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懺悔(4)

「オディロン、オディロン……私、怖い! 神さまが怒っておられるのよ」

「泣かないでエルザ。私がついている」

「怖い……! 皆が言ってるでしょう。世にあるまじき闇色の、あの、黒い子が災いの源だって! 怖くてたまらないの。お願い、一人にしないで。ずっとそばにいてね」


 痩せた腕で夫に縋りついて涙に暮れる彼女には、オディロンしかいなかった。この人は自分がいなければ生きてゆけない。それは息苦しさと紙一重の甘美な悦びをオディロンの深奥に芽生えさせた。


「ごらん、魔物の若君だ」


 成長したジルヴェールは町を歩くと後ろ指をさされた。城では両親から関わりを放棄され大多数の奉公人に存在を黙殺され、籠にひっそり飼われている無援の鳥の態で呼吸をしていた。空と地の間の者なのでマノモノ、まもの、魔物。言葉遊びで、そう蔑称されているのをオディロンも聞き及んでいた。だが息子をいとしむ父の心に、恋の虜と成り果てた男の狡猾がせめぎ勝ち、積極的には打開策を講じなかった。

 エルザは母となるにはあまりに未熟な女性で、彼女への偏愛を最優先にするオディロンは愚昧な父だった。二人は親として我が子へ無償の愛を注いでやれなかった。父母に見放されている気配がおのずと伝わって、周りも公子を軽んじたのかもしれない。

 空人でも地人でもない、どこへも属しきれない居場所のない子だった。ジルヴェールは甘え方を知らずに育ち、城を嫌い、家出癖をつけた。守衛の目を盗んで城から町へ脱走する。調達したボロをまとい髪と瞳の黒を晒さないよう偽装して、陽の射さない路地裏で膝を抱えて座りこみ、連れ戻されるまで何時間でも通り過ぎる人々を眺めていた。大空の下で笑いあう親子。父親の広い背におぶわれている子。母親の腕を引っ張って駆けていく子。浮浪児だと誤解して食べ物を恵んでくれる人も、正体を看破しつつ見て見ぬふりをする人も、絡んでくる輩もいたらしい。


「これはこれは、はみだしっ子の黒い公子さま。お城からまぁた逃げておいでですかい」

「……」

「もし? 下々の発言は無視なさるんですかい?」

「……」

「だんまりかい」

「……うるさいな。たかっても今、金はないぞ」

「おや喋った。可愛いお顔で噛みつきなさんな。金銭めあてじゃねーんで。なァ、空人ってぇのは死にゃ空気に溶けんですって? どっかのゴロツキがうっかり殺っちまったら、混血のあんたでも消えなさるんですかねぇ。完全犯罪の成立じゃねーですか」

「……」

「生娘みてぇに白くて細っせぇお首だ」

「……」

「絞めやすそうだなァ」

「……実行する度胸もないんだろ」

「ないとお思いで?」

「試してみるか?」

「――不届き者がっ、離れなさい! こちらにおられましたか若君」


 公機関へ報じる人も当然ながらいて、家出の結末はいつも善意の密告により城から迎えが遣わされて、終わり。町の周壁の外へ行かないのは生家への未練ではなく、幼い子ども単独の遠出は門衛に怪しまれ、検問されて、あっけなく露見するからだ。すでに再三失敗している前科持ちだった。


「ねえジルヴェール。なぜお城を抜け出すの?」


 弟の悪癖に胸を痛め、本人へまっこうから尋ねたのは六歳上の異母姉ミリアーヌ。


「……」

「ねえ?」

「……」

「口の利き方を忘れて? 何とかおっしゃい」

「何とか」

「もう!」

「……城にいると俺、息が詰まるんです」

「言葉づかいも下町風に変わったわね。いつのまにか『俺』になって。だけど町だってあなたに、その……」

「居心地よくはない?」

「……ええ、まあ」

「でも、あそこでは透明じゃなくなるから」

「透明?」

「透明人間」


 かわいそうな子。憐れんだのはカトリーンだった。娘と一緒にご本を読みましょう、一緒にお菓子をいただきましょうと誘って姉弟がうちとけられる機会をたびたび設けていたが、「おかまいなく、奥方さま」と三回に二回は辞退された。


