素敵な僕の人生を君に
若干歪んだ作者の若干歪んだお話です。雰囲気を楽しんでもらえればとも思いますし、深読みしていただいても楽しめるかと思います。テーマがありますので、それを読み取ってもらえると、色々な描写が違って見えるかと思います。短いひと時を、あなたの片隅に残れば、幸いです。
ピーポーピーポー
ピーポーピーポー
青春。よく聞く言葉であり、懐かしむことで価値を見出している、揺らめく蜻蛉のような言葉である。人によって形を変え、美しくも儚くも、そして残酷にも価値を変える。限られている故のきらめきは、到底僕には直視できないものだ。美しい景色にはいつも、同じような記録が残されている。焼き付いているともいうべきか。よってたかって一人の人間を余計に、さらにさらにと排斥しようとする。その人にも、学校の外には居場所があるのかもしれない。もっともっと大きくてすごいコミュニティに属しているのかもしれない。
「あいつ、また一人だよ」
「ね、かわいそう」
くすくすと漏れる忍び笑いが、攻撃であることを何故分からないのか。刺さって抜けない刃物であることを、何故自覚しないのか。そんなことを思っていた。
どこかで、サイレンの音がする。聞いたことのある音。ああ、これは確か救急車だ。耳にひどく残っているから、間違いない。だとしたら、ああ、そっか。
閉じていた視界が、徐々に形を帯びようとするが、それは満足にとはいかなかった。そんな様に若干の安堵を覚える。まだ諦観するには早いようだ、と。寝そべったまま、今になってまた、これまでのことを考えている。夏の夜にしては、寒いくらいに涼しい。
蝉の声が、深く深く記憶を呼び覚ます。煩わしいはずなのに、今ではこの声が頼りになっているのだから不思議でならない。
みーんみーん
ピーポーピーポー
みーんみーん
ピーポーピーポー
まるで合唱団だ。そんな子守歌に身を任せ、追憶に落ちていく。今度は意識的に視界を閉じる。
これは、僕の回顧録。平凡な学生の、溶け落ちる最中の旅路だ。
僕の家庭に父親はいない。昔はいた。僕が四歳、舞花が三歳の時に、両親は離婚をした。理由は単純で、父親が浮気をしていたことを母が知ってしまったためだ。その時の大喧嘩は、今でも記憶に残っている。母は昔から感情が表に出やすい性格をしていた。何かあるとすぐ過激に感情を表す母に、父親はうんざりしているようだった。父親は適当な性格だった。何事も流し流し行う様子に、母は日に日に嫌気がさしていたように僕には見えた。
おそらく、昔はお互いのこの性格に惹かれたのだろう。些細なことにも感情を咲かせることができる母に、適当にしか感情を出せない父は恋をしたのだろう。何事も冷静にこなせる父に、すぐ感情的になってしまい手につかなくなる母は恋をしたのだろう。お互いが自分にない部分に魅力を感じ、お互いに欠けている部分を、二人で補おうと、純白の鎧に任せて、何気ない日常を華やかに誓ったのだろう。素敵な話だとも思うし、もし僕が将来結婚を意識するのだとしたら、きっと同じような関係を築くのだろうと、本気で思った。
だからこの関係が悪かったのではなく、ただ、続かなかっただけ。
父は適当に見えて、それなりにしっかりやっていた。冷静に物事を見れるというのは、見ている物事をしっかりと理解できていることに他ならない。ただ、それを表に出さないだけ。自分の中にしまってしまうのは、きっと心配や考え事を母に増やさないためだろう。しかし詰めが甘いのだ。細かいところまでは手が回らない。意識的にしっかりとやっているだろうが、細部が適当になってしまう。それを父親は理解できていなかった。小さなことでも感情的になってしまう母の負担を減らすためなのだろうが、その隙が、亀裂になることは考えるまでもないことだった。
幼少から僕は頭が良かった。勉強に対してというより、物事を捉えることや、考える力が高いのだろう。僕は父親に似ている。
母は心配性にも見えるが、小さなこともしっかりと考える性格であった。子に不安を預けたくなかったのだろうと思うし、専業主婦であった母は、もしかしたら仕事で連夜疲れて帰ってくる父親に、仕事以外のタスクを背負わせたくなかったのかもしれない。しかし、母は自分が感情的になりやすく、判断が正確にできない場合があることを理解していた。自分の弱点を把握していた。自分の中で整理をつけ、父親によく相談していた。
事細かに説明してくれることは、相談される身からすれば助かることである。言伝であるため、その人の主観が入りやすい相談で、輪郭だけでなく詳細までを掴むのは、ただ簡単に説明されるだけでは難しいからだ。しかし、父親は細部に対しての関心が薄い。父親の適当さと、母の几帳面さが、徐々に、時間とともに擦れて摩耗していった。心も、関係も。自分の中の相手に対するイメージが瓦解し再構築された末に、そのイメージに縛られ、お互いをフィルター越しにしか見れなかった。ただ、それだけなのだ。
ある日のことだ。父親のジャケットに知らない口紅が入っていることに母は気づいた。ドラマでよくある導入だと、幼いながらに僕はそんなことを思った。既に父親に対して限界だった母は、隙を見て父親の携帯を覗き見た。携帯のロックが母の誕生日であったことが、その時は皮肉でしかなかった。知らない女性とのやり取り。それはドラマの何倍も生々しい記録だった。母は激昂し、父親に問い詰めた。酒に溺れて職場の女性と関係を持ったらしい。前から女好きであることは母にも僕にも周知のことであったが、タガが外れてしまったというわけだ。母はその場で離婚を申し出て、後日正式に決定した。母は僕らの親権を父親に渡すことはなかったし、父親もそのことに承諾した。それは反省したのかもしれないし、自棄になったのかもしれないが、金銭周りの援助も行うとのことだった。
