第一章 世に比類なき
第一章 世に比類なき
エストリーズは、生まれてすぐに天文学院に捨てられた。
いや、捨てられたという言い方は正しくないのかもしれない。ただ、彼女を取り巻いていたその時の状況や彼女自身をそういう境遇にした者の気持ちからいえば―――――やはり捨てられたという形容も、またふさわしいように思える。
エストリーズの父親はどごぞの国の男爵である。母親はその男爵の屋敷で働く小間使いだった。要するに男爵がきまぐれで召使いに手をつけ、その結果エストリーズを宿し、彼女は生まれてようやく一年が経とうという頃、天文学院に出されたということだ。
男爵は気のいい男であったが夫人が大変な嫉妬深い女で、エストリーズの母親が彼女を宿したと知った時たったの金貨十枚で母親を追い出し、大変な難産の末エストリーズの母親が死んだと聞いてからは、エストリーズを引き取ると言う男爵の言葉をほとんど無視し
てどこかへ里子に出す手配を始めた。それをすんでのところで食い止めて天文学院へ送ったのは、男爵のせめてもの償いであったのかもしれぬ。妻の剣幕を見ていてはろくな養い親のもとへ行くことが不可能なのは火を見るよりも明らかであったし、であるならばへた
な人間のもとへ送るよりは天文学院のほうがずっといいと思ったのは、当然の事であったと言ってよい。もとより星を見ることが好きな男爵は、親しい天文学院の院長に頼み込んでエストリーズを引き取ってもらったのだった。
こういった状況から見ても、エストリーズが捨てられた、という形容を真っ向から否定する要素はあまりにも少ない。まあ本人からすればそんなことはどちらでもいいことであって―――――大した問題でないということだけが明らかだった。そんなことよりもエス
トリーズは、今一番の難題であるこの世で一番美しい月を見ることで頭がいっぱいだった。 それは天文学の勉強をする上で、次の段階に進むためにはどうしても必要な、越えなければ先に進めない壁だった。エストリーズは天文学師なのだ。
学師と学者には大きな隔たりがある。学者は勉強を生業とし、一生を研究に費やす者たちの総称だが、学師は魔導師の傍系のようなものである。
ここで注意したいのは、学師たちは魔法を使って戦うことを生業としているわけではないということだ。彼らもそのほとんどが学者同様、研究に一生を費やすという生活を送っている。では学師と学者、両者の違いはというと無論それは魔法が使えるか使えないかにつきるのだが、学師は、研究のために必要に迫られて魔法を習得した者、という言い方が一番わかりやすいかもしれない。天文学者の場合天体観測が研究に欠かせないが、雨期にどうしても調査をしなくてはならない時、ただ雨があがるのを待っていては季節が変わって星が移動してしまう。こんな時、学師たちは一時的にそして部分的に雲を払い雨を降らせずに天体を観測できるような環境へ学者たちを導く役目を任う。そして学者たちと共に天体の観測をし、終わったらまた天候を元に戻すのだ。完全な魔法使いとまではいかないが、天体の力を借りて何かを攻撃するという術も、結局は小惑星の衝突時のエネルギー観測や軌道の計算のためだけに生み出されたものであるといってよい。表へ出ればそこそこ強力な学師たちも、それらの術の習得はそもそも研究のためやむなく、という大前提で行なわれているので、冒険者の一行に見られることは非常に稀だ。いうなれば学師たちの持つ魔法の能力は、医者が医学を習得する上でラテン語が必要だからラテン語を勉強し、その結果ラテン語ができるようになったというのと同じで、学習課程の完璧な副産物であるといっていい。ただ学師は学者と違って天候に応じて色々なことをしなければならないという任務も負っているので、修業には余念がないというが―――――エストリーズはその課程の中で誰もが引っ掛かる壁に邪魔されているのであった。
世の中には、勉強して得られるものと、そういった努力とはまったく無縁の場所で偶然に助けられて得られるものとがある。
エストリーズの場合まさに今がその状況で、死ぬほど勉強してこの世で一番美しい月が見られるというのなら、彼女はとっくの昔にそうしているに違いない。
この世で一番美しい月を見ないと、次の研究に進むことができないのだ。
この日も彼女は森まで行って月を一晩中見ていたが、結局月はこの世で一番美しい月になることはなく、肩をおとしてエストリーズは帰ってきた。玄関付近を歩いていたヴュイワ学師が、それを見つけてにこにこと話し掛けてきた。
「まただめだったようだね、エストリーズ」
エストリースは顔を上げ、相手が院の中でも長老筋の一人であることに気付いて、慌てて礼をして答えた。
「はい・・・。もうこれで三ヵ月になります」
「ふむ・・・まあそれくらいかかろうな。なにしろ一ヵ月の半分は見ることができんからな月は・・・・・・その間なにもできないのは、さぞかし辛かろう」
「はい」
しゅんとして答えるエストリーズを見て、ヴュイワ学師は笑ってその肩に手を置いた。
「研究室に来なさい。励みになるかもしれん」
エストリーズの胸が踊った。
ヴュイワ学師は、自分の『この世で一番美しい月』を見せて、それを見て励めと言ってくれているのだ。発奮の材料としてはこの上なくよいものになるに違いない。
真っ暗な研究室は、明かりを灯しても仄明るく紺青色になる程度でしかない。宇宙をイメージし、術を出しやすいようにするためだ。詠唱が始まり、しばらくして轟音と共に姿を表したぞっとするほど美しい銀色の三日月・・・エストリーズは足が竦んだ。身体が震
えた。恐怖に近いものさえ感じ、喉に無理矢理布でも詰め込まれたみたいに、何も言うことができなかった。ヴュイワ学師のこの世で一番美しい月は、そんな迫力を持っていた。
術が終わり、月が消え、昼間のように明るく灯りが灯っても、エストリーズは気が付かなかった。この世で一番美しい月とは、平均あのくらい美しくなければならないのだ。自分は果たしてあんなに美しい月を見ることができるのだろうか。
そんな疑問が頭をもたげ、発奮どころか意気消沈して廊下を歩くエストリーズを、今度は別の声が呼び止めた。その声こそがエストリーズの父親である男爵の親しい友人で、彼女を引き取ることを快諾してくれたこのフィザン天文学院の院長であるメリウス学師のも
のであった。
「あ・・・院長さま」
「今いいかね? 部屋まで来なさい」
「はい・・・」
胸の前でぎゅっと手を握り、エストリーズは小さく答えた。何を言われるかはわかっている。叱られるわけではないのはわかっているが、それでも緊張するのは自分がまだ壁を越えられていないという劣等感がどこかにあるからに相違ない。
「どうだね」
「・・・」
うつむくエストリーズの様子からも状況が芳しくないのは伺える。院長は持っていた書類の束を机に置いてため息混じりで言った。
「そうか・・・。見えないというのなら仕方がない。月はほんの二週間程度しか見えないから時間がかかるしな」
「・・・・・・」
「何度も言うようだがこの世で一番美しい月を見ることができれば後はそう大した苦労がないのは、わかっていような?」
「はい・・・」
立ち上がり、青い空を窓から見ながら院長は言った。
「この世で一番美しい月・・・それは見る者個人によってまったく異なる。しかし見ることができればこれから習得する新しい術のほとんどの基礎土台となるためその後の苦労はそう多くはないはずだ」
「・・・」
「しかし見ることができない・・・つまり自分独自のこの世で一番美しい月に関する記憶がないと、この後の研究に進むことはできない。これから行なう研究のすべては上級で、上級のすべてはこの世で一番美しい月に関する記憶が必要だからだ。一度見れば何度でも
自分の術で出すことができる・・・・・・この世に比類なき美しい月は、自分がそう決めるのだ。だから時間がかかる」
「・・・はい・・・」
「三年かかった者もいる。どれだけかかるか・・・それをはっきりと保証できる者はいない」
「―――――」
「しかしまあ、」
振り返って院長は言った、
「あまり深刻にならないことだ。深刻になると美しいものを見る余裕がなくなる。エストリーズ、忘れてはならない、この世で一番美しい月は、自分がそう判断して決めるものなのだということを」
「はい院長さま」
「下がってよろしい」
廊下に出て、エストリーズはほっとため息をついた。まったくその通り。この世で一番美しい月というのは、『自分にとって』この世で一番美しい月という意味であり、月がそういう状態で出るのではない、そういう状態を決定するのは自分なのだ。そしてその月を
見た者だけが、次のステップへ進むことができる。ラテン語ができないと医学の本が読めないように、今のエストリーズにはこの世で一番美しい月が一番必要な教材なのだった。
とにかく一晩中徹夜した後色々なことをしたので眠くなってきた。また今夜も、月を見に行かなければならない。どうせ必要なものを得ていないのだから、研究をしたくともできるはずがない。勉強に鉛筆がないようなものだ。エストリーズは眠るために自分の部屋
へと向かった。今は何も考えずに眠り、自分は自分のこの世で一番美しい月を手に入れなければならないのだ。
次の日も、また次の日も、エストリーズは自分にとってこの世で一番美しい月を見るために、毎夜毎夜出掛けていった。天文学院の場合もともと学師学者の類は、大学の研究者や有識者が引退した後に院を訪れるので、エストリーズの周囲は六十の老年を越えた人間ばかりがほとんどだ。ということは、ほとんどがこの世で一番美しい月を見ているので、エストリーズ一人が年齢の面でも知識の面でも一番の若手ということになる。
もうすぐ二十一になるエストリーズの髪は、腰にからまるばかりに長いつややかな黒に光を放つように輝く。月明かりの紺青の空の下、さながらそれは神話に出てくる夜の女神のようだ。同じくらい黒い瞳に月の蒼い光を映しだし、欠け始めの月を見上げるその表情
はどこかうかない。
「・・・・・・」
違う・・・この月も違う。自分は、どんなこの世で一番美しい月を見たいのだろう。
この世で一番・・・それは、誰もが持っていて、一人一人違うものだ。昼間ヴュイワ学師が見せてくれた月は、ヴュイワ学師からすればこの世で一番かもしれないが、自分にとっては違う。この世で一番美しい月―――――。その月を見ることができるのは一体いつ
のことなのか。
三日経ち四日経ち、エストリーズは、とうとうこの月もこの世で一番美しい月を見ることはできなかった。
四月になり、エストリーズは二十一になった。しかし相変わらずこの世で一番美しい月を見ることはできない。この世で一番美しい月の記憶がなければ次の研究をしたくともできないので、エストリーズは日の高い内は夜起きている分仮眠したり、新月の間は本を読
んだりしている。勉強を少しでもすることで、なにもしないでいることの不安を消してしまいたかった。
この日天気は少し曇っていて、昼も夜も不動の九星が少しだけ見える。
魔導師たちはそれぞれ制約をもっていて、例えば太陽の光で契約している者は、太陽が出ている間は魔法が使えるが、夜になると使えない。太陽の光から力を得て魔法を使うからだ。九星は九つ連なる星ではあるが昼も夜も不動で、大昔は誰もが九星の制約を受けたがって、色々な研究をしたものだったが、今はそんなことをする者は誰もいない。研究の結果、九星は星でありながらも魔導師に契約を与えない唯一の天体であるということがわかったのだ。昼も夜も不動のこの九つの星には、自然界に君臨する不動のものの神が住むとされている。
新月が明け、欠けた氷のような月が姿を見せ始め、エストリーズは先の見えない努力を再開した。時々嫌気がさしてやめたくなることもあったが、それでも夜には必ず月を見に出掛けた。この世で一番美しい月を見るのには自分のその時の感情が大切だというので、月を見る時は幼い頃の楽しい記憶や、学院の人間と遊んだこと、それらの楽しいことや幸せな記憶だけでなく、父親である男爵のことや、顔も知らぬ母のことや、自分と母を追いやった男爵夫人のことを考えたりもした。苦い思い辛い思いは、それがあってこそ人生に
深みを増すことができる。その深みによって月をこの世で一番美しくするか否かは、自分次第だということだ。だからエストリーズは、涙に濡れた瞳で帰ってくることもあれば、どこか機嫌の悪そうな顔をして帰ってくることもある。そして次の日には、また何事もな
かったかのように出掛けていくのだ。
月が徐々に丸くなり、とうとう満月になった夜、エストリーズが今月もだめかなと思っていつもの場所―――――森の小高い丘の木の根元―――――で、膝の上に肘をついてため息をついた時のことだ。
ガサ・・・
エストリーズは一瞬身体を凍らせた。人の気配。
「―――――どなた?」
声が強ばり、震えている。
「・・・」
腰を浮かせようとした一瞬のことだった。
ざっ。
「き・・・」
悲鳴は、乱暴に押さえられた手によってかき消された。背中に激痛が走り、森の木々か見え、枝の向こうに透かして見える紺青の空と、赤みを帯びた新しい満月がちらりと見えた。そしてこの時初めて、エストリーズは自分が襲われたことを知り、押し倒されたこと
を知った。手足を必死に動かして抵抗したが無駄だった。一瞬ののち、一層強い力が両手を拘束し、次に足が乱暴に開かれて、どこかで服が破られる音がした。それでもエストリーズはもがいた。しかしまるで石になってしまったかのように身体は動かない。凄い力で押さえ付けられているのだ。首を絞められている。気が遠くなる―――――
犯サレル―――――。遠い空の向こうで光る雷のような混乱を含む漠然とした恐怖がエストリーズを包む。
そして次の瞬間、
ざしゅっ。
ぎゃあああああっ!
