薬草師の見習い(1)
乾燥ハーブの粉が詰まった麻袋をかついでパン屋へ配達にきた、榛色の髪の少年が、入店するや、今朝おかみが壁に飾ったばかりの絵画に目を留めた。少年は荷物を置くのも忘れて見いっている。そうだろう、いいだろう。おかみは誇らしくなって、自分もカウンターの後ろを見あげた。
開店十周年の記念にと奮発して画家に特注したものだ。大領主さまの直轄地であるここ、トゥールガルドの荘園を、絵巻のように横長に描いてもらった。絵は森林の場面から始まって、ブドウ畑、農民たちの村と耕地、城壁に囲われた町中へと順に進み、民の家々や商売人たちが店を構える通り、さらに広場を過ぎてひときわ高みに建つ領主の城までを、空を舞う鳥の視点で描いている。おかみが夫と営む店も城壁内に見える。
おかみが最も気に入っているのは、一枚の風景画でありながら左から右へと流れるように、移り変わる季節が描かれている点だった。春はリンゴの花、夏は雨あがりの虹、秋は紅葉、冬は雪。少年はその冬の場面、領主の城に降りかかる雪を、どこかしら驚きをにじませたヘーゼルの瞳で眺めていた。
「おかみさん……これ」
「ああ、感動させちまったかい? まぁね、うちも十周年を機に、ちょいと粋なベーカリーになろうかとね! パンを買いにきた客が芸術作品に触れられる店ってのも、悪くないだろう。これは鳥瞰図っていう技法で描かれた一枚なんだ。どうだい、まるで鳥になった気分を味わえるじゃあないか」
鳥瞰図なる言葉は画家の受け売りだ。そんなウンチクよりも目にして「あァいいねぇ」としみじみ感じられりゃ、それで充分じゃないかとおかみは思ったが、画家に「学のない庶民はこれだから」などと気取った嘆息をつかれるのも癪なので、黙っていた。
少年もウンチクはどうでもよかったのだろう、「あ、うん」と一応は同調してみせながらも実にうわのそら、という相槌をよこした。
「おかみさん、あのさ、この白いの何? 殿さんの城のまわりに飛び散ってるやつ」
「……何って? 雪だよ」
「雪」
「雨を凍らせてふわふわに削ったようなもんが、あと二、三ヶ月もして冬になりゃ、降ってくるよ。あんたの故郷じゃ降らないのかい?」
「へぇ! おもしれーなぁ。俺のいた里じゃ、冬は寒くなって水も冷たくなったけど、そんだけだったな」
絵画への興味からパッと心を切り替えた顏つきになり、少年は運びこんだ荷物をカウンターに載せた。パン焼き窯のある調理場から出てきた店の主人が、前かけで手を拭き、ごくろうさん、とコインを支払った。
「こっちは注文受けてた、ハーブパン用にブレンドした香草の粉末。今朝の挽きたて。で、こっちは今日のおすすめ。食欲の秋だから、親父さんら、ワイン呑みすぎてんじゃねーかなって思って、健胃作用のあるキノコと薬草持ってきた」
麻袋に追加して、乾燥キノコと生食用ハーブの束が盛られている木箱を、少年が台に置く。
「おっ、気が利くじゃねえか! 俺らの健康状態を看破されちまった。おまえもキナダ婆さまに仕込まれて、だんだん一端の薬草師らしくなってきたな。トゥールガルドの暮らしに馴染んでくれてるみてえで、領民の一人として俺も嬉しいぜ、リュウ!」
「……つって売りこめって、ばあちゃんが」
「……つってまんまと買いあげたって、キナダ婆さまに報告しとけ」
「りょーかい」
一人旅の途中の少年がトゥールガルドへ立ち寄ったのは、今年の夏の初めだった。のちにおかみが本人から聞いたところによると、周壁の門をくぐったとき彼の財布はすっからかんだったそうで、今は、領主おかかえの薬草師キナダ婆の小屋に居候をしている。寛大な領主は、客人として好きなだけ城に滞在すればよいと提案したそうだが、リュウのほうで断った、という話だ。今後も旅を続けるにあたって、自分で路銀を稼げるようになりたい、できれば薬関係とか、旅をするにも役立つ技能を得られる職の見習いになりたい、そう志願したのだとか。
どんな事情があるのかは知らないが、子どもの身で無理に旅立たずとも、領民思いの領主が治める、この豊かで安全な荘園に定住すればよさそうなものだった。おかみは何回かリュウにそれを言ってみた。彼は『人を探してるから、そうもいかねーんだ』と取り合わなかった。そんなこんなで、当座の路銀を貯めるべく見習いとして働きつつ、薬にも料理の香りづけにも使える多種多様なハーブ類の扱いをキナダ婆から教わっているという、現在に至る。
「帰るなら、新作のパンを持っておいき。また感想を聞かせておくれよ」
「いつもありがとう、おかみさん!」
一塊のパンを渡したおかみにリュウは気持ちのよい笑顔で礼を述べ、主人にも会釈して、店を出て行った。
「おまえ、あいつにはえらく気前がいいな」