家族が一人減った。心に、言いようのない不安と、穴が開いてしまったようだった。舞花はこのことを全く覚えていないという。というよりも、父親のこと自体を、今でも舞花は全く覚えていなかった。
そんな舞花のために、父親のことを家ではタブーとして扱われていた。舞花がいないときはいつも、母は僕に「あいつのようになっては駄目よ」と言って聞かせた。しかし、僕は父親のことが嫌いではなかった。やったことは最低で、言い逃れのしようがない裏切りであったと思う。それでも、あの手のぬくもりを、僕を持ち上げたときに笑ったあの顔を、僕はきっと、ずっと忘れない。僕は父親似なのだから。
父親はいない。離婚してから一年ほどは、いないものとして扱われていたからだ。――そして今は、本当にいなくなった。
ある日の夜、父親が家に来た。離婚の際、家族との接触を禁じられていたため、玄関を開けて母は酷く驚いていた。二階建ての古いアパートに、オートロックなんて現代的な防犯は存在しない。家の前に来ることには何の障害もなかった。父親は酔っていた。はたから見てわかるほど顔は赤くなっており、左手には何かを握りしめているが、今にも落としそうだ。そして案の定、足元はおぼつかない様子だった。
父親は身なりをきちんと整える人だった。スーツはヨレがないように着こなし、髪も毎朝整え、清潔感を振りまいていた。吊り目がちの目は、できる男を醸し出すのに十分なスパイスとなっており、すこし癖を孕んだ前髪が、その容姿をまとめ上げていた。しかし、今の父親はどうだろうか? スーツには皴がより、剃り残されたような髭が点在している。髪は崩され、焦点は合っていないかのように思われた。猫背で俯き気味になってしまっているため、きれた眼はただの不健康さを象徴したパーツになり果ててしまった。
そんな様に母はため息を吐いて応対した。交わす言葉などないと、関わりなど、はなから無いように。実際母は怒っていただろうし、父親のこんな姿を、僕や、特に舞花には見せたくなかったのだろう。父親はかける言葉を探していた。しかし、母は対話を拒んだ。目を見ようとする父親と、決して目を合わせないように――何かを堪えるように、ただ、足元だけをじっと見ていた。
お互い無言のままの、息苦しい静寂が玄関を支配する。僕はその様子をじっと見ていることしかできなかった。多分、母も思うことがたくさんあったのだろう。そのすべてを分かろうとはしないし、分かるはずもない。ただ、前までこの家で一緒に住んでいた父親が、何年も共にいて、愛し合った男が、こんな姿で目の前に現れたのだ。その時の母は、いったい何を思ったのだろうか? 考えるまでもないことであり、何よりも深い、そんな感情が、母の視界を狭めていたはずだ。でなければ、父親と相対している姿を、僕に見せ続けるなんて失態は犯さない。僕は、ただ泣きそうだった。決して戻れない壁を感じた。父親と母の関係は、今開け放たれ、そして永遠に足を踏み入ることができない玄関口とおよそ同じであった。二人の間には、割って入る風だけ。近づくことを拒んでいるかのように、ただ耳につく音だけが、そこに存在していた。
どれくらいの時間が経っただろうか。この世の重力とは思えないほどの重い空気は、父親の一歩で霧散した。母の様子と、拭いもせず涙を垂れ流す僕を見た父親は、心なしか下を向いて、元の道に帰っていった。恐らく最後の会合だった。なぜか、そう感じた。もう戻れはしないだろう関係だと分かっている。それでも僕は、この時に意味はあり、そして徒労に終わったことを悟った。明確な、二度目の決別。前回とはまた違う意味を孕んだ、そんな別れ。父親は階段を下って行った――下ろうと、した。階段で足を踏み外し、僕が感じた意味とは、また違う意味で、父親と僕たちは決別した。
父親は、なんのドラマも意味もなく、あっけなく他界した。
何故来たのか。ただ酔っ払った拍子に来ただけなのか、何かを伝えたかったのか。サイレンが鳴り響くあの夜では、答えなど出るはずがなかった。そして、今でも本当のところは分からない。
ただその日は、舞花の四歳の誕生日であった。
それから、母は心配になるほど働いている。朝から晩まで、休む暇などないように働き続けている。母は少なからずショックを受けているようだった。目の前で人が死んだからか、死んだ人が、愛した男だったからかは分からないし、きっと考えるまでもない。そして、あの事故が鮮明に映るアパートから、僕らは戸建てへと引っ越すことができた。母が仕事を頑張ってくれたからだ。母が仕事につきっきりになれば、当然舞花のことは疎かになる。僕は幼いながら、母がどれだけ大変かを、全てではないけれど理解していた。
であるなら、僕にできることはなんだろうか? 当然、舞花の面倒を含む家事全般だ。掃除や洗濯は、小さい体では大変だったが、できるようになっていくことは楽しさを伴った。料理は包丁が危ないからと、ある程度大きくなってから教えてもらった。小学校、中学校に上がり、友達はできるが、一緒に遊ぶことはなかった。はたから見たら、とても過保護に映っただろう。一個しか変わらない妹のために奔走する兄の姿を、世間ではシスコンと呼ぶらしいことを、たまたま聞いてしまった陰口で知った。それでもよかったし、何と呼ばれようが構わなかった。喜ばれたいわけでも、自慢したいわけでも、褒めてほしかったわけでもない。ただ、それは僕のやることで、全てであったから、行うだけでしかなかった。
そんな生活が続くうちに、会話というものを忘れてしまった。何を話せばいいのか、何が楽しいのか。とにかく何か話そう。鉄板に天気の話から入ってツッコんでもらうのもありかもしれない。長考の末導き出した解に従おうとして、そして気づくのだ。
声って、どうやって出すんだっけ?