「名前でお呼びなさいな。ジルヴェールどのの母君も奥方ですよ」

「母は異種族の平民の出。みな、奥方さまと同列にはあの人のことを呼びません」


 うまく甘えられない公子はたいそう聡くもあり、気兼ねしたのだろう、カトリーンたち母子とは一定の距離を維持し、常に数歩身を引いてふるまっていた。

 四年前の冬の初め。ジルヴェールがちょうど十歳になるころ、命短く散る花のように、長らく病の床に臥していたエルザは帰らぬ人となった。公務でほんの半日、オディロンが留守にした隙の臨終だった。看護していた侍女が話すにはみるみる体が透け、慌てて室外に控える医師へ声をかけて引き返したときには、ベッドは無人。彼女はいなくなっていた。手をほどこす余地もなかったそうだ。


「お仕えしていた身で、最期も看取ってさしあげられず……」

「そうか。エルザは、逝ったのだね」


 衰弱していた彼女が介助もなくベッドから下りて動けたはずはないと、頭では理解している。それでも諦めがつかなかった。遺体がないのだ。びっくりしたでしょ、冗談よといたずら好きの少女みたいに笑って物陰からふらっと現れてくれるのを、際限なく待ってしまう。愛した人の残り香すら薄れてゆく部屋で、オディロンは着衣の上から心臓を掻き毟り、魂を引き裂かれる辛苦にのたうち、嗚咽した。自身の舌がこれまでに綴った記憶のない口汚さで創造主を呪った。亡骸を抱きしめて泣くこともできない――こんな残酷な別れがあるか。

 形ばかりのささやかな葬儀を済ませた同日、弔問目的ではない客人があった。城内を冷えびえと見回す非凡な眼力で、澱んだ気を祓う、青の虹彩。燦々たる金の髪、毅然とした佇まい。予想していなかった人物だった。約十二年ぶりにオディロンと向き合ったアネッサは開口一番、「甥を連れていきます」と宣言した。


「あの子が生まれてから十年、折に触れ偵察させてもらっていた。姉にもあなたにも心底がっかりだ。あんたらは人の子の親になる資格がなかった」

「相変わらず手厳しいね。……あの子の意思は訊いた?」

「私と共に来るそうです」

「ああ……」

「前にあなたには戒めておいた。姉はトチ狂ったが魔族の目には通常、非魔族は猿同然に映ると。甥は、いわば猿との合いの子です。私たちの国でも風当たりのきつさは避けられない。曲がりなりにもここでは公子、その身分ゆえの、特権的な手心もアバルデンではいっさい加えられず、おそらく、ここの比ではなく生きづらい。だとしても、庇護されるべき親のそばにいながら存在を否定され続ける絶望よりは、マシだ」


 反駁できる語彙がひとつも浮かばなかった。息子から見切りをつけられるのも道理の、情けない父、親不適格者だった。我が手で招くべくして招いたやむをえない報いだった。オディロンは項垂れて了承を告げた。


「あなたがたの国、アバルデンか……エルザは国を恋しがって……、どうして一時なりとも里帰りを叶えてやらなかったのだろう。あの人は、あなたに会いたいと言っていたよ」

「……馬鹿な姉さん」


 彼女の声が掠れた。静寂の中で暖炉の薪が爆ぜていた。オディロンの気高き義妹は歯を食いしばって足元を睨み、やがて面を上げ、ぴしりと鞭をしならせるように放った。


「姉は恋愛に命を燃やして生きた。あなたとの運命の恋に殉ずるという、みずから選択した道を全うできて満足しているでしょう」


 こうしてアネッサは甥に公子の位を捨てさせ、少年は名をジル・シェイドと改めた。平民に身をやつして空人の国へ旅立つ彼のために、カトリーンとミリアーヌは同情の他には何もできなかった己が十年を呵責し、涙でとめどなくハンカチを濡らした。以後、オディロンは愛していても家族の誰も幸福にできなかった悔悛の思いから、せめて領主として世にあがなえるものならばと、窮する人々の受け皿となって慈善に取り組んでいる。


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