凄まじい悲鳴。ぱしゃ、目の前で魚が跳ねたみたいに血が顔にかかった。
そしてその時、遮断されていた感覚が元に戻った。突然音が耳に入り、木々の微かなざわめき、血の匂い、人の気配が感じられた。
「な・・・なんだ」
自分の首に手をかけたまま誰かが呟いた。その男は自分の上に跨がっている。
エストリーズはその男のおかげで、彼が振り向いた後ろ、森の中に誰がいるのかわからなかったが、一瞬身じろぎした身体の上の歓迎されない客の影に、月の光の下青白く光る剣が辛うじて見えた。続いて誰かが自分の頭の上辺りから飛び出していき、堪え難い悲鳴の後、とうとう自分の上に乗っている男までもが悲鳴を上げた。すべては一瞬のうちに起こった。断末魔の拍子、首にかけられたままの手にも力が入った。再び気が遠くなる。
―――――。
その時の青白くも微かに赤い真円の月―――――。
エストリーズの頭の中が透明になった。月も、空も、木々も、すべてが透明になって透けて見えた。音が一切なくなり、感覚が再び消えた。
オオオオ・・・・・・
低く強い耳鳴り。
そして次の瞬間、どさっという凄い音がしたかと思うと、エストリーズの感覚再度が戻った。ひとしきり、エストリーズはひどく咳込んだ。自分でもどうしてしまったのかと思うくらいに空気を渇望している。そしてようやくそれがやみ、顔を上げ身体を起こすと、今の凄い音は自分の上にのしかかっていた男が倒れた音だということに気付いた。そして上半身を完全に起こして恐る恐る森の影になっている人影を伺い見ると、その人物はゆっくりと歩いてきて、剣を引っ下げたまま、眉も動かさずエストリーズに話し掛けた。
「若い女がこんな時間にうろつかない方がいい」
「・・・」
シャッと剣を払って血糊を取ってしまうと、男は剣を鞘に戻した。
肩まで垂れた黒い髪。瞳は暗闇の中でもよくわかる、きれいな青色をしている。鼻筋は通っており、元々色が白いのか月の光で光るようにすら見える。全体に無口というか冷淡というか、影のある雰囲気を漂わせている。厭世的なそれすら感じるのだ。
「あ・・・あの・・・・・・」
エストリーズが声をかけようとすると、男はするりと背を向け、森に向かって歩きだし始めた。
「え・・・あ、ちょっと・・・あの」
慌てて起き上がり、制止しようにも足がもつれてうまく歩けぬ。そうこうする内、男が
森の中に消えようとしていた、正にその時だった。
「ディアス! ディアース!」
女の声が、エストリーズにも聞こえた。男は立ち止まり、ちっと舌打ちし、
「うるさいのが来た・・・」
と呟くのも、エストリーズには聞こえた。間もなく森の向こうから、エストリーズが見たこともない格好をした女と、恐ろしく背の高い男がやってきた。
女は、背はほぼエストリーズと同じくらい、肩まである絹糸のようなプラチナの髪が編んだ後のようにゆるくウェーブしている。瞳の色は明るい青、口元の嫌味のない笑みと明るい表情、抜けるようなとまでは言わないが、大理石のようなきれいな白い肌、仕草のそ
れとない雰囲気から、この女の育ちの良さが見て取れる。エストリーズが驚いたのはこの女の格好だった。春とはいえまだ寒い。なのにこの女、肩を出し二の腕を曝し、足もほとんど腿の部分が見えている。そしてわずかな月明かりの下、その右胸の辺りの小さいが奇
妙な形をしたものと、彼女の持つ長めの錫杖を見て、エストリーズは納得した。
「紋章学師・・・」
そう、この胸の奇妙な形のものは間違いなく何かの紋章で、彼女が紋章学師であることをなによりも明らかに物語っている。
もう一人の男は非常に背が高く、見上げないといけないくらいだ。
髪の色は暗がりにいるのでよくわからなかったが、ハッとするほど印象的なオリーブグリーンの目をしている。
「どうしたのよ凄い声がした・・・けど」
女はエストリーズに気が付いたようだ。エストリーズを助けた男を見、
「―――――誰」
と言った。そして言ってからやっと漂い始めた血の匂いに気付き、そちらに目をやり、
「うえ・・・」
と小さく呟いた。
「あんたが・・・やったのね。・・・この容赦のない殺し方は」
エストリーズの常識では考えられないような発言をして、女は死体の方へと近付き、屈みこんで切り口を見た。
「あーあー。後ろから・・・」
背の高い男も近寄って、こちらは恐れる風でもなく死体を転がしたり切り口をまじまじと見たりしている。ぼそりと一言、
「一息だな」
低い声。しかし暖かい感じのする声だ。
「えーとそれで・・・」
女が立ち上がって、ほりほりと頭を掻きながらようやくエストリーズを見た。
「何があったの?」
この奇妙な一行が旅の冒険者で、今晩は野宿だというので、エストリーズは命の恩人である男とその仲間に学院に泊まるよう申し出た。男二人は何も言わなかったが、女の方は飛び上がって喜び、是非そうさせてもらうわとこの話に飛び付いた。野宿しないだけでも
こんな嬉しいことはない。男二人は、元来無口らしい、何も言わなかった。
エストリーズは彼らを案内する道すがら、自分が天文学師で、最終の試練としてこれからの研究媒介となるこの世で一番美しい月を見なければならないということ、ずっと森に出て月を見ていたこと、そしてあの男たちに襲われ、女がディアスと呼んでいた男に助け
られたことなどを話して聞かせた。
「ふーん・・・そりゃ運が良かったわね。とにかく助かってなによりだったわよ」
「本当にその通りです」
「ああそう、あなたを助けたあいつはディアスよ。ディアス・ディフェイン。だっけ?
ねえディアス」
「・・・」
ディアスは答えなかった。エストリーズは何を怒っているのだろうとひやりとしたが、女はからからと笑って、
「そうだってよ」
と言った。彼らにとって、沈黙は肯定の意味であるらしい。
「私はセシル。セシル・スウィントネス」
「紋章学師の方ですね」
「否定のしようがないわね、このなりじゃ」
セシルは肩をすくめた。それから親指で背の高い男を指し、
「あれはクロム。クロデンドルム・ブルーエルフィン」
「・・・変わったお名前ですね」
「ヴィヴェリィの植物園、知ってるでしょガティミウス植物園」
「ええ。世界で一番大きな植物園で多くの観光客と研究者学者がないまぜになって訪れるという」
「そこの長男」
「・・・・・・」
エストリーズは絶句した。ガティミウス植物園といえば、世間のことにまず関心のない天文学師でも知っているほどの広大かつ伝統のある植物園だ。ヴィヴェリィの観光収入の三分の一は、ここへ詰め掛ける者たちの落とす金と言っていい。そんな大層な家の長男が、どうして冒険者など?
「ああ見えてきましたわたくしの住んでいる学院です」
エストリーズはまず彼らを招きいれ、帰りの異常に遅い彼女を案じて起きて待っていた多くの先達に先程のことを話し、そして学院長に目通りしてもらうことにした。学院長にとってエストリーズは、いわば娘か孫のようなものである。
「エストリーズを助けて頂いたそうで・・・なんとお礼を申し上げればよいか」
「いいーえいいんですのよこの男が勝手にやったことですから」
「その錫・・・失礼だが紋章学師の方かな?」
「ええ。セシル・スウィントネスと申します」
「・・・スウィントネスというとコルモンの名家の・・・」
「・・・まあそういう人もたまにいるみたいですわ」
セシルは口元に淡い笑みを浮かべて言った。否定もせず、だからといってそれを鼻にかけている風でもない。本当に育ちの良い者のみの持つ品と嫌味のなさが、セシルにはあった。
「そらちのご仁は・・・」
ディアスもクロムも、何も言おうとしなかったが、セシルにつつかれてむすっとしたまま口を開いた。
「ディアス・ディフェインだ」
「院長さま、その方が私を助けて下さったのです」
「おおそれは・・・」
「で、こっちが」
セシルはにっこりと笑って背の高いクロムを示したが、それに応えてクロムが何も言う気配がないので、もう一度肘でつついて目で合図した。
「クロデンドルム・ブルーエルフィン」
「ほう、・・・クロデンドルム・・・」
学院長が感嘆の声を上げ、一瞬だがクロムがぴくりと動いた。セシルが首を傾げて
「何か?」
「確か花の名前だったような・・・はてどんな花かは思い出せませんが」
「・・・」
クロムは何も言わない。
「よくご存じなんですね・・・まあそういう環境よね」
セシルはクロムに言ったが、相変わらずクロムは何も応えなかった。
「とにかく今夜はここにお泊りください。もう遅いのでエストリーズに部屋を案内させましょう」
エストリーズは言われて退室し、彼らを部屋に案内した。既に報せを受けて、他の者が部屋を整えているはずだ。
(・・・・・・)
エストリーズの胸が、ときめいている。
普通ではない状況だと、人間はこうなりやすいというが・・・自分もそうなのか?
ディアスというこの男・・・無口で無愛想な、影の漂うこの男が、エストリーズは気になって仕方がない。結局これが恋だと気付くのに、そう時間はいらなかった。
ある決心がエストリーズの中で固まりつつあった。しかしまだそれは完全ではなく、どうしようか、やめようかそれともそうしようか、決心しようとする心が揺らぐ。
それからエストリーズは学院長の部屋へもう一度赴いた。
「・・・・・・」
エストリーズの顔を見て、学院長は全てを悟ったようだった。
「見たのだね」
「はい・・・・・・」
この世で一番美しい月―――――。
あの感覚。そして脳の血管に迸るように漲る、熱い熱い感覚。
この後夜遅いのにも関わらず二人は研究室へ向かった。
そこでエストリーズが見せた月―――――それは、恐ろしいほど美しい月だった。ほのかに赤く、しかし青白く。
「―――――」
しばらく身体を強ばらせて茫然と、しかし大きく目を見開いてそれを見ていた学院長だったが―――――術が消えるとしばらくして、エストリーズの肩を抱き、
「よくやったエストリーズ。見事な月だ」
エストリーズは晴れがましく笑った。
何も言われなくともエストリーズが最上の月を手に入れたことを悟った学院長であったが、その後に彼女が言い出したことまでは、さすがに悟ることはできなかった。
次の朝エストリーズは食堂にセシルがいるのを見つけ、向かいの席に座って自分が今迷っていることを思い切って打ち明けてみた。
「・・・よく聞こえなかったけど」
食事の手を止めて、セシルは怪訝そうに言った。
「あの・・・ですから」
戸惑いながら、エストリーズは意を決して言った。二度言えば、それだけの勇気を出せば、いい加減心も決まるはず。
「あの・・・わたくしも連れていってほしいんです。・・・あなた方の旅に」
「・・・・・・」
かちゃん、という音がして、セシルが姿勢を正した。真剣な顔になっている。
「どういうことかわかってるの」
「わかっている・・・つもりです。でも結局つもりはつもりだと思うんです。頭ではわかっているつもりで、実際は絶対によくわかっていない・・・わかっています。それでも一緒に行きたいんです」
「・・・」
セシルは腕を組んでエストリーズを凝視した。
「ふーん・・・さては惚れたわね、ディアスに」
「え・・・」
「当たりだ。ふーん・・・だからついていくって」
「それだけじゃありません。わたくしにこの世で一番美しい月を見せてくれた人です。それだけの人です。絶対に何かある・・・私は恩返しの意味でもついていきたいのです」
「好きになったから一緒にいたいって素直に言っておけば? それだけじゃないっていうのもわかるけど、でも、」
セシルは身を乗り出した。
「きついわよ」
「か・・・覚悟はできています」
「・・・そこまで言うのなら別に止めないわ。いっぱいいたほうが楽しいし女一人だとやりにくいのよね。あの二人えらい無口だし」
セシルは立ち上がって言った。
「うん。いいわよ。一緒に行こう」
「何だと!?」
ディアスの怒鳴り声が部屋の空気を震わせた。エストリーズは思わずびくりとしたが、セシルは慣れているのか、指を両耳にあてて顔を顰めた。
「・・・るっさいわねえ・・・怒鳴らなくたってどうせ聞こえたんでしょ。彼女も一緒に行きたいって。いいでしょ」
「そんな重要なことを勝手に決めたのか!」
言われて、セシルは幾分ムッとした表情になった。
「何よその言い方。どうせ言ったってどっちだっていいって態度でむすーっとしてるだけでしょ。いいじゃない私は女一人だしあんたたちといると時々一人で喋ってるみたいで嫌になってくのよ! それともなに?」
セシルがびしっと人差し指をディアスに突き付けた。
「あんた、彼女が加わるのに具体的な反対意見でもあるわけ?」
「・・・そ、それは・・・」
「だったらつべこべ言わない! 剣士でしょうが」
「職業は関係ないことだ」
「お黙り! 私がいいと言ったら何がなんでもいいのよ。わかった?」
「~~~~」
エストリーズは呆気に取られて二人の言い合いを聞いていた。それから気が付いて、くいくいとセシルの袖を引っ張り、
「あ、あの・・・クロムさんには伺わなくていいんでしょうか」
「え? クロム? ああ・・・・・・どう?」
「構わん」
「だって。わかったでしょ」
「・・・・・・」
ディアスもクロムも無口なほうらしいが、ディアスよりもう一歩輪をかけてクロムの方が無口らしい。ほとんど口をきかない。
「・・・しかし・・・なぜ突然一緒に行くなどと言い出したんだ」
ぶつぶつと言うディアスの言葉を聞き取って、セシルが
「え・・・と・・・。それは」