その時にはもう遅かったということを、僕は高校生になってやっと知った。孤独を感じた。一人になった。独りになった。しかし、まだ救いはあった。舞花だ。幸運だったのは、舞花に反抗期のようなものがなかったことだ。いや、実際はあったのかもしれない。ただ、あたる先が僕でなかったことが、幸運だったのだ。そしてそのことが、ひどく悪運でもあった。
高校生になった。父親に似てくせ毛気味の僕は、高校生になってからそれなりに身なりに気を使い始めた。髪を整えるためのワックスや、肌につける化粧水や乳液。最近では男子でもこれらの化粧品を使うのは普通になっているとネットで見たため、僕も真似をして始めたのだ。毎日使うものであるため、これらは消費が激しい。なにかとお金がかかるため、これをきっかけにするように僕はバイトをするようになった。コンビニのバイトは思った以上にきつい。やることが割と多いこともそうだが、想像以上にお客さんの態度が悪い。悪態を吐かれることは日常茶飯事であるし、理不尽に怒られることも多い。たまにお金を投げられることや、日頃のストレスを僕にぶつけてるのではないかと思う人もいる。精神的にかなりきついのだ。学んだことといえば、自分はこうならないようにしようというちょっとした決意だけだった。
今までは勉学に家事の両立であったが、これからは勉学、バイト、家事の三つをやらなければいけない。正直、きついなと感じてしまうこともある。しかし、毎晩遅くに疲れ果てて帰ってくる母の姿と、受験勉強に勤しむ舞花の姿を見ると、そんな感情も霧散する。原動力になっているといってもよい。……それだけを頼りに、自分を支えているのだと、自覚してしまっている。それでもいいのだ。僕は、父親似だから。みんなを支えるのは、僕が代わりにやるのだ。そんな決意を、毎晩ベッドで囁くように自分に聞かせている。それをきっと、呪いと呼ぶのだろう、なんて、霞む思考の中で吐き出した。
高校一年の生活が半分ほど終了したが、僕に友達は相変わらずいなかった。そしてその状況に慣れてしまった自分がいた。夏休み。突き抜けるような青空に、耳を刺す蝉の声に辟易しながら、僕はほぼ毎日バイトをしていた。別段やることがないし、家にいては、舞花の勉強の邪魔になるかもしれないと思ったからだ。店長にはおかげでとても感謝された。
家では家事を僕がやることが当たり前になり、感謝などされなくなって久しい。久しぶりの感謝の言葉は、とても照れくさく感じた。そして、とても嬉しかった。いい気持ちで帰路につく。上から圧をかけるような日差しが、今ではスポットライトを浴びている主人公のようで心地いい。汗ばんだ体を、生ぬるい風が迎える。こんな些細なことが、こんな些細なことで気持ちが昂るのは、一体いつぶりだろうか。言葉の力というやつは、案外侮れない。そうだ、久しぶりに書店でも行こうか。バイト代もそれなりに溜まっているし、最近は行っていなかった。僕の好きな作家が新刊を出したのだと、昨日サイトで見たのを思い出した。思い立ったら吉日ともいうし、ここは買いに行こう。
家に向かっていた足を、駅の方に向かせた。すると、近くのコンビニで、何やら人だかりができている。駐車場の端、夏休みであろうに学生服を着た集団が、まるで何かを囲うように円になって徒党を組んでいる。嫌な予感がする。そう思いながら目を向けると、集団の足の間から、一人の少年が蹲っているのが見えた。少年は暴行を受けているらしい。聞くに堪えない罵声とともに、少年の喘ぎ声が聞こえる。集団の学生は楽しそうだった。汚らしい嗤い声をあげ、何事かを叫んでいる。こんなに間近で、このような光景を目にするとは思わなかった。そう、他人事のように思った。
少年が僕に気づいたらしい。声を上げず、ただ瞳で訴える。「助けて」と、懇願する瞳に、僕は何を思うか。そんなもの、何も思わないに決まっている。僕が被害を受けているわけではないのだ。心が痛むはずがないだろう? よくあるのだと、ニュースでも言っているではないか。よくある光景、よくある日常。それが間近で起こっただけに過ぎない。同情するよ、憐れむよ。でも、僕を巻き込まないでくれ。抱え込んでいることが多いんだ、家族のこと、学校のこと。だから、目を付けられるようなことはしない。
道端の落ち葉に関心を向ける者はそういないだろう? 関心を向けず、何食わぬ顔でその場を立ち去る。ああ、せっかくいい気持だったのに、台無しにしないでくれよ。吐き捨てるように独り言ち、その場を立ち去った。
それから、特に何もなかった。時折そのコンビニでは同じ光景が繰り広げられていたので、あの道は使えなくなった。舞花と母にも気を付けるよう言った。「怖いわね」とか、「嫌だな」なんて口にするが、形式的なところは僕と変わらないようだ。近くで起きてはいるが、無縁な世界。きっと誰しもそう思う。僕らも、例外ではない。
そんな出来事を忘れかけていたころ、舞花が一般入試で高校に合格した。決して偏差値が高い学校とは言えないけれど、努力する姿をずっと見てきたし、何回か勉強を教えたりもした。どんな学校であったとしても、舞花が行きたかったところに行けるというのは、何よりも嬉しかった。舞花は僕に泣いて感謝していた。正直そんなことはしなくてもよかった。努力したのは舞花自身であるのだから、涙は自分のために流してほしかった。満たされる心。……ぽっかり空いた、心の空白。こんな気持ちはいつぶりだろうか。舞花の前ではひたすら喜んでお祝いして見せたが、一人になった途端、涙が止まらなかった。これは何に対する涙だろうか。妹の合格だ。それしかない。決して、自分の犠牲が報われたのだ、などと、そんな邪な考えを、舞花に見せるわけにはいかなかった。
その晩は、ただひたすら、歓喜と、自責と、ごちゃごちゃになった自分の感情とともに、涙を流し続けた。
春休みが明け、僕は二年生になった。新しい制服を身にまとった舞花は、今までより何倍もかわいく見えるから不思議だ。恐らく目立たない程度にお化粧をしているのだろう。母に似た端正で目を引く顔は、綺麗に彩られたことでその輝きを増していた。髪も母に似て綺麗なストレートだ。流麗に流された毛並みや、紫外線すらも飲み込み反射しそうな黒髪が、整えられた容姿をさらに印象付けているように感じられる。
全体的に、舞花の容姿は母に似ており、僕は父に似ている。タレ目がちな舞花と、吊り目がちな僕。僕の場合は、父より鋭いためもはや目つきが悪いのだが。舞花とあまり容姿が似ておらず、似ていないと言われるのにはもう慣れてしまったし、僕に似ないでよかったとも思う。なんたってこんなにも綺麗なのだから。既に完成された絵画に、気分によるアレンジなどは不要だ。
高校で悪い男に誑かされないか心配で仕方ないが、そんなかっこ悪い姿を見せるわけにはいかない。僕より遠い高校に進学した舞花は、朝かなり早い時間に家を出なければならない。華の高校生活初日。舞花には僕のようにならず、とことん充実した生活を送ってほしいものだ。無理をして朝早く起き、晴れ舞台の一幕を見送ることにした。
