終、あるいは新たなる始まり(1)
アバルデン王立図書館の書庫の窓を、くちばしでコツコツとつつく黒い鳥がある。レイスは膝に置いていた本をどかし、書架の間の通路から腰を上げた。
「カ」
「しっ。図書館では静かに」
「……」
制されて、鳴き声を半ばでひっこめるという高知能を示したカラスは、探索系魔術が不得手なジルの目となり鼻となって、千里を見通し、嗅ぎあて、レイスがどこに閉じこもっていようと造作もなく飼い主から委任された役を遂げに飛んでくる。伝書鳩ならぬ伝書ガラスだ。レイスは窓を開けた。窓台に止まって羽を休めているコルウスの脚に括りつけられていた小さな筒を外す。中には短信の文が入っている。
「遠距離を行ったり来たり、うちの弟子のためによく働いてくれるねぇ、おまえは」
口パクで“カァ”とコルウスは答え、今度は、読むのをせかすしぐさで文をつっついた。広げたそこには「帰国が遅れます」と記されていた。帰るに帰れない事情は推して知るべし。走り書きの、筆圧の弱さに鑑みて、おおかたトゥールガルドへの旅で肉体が疲れていたところに、故郷の土を再び踏む葛藤や叔母の死といった精神的負荷がたたみかかり、体調を崩したのだろう。
この世を去る前には父親の手元に返す。あれの身柄も、部屋の鍵も自分は一時預かっているだけだ、とは、彼女が甥を引き取った当初からの口癖。
アネッサとは十五年来の友人だった。
最初に言葉を交わしたのはレイスが六歳、アネッサが十八歳の秋だ。
北の森は“人惑わしの森”とも呼ばれるくらい濃霧に包まれている日が多く、大人でも地理に明るくなければ道に迷う。必然的に立ち入る人も少ないのだけれど、森を湖まで抜けると視界は一気に晴れ、対岸に、緑溢れる都を麓へ侍らせて岩山の上に君臨する王城を一望できる。空に突き刺さるような何本もの尖塔の影を湖面に揺らしている、壮麗な城の正面で、湖岸の岩に座って読書をするのがレイスは好きだった。
常緑の松にしては変わり種の、黄葉して落葉するカラマツが黄金に色づいた季節。ある午後、灌木を掻き分けて若い女性がレイスの秘密の場所へ闖入してきた。彼女はベリー摘みをしていたらしく、腕に籠を下げていた。
『こんにちは』
礼儀正しく挨拶をするレイスに、その人も『こんにちは』と応じた。
『お姉さんのこと、知ってます。美人姉妹で有名なシェイド家のアネッサさん、ですよね。上のエルザさんは先日、非魔族と結婚なさったって』
『……呼び捨てでいい』
『はい』
『私もおまえを知ってるよ、神童のレイス。おチビの分際で、幻術系、守護系、攻撃系、治癒系、自然系、探索系、創造系……あらゆる系統の魔術を習得してるってね。裕福とはいえ学者の家の次男坊。末は権力者の養子にでもなって国を率いる、って話じゃないか』
『えっ。そうなんですか? 養子なんてやだなぁ』
じゅわっと涙が滲んだ。そのころ、涙腺のゆるい子どもだった。
『私はね、器用貧乏なんです。勉強が楽しくていっぱい術は使えるようになりました。でも、どれも究めてません。本当にモノにできている、って胸を張れるのは、体質が向いてるっぽい探索系しかない。ですから神童じゃあないですよ』
『勉強が楽しい、って時点で神童なんだよ』
『どっちみち二十歳過ぎればただの人、ですね』
『は?』
『どこかの諺です』
『ふうん。こまっしゃくれたおチビ』
アネッサの指が籠から深紅のベリーを取り上げた。口もとまで寄せられる。素直に唇をひらいたレイスは、咀嚼して刺激に飛びあがった。
『す、すっぱ……!』
『だろうね。生食には適さないから。普通は砂糖で煮てジャムにするんだよ』
舌が麻痺するほどの酸味とえぐみに加えて、彼女の言に驚き、いよいよ涙腺が壊れた。
『ひど、ひどいじゃないですか! なんだって、こんな意地悪するんですっ』
『あははっ、ぴーぴー泣くんじゃないよ!』
アネッサは体を折り曲げ、腹部を抱え、森と湖に笑いを響き渡らせた。……わりと、とんでもない人だった。どうして親しくなったんだろう。初日の印象は最悪だったにもかかわらず、霧の先の湖畔で二人、語らって憩うのが彼女との習わしになった。