しかしそのセシルを手を上げて止め、エストリーズは一歩ディアスに近寄って言った。
「それは、わたくしがあなたを好きになってしまったからです。そしてそのあなたがわたくしにこの世で一番美しい月を見せてくれたから。それには何かある気がする―――――わたくしは、あなたの側にいたいのです」
「―――――」
『 ディアス、・・・ディアス 』
「・・・」
クロムがエストリーズの方を見、セシルが感嘆と称賛の口笛を吹き、ディアスは、何故か眉を寄せて硬い表情になった。
エストリーズが冒険者一行についていくと言い出して、当然周囲は困惑した。そして一斉に反対した。命の恩人とはいえ得体の知れない連中であることに違いはないし、エストリーズは一応預かりものである。この先何が起こるともわからない冒険者の旅、野宿もあ
ろうし危険な魔物に出会うかもしれぬ。そんな危険に弟子を意味もなく晒す必要はない。
学師たちも学者たちもいっせいに、それはもう嵐のように反対した。しかしエストリーズはぐっと手と手を握り締めて、唇を噛んでそれに耐えた。無言で耐えた。思わず飛びかった彼ら三人に対する根も葉もない中傷にも、ひたすら目を閉じて耐えに耐えた。
そしてその様子をずっと見ていて何かに気付いたのだろう、ずっと苦々しげな表情で黙っていた学院長が、手を上げて彼らを黙らせた。
「・・・・・・エストリーズ。覚悟はできているのかね」
エストリーズはうつむいていた顔を上げ少し潤んだ瞳で、それでも彼をしっかりと見上げて言った。
「・・・はい」
「・・・―――――・・・」
学院長は目を細めた。
昔から、何かを強く望んだりする娘ではなかった。言われれば言われた通りのことをこなし、自分の意見を持ちながらも、何かをどうしてもしたいと言い出すようなことは、今まで一度たりともなかった。
「・・・」
学院長は三人の冒険者たちに目を向けた。
何が理由かは知らぬ。しかし彼らから、その全身から漲る輝くようなオーラ・・・。若いからというだけではない、何か惹きつけるものを三人それぞれに感じる。
そしてふと見ると、自分を含めこの学院の人間の老いていること。無論それが悪いというのではない、しかし若いエストリーズは、やはり若い人間と共にいたいのだ。初めて歳の近い者たちと出会って、エストリーズはやっと本来の若いエストリーズの本性を取り戻
したのだ。
この娘を引き止めることが却って悪い結果になるのか・・・。
複雑だった。
しかし目の前の娘はこんなにも若さを放っている。眩しいほどだ。それは今まで見たこともなかった輝きだ。これこそが本来の輝きだ。学院長はそっと目を閉じた。
「・・・いいだろう―――――・・・許す」
「院長!」
「なにを・・・!」
「静かに! エストリーズが決めたことだ。後悔するのもこうしてよかったと思うのも、エストリーズの責任だ。そしてもうその責任を充分にとれる年齢だ。もうそろそろ表の世界をしっかりと見るのもよいかもしれぬ」
「しかし・・・!」
「もう決定したことだ。これ以上の議論は無用・・・全員下がりなさい」
「―――――」
「―――――」
学院長の決めたことなら、どんなことでも従わなくてはならない。そして今までその決定事に間違いはなかった。
学師学者たちはしぶしぶ院長室を出ていき、扉が閉められた後、学院長は三人に歩み寄って静かに言った。
「セシルさん・・・・・・でしたな」
セシルは学院長を見上げた。胸まである真っ白な髭。いくつもの苦悩を刻んできた皺。
「エストリーズを、よろしくお願いいたします」
エストリーズがふと窓を見上げると、明日には欠けようという月が、白く輝いていた。
「これを持っていきなさい」
旅立ちの朝、学院長は院長室で別れを告げに来たエストリーズに分厚い本を渡した。
「・・・」
しかし見かけほど重くはない。薄い本ほどの重さしかないのだ。渋い赤の革装丁で、四方には金細工で紋様が飾られている。開いてみたが、中は白紙だった。
「・・・院長さま・・・」
「それは私からの餞別だエストリーズ」
「餞別・・・」
「この世で一番美しい月を見た以上そこから上の研究ができるわけだが・・・ここを去るというのではその勉強もままなるまい。そのままならそれでも構わんかもしれないが、危険な冒険の旅で何があるかはわからない。その時今勉強していないさらに上級の術があれば心強かろう」
学院長は立ち上がって言った。
「その本はお前が必要だと思う時必要な術をお前の要望に応じて記してくれるはずだ。上級の回復術の名前も詠唱も知らなくとも、それを望んだときお前の実力に合わせ我々の代わりにお前にそれを教えるのがその本だ」
エストリーズは手の中の本を見た。
「本の重さはその本の持つ知識の重さ・・・中に何も書いていないのだから軽いのは当然だ。旅には最適だろう」
「院長さま・・・」
学院長の心尽くしを思って、エストリーズは胸が痛くなった。彼らと共に行くという事は、ここを去るという事、そして馴れ親しんだ人々と離れるという事に他ならない。ここに来てまた心が揺らいだ。行くべきか留まるべきか、心が迷う。しかしそんなエストリー
ズの心を見抜いたように、学院長はその肩に手を置いて静かに言った。
「さ・・・もう行きなさい。仲間が待っていよう。あえて見送りはせぬが・・・達者でいなさい。 そしてこれだけは覚えておいで・・・お前の故郷はいつまでもこの天文学院だということを」
エストリーズは泣いた。父とも祖父ともいえる師の胸の中で、少しだけ泣いた。
そしていよいよ旅立ち、胸には大きな希望と不安を抱え、エストリーズは天文学院を後にした。さすがに心細くなったが、ふと見ると安心させるような笑顔でセシルがこちらを見ている。
―――――そうだ。一人ではない。一人ではないのだから―――――不安になることなどない、何も。
ちらりと顔を上げると、一目で愛した男の無表情な横顔が見える。
エストリーズは自分を励ますように笑った。
そう・・・一人ではない。
1
早朝のすがすがしい空気が風となって吹き、ふと顔を上げると、広大な草原の向こう、地平線のはるかはるか向こうには、水差しから流したようななめらかな金色の雲が微かに紫色を帯びて光っている。
手をかざしてまぶしげにそれを見つめ、少女は二度と見ることのない美しい朝焼けを傍らにいた連れに示した。
「わあ・・・見ておじ様。金色と紫色に光ってるわ」
それまで無言で歩いていた男は少女に言われて足を止め、眩しげに目を細めて平原の彼方を見た。
「紫金色の朝焼けだ・・・珍しいね春なのに」
「シスターたちが言ってたわ。空の景色っていうのは一度でも同じものはないんだって」
「そう・・・だから美しいんだよ」
「本当にそうね」
二人は語りながら早朝の草原をひたすら歩いた。かなたに黒い点のように見える森、あれを越えれば、目指すアルジリア王国は間近だ。
少女の金色の髪が朝の光を受けてきらきらと光る。一方少女におじ様と呼ばれた長身の男は、こちらは冬の星のような銀色の髪で、肩より少し長いそれを一つに結んで背に流している。遠くからこの二人を見つけた者は、草原の上をすべる宝石か何かと間違えるだろ
う。少女の瞳は紫色、朝早いのにも関わらず、絶えず未知のものに触れられるという喜びにその瞳は溌剌とした光を放っている。前を見据え、なにかを楽しみにしているかのように口元はにこにこと笑っており、見る者全てが励まされそうな前向きなものを感じる。抜
けるように色が白く肌寒い春の朝の空気にさらされて、頬が微かに赤みを帯びている。
ぎょっとするほど―――――というといい印象がないかもしれないが、そういう形容しかできないくらいに彼女の瞳は大きく澄んでいる。誰もがこの濃紫の目にすみれを思うことだろう。くすんだ青いマントに身を包み、ほっそりとした指には第二関節ほどまである
大きな石のついた指輪をしている。なんとも不思議な色で、乳紫色というのだろうか、美しい紫を、曇りガラスの向こうに透かしたような石である。小さな背負い袋を背負っているが、傍目にも旅に必要なだけの最小限の荷物が入っているのがわかる。
一方男は背が高く、姿勢がいいことも手伝ってか大層目立つ。端正な顔立ちというのがあるのならこういう顔のことを言うのだろう。濃い緑の瞳は涼しげな切れ長、固く結ばれた口元が一旦弱く微笑もうものなら、女たちの腰が砕けまくるのは必至だろう。遠くを見据える何か浮き世離れした目の光が、この男がもう長いこと旅の空で暮らしていることをなにより物語っている。おそらく戦士であろう、恐ろしげな長剣を腰に下げ、篭手も盾も持ってはおらぬが、彼が相当な使い手であることはたたずまいとその剣の様子からもわかる。歳は二十代後半くらいだろうか、口元にたくわえた髭で年齢がよくわからなくなってしまっているが、年齢よりも少し若く見えるのだけは確かだ。
少女の名はリスレル、男はアリスウェイドという。二人はこれからファスティル大陸でも有名なアルジリア王国の春迎祭に赴こうとしている。一年で一番大きな祭りで、長い冬を乗り越えた喜び春を迎えた喜び、無事にまた一年を生きることができるという感謝の念
を込めて催される。他大陸からわざわざ訪れる者も多くこの大陸のちょっとした呼び物になっている。旅の暮らしの長いアリスウェイドは何度もこの祭りを見ているが、リスレルはまだ一度も見たことがない。アリスウェイドの友人がアルジリアにいるというので、春迎祭を見るついでにその友人に会いに行こうということになり、こうしてアルジリアを目指しているというわけだ。
「このままのペースなら夜には森に入っているだろう」
「お祭りはもう始まってるかしら」
「どうかな。星の運行で決めるというが私も詳しいことは知らないからね。まあ始まるか始まらないかというところだろう」
「楽しみ」
リスレルは言うと目を細めて森を見た。それをその横顔を見てアリスウェイドは、よくもここまで美しく素直に育ったものだと心中で感心していた。自分と旅を初めてもう七年になるが、当時十歳の少女には、自分との旅の行程はさぞかし辛いものであったに違いな
い。それでもリスレルは、一度として音を上げることはなかった。泣き言は一言も言わず前だけを見ていつも笑っている。自分の知らないところで泣いたこともあったろうが、それが知れてしまったら離れ離れになる恐怖もまたあったのだろう。
それからアリスウェイドは今まで自分が見てきた春迎祭の様子や他の大陸の祭りなどをリスレルに話して聞かせ、見たこともない祭りに、リスレルは一人心を踊らせていた。
そうこうする内に夜になり、アリスウェイドの言った通り、二人は森に入っていた。二人で旅を始めた当初は、大股で歩くうちに段々リスレルと距離が離れていき、ふと後ろを見て彼女がいないことに泡を食ったアリスウェイドが引き返すと、背の高い草のなかに埋もれていながら必死に歩いていたということもあったが、そんな彼に鍛えられてリスレルは、今や道行く旅人も振り返るほど足の達者な娘になった。
食事の時間になったので二人は適当に木々が途絶えた場所で焚火を焚き、今日はここで野宿することにした。森の真ん中なのにこうして木々が不自然に途絶えているのは、もう大分昔から同じように旅人が火を焚き続けているからだろうか。
白い息を吐きながら、リスレルが空を見上げる。
「わあ・・・ちょうど九星が真上だわ。不思議だね昼も夜も動かないなんて・・・どうなってるのかしら」
アリスウェイドは焚火の風通しを時々変えながら答える。
「さあ・・・なぜだろうね」
「あれがテミストクレスあれがエステーヴ・・・」
白い息と一緒に指を指してリスレルが星を数え始めた時のことだ。
ヒュゴオオオオオオ・・・
「・・・」
ぴたり。リスレルの指とアリスウェイドの手が同時に止まった。全身を緊張させ周囲に目を馳せ、何がどこであったのかを見定めようとする。
ヒャウウウ・・・
獣・・・いや、あの雄叫びは魔物だ。
「おじ様」
アリスウェイドはうなづき、剣を引き寄せた。近い。
と、誰かの叫び声がした。怒号に近い。誰かが魔物に襲われているか、あるいは戦っているのだ。どちらにしてもあの咆哮では人間側の不利が手に取るようにわかる。
「リスレル」
「はい」
アリスウェイドは剣を片手に立ち上がり、リスレルも言われて立ち上がった。荷物はすべてそこに置き、二人は同時に走りだした。森の向こう・・・抜けたところだ。
「!」
森を出た途端にリスレルは仰天した。四人の冒険者らしき男女が、五メートルはある二頭の豹に襲われている。口は小さいのに、牙は四十センチほどもある魔物の一種だ。様子からして苦戦している。リスレルは思わず立ち止まったが、アリスウェイドはそのまま突進して抜刀し飛びかかった。
ガアアアアッ
突然の闖入者に冒険者たちは一瞬の戸惑いを見せたが、
「一頭は任せろ」
アリスウェイドに言われるとすぐに状況を把握したのだろう、今まで二頭に煩わされてうまく掴めなかったテンポを取り戻し、一気に反撃に出た。
まず二人の若者が体勢を整えて飛びかかると、後ろからすかさず残る二人の女の応援が入る。
「炎の紋章にかけて命ず!」
女の持った錫杖の頭が光り、女の腰辺りが一瞬ポワ・・・と赤く光った。
「〈炎陣〉!」
ゴオオオオッ
たちまち女を中心に炎が巻き上がり魔法陣のような紋様を一瞬中空に描いたかと思うと生命でも与えられたかのように突然一塊になって豹の内の一頭を襲った。二人の戦士に気をとられていた魔物は、これをよけることができなかった。
ギイイイイイ!