「行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい。気を付けて」
見送りの言葉に、舞花は嬉しそうに返事をした。その笑顔だけで、これから一年くらいはやっていけそうだ。スキップしながら駅に向かう舞花の姿を、僕は見続けていた。それは僕と舞花のこれからの距離を示すようで、少しだけ、寂しかった。
「何を考えているんだ、僕は」
最近は独り言がかなり増えたように感じる。理由も原因も分かっているから、目を背けるのだ。自覚していることほど、残酷なことはない。この感傷を、僕は少し後になって深く思い知るのだ。大きい大きい、爪痕を残して。
二年生になったところで、僕の生活はそう変わらない。もちろん変わることはある。勉強の内容、将来について、クラスの人たち。しかし、それは僕に直接的な関係はない。クラスメイトが変わったところで、僕に何か影響があるわけではないし、将来についても、就職することに決めている。早いところお給料をもらって、一人暮らしを始めたい。
大学に進学するとなると、学費は今までの比ではない。そんな負担を母に強いるわけにはいかないし、僕は大学に興味があるわけではなかった。いや、大学だけではない。正直な話、これといって興味があるものなどないのだ。ただ、舞花が大学に進学したいと言いだした時に、そのあと押しはしてやりたいと思った。もう終わっている僕の人生なんかではなく、これから多くの幸せを築いていくであろう舞花の人生に、僕という障害を残したくなかったのだ。独り暮らしを始めれば、僕の分の食費や、僕にかかる多くの金銭的な事柄を母に負担させないで済む。僕も家に、少しずつになるだろうがお金を入れて、少しでも舞花と母の生活の足しにしてほしいと思う。舞花が幸せであればそれでいい。ただそれだけが、僕の望みなのだから。
食卓では、よく舞花の高校での話を聞くことになった。こんな子がいる、友達ができた、クラスでは上手くやっていけそうだ、勉強が難しい、イケメンがいる、など話題は尽きることを知らない。僕はその話を聞くたびに嬉しくなる。舞花がちゃんとやれていることを知れて、たまらなく叫びそうになる。おかげで最近は夜にジョギングをする日課ができたので、舞花のおかげで僕は健康になりつつあるといってもいい。
ぶーぶーぶーぶー
無機質な電子音。最近ではよく聞く、舞花の携帯の着信音だ。
「あ、もしもし?」
いつもより高めの声で、舞花は応対しながらリビングを後にする。最近電話することがとても増えた。きっと友達からだろう。嬉しそうな話声が階段から聞こえてくるたび、僕は言いようのない感情を抱えることになる。ああ、なんだろうか、これは。体の中が重たくなる厭な感じ。食道に空気が伝わっていく感覚を直で感じる。そんな不可思議な体験。
「……僕も走るか」
洗い物を終え、部屋に戻って軽く着替える。隣の部屋では弾むような話し声が聞こえる。扉を一瞥し、階段を下っていく。まるで僕の心のようだと、下る足を観察する。それを正すかのように、生ぬるい五月の風に飛び込んでいく。前へ前へ、足を進めながら、暗く深い河を見る。水流とは逆方向に僕は走っている。投影してしまった自己の感覚から逃れるため、逆へ逆へと、進んでいくのだ。
六月になった。カレンダーをめくり、リビングに向かう。朝食は母が用意してくれている。仕事で早いから、ついでに作ってくれているのだ。時間がないだろうから、僕が作ってもいいのにと母に進言したことがあったが、「これくらいはさせて」と、曇った顔で言われたら、断れる人はいないだろう。舞花は朝食をほぼ食べ終わっていた。
「おはよう」
「ああ、おはよう兄貴。眠そうだね」
まあな、と軽く返す。高校生になってから、舞花は僕のことを兄貴と呼ぶようになった。これが兄離れかと、最初に言われたときはくるものがあったが、今では慣れてしまった。これはこれでいいかもしれないと染み入っていると、軽い調子でこんな言葉が飛んできた。
「あ、そういえば私、彼氏ができた」
「え?」
食パンを落としそうになった。ちなみに持っていた携帯は落とした。
「いやいやいや。……早くない? まだ二か月くらいじゃなかったっけ?」
「今どきこんなもんだよー。ごちそうさまでした」
そういって舞花はリビングを後にした。いや、え? いやいや、ちょっと待ってくださいよ。僕は頭の整理がつかなかった。舞花に彼氏ができた。そうか、それは良かった。そう、良かったはずだ。なのに、僕の手は震えるのをやめなかった。唇が痙攣しているのを感じる。どこか深い海に沈められたような、そんな感覚。
「はは、そっか。それは、うん。それは……」
続く言葉はなかった。沈殿した何かが、重量を伴って僕を押しつぶさんとする。テレビのついてないリビングは静けさに満ち、灰色になった自分が、そこにいた。
気が早いことこの上ないが、クラスでは修学旅行の話が盛り上がっているらしい。誰と班になるか、どこを回るか、宿泊する宿のご飯は美味しいだろうか、部屋は広くて綺麗だろうか、誰々に告白するだとか、……誰と一緒の班にはなりたくないか。耳が痛い話だ。どう考えても、その話題で名前が挙がるのは僕だろう。新しいこのクラスは結構クラス全体で仲がいいという稀なクラスであるが、それ故に、独りの僕には居心地が悪い。彼らのせっかくの思い出に水を差してしまうと悪いので、当日は仮病で休もうかと思っているのだが、正直にそのことを伝えるというのも気持ち悪いだろう。さて、どうしたものかと頭を悩ませる。クラス内で独りの人間に班行動やグループワークは拷問に等しい。ぎこちないことこの上なくなるし、僕に巻き込まれる彼らもかわいそうだ。
「ねえ、君、修学旅行の時、同じ班にならないか」
まだ先の話なのにそんな声が聞こえる。半ば塞ぎこむように机に突っ伏すと、肩をたたかれた。
「君だよ、俺ってそんな活舌悪いかな?」
「……え?」
顔を上げると、何やらイケメンが僕に話しかけてきていた。顔はイケメン風だが、この行動はまさにイケメンと形容するほかない。あっぱれ。神に感謝。そしてごめん、爆弾処理を君にさせて。ここは丁重にお断りするしかない。いや、しかしどうだろう。どうせ行かないのだ。どこの班になっても変わらないし、ここで彼の言葉を無碍にすると、彼の勇気を無駄にさせてしまう。罰ゲームかもしれない線はひとまず置いておく。
「えっと……高橋君、だったよね」
「おお、俺の名前知ってたのか、嬉しいな」
馬鹿にしてない? そんなことないか。無邪気に顔を綻ばせる姿は、愛嬌があって好感が持てる。何様だって話だが。しかし、どこかで見たことのあるような顔をしている。同じクラスなのだから、ほぼ毎日見てはいるのだが、それとはまた別で、見覚えがあるのだ。
「……罰ゲーム?」
いかん、率直に聞いてしまった。やらかしたと顔を伏せると、笑い声が聞こえてきた。