エルザからアネッサ宛に、身ごもったと便りが届いたのは翌年。以来、アネッサは不定期にトゥールガルドへ香草を仕入れに出かけ、暗鬱な目つきで戻るたび、へんてこな置物をくれた。髪がぼうぼうで鼻がとんがって口が耳まで裂けている、皺くちゃな顔の小人の。一年目は喉の奥で悲鳴が引き攣れた。受け取りを拒否したかった、けど『怖がり』とからかわれるのも屈辱で、こみあげる涙を眼に力をグゥッと溜めて我慢した。気味の悪いソレは『生まれていた。泣いていた』との口頭報告つきで授受された。赤ちゃんが泣くのは健康体の証なので『おめでとうございます』とレイスは寿いだ。
付与される報告の内容は順調に育った。
『立っていた。泣いていた』とは二年目。『歩いていた。喋っていた。泣いていた』も同じく。『走っていた。……泣いていた』は三年目だったか。五年目で『あの……、うちの空き部屋が一つ、呪いの人形館みたいになっちゃうのはごめんですから。今後、お土産は要りません』と断った。
七年目の報告は『やさぐれていた。……泣いていた』で完結しなかった。
『町の路地にいたんだ。一人、縮こまってね。エネルギーを激しく消費するからめったにやらないが、姿くらましをして、近づいてみた』
『あなたは、そういや幻術系に親和性が高い体質でしたっけ、アネッサ』
こくりと首肯する彼女の表情は冴えなかった。
『視覚に認めているわけではないだろうに、あの子は、私へ手を伸ばしてきたよ』
『へえ? 魔術は使えないんですよね?』
『たぶん』
『というか、姿を明かしちゃいかがです? 叔母さんですよーって話しかけては』
『別に話したかない』
『嘘つきですねぇ』
『やかましいよ。私は非魔族は嫌いだ、……愚かしい猿だ』
アネッサは面をいっそう曇らせて伏せ、独白まがいに『でも真実……、非魔族は魔族よりも劣っているんだろうか』と森の下草へ吐露した。どう反応するのが正解なのかわからなくて、『にしてもその子、いつも泣いてるなぁ』とレイスは長年の引っかかりを指摘した。
『すぐに泣きベソをかくとこは、誰かさんそっくりだね』
『私の泣き虫はさすがに直りましたよ。意地悪なお姉さまに鍛えられましたから』
恥じ入ってまなじりを染めると、たちまちアネッサは頬をにやにや歪めた。
『おかえりなさい。トゥールガルドの可愛い甥っ子さんはどうしてましたか』
九年目。水を向ければ『可愛くて見に行ってやしない。馬鹿な親を持った子がどういった育ち方をするのか、肉親の義務で見張ってるんだ』と無関心を装って今さらな弁明をした。そういうのは見守ってる、って言うんじゃないかなぁ。思ったが胸中に留めておき、『つい昨日に立って歩いて喋った子が、大きくなりましたよねぇ』と感慨に浸ったら『おまえもだよ。どこのジジイだ』とやりこめられた。
『成長過程をあなたに聞かされ続けてるんでね、会ったこともないのに兄の心境だ』
『弟でもおかしくない年だしね。実際、あれの腹違いの姉はおまえの一つ下だったかな』
『そうなんですか』
『遠からず……アバルデンへ連れて来る』
甥を、と明言はされなくてもニュアンスで聞き取れた。まるで望ましくない未来図であるかのような硬い声色だった。束の間アネッサは瞑目し、それから真摯なまなざしで対岸の王城を拝み、その青い目線をこちらへ推移させた。
『ここで暮らし始めたら、レイス、おまえが魔術の師になってやってくれないか』
『はあ、魔力を具えているか否かも定かじゃない子の?』
『いくらあの子が不出来だろうとおまえの手には余らないさ、賢才のレイス』
『……いいでしょう』
凡才かつ若輩者ではありますが、私でよければ喜んで。レイスは応諾したのだった。
クイッ。袖を引かれ、かつての霧の中をさすらっていた思考から浮上する。咥えていた袖口を放したコルウスは首を傾け、待ってるんですよ、とくりくりっとしたまろい眼で催促する。
「あ。はい、今」
司書に紙とペンを借り、返信をしたためながら、次いでレイスは昨秋を振り返っていた。東方の神秘の隠れ里で迎えた朝。曙光を浴びて全身に決意を湛えていた剣士の少年の、一途な述懐を。
――俺さぁ、もう一度、あいつに会いたい!
あの人は、ジルを父親の領地まで誘導すると言った。一旦は原点へと立ち戻らせる。そこから先は本人が自由に選んで生きればよい、と。
さて、撒いた種はどんな花を咲かせましたかね。亡き年上の友と心のうちで対話する。近頃、沈みがちだった翠の双眸は久方ぶりに少しの屈託もなく弧を描いた。