すかさずもう一人の黒髪の女がばっ、と両手を広げる。
「現われよ、凍れる雹の矢を携え!」
ヒョオオオ・・・
「―――――〈凍天〉!」
ザクッ
ザクザクザクッ
突然空から落ちてきた無数の巨大な氷柱が魔物を貫く。
(あの二人・・・学師か)
アリスウェイドは詠唱の内容を聞き取ってちらりと冒険者の四人を見た。と、その時、
「〈雷鳴〉!」
聞き慣れた声が響き、びりびりと空気が震える気配がしたので、アリスウェイドはサッと飛び退いた。次の瞬間彼と対峙していた魔物に青白い光が襲いかかり、
パリ・・・
パリパリィィッ
という音と共に弾けて消えた。毛皮が焦げるような匂いがしたが、まだ魔物に息はあるようだ。アリスウェイドは剣を翻し下から突き上げるようにして魔物の首を刺した。血が溢れ、堪え難い断末魔の声がすぐ耳元で響いた。思わず眉を寄せたものの確かな手応えで相手の絶命を悟る。アリスウェイドはゆっくりと死体となった魔物を後ろに倒し、それから剣を引き抜いた。後ろを見ると、四人の冒険者たちの方も戦いを終えたようだった。
「おじ様」
リスレルが駆け寄ってきた。
「怪我は?」
「おかげでないよ」
「おじ様血まみれ」
「頚動脈を突いたからね・・・仕方ないさ」
と、近付いてきた人影に気が付いてアリスウェイドはそちらに目を向けた。学師の片割れ・・・紋章の力で戦っていた方の女だ。絹糸のようなプラチナの髪をしている。
「どうもありがとう。おかげで助かったわ」
「いや・・・声が聞こえたものでな。余計なことをしたのでなければいいのだが」
「とんでもない・・・苦戦してたのはわかったでしょ。突然でね・・・」
見ると戦士の一人が腕から血を出している。もう一人の学師の女が息を呑み、
「・・・ディアス・・・」
と呟くのが聞こえた。
状況を素早く読み取って、アリスウェイドが静かに言った。
「怪我をしたようだな。よければ我々の張ったキャンプが向こうにある。ついてくるといい」
―――――これが彼らの最初の邂逅といえば、・・・そういうことになる。
「改めてお礼を言うわ。私達アルジリア王国に行く途中だったの」
「それは偶然だ。我々もそのアルジリアを目指しているところだ」
「春迎祭に行くの」
リスレルが言うと、紋章学師の女は笑顔になった。
「あらいいわね。そうねちょうどその季節だわ・・・エストリーズ、見たことある?」
「いいえ。話には聞いていますが」
「ちょうどよかったじゃない。私も実はまだなのよ。あ・・・と、ごめんなさい、名乗るのを忘れてたわ。セシル・スウィントネス。紋章学師よ」
「わたくしはエストリーズ・ギーディオンです。天文学師をしています」
「珍しいですね学師の人が二人も冒険者だなんて」
「私もそう思うわ」
「私はアリスウェイド・ジェラコヴィエツエだ」
「私はリスレル・ジェラコヴィエツエ」
「あらおんなじ名前・・・」
「姪なの」
「ふーん・・・不思議な組み合せね」
感心するセシルに、アリスウェイドとリスレルは目と目を合わせてふっと笑った。
突然響いた布を切り裂く音に顔を向けると、黒髪の若者が左腕を剥き出しにしている。
血が糸を引くように流れており、若者は止血しようとしているのだ。
リスレルが立ち上がって治療しようとしたが、アリスウェイドがそれを止めた。一度攻撃魔法を使うところを見られている。通常魔導師は治療の魔法を持たないのだ。それを思い出してリスレルが座り直すのと同時に、エストリーズがスッと立ち上がってディアスの傍らに歩み寄った。
「見せて下さい」
「・・・」
エストリーズはしばらく傷を見ていたが、しばらくして小声で詠唱し、傷に手をかざすと銀色の光がその掌から漏れた。そしてそれが終わると傷口をしっかりと縛った。血は止めたが、完全に治療してしまうと彼自身の治癒能力が大幅に衰えてしまう。先の見えた病人ならいざ知らず、それは冒険視者にとっては命取りだ。
「彼はディアス。奥の大きいのがクロム・・・クロデンドルム・ブルーエルフィンよ」
「ほうクロデンドルム・・・」
アリスウェイドが反応した。
「あら・・・」
「随分と美しい名前をもらったものだな」
「―――――」
本人は答えない。しかしセシルが興味を示した。
「知ってるの」
「確かバッグフラワーという花の学名だったような気がするが・・・あまり確かではないかな。薄い青の花で・・・真ん中の一弁だけ濃い青だ。紫に近い」
すると今まで一言も口をきかなかったクロムが、初めて口を開いた。低く、突き抜けるような声だったが、聞き取りやすい声だった。
「間違いない」
「ふうん・・・私も初めて知ったわ」
セシルはしきりに感心し、それからクロムが世界最大の植物園の出身だということを告げると、アリスウェイドも、
「なるほどな」
と納得したようだ。
「アルジリアには初めて行かれるんですの?」
「いや・・・知り合いがいてね。祭に行く傍ら久しぶりに会いにいこうと思っている」
「あら・・・? ジェラコヴィエツエって・・・そういえばどこかで聞いたような」
セシルが首を傾げて呟き、学師ゆえにあまり表の世界と関わっていない分、戦士として旅を続けているクロムに顔を向けたが、反応はなく、ディアスを見ても、先程からあちらを向いて何か考え事をしており、セシルの言葉など耳に入っていそうにもない。
「社交性ゼロなんだから・・・」
呆れて呟くセシルに、
「どこにでもある名前だ」
アリスウェイドは言った。横にいたリスレルが思わず吹き出したので、アリスウェイドは一瞬決まりの悪い顔をしたが、何も言わなかった。
「ま、いいわ・・・とにかくアルジリアまでは一緒に行くことになるわけよね」
エストリーズは微笑んでセシルに応え、旅が始まった当初のことを思い出していた。
慣れない自分は最初出現する魔物に驚き怯えるだけで何の役にも立たなかった。天文学師というのは他の学師と比べて圧倒的に冒険者になる数が少ない。多くが高齢であるというのと天文学の研究の深みにはまってしまうからというのがその理由だ。当然世馴れてお
らず、戦闘など他の学師に比べれば素人同然だ。しかしきちんと戦えばどんな魔導師にも対抗する強力な使い手なので、惜しむ声も少なくない。とにかく最初は自己嫌悪の毎日だった。
「何をしている! まったく・・・足手纏いもいいところだ」
何度ディアスに怒鳴られたかわからない。自分でもわかっているので心底嫌になったがそれでも後悔はなかった。クロムは相変わらず無表情、無言のままで、別段彼女に不満があるようでもなかった。セシルはことあるごとに自分を励ましてくれた。
「平気よ。その内慣れるわ。私だって最初はあんなもんだったわよ。元気出して」
セシルの言葉が大袈裟に誇張されているのはわかっていた。なぜなら紋章学師は学師の中でも召喚学師と並んで冒険者となる数が多く、それゆえ伝統的に戦闘のノウハウは研究対象を勉強するのと同じくらい教え込まれている。セシルが旅を始めた最初は、自分とは
比べものにならない戦いぶりであったはずだ。
「最初は大変かもしれないけど・・・こんなの慣れよ慣れ」
歩きながらセシルは言った。ディアスとクロムは何を話すというのでもなく少し前を歩いている。ディアスは自分が旅に加わってからいつも機嫌が悪く、眉間に皺を終始寄せている。エストリーズを叱咤する言葉の一つ一つも厳しく、聞いていて何のフォローも時に
できないほどだ。
「しかしまあよくあんな無愛想なのに惚れたわね」
セシルはある日ため息混じりで言った。ディアスが不機嫌な理由の一つに、エストリーズが自分に想いを寄せているのを明確に知っているというのが挙げられる。ああも正直に言われると、男というものは大抵―――――ディアスのような男は特に―――――どうしていいのかわからず、そんな自分と、自分をそうしてしまった女に当たるものだ。
「ま・・・人のこと言えないか」
「・・・え?」
「あなたが好きになったのがディアスじゃなかったんだったら命懸けで止めてたわね」
エストリーズは前を歩くクロムの黙々とした背中を見た。
「え・・・じゃあ」
「そ。私も押し掛け女房みたいなものね。あいつは何も言わなかったわ」
「・・・」
しばらくしてエストリーズは戦いでのテンポを掴むようになった。慣れよう慣れようとするのではなく、どこに自分のテンポを入れれば仲間の邪魔にならないかをじっくり観察したのだ。ディアスとクロムの連携の動きを見定め、規則を見出し、そこに絶妙のタイミングで攻撃を仕掛けるセシルの呼吸を掴む。
しばらくしてその合間を見計らい、自分のテンポを割り込ませることに成功した。一度の成功で手応えを感じたエストリーズは日に日に上達していき、セシルも戦闘がぐっと楽になったと言った。ディアスの怒鳴り声は段々と聞かれなくなり、眉間の皺も少しずつだ
が消えていった。クロムは、相変わらず何も言わなかった。
そして今、こうして束の間ではあるけれど他の冒険者と知り合って道中を共にするというのは、今までにはない新鮮な体験だった。そう、旅に出てから、見慣れた太陽も月も星もすべてが今までと違って見えた。なにもかも輝いていて、自分に笑いかけているようだった。
「魔導師? 夜で制約してるのね」
セシルとリスレルが話しているのをじっと見つめる。不思議だ。二人とも、少し前までは自分の人生とは何の関係もないところで生きていた人間だ。
「ええ・・・まあ」
「月? でも二人で旅してるから・・・星かな。月だと新月の時不便らしいわよ。昔知り合った月で制約してる魔導師は一年の半分はどこにも行けないからやりにくい、その合間に敵に襲われたらひとたまりもないって言ってたわ。結局、別に太陽と星で制約してる魔導師を一人ずつ仲間にしたらしいけど、大人数よね」
「そうですよね。月の光で魔法使うのって・・・どんな気分かなあ」
リスレルはエストリーズに顔を向け、
「天文学師なんですよね」
「ええ」
「普段はどんなことをするんですか?」
「基本的には天体の研究を学者様たちと一緒にして・・・文献をあたったり・・・でもやっぱり天体観測が主な研究かしら・・・。わたくしたちは魔術の研究もしなくてはならなかったのでその辺はよくわかりませんけど」
「ふうん・・・」
きれいな娘だ、エストリーズは正直にそう思った。焚火の明かりで輝く金の髪と、すみれ色の大きな瞳。
「幾つ?」
セシルが尋ねると、
「来月で十八です」
「じゃあまだ十七・・・それにしては高位の魔術でしたわね」
「そういえばそうね・・・」
何かを聞かれる前に、リスレルは自分から言った。
「私、十歳までマエリガン修道院にいたんです」
「あ、そうなんだ。で、それからずっと叔父さんと旅をしてるわけなのね」
「はい」
セシルもエストリーズも、それ以上何も聞かなかった。戦乱の多い時代である。両親がどうなったかなど、言われるまで決して口にしないのがこの世界の暗黙の掟だ。マエリガン修道院にいたというのなら、このリスレルという少女が若くして高位の魔術を使うのも
うなづける。マエリガン修道院は修道女と言われる尼僧の修業の場所であると共に、その尼僧たちが一部魔術を教えているという特殊な場所だ。
「きれいな指輪だね」
セシルは膝を抱えながらリスレルの右手の薬指にはまっている大きな石のついた指輪を見た。
「乳紫色・・・っていうの? 不思議な色」
「きれいな石ですわね」
「どうもありがと。これ、お母さんの形見なの」
セシルとエストリーズは一瞬視線を合わせた。形見・・・やはりそうであったか。しかしリスレルはあまり気にしていないようだ。
「修道院に来た時にはもうこれを持ってたんだって。
小さかったから覚えてないけど・・・シスターたちがずっとしてなさいって言うし、お母さんがずっとしてたものだったっていうから」
「ふうん・・・」
その会話を聞くともなしに聞いていたアリスウェイドが、
「リスレル、もう遅い。そろそろ休みなさい」
と静かに言った。
「あ・・・ほんとだ。それじゃ寝ますね。おやすみなさーい」
リスレルは致って素直に星を見上げて時間を知ると、マントをずり上げて横になってしまった。
「わたくしたちもそろそろ休みましょう」
「そうね。クロム、見張りお願いね」
間もなくセシルとエストリーズも眠ったようだ。元来無口な男が三人残され、時々焚火がパチ、と爆ぜる音以外は、しんしんと更ける夜の音すら聞こえるようで、静かな森の気配だけが漂っている。
ディアスの傍らに置かれた、戦士の使うものとは少し違って細身の刀身、先程の戦いのあの間の置き方、アリスウェイドは一瞬目を細めてディアスを見た。
(剣士か・・・)
剣士は戦士とは違う。両方共剣を振るって戦い、それを生業にしていることは確かだが、決定的に違う点は、剣士は個々の信念を持っているということだ。それでは騎士と同じになってしまうのだが、騎士というのは信念を持ってそれに従って主君に仕える者、翻って剣士は主人を持たない。数は少ないが剣士を育てるための場所も世界各地にあって、それらは庵と呼ばれ、年に数人の剣士を世に送り出している。独特のポリシーを持つ剣士は戦場に現われることはほとんどなく、孤高を好む者が多いので姿を見ることはほとんどない。
クロムという若者は、この剣士と違ってもう一歩無口らしい。ほとんど口をきかないがディアスほど無愛想というか、影は感じられない。ディアスはその影に押されて口をあまりきかないような感じがするが、クロムは本当に無口らしい。というよりは、何かを言う
のが面倒なようにも見える。ダークブラウンの髪とオリーブグリーンの瞳・・・。これを見れば、世界最大の植物園の主人ならば花の名前もつけたくなるだろう。確かあの地方周辺は、今だに親と子の名前が個々で違うという風習が残っているはずだ。
パチ・・・
焚火が爆ぜ、静かに火が燃える音だけが、いつまでも夜空に吸い込まれている。
翌日の昼すぎにアルジリア王国に到着した一行は、王国の城門をくぐった所で別れた。
既に祭は昨日から始まっているらしく、王国に近付くにつれ、祭ではしゃぐ人の声や音楽がしきりに聞こえてきた。城門を入ると紙吹雪と本物の花が降っており、道のあちこちで陽気な音楽に合わせて踊る道化、店先にしつらえられたテーブルで酒を飲み、食事をする人々、街角という街角で次々と開けられる大きな酒樽、春迎祭はリスレルが今まで見たこともない程の規模で催されていた。ぽかんと口を開けて立ち止まるリスレルに、
「さあ行こうか」
アリスウェイドが微かに笑いながら促した。
花を売る女、軽やかに舞いながら客を呼び込む娘、歩くのも一苦労だ。まずはアリスウェイドの十年来の友人を訪ね、訪ねるときっととここに泊まっていけというのに間違いはないので、そこに荷物を置いてもう一度祭を見物に行くというのが大体の予定だ。
「楽しい人たちだったね」
「そうだな。・・・少々変わった組み合わせだったが」
「お友達はどこに住んでるの?」
「君の目の前にある建物だ」
「・・・・・・」
リスレルは顔を上げた。今二人が歩いているのは中央公道という王国のメインストリートで、そこからは真直ぐ王宮に通じている。リスレルのすみれ色の目に、王宮の尖塔が映った。
「・・・おじ様今回のお友達は王様?」
「知り合ったときは王子だったんだが・・・まあ一緒かな」
あまり深く考えてもいないようにアリスウェイドは言った。
リスレルは大して驚きもせず、
「ふうん・・・どんな人?」
「気さくでいい奴だよ。王族だということを少しも気に掛けていない」
「ふうん・・・」
そんな会話を交わしながら、二人は兵士が警備のために立っている王宮の入り口まで辿りついた。さすがに建物が途絶え、王宮へ続く道を意識し始めると、祭の喧騒も僅かだが遠退く。二人が近付くと警備の兵士はどこからどう見ても旅人としか見えない風体の二人に警戒して、槍を交差させると、
「止まれ! 何者だ」
と怒鳴った。リスレルは落ち着いている。慣れっこなのだ。
「アリスウェイド・ジェラコヴィエツエという者だが・・・アルゴ・・・いや、国王陛下にお目通り願いたい」
「なんだと・・・?」
兵士の一人が眉を寄せて近寄ってきた。多くの者が王宮に入りたがって色々な嘘を駆使してきたが、直接こんなことを言ってくる者は初めてだ。頭がおかしいのだろうか?