「はは、違う違う。せっかくの修学旅行なんだから、話したことない人と行くのもいいかなって。俺が組もうと思ってるやつらを合わせても、人数が足りないんだ。一緒にどう?」
ほう、高橋君が指を指した方向を見ると、快活そうなやつらがこっちを見てにこやかな笑顔を浮かべていた。慣れない笑顔だ、ここ数年舞花以外で向けられたことのない笑顔にたじろいでしまう。
「あいつらもいいって言ってるし、どう?」
「……それなら、まあ、お邪魔させてもらいます」
苦笑しながら、肯定を返す。そんな自分に、自分で驚いてしまう。
「まじ? やりぃ!」
握手を求めてくる高橋に、おずおずと応じる。伝わってくる体温は、人の温もりともいえるし、人の冷たさともいえた。なぜ、了承したのか。もっと聞くことがあったはずだ、もっと何かしらの言葉を返すべき局面だった。なのに、えさを与えられた鯉のように、おいしい話にのってしまった。なぜか、なぜだ。
視界は机をただうつしている。机上には文字が刻み込まれていた。
独りは、いやだ。
それからは、高橋君たちとよく行動するようになった。なんだかんだ良いやつらだった。サッカー部の高橋君を筆頭に、バスケ部の小星君、バドミントン部の立川君、ダンス部の小川君、バレー部の大阪川君、そして帰宅部の僕。およそ釣り合っていないが、そこは気にしたら負けのスタンスで何とかやっている。ちなみに、既視感というのは、どうやら学内に貼ってあるポスターのようだった。僕の高校はサッカーが強いらしく、大会で優勝したらしい。その際、活躍したらしい高橋君がインタビューに答えたのだとか。顔がよく見え、愛想がいい彼は良く映えるのだとかなんとか、立川君が言っていた。最近は信頼されてきたのか、色々頼まれることが多くなった。預けてくれるというのは、悪い気はしない。
そうやって、僕は心の穴を何とか埋めよとしていた。望んで望んで、やっと手に入れた友達。かけがいのないもの。これ以上はないはずなのに、僕の空虚が満たされることはなかった。渇望していたものを、手に入れたはずなのに。まるで、それ以上の何かを、僕は失ってしまったかのようだった。
高橋君たちとよく遊ぶようになったため、バイトのシフトを減らすことにした。しかし、遊びというのはなかなかお金を使う。シフトを減らしたお給料は少なくなるため、うまくやりくりすることを覚える必要がありそうだ。
「次はダーツしようぜ! 負けたやつが支払いな」
「おお、いいねそれ!」
メンバーが高橋君の言葉に賛同する。彼らと遊ぶとお金をよく使う原因がこれだ。僕はダーツをやってこなかったし、だいたいまともに遊んでこなかったから、基本下手だ。必然、負けるのは僕であり、支払いになることが多い。しかし楽しかった。こういうのも悪くない。こんなに人前で笑ったのは久しぶりだ。
遊ぶときは一回家に帰って私服に着替えている。高校生に見えないようにするためらしい。オールの日も普通にあり、補導や年齢確認をされないようにするためだとのこと。最初は僕も抵抗があったが、今では慣れてしまい、これが当たり前だと思うようになった。律儀に守っているやつのほうが珍しいのだし、それに、あまり帰りたくないのだ。舞花の話声や、舞花の彼氏の話を聞きたくなかった。舞花は、どんな顔で男と会っているのだろうか? まいかは、どんな声で、話しているのだろうか。そんなこと知りたくなかったし、想像するだけで吐き気がした。
孔が広がっていくような感覚。何かに潰されていくような、塗り替えられていくような、自分が、自分ではなくなるような心象。迫る破壊衝動を抑えるため、僕は高橋君らと遊び続けた。それしか逃避できなかった。
どうしても、帰りたくなかったのだ。
「酒飲もうぜ酒」
「ふー! 分かってるー!」
「えっ」
沼りつつあった思考を、その一言が引っ張り出した。酒? 鮭じゃないよな?
「なにきょどってんの。いくでしょ、グイっと」
何を言っているんだ、僕らはまだ成人してないぞ。
「なになに、気にしてんの? 大丈夫大丈夫、みんな吞んでるし。そんなんじゃ冷めるぜ」
いや、それは。それ、は。
「そういうと思って、実はもう全員分持ってきてるんだよ」
高橋君は当たり前のように、鞄から六人分の缶に入ったハイボールを取り出した。しかもロング缶だった。
「待ってたこれこれ! このおっさんが見たかった!」
缶に描かれたおじさんのイラストをみて大盛り上がりだ。小川君は今か今かと、プルタブをカンカンしているし、立川君に関してはキスをしている。
「ほら、君も」
僕の手にも、一本のお酒が手渡される。まじか、まじなのか。そこまでいっていいのか、僕は。そんな気軽に、この一線を越えてよいのか。少しの葛藤、苛まれる良心、何かを渇望する、僕の本心。決断の時は、そう長くは続かなかった。
「……いくか。いや、いくっしょ!」
「来たあ! そうこなくっちゃ!」
円になり、各々の前に缶を差し出す。この一体感に僕の脳はしびれてしまう。善悪など、そんな大層に考える必要なんてない。今楽しければ、それでいいはずだ。
「それでは皆さん。楽しむやつは、こいつを開けろおお!」
叫びに近い高橋君の音頭とともに、全員が獣のように叫びタブをこじ開ける。こんな些細な行動で、僕の中の何かが瓦解した。これまでのすべてを否定するように、その一線を、爽快な音とともに踏み越えた。
その日、もう日が出始めている頃に、僕は帰宅した。
それからの僕は、不健全の塊だった。遅くまで彼らと遊び、お酒を呑み交わす時間は、至福と言ってもよかった。舞花は彼氏に夢中のようで、僕に何かを頼むことは極端に少なくなった。母は、恐らく気づいてもいないかもしれない。そんな日々が続いた。
七月になった。今日母は仕事で他県に行くらしい。出張ってやつだ。二泊三日を予定しているらしく、戸締りや、火の確認を怠るなと言っていた。正直、もう僕も舞花も高校生だ。それにその手のことはずっとやってきたのだから、今更言われるまでもないのだが。舞花は「気を付けて」と言っていたが、何やらとても嬉しそうだった。にやけを隠しきれていない。僕にとっては、舞花がなぜ嬉しそうなのかも、母が出張に行くことも、どうでもいい。
夏休みまであと少しということで、クラスは浮足立った雰囲気だ。冷静に見ているつもりではあるが、僕も今年の夏休みはそれなりに楽しみにしている。高橋くんたちと海に行く約束があるのだ。水着も買いに行かなくてはならない。手間ではあるが、そんな手間も、楽しくて仕方がない。
この頃、僕は煙草も吸っていた。大阪川くんから誘われ一度吸ってから、もうやめられなくなった。はじめは一日一本ほどでしかなかったが、今では一日一箱ほどになった。出費はそれなりだが、それ以上の快楽を伴うため、あまり気にしないことにした。確実に染まっていく自分。しかし嫌なものではなく、ただあちら側に足を踏み入れただけ。見る世界と環境が変わっただけなのだ。そう、おかしいわけではない、みんなやっている。そのはずだ、僕だけが浮いているわけじゃない、僕にも楽しみがあってもいいはずだ、そうだ、僕にも、僕は、僕はっ!
