森の魔物(3)
吹きさらしの外階段と祈りの空間との境に、ジルがいた。女性と対面している。袖にはスリットがほどこされスカートはふっくら丸みを持たせた上質なタフタ素材のドレスを着て、ショールを羽織っている――公爵夫人カトリーンだ。
「ミリアーヌの具合が、よくならなくて……この雪が降りだしてから……、どうしてかしら。どうしてこの雪は金色で、どうして何日も止まず、どうして雪の降る森にあなたがいるの……いいえ、いいえ、そうじゃない、わたくしが悪いのです……わたくしが悪い」
「奥方さま」
会話が聞き取れる。足を速める。ジルがちらっと横目をくれ、唇を噛んだ。あからさまに迷惑そうに。公爵夫人は気づかない。彼女のやつれた横顔からは妖しい雪と娘の不調を結びつけ、自責の念に苦しんでいるさまが窺える。
「わたくしを、ミリアーヌを、憎んでいますよね……。そうでしょう……、わたくしもあの子もずっと悔やんでいる……殿もですよ、あなたの力になってあげられなかった……」
「やめてください。俺は、そんな」
その苦しみが何に起因するのだかリュウには知る由もない。ジルもとまどい、困り果てている口ぶりで奥方を宥める一方、こちらへは鋭いまなざしをよこして首を突っこむなと牽制する。
「わたくしを怨んでいるのでしょう……、ごめんなさい」
カトリーンはなおもノイローゼ気味に言い募った。ごめんなさい、ごめんなさい。
「……謝っていただくすじはありません。お気に病まないでください。俺は誰も憎んでいないし、怨んでもいない」
「赦してちょうだい。守ってあげられなくて」
長手袋に覆われた彼女の両手は胸もとで合わさり、尖ったものを強く握って震えている。あたかも、聖者の肖像が彫られたメダイに縋って罪を告解する人の切実さで。
金と赤の、洗練された装飾の鞘に収まってはいる。だが……あれは。
(ナイフ)
認識した瞬間、視界がくらんだ。剥きだしの本能に体をのっとられる感覚だった。血が煮えて理性はかすんでいるのに思考は妙に澄みきっている。己が、もうひとりの己に憑依される。空前絶後の怒りに自我を剥奪されていく。いや違う。空前には他ならなくても絶後とは限らない。だって、出会ってしまった。公平無私ではいられなくなったのだ。特定の相手への傾倒が、誰を犠牲にしたって大切にしたいという欲が、心臓に巣食った。
クフェンの戦士としてではなく個人の情で、剣を抜いた。
ハッと瞠目したジルが体ごと振り返って訴える。
「何やって……誤解するなよ、この人に悪意はないんだっ」
「けど、ナイフが」
「ナイフ!? 護身具だぞ、殺傷用途には適さない!」
「護身具だって刃物じゃん? 俺なら、ナイフででも致命傷を負わせられる」
「お、まえを基準にするな馬鹿か! ああ、馬鹿だった馬鹿なんだった、おまえが手にしてるのは安易に振り回していいオモチャじゃないだろ。落ちついて剣をひけ!」
「俺は落ちついてるよ」
「落ちついてるやつが公妃にンな据わった目して凄まねーから!! コルウス!!」
呼びかけに応じて羽ばたきが襲来する。昏冥の森の、夜闇と同化しつつある樹影から疾風のように現れた一羽のカラスは、なぜか、カトリーンではなしにリュウを敵認定した。ガァガァッ! 脇目もふらず、警告を発する鳴き方で髪を啄む。引っ張られた次には離されて、ダメージは最小限に抑制されている。荒ぶる気を鎮めなさいと諫める程度の甘いくちばし攻撃では、今のリュウにとっては効力がないに等しかった。
一歩。
踏みこむ。
カトリーンは青ざめて一歩さがる。