「陛下はご多忙で旅人なんぞに構っている暇はない! だいたいどういう関係でお会いしようというのだ!」
「友人だが」
アリスウェイドは困ったように言った。
「な・・・」
「待て」
もう一人の兵士がその兵士を止めた。明らかに年上のようだ。微かに青ざめている。
「な、なんだよ」
「失礼、お手前・・・アリスウェイド・ジェラコヴィエツエ殿と申されましたか」
「うむ」
「! ・・・大変失礼を致しました。陛下はお会いになられます。案内の者を寄越しますのでお待ち下さい」
「おいおいなんだよ急に・・・」
「馬鹿・・・いいから一緒に来い」
兵士達はしばらく王宮の入り口の奥に消えていたが、しばらくして戻ってきて、
「お待たせしました。お入りください。中に案内の者がお待ちしております」
「ありがとう」
アリスウェイドは笑って言い、リスレルは兵士に会釈して共に進んだ。
「何だよ何だよいきなり・・・いいのかよあんなの勝手に入れちまって」
「馬鹿! 名前を聞いてわからないのか」
「名前? 名前って・・・」
若い方の兵士はしばらく黙ってその名前を思い出していたようだったが、一瞬してあっという顔になり、見る見る内に青くなっていった。
「やっと気付いたか」
「じ、じゃああれが・・・!」
「そう・・・・・・聖位剣天の称号を持つ大戦士・・・アリスウェイド・ジェラコヴィエツエだ。 陛下がお若い頃交流があったとは聞いていたが・・・」
「聖位剣天・・・」
薄く呟き、若い兵士はごくりと唾を飲んだ。最高位の称号を持つ戦士を身近に見たという感動と恐怖がないまぜになって、今頃身体が震えてきている。
「あ、あの前聖位のドナルベイン・バルタザールによって称号を与えられたっていう」
「そうだ。ラッキーだったな今日が門番で・・・」
言ったものの、二人の兵士の顔は完全に夢見心地であった。
「アリスウェイド。よく訪ねてきてくれたな」
国王アルゴストリオンは客間に通されたアリスウェイドを笑顔で迎えた。二人は久しぶりの再会に肩を叩き合って喜び、お互いの健康を喜びあった。
「おや、こちらのご婦人はどなかたな」
「ああ紹介しよう。弟の娘のリスレルだ」
「リスレル・ジェラコヴィエツエです」
リスレルがぎこちなくおじぎをすると、国王は目を見張って言った。
「なんと・・・それでは再会できたのだな」
「七年前にな・・・大分心配をかけたが」
アリスウェイドはちらりとリスレルを見た。居心地の悪そうなというか、あまりここには居たくなさそうだ。確かに、アリスウェイドと国王の咲かせる昔話を隣で聞いているだけでは、退屈極まるだろう。
「リスレル、別室で休ませてもらいなさい。ここにいては退屈だろう」
「おおそれでは案内させましょう。王宮内はご自由に出歩かれて結構。なんなら庭師自慢の庭で休まれるのもよろしいだろう」
ぴくり、リスレルの濃いすみれ色の目が反応した。
「お庭・・・」
「遊ばせてもらいなさいリスレル」
「・・・はい!」
少女の顔がほころぶ。
「案内させよう」
国王が侍女を呼び、リスレルを庭まで案内するよう命じると、リスレルは跳ねていきそうな勢いで国王に挨拶してから颯爽と出ていった。相手が誰であろうと自分を無理に抑えようとしないその天真爛漫さ、それはアリスウェイドが最も愛するものの一つであった。
リスレルが去り、二人は数年ぶりに腹を割って話した。アリスウェイドの今までの冒険の話、国王の即位や結婚、王子と王女の誕生など・・・話は尽きなかった。
「君の即位式の時も結婚の時も顔を見せられなくて済まなかったな」
「何を言う・・・世界の裏側でその話を聞きつけたところで間に合うまい。その代わり、毎回必ず祝いの言葉と一緒になにがしか贈ってきてくれたではないか。君が贈ってくれた絹彫りのクリスタルグラス、妃は今も重宝しているぞ。大変な宝物だとな」
「気に入ってもらえたか・・・それはよかった」
「それはそうとアリスウェイド」
国王は幾分真顔になって姿勢を正した。
「よく見つかったな・・・リスレル殿といったか・・・」
「・・・ああ。本当にな・・・」
アリスウェイドはそっと濃緑の瞳を閉じた。
リスレルは彼の弟の娘である。弟は父の跡を継いで樵をしており、彼自身の性格も幸いして幸せで裕福な生活を送っていた。
『 兄さん、紹介します。アデル・・・アデレードです 』
弱々しく微笑んだその紫の瞳。きらきらと輝く金の髪。それはそのまま娘のリスレルに受け継がれた。いかにも気の優しい、眉のまるい穏やかな雰囲気の女性で、弟が心を奪われたのもうなづける。リスレルは母親そっくりだが、はっきりした顔立ちときりりとした凛と音がするような雰囲気は弟から受け継いだものだろう。
「戦争で皆殺しにあったと聞いて・・・さすがにショックだったよ」
ソファに寄り掛かり、組んだ手を足の上に置いてアリスウェイドは言った。
「戦いはいつもむごいな・・・それからどれくらいしてからだい、リスレル殿が生きているという噂を聞いたのは」
「さあいつ頃だったか・・・風の噂で、守られるようにして母親の身体の下にいた子供が生きていたという噂を聞いた。リスレルだと確証はできなかったが話を聞いてまわる内にその可能性が濃くなっていった」
「それからだったな、君が旅を続けながらリスレル殿を探すようになったのは」
「まあもっとも片手間にではあったけどね」
アリスウェイドは窓の外からの微かなはしゃぎ声に立ち上がって窓を見た。庭がここから見下ろせるのだ。木々の花、地面に植えられた理想的な色配分の草、午後の光を受けてきらきらと光り、青い空が額縁のようにそれを飾っている。
「きゃーっうさぎだっ。すごいすごい」
アリスウェイドの口元が知れずほころんだ。ああして一人でも最大限に楽しめることができるリスレルの人間性の、何の魅力的なことよ。
「二年間探して・・・やっとマエリガン修道院にいるとわかった時は彼女は十歳になっていたよ」
「長かったな・・・」
「―――――・・・そうだな・・・」
今でも目に浮かぶ・・・シスターの後ろから怯えたようにおずおずと覗き込んだ幼い少女の顔。今思えば、十歳の少女によくもあんなに苛酷な旅を強いてきたものだ。リスレルは一度も弱音をはかず、いつもにこにこと笑って自分の側にいた。
「しかしあれももう年頃だ」
明るいリスレルの笑い声を聞きながら・・・アリスウェイドはいくらか低くなった声で言った。
「彼女がそう望むのなら、・・・いつでも私と離れて落ち着いた暮らしをさせようと思っている」
「アリスウェイド・・・」
国王アルゴストリオンはそのいくらか沈鬱な背中を見て思わず呟いた。友のこんな背中を見るのは初めてであった。
苛酷な旅の暮らし。
アリスウェイドには、どう考えてもリスレルにその旅が幸せを与えているとは思えないのだ。
「ところで君の方はどうなんだ」
振り向いて話題を変えると、アリスウェイドは久しぶりに会う、国王の重責ですっかり面変わりしてしまった友人に問うた。
「ああ・・・。まあいろいろあるが、それなりにやっているよ」
「大変だな、国王も」
「ふふふ・・・旅をするよりは楽さ」
アリスウェイドは思わず笑った。こうしてまた、変わらず軽口を叩けることがなにより嬉しい。
「そういえば弟君はどうした。ミランミエ公国の宰相になったという・・・オルティス殿といったかな」
「よくそんなことを覚えているな」
苦笑して国王は言い、女官を呼び付けて新しい紅茶を淹れるよう命じると、しばらく何か考えているのか、じっと黙って中空の一点を見つめていた。
紅茶が運ばれ、アリスウェイドが自らの手で一度、二度、三度・・・と空になった器に新しい紅茶を入れ、その三杯目でようやく国王は口を開いた。
「実は少し困ったことになっている」
アリスウェイドはちらりと友を見たが何も言わずに紅茶を飲み続けた。二呼吸ほどして国王は再び口を開いた。
「代々王家が侯爵家と仲が悪いのは知っているだろう。特に今の侯爵はやり手でな」
「聞いたことがある。なんでも客艦の材料だと言って膨大な量の鋼鉄を独占で入手したとか」
「そうだ。冷徹で狡猾で・・・そして非常に才能のある男だ。敵にするのには惜しいほどにな」
「却って楽しいんだろう、それが」
「まぜっかえすな。とにかく侯爵が今の代になって王家との仲は最悪だ」
「何か問題でも?」
「弟が宰相になったのはかれこれ大分昔の話になるが・・・その時に宰相候補に上がったのが弟の他に侯爵の弟でな」
「・・・・・・」
「苛烈な競争の末、結局弟が宰相になったわけだが・・・侯爵はそのことをまだ根に持っている」
「それはそうだろう。ミランミエ公国というと大陸で第三位の麦生産国だ。気候も温暖で移民も多いし宝石鉱山を後ろに控えているから潤っている。身内に入れておけばどれだけ有利かわかったものではない」
「そう・・・侯爵も同じように考えていたのだろうな。とにかくひどい憤慨のしようだったと密偵が青ざめていた」
「―――――それで?」
「弟が春迎祭の催しで使う麦と米の移送の為わが国に滞在しているのだが・・・公国からここに来るまでに三度襲撃されている」
「―――――」
「毒杯を部屋に持ち込まれたことも二度ほどあった」
「―――――侯爵か」
「おそらくは。ミランミエ公国宰相の座はなんといってもうまい話だからな。諦めきれないらしい」
「ふむ」
「今のところ襲撃の手はぴたりとおさまっている。しかし・・・」
「祭りが終わって帰るまでに手勢を集めてくるな」
「そうだ。今まで襲撃があったのに今は全然ないというのも却って不気味でな。なにも弟だからというだけで心配しているのではない。
今侯爵の息のかかった者が公国の宰相になれば恐らく最初に負担を強いられるのは国民だ。それだけはなんとしても避けたい。春迎祭の間中、弟もその部下も働き詰めで精神が張っている。そんなに疲弊した状態で帰ったら・・・」
「・・・・・・」
アリスウェイドは考え込むようにして顎に手をやった。
「それでおじ様、護衛についていくことにしたのね」
綿菓子片手に、リスレルは笑顔で彼を見上げた。
「わかるかい」
「そんなの。話を聞いてればだいたいわかるよ」
「話で聞いている以上に緊迫していてな・・・・・・弟君が廊下を歩くだけで宮廷側も公国側もピリピリしていた」
「ふうん・・・大変なんだね」
二人は今街を歩いている。せっかくの春迎祭なのに、王宮の窓から街の様子を高見の見物だなんて勿体なさすぎる。色とりどりの花びらが舞い、にぎやかな曲がどこからともなく流れてくる。寒くて足早に街を歩き、その寒さゆえに店先に立ち止まるようなこともな
かった長い長い冬を終え、春を迎えた喜びはひとしおだ。
「わーいりんご飴売ってる。ひとつくださーい」
「よく入るね」
口元に薄い笑いを浮かべ、アリスウェイドは姪に言った。
「うん。言うでしょ甘いものは別腹って」
春の空は色も穏やかで、吹く風も思わず口元がほころぶほどに暖かい。二人はそれから春迎祭のために半年前から稽古をしていたという街の劇団の龍の舞いを見たり、ガラス細工の店をからかったり、凝ったビーズ細工の髪飾りを見たりして夜まで街を歩いた。夜になっても街の喧騒はおさまらず、王宮の向こうで花火が上がって尖塔を照らしだした。それを合図にいくつもの花火が打ち上げられ、そのたびに光の花を夜空に散らした。
道化の仮面をつけた男が滑稽な仕草で踊りながらリスレルに近寄り、小さな花を一輪渡すとまた、雑踏の向こうに消えた。
2
その仕事が舞い込んできたのは、顔見知りの情報屋に偶然出会った午後の事だった。
冒険者のためのギルドに立ち寄ったが祭のせいもあってろくな仕事がなく、四人は酒場でこれからの予定を話し合っていた。
「他の大陸に行くか」
ディアスが無表情なまま呟く。
「ヴィヴェリイで大きな戦が始まりそうだという噂があるわ」
杯を傾けながらセシルが口を開いた。
「戦・・・ですか」
「嫌なの?」
「・・・そういうわけでは・・・ないですけれど」
エストリーズは言い淀んだ。嫌でないわけがない。人と人が殺し合い、自分も白刃の下でいつ斬り殺されるかわからない危険と終始隣り合わせなのだ。
「お前では役に立たない。戦以外の仕事だ」
ディアスが機嫌悪げに言う。あ・・・怒ったな、セシルは表情をみて思った。セシルは意外と戦場に立つのは平気だ。紋章学師として何度か戦争に応援に行って戦った経験がある。 クロムと出会い、ディアスと三人で冒険を初めてからは、二度ほど戦に参加したが、いずれもいい収入だった。クロムは見ての通りの大男で冒険者の間では無口さと剣の腕で有名だし、ディアスは庵で修業を積んだ剣士だ。二人の腕はいい。そして紋章学の名家出身のセシルは当然二人に負けないほどの働きを戦場で見せ、法外な金額の報酬を受け取ったのだった。
戦はいつでも、短期間で稼ぎのいい非常においしい仕事なのだ。エストリーズの怯んだ様子を見てディアスが機嫌を悪くするのも無理はない。セシルからすれば、今まであれだけの数の老人に囲まれて育ち、研究の時以外ほとんど表に出ないエストリーズがいきなり戦場に出られるはずもないと思うのだが、面と向かって愛の告白をされた上についてこられてしまったディアスは、照れが意地に成り代わって些細なことで機嫌が悪くなってしまうらしい。エストリーズの想いは前途多難だな、とセシルが酒を一口飲んだ時のことだ。
情報屋が持ってきた仕事は秘密さえ守れば割のいい仕事だった。
内容は憚りなく言ってしまえば要人の暗殺。眉を顰めるディアスに情報屋は慌てて手を振り否定した。剣士は、人に言えない汚れた仕事はしない。
「詳しいことは直接お屋敷に行って話を聞いてくれよ。なんでもその相手・・・殺す相手だけどさ、悪い奴らしいんだな。暗殺といってもそいつが殺されて困る人間は一人としていないんだと。却って助かる人間がどれだけいることか」
「・・・・・・」
クロムは一言も口をきかない。だいたいこういう時の決定など、クロムにはどうでもいいことであって、決定はセシルかディアスが下す。よしやディアスがこの仕事を断っても、違う仕事を探せばいいことだ。時は戦の頻発する時代、そして未踏の遺跡はいくらでもある。そこへ行けばいい。
クロムは嫌であれば嫌だと言うが、相手がよほど虫の好かない者くらいに限られる。嫌でなければ、はっきり言ってどうでもいい、自分が決めることではないくらいに彼は思っているのだ。
「ディアス、どうする? 私はいいわ」
「私もです」
「あとはあなたが決めなさいよ。断るのかこの話に乗るのか」
彼の剣士としての誇りを尊重してセシルはこう聞いている。剣士は誇りの高いものだ。 自分の剣で食っていくということに一種のポリシーを持っている。汚い仕事に手を染めるくらいなら、飢えたほうがいいという者たちなのだ。エストリーズも、戦に行きたがらない自分の我儘でこれ以上仲間に迷惑はかけられないと思ったのだろう。暗殺と聞いて一瞬青ざめたが、これが冒険者の旅だと自分に言い聞かせた。
「・・・」
二人の気遣いを感じてディアスは考えた。自分の信条に反することではないが・・・。
しばらくして彼は顔を上げて情報屋を見た。
「・・・本当に・・・その男を殺して困る者泣く者はいないんだな」
「保証するよ」
「・・・・・・」
ディアスは目の前の杯に目を落とした。
葡萄酒色の酒に映る自分の青い瞳。かつて―――――守りたい者を守れなかった男の目だ。
「―――――」
ディアスはそっと目を閉じ、顔を上げるとぐっと拳を握って言った。
「・・・引き受けよう」
そういうわけで夜中秘密裏に案内されたのが大きな館で、相手は身分も名前も話そうとはしなかったが、顔だけは見せて依頼の内容を言った。
「相手はこの男・・・」
見せられたのは一人の男の写真だった。魔道石による天体エネルギーの媒介で、機械工業も前より発達しているとはいえ、まだまだそれらがべらぼうに高価な現代、写真一枚とて馬鹿にできる金額ではない。しかも、相当精巧なものだ。この依頼人、かなりな身分の人間だと、セシルは見当をつけた。艦の一つ位持っているだろう。
「相手の身分と名前は明かすことはできない。しかし三日後・・・騎馬で南東に向かって自国に帰る。忍び同然だから部下は少ない。十人前後か、増えても五、六人だろう」
「・・・もう一度聞いておくが本当に世間のためにならない男なのだろうな」
「無論だ。貿易を広く扱っているが税は払わない、搾取はする、とんでもない男だ」
「脱税なら警邏局にでも報せればいいだろう」
「わかるようにそんなことをしているのだったらわざわざこんな仕事は頼まない。今日こうしている間もあの男のために何十人という人間が苦しんでいるのだ」
「・・・いいだろう。詳しい段取りを話してくれ」
こうして密議は行なわれ―――――四人は三日後を待った。
そしてその三日後、人も途絶えた草原で、彼らは依頼人の言葉どおり騎馬で移動する集団を見つけた。夜は却って警戒するゆえ、昼間は絶好のチャンスだ。この辺りは街道からもはずれ、人気はほとんどない。
「間違いないわ」
携帯用の望遠鏡でセシルが確認し、ディアスとクロムが無言のままうなづきあった。
一気に近付き、怯える馬に目もくれず抜刀した。
「控えよ! 何者だ!」
側近らしき男が叫んだ。二人は答えず、馬から降りて抜刀して向かってきた護衛の者を倒すべく身構えた。
!