キーンコーンカーンコーン
「あ」
そんなことを考えていたら、放課後になっていた。正直タバコが吸いたくて仕方なかった。無意識に行っていた貧乏ゆすりをやめ、教室を後にしようとする。
「いつものコンビニで待ってるわ」
「ほいよ」
小星くんに言われ、ふと、なんで先に行って僕を待つのだろう。一緒に行けばいいのにって、ああ、そっか。僕は今週教室掃除の当番がある。とてもめんどくさいが、掃除が嫌いなわけではないし、科されている役職の一つだ。やらないと他の人に迷惑が掛かってしまう。それだけは避けないと。
机をどかし、箒でごみをまとめる。ごみ捨ては仲のいい二人組がやってくれるということなので、帰ってくるまで待機となった。窓に凭れ掛かり、なにをはなしに天井を見ていた。すると、クラスの一人が、こそっと僕に話しかけてきた。
「ねえ、大杉くん、最近高橋君たちとよく一緒にいるよね」
「うん? そうだけど、それがどうかしたの?」
確かに、話しかけられた日から僕は彼らを基本的に一緒にいる。それがどうかしたのだろうか? 最近は馴染んできたと思っていたが、まだ浮いていただろうか?
「いや、あの人たち、あんまいい噂聞かないからさ。大丈夫かなって」
「……と、いうと?」
ぐっと拳を強く握りしめる。僕の友達に、なんてことを言うんだこいつは。
「うん、高橋君に、小川君、小星君、大阪川君、あと立川君は全員同じ中学なんだ。俺も、なんだけど。そこではいろいろやらかしてた。暴行とか、飲酒とか、薬とか、喫煙とか。……女の子を、その、無理やり……」
「……無理やり?」
「その、あの五人で強姦してたとか。用がすんだら、殺してたとか……」
流石にその言い分は、頭に来た。
「お前、あいつらの何を知ってるんだよ。噂だろ? それ。ろくに知らないのに、あいつらのことを悪く言うなよ! 何がしたいんだ、お前は!」
「いや、だから……」
「そうか、嫉妬してんだな。今まで暗かった僕が、急にきらきらしてるあいつらとつるみだしたから!」
「そ、そんなわけないだろ! なんだよ、親切に言ってやったっていうのに!」
「余計なお世話だよ、気持ち悪いな!」
鞄を掴んで、そのまま僕は教室を飛び出した。そんなわけないだろ、飲酒もしてるし、喫煙もしてるけど、人を殺すとか、強姦だとか、そんな、そんな……。沸騰した頭は、荒れ狂う感情は、いうことを聞かない。くそ、くそ、くそっ! 煙草だ、煙草が吸いたい、早く、今の言葉を忘れたい。煙と一緒に、僕の気持ちも、燻っているこの気持ちを吐き出したいのだ。僕が君に何をした? 僕らが君に迷惑をかけたか? そんなことしてないだろ! だから、だから! だから、……せっかくできた僕の居場所を、壊そうとなんて、しないでくれよ……。走り出した僕の視界は、ものを上手く映してはくれなかった。
いつものコンビニに急いだ。ただ、みんなに会いたかった。いつも冗談を言ってくれる小川くん、良く会話に突っ込みを入れている小星くん、意味わからないことを言い続けている大阪川くん、若干お調子者の立川くん、……みんなをまとめる、リーダー役の高橋くん、僕の世界を、僕の居場所をつくってくれた人。そんなみんなに、早く会いたかった。
人の視線など気にせず、全力疾走したため、足が痛い。髪もぼさぼさだが、いつものコンビニに何とかつくことができた。はあ、はあ、ああ。いつものみんながそこにいる。みんな、みんな、みん……な。
あはははは、あは、ははは。
嗤い声が聞こえた。どこかで聞いたことのある、ワライゴエ。
「ああ、遅いぞ」
多分、高橋くんの声がする。最近ずっと聞いている声。でも今は、誰の声か、よく、分からなかった。高橋くんの気もするし、小星くんの声にも聞こえた。要は、誰の声とも、認識できなかったのだ。
「お前も混ざれよ、まだやったことなかったよな?」
そう、いつか見た光景。円形になって誰かを囲う学生たち。真ん中には、いつかの、少年が。
「なに、やってる、の?」
「あれ、見たらわからん?」
みんなのうちの一人がそう呟く。だれかはよく、分からない。そういっている間も、誰かが少年を蹴り続けている。
「もう、やめて、下さい」
懇願する声、涙交じりの、慟哭。聞こえている、喜んでいる、なのに聞こえてないかのように、なお暴行は苛烈さを増す。少年が何かを言うたびに、まるで燃料になっているかのように、言葉を薪に火が盛る。それを、僕はただ見ていた。何をするでもなく、ただ、呆然と。高橋くんを最初に見たときに覚えた違和感。ああ、そうか。あれは学内で見たポスターなんかではなく、バイト帰りに少年を暴行していた集団の横顔だったのだ。あの時と同じ景色が繰り広げられる。あの時と違うのは、僕はこの集団の友達であり、明確に接点ができていること。ああ、本当に巻き込まないでくれ。心の中で絞るように叫ぶ。
「なんだ、ノリノリじゃん!」
五人のうちの誰かが、誰かに言った。おそらく、愉悦に顔を歪ませる、六人目の学生に言ったのだろう。
日がだいぶ暮れていた。夏の日差しは姿を隠したが、未だ残った熱は冷めない。それは気温か、それとも、愚者に蔓延った快楽の証左か。
「よかったよ、あの一撃! やっぱ君はサイコーだな!」
「はは、ははははは。そりゃよかった」
高橋に肩をたたかれ、僕は嗤うことしかできない。それ以外の感情は、あの少年にすべて預けてしまった。走った時とはまた違う足の痛みに、自分の神経がすべて蝕まれていくようだ。きっと、足はもう失ったのだ。
コンビニの後にいつも行く、大きい橋の下で足を止める。明りを遮る大きな天蓋は、月明かりさえも遮断する。月の光すら、僕にはもう届かない。沈みゆく感傷に気分が重くなる。湧き上がる何かは、もう考えないことにする。きっと、これ以上はいけない。もう駄目だとは、まだ思いたくない。
「ふー。いい一服だ。なあ、みんな」
高橋の一声から、各々がタバコを吸い始める。学生服でもお構いなしだ。そういえば僕も吸いたくて仕方がなかったのだ。そう思っていたのに、今は何も口にしたくなかった。きっと、煙さえも、今の僕は受け付けないだろうから。
「もしかして、気分じゃないかんじ? 分かる、それ、めちゃくちゃ分かる!」
下を向いていた僕に、大阪川が意味の分からないことを言う。君に、僕の何が分かるというのだろう?
