懺悔(1)
領主会議と併せた他領地の視察および巡視の旅を終え、トゥールガルド公が帰城した。心労を隠しおおせていない妻カトリーンから内密に不在中のできごとを報告されると、公爵は黙って頷いた。そして長考の末、みずから薬草園へ赴き、
「追加のニワトコ、オーツムギ、ウコギ、……えーっと、免疫上げるエキナセアも持ってこ」
ぶつぶつ貯蔵庫でひとり、荷をこしらえていた少年を「すまないが時間をもらえまいか」と城の私室へ呼び入れた。思い当たる節があるのだろう少年は珍しく緊張して、城主と向かい合うソファで横一本線のかたちに口を引き締め、筋肉という筋肉を硬くしている。言わずもがな、表情筋も。
今さらかしこまる仲でもあるまいにと公爵は少しほほえんだ。
「そなたへはつまびらかに語っておきたいのだ……ある愚かな父と母の秘話を」
長話になる旨を前置きし、縷々とした回想にリュウをつきあわせる。
トゥールガルド公オディロン・トバーユはかつてロンヌ公の称号で親しまれていた。連合公国の盟主として大都市ロンヌで治政にあたっていたのだが、十八年前、緑豊かな荘園トゥールガルドへ居城を移した。二歳になる愛娘の体が弱く、気候の比較的穏やかな、空気も水質も清い田舎暮らしを選んだのだ。「余生を羊と農民に埋もれて過ごすなんてゾッとしますよ」と都を離れたがらなかったオディロンの母は今もロンヌにて健在である。
ちなみに昨今、母の膝元でロンヌの政務をとりしきらせているのは、亡き伯父の伴侶方の従弟の次男――公爵家の直接の血縁者ではないけれども、目を掛けている有能な青年で、彼とミリアーヌは互いを憎からず想い合っている、らしい。彼が政道を勉強しにトゥールガルドの城住まいをしていたとき二人は特別懇意であった、との、娘仕えの侍女たちのほうから風が運ぶ噂を小耳に挟んでいる。ゆくゆくはトゥールガルドを娘と彼に明け渡し、オディロンは妻とロンヌへ引き上げるのもよさそうだ。
早くに他界した父は女道楽が激しく、母を悲しませ続けた。その父が反面教師となり、妻には良き夫、娘には良き父であろうとするオディロンの家族への思いは人一倍揺るぎなかった。また、十代にして爵位を継承したためか為政者としての志は青くも献身的な情熱に満ち、人々の生活水準の向上に心を砕いた。妻子に誠実で万民に優しく、高い理想を掲げて善政を敷きストイックに務める若き領主を、ロンヌでもトゥールガルドでも民は歓迎し、手放しで称賛した。
そんな男の生き方が十六年前に覆される。
公爵一家がトゥールガルドで暮らし始めて三度目の、夏。
その晩、彼は夕涼みがてら城下町を散策した足でいつもの酒場へ立ち寄った。リンゴ酒を注文し、カウンターに代金を置く。「やぁだ。お代はいただけませんて」と恐縮するおかみに「今はみなと同じ、美酒を求める一人の客だよ」とコインを受け取らせる。ここまでが定番の流れだった。
のどかな田舎ならではの気楽な大胆さで、こうしてオディロンはしばしば平民と変わらぬ服装で酒場を訪う。従者たちも同様にして一般客に成り済ましている。もっとも、気づく者には気づかれるが、領民に目線を等しくして寄り添いたいと願っている彼の意向を酌んで、へりくだった仰々しい態度は示さずにいてくれるところがトゥールガルドの人たちは粋だった。
カウンターの横並びにいた好々爺がこちらへ会釈してカップを持ち上げ、献杯のそぶりをする。オディロンも会釈で応えた。
「はぁ!? 占い!?」
ガタタッ。すぐ後ろのテーブル席で椅子が床を滑る摩擦音がした。振り向くと、室内の乏しい照明でもわかる美しい娘が二人。片側の娘は座り、片側は立って二の句も継げない様相で小刻みに肩を震わせている。彼女たちの蜂蜜色の髪と青々とした瞳は、茶系が多いこの界隈ではめったに見かけない色だ。酒場は旅籠も兼ねているから宿泊客だろうか。案の定、おかみがカウンター越しに耳打ちをよこした。
「極上の別嬪さんたちでしょう。今宵うちにお泊まりでね、姉妹だそうで。お忍びでいらしたこの晩、この店で、たまたま居合わせるってのも何かの縁ですよ、お声をかけられてはいかがです?」
「はは。私みたいな妻子持ちのおじさんは相手にされないだろう」
「何をおっしゃってんです、男盛りの三十じゃないですか! 奥方さまだって一晩のお遊び程度は目をつぶってくださいましょうに」