空気が震え―――――ディアスは何があったのか一瞬わからなかった。気が付くと空が見えた。息が一瞬つまるようにして止まる。吹き飛ばされたのだ。後方からセシルとエストリーズの援護はまだない。
(魔導師がいる!?)
すぐに立ち上がりふらつく頭を振り、目指す標的を見つけて一気に飛びかかった。訓練された剣士の動きである。護衛達にはディアスが見えなかった。
(―――――もらった!)
正に目の前に標的がいる。一瞬後にはこの男は自分の剣に串刺しにされているはずだ。
ガキッ。
しかし慣れぬ感触というか―――――思わぬ感触がディアスの手を痺れさせた。目を見張って顔を上げると、自分の剣は別の剣によって阻まれていた。標的はその剣の向こうにいた。そしてディアスを最も驚愕させた事実、それは、自分を阻む剣を握る男が、つい三
日前に別れた顔見知りだったということだ。
「! あんた・・・」
「君は―――――」
相手の男はアリスウェイドだった。すぐ側の馬上にはリスレルもいる。
「な・・・」
ディアスは言葉を失った。一体どういうことだ? 暗殺されるような男の護衛をする男には見えなかった。
ガッ!
「一体何をしている」
ディアスの剣を弾き、アリスウェイドは厳しい顔で追及した。
「こっちのセリフだ。なぜこんな男の護衛などしている?」
「こんな男とはご挨拶だな・・・ミランミエ公国の宰相―――――私の友人の弟君だ」
「な・・・! なんだと!」
「嘘ではない」
ディアスは絶句した。クロムは護衛の者たちと戦っている。自分の代わりに一手に引き受けているのだ。混乱する頭。
「そんな・・・俺は標的は世間のためにならない男だと聞いた。その男が一日生きれば苦しむ人間が大勢いると」
「随分言われていますな」
アリスウェイドが振り返って国王アリゴストリオンの弟オルティスに言った。オルティスは苦笑して、
「どうとでも言えるんですよ。敵対している人間はね」
「なんだ・・・!? 一体どういうことだ」
「まあ待ちなさい。君の友人が困っている。―――――待て! 剣を引くのだ」
オルティスは人に命令し慣れた声を張り上げた。護衛たちの動きがぴたりと止まり、クロムもこちらをちらりと見る。
「宰相殿下・・・」
「し、しかし・・・」
「いいから剣を引け。何か誤解があるようだ」
渋々護衛が剣を引き、オルティスの周辺に集まり、クロムがディアスの側に来たところでアリスウェイドが静かに口を開いた。
「どういうことか―――――とにかく互いに説明が必要なようだ」
そして何かに気が付いたような顔になり、
「連れの女性二人はどうした?」
と聞いた。
「あ・・・」
ディアスはクロムを見た。口をきくことのほうが珍しい連れは、静かに首を振るだけ。 剣士は二人がいる草原の辺りを振り返り目で探した。
二人とも、茫然として立ち尽くしていた。
実は二人とも、ディアスがオルティスに飛びかかるのと同時に、それぞれ好いた男の援護をしようと詠唱を開始していたのだが、ディアスが護衛と戦おうとして何者かの魔法に吹き飛ばされた時、ある事実に気が付いていた。
「! あの娘・・・」
「―――――!」
二人は絶句した。
今の魔法はあの馬上の、はだけたフードからのぞく金髪・・・遠目でもわかるすみれ色の瞳。
「―――――嘘!」
「どう・・・どうして・・・昼間なのに」
そこまで言ってエストリーズは真っ青になり立ち尽くした。常識では考えられないほど恐ろしいことが目の前で起こっていた。
「なんで昼間なのに・・・あの娘魔法を使ってるの!?」
「―――――そういうことか・・・」
宰相オルティスは苦々しく呟いた。彼らは襲撃を受けた場所でそのままキャンプを張り、ディアス達一行の話と、アリスウェイドの話とを照らし合わせたところだ。
「侯爵め・・・やはり一度きちんと勝負をつけなければならんな」
「つまり―――――俺たちは体よく騙されたということだな」
憤慨やる方ないようにディアスが唇を噛みしめる。
「君たちに依頼をしたのは黒い髪の男だったか? こう、肩まで長い」
ディアスは黙ってうなづいた。とんだ醜態・・・これで剣士などとは聞いて呆れる。
「侯爵だ」
「ついてきてよかった」
アリスウェイドが低く呟く。自分がいなければ、恐らく護衛たちよりもよほど腕のたつこの二人の若者に宰相は殺されていただろう。
「仔細はよくわかった。君たちを咎めるつもりはない。冒険者は・・・こういうことも仕事の一つだ」
宰相は立ち上がった。
「さてそろそろ行こうか・・・私も忙しい身体だ。早いところ国に帰らねば」
「待ってくれ」
ディアスが搾りだすように言った。
「このままではこちらの収まりがつかない。騙されて、あなたに慈悲をもらって、それではあまりに間抜けすぎる。挽回のチャンスをくれ」
「―――――というと?」
「さっききちんと勝負をつけると言っていた。それを俺たちに任せてほしい」
「・・・何だと・・・?」
「忙しい身体ならつける勝負もつかないだろう。代わりにやらせてくれ」
「・・・・・・」
宰相は自分を暗殺しようとした若者を凝視した。
「アリスウェイド殿、どう思われる」
「信用していいでしょう。数日共にしただけですが根の真っすぐな若者です」
「聖位剣天の貴方のおっしゃることなら信用してもいいでしょう」
ため息混じりで言い、宰相はディアスに言った。
「依頼しよう。ただし、ここのお二人を監視として付ける。アリスウェイド殿とリスレル殿をな。もし裏切るようなら・・・アリスウェイド殿が私の代わりに君たちを断罪する」
「いいだろう」
ディアスは唇を噛んだ。信用されないのは浅薄な行動をとった己れの責任・・・。文句を言える立場ではない。
「よろしいかアリスウェイド殿」
「よろしいですとも。しかし貴方を公国までお送りするという約束ですからな・・・公国に到着した後に君たちに付き合おう。いいね」
「黙って従う」
ディアスは吃とした目で答えた。アリスウェイドの顔が好ましさにふっと崩れる。さすがに自分の失態は倍の負荷を背負わされても拭う覚悟らしい。それでこそ剣士。
「あーっ・・・お、思い出した」
そこで、宰相の言葉に何か引っ掛かりを感じて、しかし自分がいったい宰相のどの言葉に引っ掛かったのかわからなくて悩んでいたセシルが、突然声を張り上げた。
「さっき・・・さっき・・・」
セシルは宰相を指差した。
「? なんだね」
「せ、聖位剣天・・・って」
アリスウェイドは一瞬苦笑いした。宰相は何を言われているのか最初は理解できず、そして数秒後理解すると、大きな声で笑った。
「はっはっはっはっ・・・そうか。まあ学師や魔導師なら最初は気付かなくても当然だな・・・なるほど聞いたことはあっても思い出せなかったか。はっはっはっはっこれは愉快だ。暗殺されかけたことなど忘れてしまうわ」
リスレルはくす、と笑い、アリスウェイドは、なんともいえない顔をしていた。
「そうするとあんたたち・・・最初に気付いてなかったわけ」
馬の後ろを歩きながら、セシルはげっそりとした顔で言った。
「気付いていなかったというよりは・・・聞いていなかった」
ディアスは無表情のまま答えた。
「聞いてなかっ・・・」
「・・・興味がなかっただけだ」
「もう・・・」
凄むセシルをエストリーズが困ったように止める。これももう、旅が始まってパターン化されている事だ。
「なんなのまったく・・・人を馬鹿にすんのもいい加減にしなさいよねバカ剣士・・・クロム、あんたは? 気付いてなかったんでしょ」
「気付いていた」
「な・・・」
セシルの一生のなかで絶句の多い一日。あるとすればこの日は間違いなく数えられているに違いない。
「なんで・・・・・・なんで・・・だったらなんで言わないの・・・っ」
「・・・尋ねなかった」
セシルはがっくりとうなだれた。怒鳴っても無駄だ。クロムはこういう男なのだ。自分から口をきくことなどまずない。面倒なのだ。
その会話を馬上で聞いていたリスレルは自分の後ろに座って手綱を握るアリスウェイドを見上げた。
「珍しい会話・・・よかったねおじ様」
「・・・・・・」
アリスウェイドは何とも答えようがなく、苦笑して結局何も言わなかった。
その後ろ姿を見て、エストリーズは言葉がなかった。
(あの方が聖位剣天・・・)
世情に疎いエストリーズも聖位剣天のアリスウェイドと言われれば納得いく。有名といえばあまりにも有名な名前だ。気付かなかったのは、あんな少女を連れているということの意外性やその気安さ、それから旅を始めた最初の方でそこまで頭がまわらなかったということにある。名前しか聞いたことがないから、聖位剣天というともっと年配で、ごつい男を想像していたのだ。あんな好紳士で、しかも姪を連れていては大抵騙される。絶好の隠れ蓑ではないか。
「それからもう一つ気掛かりなことがあるわ」
見るとセシルが恐ろしいほど真剣な顔でアリスウェイドの背中を見つめている。
「どうやってもこれだけは答えてもらうわ・・・今でなくともね」
それを聞いてエストリーズは思い出した。
先程味わった不可解さ、理不尽さ、
そして恐怖を。
いつの時代の誰が決めたものなのか、いつのまにか剣の技の人間離れした者には称号を与えるという風習があった。称号には冠位と剣号とがあり、大抵はこの二つがセットとして扱われる。
剣号は下から剣秀、剣晶、剣鳳、剣星、そして剣天。それに三つの冠位大、太、聖が組み合わせられる。中でも『剣の天』といわれる剣天は聖位にしかつくことが許されず、冒険者や剣を握る者たちの憧れと恐怖の的となっている。剣天とだけいえば、それは聖位
を持っているということに他ならない。
聖なる位につく天の剣。
それほどの称賛を浴びて余るほど、聖位剣天の腕は凄まじいものなのだという。
前の聖位剣天は老練なる大戦士ドナルベイン・バルタザール。アリスウェイドに聖位剣天を譲ってからはどこぞの山に隠居しているだとか、どこかの大陸の王国の騎士団の指南役になっているだとか、いくつも噂を聞くがはっきりしたことは何一つわからない。わかっているのは今もどこかで生きていて、たまにいずこかに神出鬼没で姿を見るということだけだ。
「でも戦ってるところを見るだけではそんなに凄い人に見えなかったけど」
「それだけ相手が小さかったということだ」
ディアスは無表情に言った。先程宰相に飛びかかった時・・・アリスウェイドの気配も動きも感じられなかった。
(愚かな・・・名前をうわの空で聞いていたからだ)
(・・・いや・・・)
きちんと聞いていても思い出さなかっただろう。噂だけで聞く聖位剣天のアリスウェイドは屈強の無敵なる戦士、あんなにこやかで殺気も感じられず、年端もいかない姪と一緒にいてはわかるはずもない。
それに剣士というものは、長い間人里離れた庵で修業を積み、あまり人と組んだり交わったりせぬので世情に疎い。輪をかけて世間に興味のないディアスがすぐに気が付かなかったのも無理はない。
一行は無事公国に到着し、そしてその足でアルジリアに引き返した。
明日にもアルジリアに着こうという三日目の夜、焚火を見つめながら、目を離さずセシルが口を開く。ずっと認めたくなくて、恐怖のあまり聞くことができなくて、できれば夢か幻であってほしいと願っていたのにも関わらず、結局それも自分の願望に過ぎないとい
うことに気付いて、彼女は到頭観念したのだ。
「ちょっと聞くけど」
アリスウェイドとリスレルが顔を見合わせた。
「・・・私たちとあなたたちが最初に会ったのは夜だったわ。それで、確かリスレルは魔導師で星の光で制約しているって聞いた」
「・・・・・・」
アリスウェイドは黙って焚火をかきまわした。こうして時々空気を入れないと夜中じゅう保たない。リスレルは気まずそうに膝を抱えたまま焚火の火を見つめた。
「どういうことだ。・・・なんの話をしている」
ディアスがわからない顔をして緊迫した空気を纏うセシルとエストリーズを見た。
「剣だけ振り回してればいい奴は呑気よね。うらやましいわ」
「? ・・・なんのことだ」
「―――――」
アリスウェイドが焚火をかきまわす手を止めた。
「君たちの言いたいことはわかる。
なぜ夜魔法を使っていたリスレルが昼間も魔法を使えたかということだ」
「・・・・・」
ディアスは口を噤んだ。
そういえば・・・あの時自分を吹き飛ばした魔法はリスレルに間違いない。自分を知り合いと認識したリスレルが傷つけないように吹き飛ばしたのだ。
他に魔導師はいなかった。
「魔導師というのは必ず天体のエネルギーの恩恵を受けて魔法を使う。それだけではない、例えば飛空艇の場合は動力源が宝石などの場合が多いが、それらも結局は天体のエネルギーを凝縮させて使用しているだけに過ぎない。月のエネルギーを凝縮した宝石を動力枠に填めて昼間飛ぼうとしたところで動くことはない」
「・・・その通りよ」
セシルは警戒を解かない表情でアリスウェイドを睨んだ。