「持ってきてます、これ。君に進めたくて仕方なくてな!」
大阪川は、ポケットからよく分からない袋を取り出した。中には、よくわからない葉が入っていた。正直、何かは分かっている。しかし、縋るように僕は大阪川に疑問を投げかける。
「それは……?」
その質問を待ってましたとばかりに、大阪川がしたり顔をする。しかし、その質問の答えは立川が引き取った。
「大麻だよ。聞いたことない? ほら、一回授業でやったろ? 薬物……なんとか……えっと、教室、だっけか? あれで。ずりーよな、こんないいもん大人たちが隠してるんだぜ? 独占するためにあんな無駄なことを授業で取り扱ってんだよ。むしろ、あんな細かく説明されたら興味持っちまうって!」
「おいおい、なんで言っちゃうんだよ。俺が言いたかったのに」
不満げなそぶりを見せながらも、あまりそこに執着はないのか、はたまた目の前の大麻に夢中なのか、袋をカシャカシャ振り、中の葉が躍動するのを愛おし気に眺める大阪川。
「おお、今日はそっちか、いいね」
つけたばかりの煙草の火を、高橋は地面に擦り付けて乱雑に消す。慣れている様子だ、驚いているわけでもなく、ただ友達が違うお菓子を持ってきたような、そんな感情で応対しているように見えた。
「確かに、今日は特に盛り上がったしな! ありだな、それ」
小星も賛同し、大阪川が手にしている袋から葉を取り出す。すりつぶされた形状の葉を器用に取り出し、ポケットから取り出した紙の上に乗せ、くるくると手巻き寿司のように巻きだした。こうすると煙草に見えなくもない。
「今日は君にも特別にあげる。いつもはみんなで割り勘して払ってるんだけど、今日はいろいろあっただろう? だから、ささやかな俺たちからのプレゼントさ!」
邪気の無い笑顔で、巻き終わった大麻を僕に差し出してくる。丁寧にまかれた大麻は、今の僕には芸術品にも、醜悪な廃棄物のようにも見えた。
「あ……」
悩む、葛藤する、慟哭する、膨張する。僕の中の何か、支えか、意義か、繋がりか、関係か、善悪か、人間性か、秩序か。きっと、名前のないなにかが、僕をマリオネットのように動かす。渦巻き状に固定された視界は、正しく機能してくれていない。だから、僕が悪いのではなく、僕を巻き込んだ彼らが悪いのだ。僕のせいじゃない、環境のせいだ。そんな帰属意識に意味などないのに、言い訳をする相手など、僕以外には、誰もいないというのに。僕は誰に許しを請うて、誰に贖罪をしているのだろうか?
「タバコと一緒だよ。咥えて、火をつければいい」
横で高橋が何かを言っている。意味が分からない、理解ができない。頭が、脳が、僕が拒絶をしているのに、右手に握ったライターが、勝手に火をつけた。
瞬間。世界が反転し、重力がさかしまになり、僕は飛翔した。回り続け、平衡感覚を失った視界が、メリーゴーランドのようだと僕に信号を送る。シナプスを感じる、ドーパミンの分泌を理解する、学生服が肌にこすれることに快感を感じ、吹き抜ける風がやたらにうるさい。気分は高まり、高揚感とは、もう形容できないほどの高まりを感じる。何もかもが吹き飛ぶ。時間も、後悔も、劣等感さえも、今の僕には存在しない。なんていい気分だ。お酒や煙草なんかとは比にならない、嗜好の娯楽品。
「あははは、なんだこれ。ひひ、えへえ、やばいね、これぇ」
上手くろれつが回らないが、そんなこともどうでもいい。
「だろ? やっぱほんとにいいね君。今日から親友だ! うん、サイコーだよ!」
高橋? もどうやら相当ハイになっているらしい。いつもの何倍もテンションが高く、まるで大阪川のようだ。確かに、こんなもの、手に入るのならだれでも手にしている。
「はっはあ! 気分が高まってきたので、全裸で逆立ちしながら踊りまーす!」
「おお! いいねきたこれ! 大阪川の十八番!」
声がやたらでかい大阪川が、あられもない姿で逆立ちをし始めた。これが面白いのなんの! 言葉にするには、おそらく現存しない言葉を使わなければ表現できない。ああ、日本語ってホントに不完全だ! なら、国語も古典も必要ないなこれ!
「よし! いっちょ俺も参加しますかあ!」
高橋が豪語しながら、すでに全裸になっていた。
「お天道様! 俺の高橋をその眼に焼き付けてくれ!」
メトロノームのように動く姿に、僕は腹筋がつりそうだった。夜が更ける。橋の下では、大きなお祭りでもやっているかのような騒ぎが繰り広げられていた。この楽しさは、きっと僕らでなければ分からない、そう、僕らでなければ。
時刻は夜の二時。暗く深い闇を模す空は、グラデーションのようにその彩度を違えていた。美しく整頓された一枚の絵画のような漆黒を、真っ白の絵具で汚してやりたい衝動に駆られる。ああ、今日も楽しかった。きっとこれからも、僕は彼らと共にいるのだろう。誰に何と言われても、僕は彼らの親友なのだから。いい気持ちで、玄関の扉に手をかける。
さすがにこの時間だ、舞花も寝ているだろうと思い、なるべく静かに戸を開く。
「……おや?」
玄関には、すでに二足の靴が置いてあった。見慣れた舞花の靴。学校で流行っているのだと僕に説明してくれた靴。それと、もう一つ。見知らぬ靴。女の子のものにしては大きい。大体、そうだな、僕と同じくらいのサイズの……。
がた、ぎし
音がした。それはリビングから。リビングに通じる扉は、少しだけだが開いていて、そこからは、聲が、聞こえる。
自分の心臓が強く体を打ち付ける。血液の循環によって圧迫された肺はうまく機能せず、息苦しさと頭痛を引き起こす。駄目だ、この先を見てはいけない。何も聞いてはいけない、何も、理解してはいけない。打ち付ける鼓動、はち切れる血管、頭蓋を粉砕する脳のバグ。それらすべてが僕に警鐘を鳴らす。駄目だ、お前はこの先を覗いてはいけない。もう理解しているんだろう? 自分で思っていたじゃないか。自覚することは残酷だと、それは何よりも罪深いことを、お前は知っているはずだ。
そうだ、だから、だから。進む足は止まらない。何よりも慎重に、その扉の前に近づく。きっと、まだ先ほどの余韻が抜けていない。体を動かしているのは自分ではなく、体の中に、心を巣食う、最も理解してはいけない感情に突き動かされる。近づくたび、音は激しくなり、聲は明確に耳を揺さぶる。これも、きっと最後の一線。僕はまた、大事であろう境界線を、容易く踏み越えるのだ。