「だってねぇ……わかっちまうんだよあたしにゃ。あの子、変に世間に疎いとこがあるし、基本、すごく素直なわりに、根っこの部分じゃサバサバしすぎてるきらいがあって、あたしらとも誰とも、年の近い町の子どもらとさえ、あんまり深く関わろうとしないけど、さ。でもありゃ、あと十年したら確実にイイ男になる素材だ! イイ男への投資は惜しまない!! あたしゃ、男を見る目はあるんだよ」
おかみは夫の腰を叩き、本日のオープンを知らせる看板を店外へ吊るしに行く。
パン屋から広場の方角へと小さくなりかけている少年の腰帯には、彼がトゥールガルドへ来た当初から常に長剣が差しこまれている。しかし、父親の形見か何かの剣なのだろうと、おかみも他の人々も治安のよい荘園内ならではの穏便な見当をつけ、こだわって考える者はいなかった。
(あー平和だなぁ)
往来を歩きながらリュウはパンを頬張った。
持ち帰ってキナダ婆と分けようかと一瞬迷ったけれど、遠慮なく胃袋におさめてしまうことにした。貰ったパンの生地に、木の実や干し果物が混ぜ込まれていたためだ。よかれと思ってあの老婦に食べさせたなら、逆に、わしの残り少ない貴重な歯を折るつもりか、とどやされかねない。
森で魔術師の師弟に負かされてから、一年半。
リュウの身辺環境は大きく変化した。トゥールガルドへ辿り着いて以来、こんなにも平和な暮らしがあったんだなぁと何度も感じている。素性のわからない旅人であるリュウを、大領主に守られた土地の民たちは油断しきったおおらかさ――もとい、好意的な懐の広さで迎えいれた。パン屋のおかみのように可愛がってくれる人も多い。ここではリュウは“ただの十三歳の子ども”に見られているのだ。
実際、今は戦士ではない。骨身にこびりついた習性ゆえに愛剣を手離せないではいても、ただの旅の子どもにすぎないのだったが、親切な人々と、適温までぬるめられた湯に浸っているみたいな荘園での生活は、リュウをくすぐったい心地にさせた。
誰を斬るでもなく、誰かが斬られるでもない。星とも戦いとも遠ざかり、自分の行動を自分自身で選んでいる毎日。
(……俺にもこんな生きかた、できたんだ)
広場には日替わりでさまざまな市が立つ。今日は野菜市と花市で賑わっている場所へさしかかったリュウは、不意に、正面からやってくる人物に視線を奪われた。
旅の者だろうか。マントのフードを深めにかぶっていて容貌は確認できない。顏を隠しているともとれる、そのさまが不審だったせいで、注意を引かれたわけではなかった。先刻マントの裾が風にひるがえった拍子に、ロングスカートの腰紐から体の脇にぶらさげられている或るものが、ちらりとリュウの視界をよぎったのだ。
二本の枝を捩じり合わせたような、木製の長い杖、が。
(魔術師!?)
すれちがう瞬間、とっさに手を伸ばし、マントを掴んでいた。弾みでフードが後ろへずれる。陽光を受けキラキラと波打つ、みごとな金の髪でふちどられた美貌が現れた。例えるならば、広場の噴水に設えられている女神像が気分を害したらきっとこういう顔をするという、不機嫌な花のかんばせ、娘と呼ぶには世代が上ではあるが、まかり間違ってもおばさんとは呼べない迫力がある、美しい女性だった。
彼女は、人様のフードをいきなり脱がす無礼者の相手をする暇はない、とでも言いたげな冷えびえした青い瞳をこちらへ注ぎ、着崩れたマントの襟元を引っ張り返すことで、リュウの手を払いのけた。
売り子たちの声で活気に満ちていた広場が、いつのまにか、静まっていた。鼓膜が拾えるのは噴水の流水音だけになり、息苦しいほどの静けさの中心で、衆目を集めているのは彼女だった。次いで、ざわ……と人々の間に囁きが生じ、ひそやかなうねりと化して、広場全域へ伝播し始めた。
「――あれって」
「――ああ、そうだよ」
「――空人じゃないの」
「――どうして今ごろ、ここに」
よそ人にも友好的な気質であるはずの領民らしくもない、忌まわしい何かが自分たちの日常へ紛れこんだのを追い出したがる空気が、立ちこめている。
ソラビト?
初めて耳にする単語にリュウは首をかしげる。
金髪の女は、あからさまな蔑みの色を浮かべたまなざしで周囲を一瞥したあと、フードをかぶりなおし、近くにいるリュウにしか聞き取れなかっただろう小声で、毒づいた。
「……ふん。相変わらず、表面ばかり善良ぶった、クソみたいなやつらだ」
美人の口から飛びだすにしてはガラの悪い言葉だった。リュウは瞠目して、固まった。根拠は説明できない、でも、せっかくきれいな顔をしているくせに高慢なその物言い、冷たい怒りを押し殺して発せられた声音の、まっすぐに刺さる、火傷しそうな感じ。理屈とは異なるレベルで、ひとつの思いが頭のてっぺんから足の爪先までを駆け抜けた。
(似て、る……?)
無言の威圧感をふりまき人々に道を譲らせた彼女が、歩み去っていく。
追いかけなければと足を踏みだした直後、ファンファーレが鳴り響いた。