「なんでよ・・・なんでその娘・・・昼も夜も魔法使えるのよ」
「・・・」
リスレルは困ったようにアリスウェイドを見た。
「わからんのだ」
「わからない・・・!? とぼけないで。そんな人間いるわけないじゃない。魔導師として魔法を使う以上天体のエネルギーは一つと決まってるわ。月と星と太陽のエネルギーを一度に使うなんて・・・できるはずがない! 死んじゃうわよ。ただの人間が修業積むだけで魔法が使えるのよ。天体の光にはそれだけのエネルギーがあるの。一つでもそんなに凄いエネルギーなのに可能なはずないじゃない!」
「しかし実際そうなのだから仕方あるまい」
アリスウェイドは冷静に言った。
「私が彼女と初めて会ったのは彼女が十の頃だ。既に修道院で修業を受け、その時にはもう昼夜関係なく魔法を使っていたという」
「・・・・・・」
「シスターたちは不思議に思いながらも、彼女に魔法を教え続けてくれたよ。この世に魔導師が制約を受けなければ魔法を使えないというのなら、制約を受けない魔導師が一人くらいいてもいいはずだとね」
「そんな・・・」
「もう一つ言えばリスレルがどの天体の恩恵を受けて魔法を使っているのか・・・正直なところ私にもよくわからない。しかし魔法を使っている以上はどれかの天体の恩恵を受けているのだろう。それだけで・・・充分だとは思わないかね」
セシルは絶句した。学師という職業柄、なんでも物事を突き詰めて考え結論が出ないことにはおさまりがつかない。エストリーズはどう思っているのだろうと思ってちらりと見ると、すっかり納得のいった顔で神妙にアリスウェイドを見ている。
「・・・エストリーズ・・・なんにも思わないの」
「別に・・・アリスウェイド様の言う通りだと思います。世の中には不思議なことがありすぎて―――――自分の常識でははかりきれないものが多くある。わからないのなら、人知の及ぶところではないのなら、無理に知る必要はないと思います。わかる時がいつかきっと来ます」
「は・・・」
落ち着いた表情のエストリーズを見てセシルは観念した。紋章学師と天文学師、同じ学師でも研究の内容はまったく違う。人間が創りだしそれを古代のものとして扱い探索と研究に励む紋章学師と、自然を相手に研究を重ねる天文学師では、考え方そのものが違うに
違いない。
「わかって頂けて光栄だ」
アリスウェイドはそ知らぬ顔をしてまた焚火をかきまわした。
「・・・・・・」
リスレルが居心地悪そうに身じろぎしたので、幾分落ち着きを取り戻したセシルは、興奮していたとはいえ随分なことを言った自分を振り返って罪悪感を感じ、
「・・・ごめんね。人間じゃないみたいな言い方しちゃって・・・あんまり驚いたから」
と言った。
「いいえ。驚かれるのは無理ないんです。だからあんまりばれないようにしてるんだけど・・・しょうがないです」
セシルとリスレルは笑った。和解の笑みである。
「それより、今度身体の紋章見せてください。いくつくらいあるの?」
「いくつ・・・数えたことないわ。・・・でも、クロムなら知ってるわよ。ね? ん?」
「・・・」
クロムは答えない。エストリーズが驚いた表情になって、
「・・・そうなんですか?・・・」
と恐る恐るセシルに聞く。
「はー・・・お二人はそういう関係なんですか」
リスレルも感心している。十七とはいえ、アリスウェイドに付いて諸国を経巡って七年が経とうとしている。
紋章学師は紋章を身体に刻んでその紋章の力を得る。紋章学者は、発見した新しい紋章を学師に使わせることによって、その効力や時代などを研究するのだ。得体の知れない紋章を軽はずみに刻んで、命を落とした学師は大勢いる。そして通常は、自分がどれだけの紋章を刻んでいるかを知られないためにあまり人目に晒されない場所に刻まれる。女性紋章学師の服装の露出が多いのは、あまり紋章を刻んでいないというアピールと、相手を油断させるためのものであることが多い。セシルもその典型と言えよう。
「今度見せてあげる」
「うん。わーい」
「それより侯爵のことだが・・・」
ディアスが突然口を開く。この男はいつもこうだ。何の前触れもなく本題を出す。
「館の場所がまずわからん。侵入経路も・・・」
「友人に頼んでみよう」
アリスウェイドが遮った。
「侯爵の館などいくつもあろうが・・・どの館にいるかくらいは把握していないと危険なのは彼自身だからな。密偵を使っているくらいだから侵入経路もわかっているはずだ」
「友人・・・って?」
「宰相殿の兄上だよ」
「って・・・―――――もしかして王様でしょ?」
「そうとも言う」
しれっと答えるアリスウェイドを、セシルは愕然として見つめた。
「あなたの叔父さんって・・・どういう性格なの?」
「ああいう性格なんです。あんまり・・・自覚がないというか」
自覚がないと言われたアリスウェイドは苦笑したが、何も言わなかった。
「王様だからお友達になったんじゃなくて、その人の人柄が好きで、たまたまお友達になったら将来の王様だったの。だから、」
リスレルは声をひそめた。知れず、セシルとエストリーズは身を乗り出す。
「聖位剣天っていわれるのもんまり好きじゃないの。なりたくてなったわけじゃないって言ったら嫌な言い方にとられるかもしれないけど・・・自然のなりゆきだったし、称号で特別扱いされるのが好きじゃないの」
「ふうん・・・」
「変わってますわねえ・・・」
ディアスは女たちの話を聞くともなしに聞いて、アリスウェイドを盗み見た。
「・・・・・・」
火を見つめて口元に穏やかな笑みを浮かべる横顔。本当にあのドナルベイン・バルタザールから称号を受け継いだというのだろうか? しかし―――――またこの男のおかげで、自分は過ちを犯さずにすんだのだ。剣士として一番大切なのは、事実を曲げて真実を見失い、過ちを犯すことである。大切なのは罪を犯さないことではない、犯すまいとして真実を見誤ることだというが、清廉潔白が必定の剣士にはこの種の過ちが一番響く。ポリシーに従ってしたはずのことが逆に悪事だった時のダメージは、終始自分を信じて動いているだけに常人には理解できないほどに大きい。
アリスウェイドがふと顔を上げたので、何かと思って空を見上げると、フッと流れ星が尾を引いてすぐに消えた。
3
〈それで〉
「は・・・首尾は上々・・・間もなく宰相の死が報告されましょう。すぐにこちらに打診が成されれば後は工作通り・・・」
〈・・・〉
侯爵は書斎で、ゆったりと椅子に座りながら鏡に向かっている。彼が話しているであろう誰かの姿は、どこにも見られない。
〈ぬかりはないのだろうな〉
「それはもう・・・冒険者というのは便利です。宰相を暗殺させた後に用済みと殺してしまっても誰も心配しない。あの情報屋と同じで・・・殺して野良犬にでも食わせれば少しは役に立つでしょう」
侯爵は鏡に向かって話し続けている。よく見るとその鏡、侯爵の姿が映っていない。鏡の向うにあるのは暗闇と、ほのかな紫色の灯。
「アナンダ様・・・ご安心を。ファステイル大陸はじきに・・・」
その時、玄関で凄まじい音がした。使用人たちの悲鳴と怒号、誰かの怒鳴り声、剣戟の響き。
〈何事だ〉
「・・・」
侯爵の顔つきが変わった。目が吊り上がり、鬼夜叉のような表情となる。振り向き立ち上がり、凄まじい殺気を侯爵が発した頃、その部屋の扉がバタン! と開けられた。鏡の向うの闇がフッと消え、鏡には後ろを向いた侯爵と、剣を構えたディアス、クロム、セシ
ル、エストリーズが映っている。
「侯爵! よくも・・・」
「貴様等・・・」
「宰相を謀殺し・・・どうせ俺達も殺すつもりでいたんだろう。もう少しで騙されるところだった―――――いや、騙された。この償いはしてもらう」
「愚か者が・・・」
侯爵の表情が文字どおり豹変した。迸る殺気、それと共に肌が裂け、獣のそれのようになり、口からは牙が。
「ここから生きて帰れると思うなあああ!」
「ディアス!」
アリスウェイドが部屋に入ってきた。リスレルも一緒だ。アリスウェイドは部屋に入ってすぐに侯爵の異変に気付き、
「円を組め!」
と叫んだ。
「我が配下たちよ! 闇に蠢き人の悲しみで喉を潤す我が配下たちよ。今こそ現われて我に仇なす者たちを八つ裂きにするのだ!」
侯爵の叫びと共に・・・部屋の天井に近い空間が突然唸り、耳鳴りのような音がしていたかと思うと突然割れ、向う側が黒い空間から、魔物が姿を現わした。
「な・・・!」
アリスウェイドに言われた通り背中を向け合い、ディアスたちは絶句した。
侯爵は異空間から魔物を召喚したのだ。それはまた、彼自身も人外であるということを示すのと同時に、相当な実力を持っているということを証明してもいる。
「リスレル、側にいなさい」
アリスウェイドは呟いて身構えた。相当な数の魔物だ。
ゴゴゴゴゴゴゴ・・・
ズ・・・ズズズズ・・・
天井近くから生じた空間の裂け目。渦のように広がり、真っ暗な向う側から狼にも似た魔物がふわりふわりとやってくる。
「ふはははは! 我が下僕たちに喰い殺されるがいい!」
「侯爵・・・」
ディアスが歯噛みして半魔物と化した侯爵に飛びかかろうとした。
「! 待て!」
アリスウェイドが叫んだが遅い。
「まだわからんか!」
ザゥッ
侯爵の目が赤く光り、魔力の発動でそこから風が巻き起こる。
飛びかかったままの姿勢で、ディアスは中空で吹き飛ばされた。
「・・・っ・・・」
「ディアス!」
「動いてはだめだ!」
エストリーズはアリスウェイドの怒鳴り声にびくっと立ち止まった。目の前には魔物たちが低く身構えてこちらを睨み唸っている。
「―――――」
獣に似た魔物と複数対峙する時一番気を付けれなければならないのは背中を見せないことだ。エストリーズはアリスウェイドが円を組めといった理由にようやく気が付いた。
「う・・・つっ・・・」
呻きながら立ち上がってディアスは侯爵を睨み付けた。
「お前たちが殺される様をゆっくりと見物といこうか・・・」
「―――――」
「ディアス、今は我慢しろ。見ろ・・・」
アリスウェイドに言われてディアスはやっと周囲を見回した。
「! ・・・」
侯爵しか見ていなかった・・・今、十重二十重に自分たちを囲む魔物の群れ。
「――――――――――」
「切り抜けてからだ。・・・侯爵はどうやら言葉通り始末される様を見ていたいらしい」
ということは侯爵が手を出してくることもないだろう。
アリスウェイドは歯噛みした。こんなに狭くて、しかも仲間と共に円を組んでいると―――――使える技も使えない。
剣を使う三人が自分から動いて攻撃できないのを気配で察知すると、まずエストリーズが動いた。
「月よ! 我に従い我に力与えし世に比類なき月よ。我に弓引く者に今、汝の銀の光を矢とし槍として光臨させ我の意に共鳴せよ!」
ゴゴゴゴゴゴゴ・・・
真っすぐ伸ばしたエストリーズの指のはるか上・・・すべての物質を超越して現われた等身大の月。
不気味に、恐ろしいほど銀色で、赤みを帯びた―――――それでも尚見る者に美しいと思わせる月。
「〈月光〉!」
ドォッ・・・
静かな地響きのような音がした。
エストリーズの出した月から白く光る帯のようなものが、ふわりふわりと風に舞うようにしかし確実に獲物を仕留める獣の動きで、一気に地面まで降りてきた。
カッ。
一同は一瞬視界を奪われた。
地面に到達した無数の光の帯が、静かな爆発でも起こしたかのように発光したからである。そしてそのたった一瞬の後、エストリーズの側にいた魔物たちは、本来が異次元の生き物であるがゆえに、骸を残すこともなく消滅していた。
「!」
そして辛うじて生き残っていた前列の魔物に、素早く飛びかかって数匹にとどめを刺し同じリズムで元の場所に残ったのはディアスである。
「大地満たし水運び火を助く麗し風の力を秘めたる風の紋章よ! 我に仇なす闇より出でたる不浄なる闇の住人を、我の吐息我の視線と成り代わりて螺旋の理の元今、断罪せしめ給え!」
朗々としたセシルの詠唱。彼女の胸の下辺りがポウ・・・と青く光り、光ったと思うとまるで伝導したかのように錫杖の先端に集中した。
「〈風迅〉!」
ゴオオオオッ!
錫杖から溢れたエネルギーがセシルの身体を媒介してかまいたちとなり螺旋を描きながら恐ろしい速さで魔物たちを襲った!
ズシャアアアアッッ
ズザッ!
ヒュゴオオオ!
続いてリスレルが詠唱を始める。
「正義の鉄槌にして破壊の衝撃司る闇の中の一筋の視線、汝は光、汝は闇、汝は光と闇の間を経巡り光と闇を仲介し光と闇をはらむもの・・・風より疾く、我の命に従いて我の指すところその迅速なる力滑らせ万物にその力見せ付けよ!」
すごい、セシルは背中でその詠唱を聞いて戦闘の途中にも関わらず冷たい汗を感じた。
(あんなに難しい呪文を・・・)
「〈雷閃〉!」
ズザアアアアア・・・
ヒュッ
―――――ドォン!
