」

 身を乗り出してリスレルに聞くセシルをおいて、エストリーズはディアスを追った。酒場を出て通りに出ようとしている。

「ディアス・・・」

 遠慮がちに言っても、こんな言い方では彼は振り向かないと思ったが・・・予想に反してディアスは立ち止まって少しして振り返った。

「―――――」

「あの・・・あの時わたくしを助けて下さろうとしてくれました。まだちゃんとお礼を言ってなくて」

「・・・・・・・・・」

「どうもありがとう」

「・・・お前を助けようとしたわけじゃない」

 ディアスはまた歩きだしながら無愛想に言った。

「---------天文学師が一人減ると戦いが不利だからだ」

「え・・・」

「・・・ふん・・・」

 ディアスはそのまま通りの向こうに消えた。

 その様子を酒場の窓から見ていたセシルとリスレルは、ディアスの背中を見つめたまま立ち尽くすエストリーズの後ろ姿を見ながら完全にこんな状況を楽しんでいた。

「はあー・・・純愛ですねえ」

「あれはあれでディアスも進歩したじゃないの」



        『ありがとう』

        『嬉しいな・・・』



 どこかで声がしたような気がして、ディアスは眉根を寄せた。







 家の完全な再建を待たず、セシル達は旅立つことにした。今はもう街を出て、アリスウェイドとリスレルと共に草原を歩いている。

「これからどうするの?」

 リスレルの問いかけにセシルは肩をすくめる。

「なんだかねえ・・・力が抜けちゃったような気がして」

「特に行き先が決まったわけではないのです」

「ふうん・・・」

 サアア・・・

 風が吹いて、腰ほどまでもある若草色の草が一斉に同じ方向に薙いだ。春ならではの美しい光景だ。

「おじ様私たちはスヴェル王国のご用終わったらどうする?」

「そうだなあ・・・」

 すると今までむっつりと黙っていたディアスが突然、

「待て・・・」

 強い調子で二人を止めた。全員が彼に注目する。

「・・・二度も命を救けられた。・・・・・・借りは返さなければならない・・・。

 ジェラコヴィエツエ・・・・・・あんたの旅について行く」

「・・・」

 アリスウェイドは無表情な瞳でディアスを見ていたが、やがて答えた。

「・・・それは構わんが---------・・・」

 彼がディアスの仲間たちを見ると、予想に反して誰も反対するような顔をしてはいなかった。

「わたくしはディアスについていきます」

「私はどっちでもいいわ。でもクロムが、」

 セシルがクロムを示して、

「ディアスと旅をするんだったら、ついていくわよ」

「・・・」

 クロムは黙っている。肯定の何よりの証だ。

「・・・・・・・・・」

 突然連れの増えたこの状況に、アリスウェイドはちょっとだけ困ったような顔をした。

 誰かが増えるのが困るとか、彼らがついてくるのが困るとか、そういうのではない。気が付くとこういう事になりやすいのは一体どういうことなのだ。

 隣でくすくすと笑っていたリスレルが、

「それでおじ様。ご用が終わったらどうする?」

「そうだな---------」

 ふと顔を上げると、鳥の群れが飛んでいる。渡り鳥でもあるまいに、珍しい。乱れた三角形をつくりながら群れはゆっくりと、しかしふと目を離してもう一度探すと、もうそんなところまで行ったのかと思うほどの速さで、北西に向かって消えていった。

「・・・ジアイーダにでも行くか」

 リスレルはにこにこと笑っている。

「うん。いいね」

 アリスウェイドはディアスたちを振り返り、

「いいかね?」

 と聞いた。異存を唱える者はいなかった。

 やれやれと息をついてアリスウェイドは歩き始めた。旅の供が増えてルンルンのリスレルがそれに続き、ディアスとクロムが、そしてセシルとエストリーズが続いた。

 こんな旅は、まだ当分続きそうである。



 澄んだ青空に、九星が一瞬だけ見えた。



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