ずっと一緒に過ごしてきて、一度も見たことのない舞花の姿、電話越しに嫌というほど聞こえてきていた、男の、聲。甘ったるい、知らない女の聲が、僕の鼓膜を突き破って脳内を食い荒らす。動けない、動きたくない、逃げ出したい。聞きたくない、塞いでいたい、記憶に残していたい。邪魔をしたい、邪魔なんてしたくない……殺したい。赦したい、赦せはしない、赦さない。殺せない、殺してはいけない、殺したい。いらない、必要はない、残しておきたい。舞花、舞花、舞花、舞花、まいか、まいか、まいか、まいか、まいか、あ、あ、あ、あ、ああ、あああ、ああああああ、あああああああああああああああっ、
あ
あ
あ
あ
あ…………………………………………………………………………。
焼け落ちた、溶解した、融解した。構築した、瓦解した、粉砕した。もう、原形など、一欠けらすらも残ってはいない。ほら、だから言っただろう? 自覚することは残酷だと、罪だと。お前は、僕は。妹に、舞花に。恋をしていたんだ。
それから、どれくらい経っただろうか。おそらく、一分すらも経っていない。この時間が、この悔恨が、この贖罪が、贖いの時間であり、代償行為のツケであり、僕の傷心を癒す、明確な失恋の時間だった。しかし、もういい。舞花に彼氏がいたことは、本人に言われて知っていたじゃないか。そうだよ、知っていた。だから、気に病むことはない。病むことはない、ただ、いつも通り。そうだ、夕飯の準備をしなくちゃ。なんでか知らないけど、体には穴が開いたようだ。おそらく空腹なのだろう、しっかりしたものが食べたいな。こういう時は、やっぱり肉に限る。ステーキなんてどうだろうか。我ながら贅沢な気もしないが、今日は特別。いろいろなことを知ったし、僕の中で今日は特別な日ということにしよう。マイカもきっと喜んでくれる。うん、喜んでくれるはずだよ。ちょうど目の前に、大きい大きい、――フタツノニクガ、アルノダカラ。
気が付くと、家からはだいぶ遠い川にいた。正確には、そこにある橋に、だが。両手は目に痛い程鮮やかな朱にまみれている。寒いからだろうか? おかしいな、今は七月の筈だけど。アーチ状になっている柱の欄干にもたれながら、忙しく形を変え続ける川を見る。
かなり浅いこの川では、水流は大きな石たちに阻まれ上手く流れてはいけない。まるで僕の人生のようだと、澄んだ思考が濁った思考をうち出す。独り。そう、独り。一人ではなく、独り。高橋たちは、今頃何をしているだろうか。いや、考えても仕方のないことだ。
僕には必要でも、彼らには、きっと僕はあまり必要ではない。ずっと、分かっていたし、理解していた。でも、自覚したくなかった。自覚してしまったら、きっと、僕はもう耐えられないから。実際、耐えられなかったから。高橋は、小川は、小星は、大阪川は、立川は。……彼らは、僕のことを苗字でも名前でも、呼んだことがないのだから。
自戒か、自責か。自壊か、決壊か。きっとどれでもなくて、それがすべて。そんな感慨に僕は辛くなって、空を見上げる。堂々と夜空を我が物とする月は、歪なほどに美しい。
今夜は満月のようだ。欠けることを、汚れることを知らない偉大な異物は、今ではただただ妬ましい。今宵も、月明かりが僕のことを照らしてくれる。それはまさしくスポットライトだった。罪人を、咎人をあぶり出す執行の光。こんな月さえも、独りではやっていけない。月自身が輝いているのではなく、太陽の光を反射しているだけに過ぎない。こんなに大きく美しい月でも、独りではなく、一人なだけなのだ。
そんな事実を突きつけられているようで、胸が痛くなる。僕もそうなりたかった。独りではなく、ただ、一人でいたかった。そうであれば、その強さがあれば。僕の人生はどれほど輝かしいものになれていただろうか。
月は未だ輝きを放っている。無常に僕を見下す月に、俯瞰すらもおこがましいような、そんな月に。ただ近づきたくて、ただ手を触れたくて、ただ、憧れて。決して届かない理想。それは心理か、距離か、はたまた世界か。それでも僕は、届かない理想に手を伸ばした。――欄干さえも、踏み越えて。
ぴーぽーぴーぽー
ぴーぽーぴーぽーぴー
近くで、音が止まったような気がして、僕は再び目を開ける。焦点は掴めず、像は結んでくれない。それでも、月明かりだけは、ただ痛かった。寒いくらいに涼しい。それもそうだ、体に穴が開いていたら、風通しもよくなるだろう。血が抜けて、思考が正常に冴えてくる。
可能性の話を、するのなら。舞花があんなに早く彼氏を作ったのは、もしかしたら、僕への負担を減らすためだったのかもしれない。舞花と僕は、一つしか歳が変わらない。僕がいつも家に早く帰ってくる理由、早く帰ってこれる、理由。そこから推察できることなど、むしろ女の子の舞花のほうが敏感だったのかもしれない。そんなことを考えついても、今更過ぎるというのに。
がさがさと音がする、人の声らしきものが聞こえてくる。なら、もう時間切れ。くだらない僕の回顧録は、回顧録としての形すら保てない。結局僕は最後まで、望んだものを望んだままに手に入れることができないらしい。最期ではないというのは、残念で仕方ないのだが。
ああ、本当に。人生というのは素敵で、ありふれているから素晴らしい。
まずは、こんな初心者の作品を読んでいただきありがとうございます。楽しんでいただけたでしょうか。少し重い話のつもりだったのですが、あなたの胸に少しでも爪痕が残せたのなら、それほど嬉しいことはございません。さて、補足ではありますが、舞花は黒髪のショートボブです。これはとても大事なことだったのに、書き忘れてしまいました。え? なぜ大事かって? それはもちろん、僕が大好きだからです。
この作品は僕の趣味がしこたま詰まったお話となっております。あ、恋愛観は純愛しか許してません。今回は重要視しているのが別のものだったので、こうなってしまっただけです。そのうち恋愛チックな作品が書ければと思っています。もちろん、ただの恋愛作品ではなくなってしまいますが。
人物の容姿の描写は、意図的に詳細に書いている人とほとんど触れていない人がいます。これには理由があるので、考察していただければ嬉しいです。僕は考察する作品が結構好きなのでこうなりました。これも趣味ですね。稚拙な表現などが散見しているかもしれないですが、最初の作品ということで大目に見ていただけると。コメントで指摘してくださるのは大歓迎なので、勉強の一環とさせていただきます。次の作品も考えていますので、またお会い出来たらハイタッチをしましょう。もちろん、万感の思いを込めて。