「おいおい、私を唆してどうしようっていうの。そういう理由で妻の目をつぶらせたくはないな。第一、私は洒脱とは対極のヤボなたちでね、うまく遊べる男じゃないんだ」
「んもぉ真面目すぎるんですよ、殿さまは!」
「おかみさん。この店で呑んでいる間は上下をへだつ扱いはよしてくれと、以前にも」
「名前でお呼びすればよろしいんでしたね、オディロンさま」
「頼んだよ。それで彼女たちはかよわい乙女の身で、二人きりで旅をして来たの? あんなに綺麗でめだつ娘さんがたが、危険じゃないかい?」
「ええ、あたしも尋ねたんですがねぇ。魔術師なんですって。いざとなったら杖で自分の身は守れますし旅費も稼げます、ってことでしたよ。あたし、吟遊詩人の歌物語じゃ知ってましたけど本物の魔術師って初めてですよ。ここらあたりじゃ珍しいですねぇ」
「そうだね。私も初めてだ」
詩人が歌う魔術と剣の冒険譚に胸をときめかせていた子ども時代を懐かしみ、オディロンは旅の娘たちを興味深く眺めた。扉が開いて新たな客が来店し、おかみは仕事に戻った。季節柄、薪は燃されていない暖炉の前で楽士が縦笛を吹きながら、他方の手で器用に太鼓を叩いている。けれど奏でられる音楽の中でも、耳を澄ませば会話の拾える距離だった。
「状況を整理しようか。異国風の香草で調味したヘルシーな小料理屋をしてみたい、あなたも医食同源の知識を得ておいて損はないから、稀少な薬用植物の産地であるトゥールガルドへ行こうって話だったね? 姉さんの知り合いの紹介先で、薬膳を教えてもらえるって? ひと夏、住みこみで?」
「そんなことも言ったかなぁ」
「言った! で、それが何? 紹介先はなくて小料理屋も薬膳も全部口からデマカセで、下宿のツテもアテもないって? 私は薬膳を修める前提で将来設計もしたんだよ、予習だってしたよ、明日からどうするんだっ」
「トゥールガルドが薬用植物の一大産地なのは、ほんとよ。薬膳に精通した人もいるわよ、え……っと、探せば。明日以降の下宿先はどうにかなる……っていうか、なるようになるんじゃない?」
「私、姉さんのそうやってふわっと生きてるとこ、嫌い!」
「ごめんね。怒らないで」
「嘘をついてでもトゥールガルドで夏を過ごしたかっただけって……しかも、そのわけが道端のインチキ占い師に『かの地で運命と出会える』って告げられたからだとか……」
「正直に話したらアネッサ、付いて来てくれなかったでしょ」
「そりゃそうだろ、馬っっっ鹿じゃないのっ」
パンとスープのつましい食事が載った机上に両てのひらを付き、立っている側の娘、アネッサが床に足を踏んばっている。幼いころ東方のおとぎ草紙で見た鬼のごとき形相で。先刻の摩擦音は彼女の椅子が押し出された音だったのだろう。一方向から注がれる好奇のまなざしを感じたのか、オディロンを実に冷えびえと睨めつけたアネッサは顔を顰めつつも座り直した。
「なぜ大嘘をかましてまで私を巻きこむんだ、いつもいつも! 身勝手にもホドがある。私は姉さんのお守り役じゃないんだよ。姉さんが魔術を習い始めた日も、最初にできた友だちの家に初招待を受けた日も、国外へ最初におつかいに出た日も、他のいろんな初日にも『途中で帰っていいから』ってたいてい騙されて結局まるまる立ち会わされたよな。姉さんが私と手を繋ぎっぱにして帰る隙をくれなかったから! この子はどうしてお姉さんに付いて来ちゃったの的な、周囲の目が気まずかった。姉さんの最初の恋人との初デートにあれよあれよと連行されたのもひどかった、でも今回のが一番ひどい。ここまで何日歩いたよ、無駄足か、復路も入れりゃ無駄足カケル二か、最悪だっ」
「だって……あなたが一緒にいてくれなきゃ、心細くて」
「いいかげん独り立ちしろ! もう二十二なんだから!!」
「ちょ、ちょっと、大声出したら周りのお客さんに迷惑――」
気遣わしげに店内を巡らせた姉娘の視線とオディロンのそれとが、絡んだ。「あ」と漏らしたのはどちらだったか。薄く唇をひらいた彼女の瞳が大きくなり、オディロンも同じく驚きに打ちのめされた。時が止まった。信じられなかった。自分の生涯でこんなにも説明のつかない高揚に鼓動を支配され、否応なしに、思慮分別を制圧されようとは。
「運命、だわ」
夢心地に彼女が呟いた。怪訝な表情でアネッサは姉を見やった。ああ、運命だ。そうとしか考えられなかった。一瞬にして抗いがたい恋に、落ちた。