女たちの魔法が魔物の生命力を積極的に削り、消耗したところで剣を持つ者たちがとどめを刺す・・・苦しい戦いだった。屋外なら、もっと別の方法がいくつもあったはずだ。
〈! ・・・あれは・・・〉
「ぬぬぬぬぬぬ・・・なにをしている! 殺せ! 喰い殺してしまえ!」
〈騒がしいな・・・〉
魔物の数が激減した。背中を見せたところで、もう襲いかかるほどの体力は魔物たちにはないように見られる。ディアスはこれを待っていた。
「侯爵・・・覚悟!」
〈侯爵か・・・役には立ったが・・・〉
あの金の髪の娘の・・・あれは・・・―――――あれは。
〈あれさえあれば・・・こんな回りくどい真似をせずともよいか・・
ならばもう用済みだ〉
シュッ・・・
ディアスの正面に立ちはだかった侯爵の影に隠れて、鏡は見ることはできなかったが、もし見ることができたのならば、白く細い光線が一瞬だけ迸り、一瞬よりもさらに短い瞬間、侯爵の背中に吸い込まれるのが見えたことだろう。
「う」
ディアスは勢いよく剣を向けたままの姿勢で怯んだ。恐怖にではない、侯爵の様子がおかしい。と、彼が止まった途端、侯爵の口の端から血が流れだした。
「・・・あ・・・? そ、そ・・・ん・・・な」
言いながら侯爵の口から溢れんばかりの血が流れ出ている。侯爵は胸の辺りを押さえながら鏡に歩み寄った。
「あの鏡・・・」
エストリーズが放心して呟く。
「ア・・・ナンダ様・・・う・・・」
鏡には、茫然と立ち尽くすディアスも、鏡に向かって必死になって歩み寄る侯爵の姿も映しだされてはいなかった。
ヒュ・・・
「!」
アリスウェイド以外は気が付かないほどわずかな空気を裂く音。その音がした次の瞬間、侯爵は最早呻く力さえ失って、そこにドウと音をたてて倒れた。
鏡には、茫然として侯爵を見下ろすディアス、後ろには仲間たちが、普通に映しだされていた。
「侯爵が・・・」
「おそらくあの強大な魔力と引き換えに魔物に肉体を引き渡したのだろう。異空間に住む魔物にとっては、肉体さえあればこちらを自由に行き来できると聞く」
ここはアルジリア王国の王宮、玉座の間である。必要最低限の人間―――――妃すら外させ、近衛の兵も一人だけという―――――で、今国王アルゴストリオンはアリスウェイドと話している。アリスウェイドは窓際に立ち側にリスレルを立たせているが、冒険者であるディアスたちはそうしなくていいとは言われても膝まづかないわけにはいかない。そういう威厳のようなものが、国王にはあった。
「さっき弟から報告が来たよ。無事に全て済んだそうだ」
「それは何より」
腕を組んでアリスウェイドは言った。
「君達のことは不問に付すことにしよう。冒険者は・・・ああいったことも仕事の内だ」
弟とまったく同じ事を言われ、ディアスは頭を下げたまま瞳をそっと閉じた。なにをされても文句を言える立場ではない・・・これは国王の温情に他ならない。
若い頃身分を隠して諸国を旅して回った国王は、冒険者がどういったものであるかということを充分すぎるくらいよく知っている。彼ならではの慈悲だ。
「ところでアリスウェイド」
これ以上ディアスたちには触れようとはせず、国王は振り返って旧友を見た。
「もうこの大陸には用はないのだろう。次はどこへ行く?」
「そうだな・・・」
アリスウェイドは何気なく窓の外を見た。
空の高いところで、大きな鳥の影が強い風に逆らって飛んでいる。
ゆっくり、ゆっくりと飛んでいたそれは、次第に南西の方角へ飛んでいって消えた。
「南西・・・コルモン大陸にでも行くか」
リスレルが隣でくす、と笑った。彼女だけが、アリスウェイドの気ままに見える旅の進路の正体を知っている。彼の視線を追って多分そうだろうな、と思って聞いていると、案の定そうなのだからやめられない。
「コルモン大陸・・・」
セシルがちょっと顔を上げて呟いた。
「ならば頼みがある。親書をスヴェル王国まで届けてほしい。王家の紋章がついているので怪しまれることはないだろう」
「やれやれ鳩の真似事か」
「鳩のほうが幾分ましだろう」
二人の男は顔を見合わせて大きく笑った。国王と高名な戦士の会話とはとても思えないと、聞いていた近衛兵が呆れてしまうほど。
「あの」
セシルが顔を上げて膝を立てた。
「構わない、立ちなさい」
「恐れ入ります」
セシルは立ち上がって言った。
「コルモン大陸へおいでなら、ぜひ我が家へお越し下さい。いわば生命の恩人・・・故郷に行かれると聞いて放っておくわけにはいきません」
「そういえばスウィントネスの出身とか・・・スウィントネスといえば紋章学の名家だ」
「そうなのか?」
国王の言葉にディアスが思わず聞いた。国王が知っているほどの良家の令嬢が、なぜクロムに?
「招待か・・・リスレル、どうする。行きたいかい」
「行きたい」
即答するリスレルの真正直さに苦笑し、アリスウェイドはセシルに向かって言った。
「それではお言葉に甘えてご招待に与るとしよう」
セシルは満面の笑顔でうなづいた。良家の令嬢らしい始末の取り方である。
「ではコルモン大陸までは飛空艇で行くといい。王家の客艦を出そう」
「すまんな」
「大してすまんと思ってもおるまい」
そこにいたリスレル以外の人間は、またもや呆れてしまったという。
飛空艇とはそもそも機械工業の粋として使用され、海上をいく船と海底トンネル及び陸上をいく汽車と共に幅広い人々の足として活用されている。他の二つと比べた時に決定的に有利な点は速い事だろうか。距離にもよるが船なら七日以上かかる大陸間の移動も、飛
空艇だと一日弱である。その分料金も高いが民間の会社が経営する飛空艇のいくつかは低価格化に成功している。そしてなによりも天候に左右されないというのが一番だろう。船は嵐が来てしまえば出航することはできないし、陸の上だけに限られるが汽車も天候があ
まりにも悪い台風などの場合は運行できない。
飛空艇の主な動力源は魔道石。魔道といってもこの世界では魔力の元はすべて天体のエネルギーから賄っているので、これらの石はそのエネルギーを凝縮したものである。普通の石にでもエネルギーを封入することができるが、宝石の方が天然のものを凝縮する力に
優れているので大抵魔道石は宝石であることが多い。無論太陽の恩恵を凝縮した魔道石は夜間使用することはできないので、日中太陽の光で動いている宝石の横で夜間のための宝石がきちんと設置されているのは言うまでもない。あらゆる場合を想定して魔道石は一艦に四~五個常備されている。天然の魔道石の方が寿命が長いが、そう簡単に手に入るものではない。よって多くは魔力を宝石に凝縮させるが、その際の莫大な費用が飛空艇の運賃を通常より高くしているのは言うまでもない。
「高いったってピンキリよね。すごいとこでは一人金貨三十枚(約九十万円)とるらしいわよ。でもそのぶん客室も豪華みたい」
「平均的な料金は金貨三枚から七枚だと聞きます。庶民の場合なら、やはりよほどのことではないと使おうとは思いませんわね」
セシルとエストリーズは甲板に出てそんなことを話している。エストリーズは飛空艇に乗るのは初めてだ。
飛空艇というとイメージはその信頼性から大陸間の手紙の運搬と戦時の兵力動員というのが強い。兵士の運搬はほとんど飛空艇で行なわれている。リスレルは、王家の飛空艇に乗るのはこれが初めてではないらしくすっかり慣れた風で手摺りから空を見上げている。
ドーム状に超強化ガラスが付けられ、強風にさらわれたり雨に濡れることはない。
空を見上げるリスレルは切り取ったように美しい。その指に光る乳紫色の石が空の青をそのまま映し、なんともいえない紫苑のような色を出している。
「・・・」
眩しげに目を細めて、セシルはリスレルの方に身体を向けた。
「いつ見てもきれいな石ね・・・なんていう石?」
リスレルも気付き、セシルの方を見て石に触れながら言う。
「名前・・・ないんです。私も最初気になってシスターに聞いたり自分で調べたりしたんだけど、とうとうわからなくって。結局おじ様と旅を始めてから、旅の占いの人に聞いてみたの」
「それで?」
「名前はない、ないけど代わりに自分がつけてやるって。紫凛石が相応しいって」
「紫凛石・・・いい響きです」
「そうね。的を得てるわ」
リスレルははじけるように笑った。彼女にとっては、石がなんであろうといいのだ。この石は、身を挺して剣と死の恐怖から守ってくれた母の形見。
「しかし速いわね・・・王家の艦は。民間とは大違いだわ」
セシルがそう言って移した視線の先には、コルモン大陸の影がうっすらと見え始めていた。
セシルの実家スウィントネス家は紋章学を学ぶ者で知らない者はもぐりと言われるほどの名門で、太古の昔紋章に秘められた力を開発しその謎を解いた学者たちの一人を祖としている。本来一人娘で後継ぎであるセシルが家出同然で旅に出たことに関して彼女の両親
は大事だとも思っていないらしく、最初からあまり執着はしていないらしい。
事情を聞いてリスレルとアリスウェイドを心から歓迎し、また冒険の仲間にはいつも娘が世話になっていると手放しでもてなされた。さすがにセシルが旅に出た直接の理由がクロムだとは知らないようだが、別にあまりこだわっている様子もないようだ。
当主でセシルの父のアルヴィン・スウィントネスは、久しぶりに娘が帰ってきて機嫌がいいのか来客で機嫌がいいのか見当がつきかねたが、とにかく上機嫌で杯を傾けながら、エストリーズの遠慮がちな質問に答えた。冒険の旅に出ると言って旅に出た娘を取り戻そ
うとか、反対する気にはならなかったのかと。
「はははははは。それはねお嬢さん、無理というものですよ。セシルは昔から言い出したらきかない娘でしたからね。そしていつもそれに間違いはなかった。冒険の旅に出たいというのならそれもよし。それで旅先で死んだとしても、自分で選んだ結果。セシルに悔いはありますまい。後継ぎは後継ぎですが、そんなことはどうでもいいことだ。いつまでも血の因習に縛られていては、何も変えられませんからね。後継ぎがいないならいないでどこかから後継者を連れてくればよろしい。それくらいで途絶えてしまうような家なら、最初から大したことはなかったということですよ。途絶えるのに早かったか遅かったか・・・ただそれだけの違いです」
「・・・はあ」
エストリーズは呆気に取られてとりあえず答えた。当のセシルは、その横で知らん顔で食事をしている。
「うちはそういう家なのよ」
「徹底した放任主義なんだねー」
リスレルがにこにこしてその横から言う。
「ほほほほ。セシルは見かけによらず奔放なところがあるから。その内子供かなんか連れて帰ってきたりして」
と、これは彼女の母親だ。それまで黙々と食事を進めていたクロムが一瞬動きを止めたので、見ていたリスレルは思わず吹き出してしまった。クロムはクロムで、セシルが家を出た直接の理由となったのが自分だという自覚くらいはあるらしい。
紋章学師は紋章を身体に刻んでその力を手に入れる。セシルの両親も当然と言うとおかしいが紋章学師なので、その徴候は見られる。スウィントネス夫人の大きく開いた服の胸元からはちらりと紋章の片鱗が見られるし、当主の首の後ろからは紋章の切れ端が見え隠れしている。
「ジェラコヴィエツエ殿はいつまで滞在していただけるのかな?」
「いえ・・・そんなに長居をしては却ってご迷惑でしょう。他に用事もありますし明日にでも出発したいと思っています」
「それは随分急な」
「大したこともしていないのにあまり長く居させてもらっても何ですしな。なにより、」
アリスウェイドはいたずらっぽく自分を見ているリスレルと目を合わせてから言った。
「あまり居心地のいい思いをして旅の暮らしが嫌になっても困りますからな」
「あ・・・言えてますわね。セシルよく旅に出る気になりましたわね」
「ふふん。愛の力ってやつよ」
クロムがまた一瞬だけ手を止めたので、リスレルはおかしくてたまらず、とうとう笑いだした。
一行は久々に暖かい食事とまともな寝床にありつき、明日の昼発つというアリスウェイドとリスレル、あと一週間ほど滞在するというセシルたちはここで別れることになり、杯を酌み交わした。
「お前か〈青い狼〉と呼ばれているのは」
「・・・・・・・・・」
暗い部屋に蝋燭が一本。それも布越しだと淡く光を放っているだけで、相手の顔もよくはわからぬ。広いのか狭いのか、それすらも見当がつかないほど感覚の危うい空間で、二人の男の密談は息が詰まるほど静かに取り行なわれている。
「凄腕の剣士だそうだな」
「―――――」
終始黙っている男の様子は一切わからない。気配がないのだ。しかしそこに確実に存在している。影が蝋燭に映しだされて白い幕に浮かび上がっているし、息もしていれば視線も動く。ただ黙っている。気配が一切ないだけだ。
「ターゲットはこれだ」
相手の―――――これは気配のない男と比べて多少は年配の感のある―――――男が、机越しに写真をぱらりと出した。
「・・・」
「スウィントネス当主―――――政敵だ。家を焼き払い、夫婦共々殺してしまえばそれでいい」
「―――――」
「一人娘がいるがそれは旅に出ているはず―――――だったがなぜか帰っていてな。家にいる人間は一人残らず殺してしまえばそれでいい。他の仕事は部下がやる。もう一つ情報だが、どうやら天文学師がいるらしい。珍しいことにな。黒髪に黒い目の女らしいが・・・・・・連れてきてくれ。外界に出るような天文学師なら腕も立つはずだ。貴重な戦力になる」
「・・・・・・」
男はとうとう一度も口をきかなかった。フッ、と蝋燭の火が揺らめき、次の瞬間、男の影は消えていた。
「マイエル様」
次の間で様子を伺っていた男が入ってきた。映しだされたその影は、背が小さいくらいしかわからない。
「お前か」
「無口な男で・・・・・・」
「信用できるといういい証拠だ。探すのに大分かかったがな」
「〈青い狼〉・・・」
「そうだ。本名アルセスト・フォン・エンデュミリオン・・・・・・凄腕の剣士だ」
「ほう・・・エンデュミリオン・・・」
「いかにも信用できるだろう」
「そのようで」
ふふふふふ・・・と笑い声が漏れた。
幕の向こうで満足気に指を組む影。
「スウィントネスもこれで終わりだ。名家面をしていられるのもあと少し・・・ふふふふ・・・ははははははは・・・・・・」
笑い声は、不穏な雲と同じように、しばらくそこにたちこめていた。