リュウがまた一歩。彼女もまた一歩。
「そなた、わたくしをどうしようというの?」
「奥方さま。俺の後ろへ」
ジルは夫人の前面に身を滑りこませた。レイスのときと同じだ。自分自身を盾にして人を庇う彼のこういうところがかっこよくて痺れて、すごく好きだけれど、危なっかしい。
「リュウ。おまえ、不敬罪で打ち首になりたいのか」
「……」
「剣なんか、おいそれと抜くもんじゃねーんだよ。やめろ」
「……」
「リュウ。おまえと戦いたくない。やめろ」
もはや、何事かを諭そうとしている彼の声音も届かない。おそらくはトランス状態に近かった。シュッ。風を裂いて投げつけられた杖が、毎度ながらの驚異のコントロールで迫る。目視もしない反射による一閃、剣の峰で払った。
「リュウ!! やめろって言ってんだろ!?」
風も杖も声も妨げにはならない。無風の境地だった。凪いだ表層とは裏腹に魂が叫んでいる。
誰にも。
誰にもこいつを傷つけさせない。
――おびやかす者には制裁を。
「ったく……やばいツラしやがって!」
瞳を眇め、片手を天にかざした彼がふと、行儀悪く舌打ちをした。
「くそっ」
小さく毒づき、即、矛先を移す。魔術で対処するかに思われた手を下げ、夫人のナイフへ。彼女の掌中にあるそれをジルは取りあげる。鞘を床へ捨て、己の喉元に迷わず構える。
状況を捉えるにつれてリュウの瞳孔がゆるゆると開いていった。
柔い急所の皮膚。そこに、凶器の尖端が。
「剣をひけ、リュウ。頭じゃなしに体感で理解しろ」
「な、に、あぶね……」
「誰かに刃を向けるってのは、こういうことだぞ。簡単に命を消せるってことだ。今のおまえがふるう剣は、ただの人斬りの道具だ。おまえは災厄とやらを標的にして、星の定めを執行する剣士だったんじゃないのか、私心で手を汚すのかよ!」
黒光る眼、その奥に青い燐火を燃やしてまっすぐリュウを刺してくる。何を熱くなっているんだろう。こいつの発火点は未だに全然わからない、それに、こいつだってわかっちゃいない。今さら汚すも汚さないも手遅れなんだって。
過去を言い逃れするつもりはなかった。だけど、リュウの中の何かを綺麗なままにしておこうと願って、彼が必死に言葉と体で止めてくれているのは伝わる。
「ここはトゥールガルドで、おまえは薬草師の見習い。そうだろ。おまえの剣を、人殺しの剣に堕とすな」
「……人殺しの、剣……」
「――…っ」
「え?」
「……ぅ、あ」
予兆もなく。
ナイフが彼の手から擦りぬけた。
「ふ、っ」
みぞおちに両の拳を当てている。ナイフは床の上で一度撥ね返り、硬い音を響かせる。
「ジル?」
「っ、ぃ……」
「ジル!!」
眼前で、芯を失った足が折れてゆく。何だ? 何が起こってる? 昂っていた血がたちまち冷え、呼吸が凍りつく。元来白い彼の肌は蒼白と化している。夜気に透けていなくなってしまいそうで、考えるより先に剣を投げ出し、階段を駆けのぼっていた。
カァァァッ!
カラスがひときわ甲高く鳴いた。
黒い羽根を散らし、リュウと競って膝から崩れ落ちるジルのそばへ急行する。
「ジル、ジル、どうした!? 胸んとこ痛ぇの!? 吐く!?」
床に倒れ伏す寸前、ぎりぎりで抱きとめた。
彼は弱々しくかぶりを振った。吐息が浅い。額には玉の汗が浮いている。
「さわ、ぐな、……だいじょう、ぶ」
苦しげに、絞りだすようにして囁く。
なんでだよ。なんで、そんなみえすいた強がりで取り繕おうとするんだ。おまえにとって俺ってなんなんだ。腹の底でとぐろを巻く不安が、不満となって、噴き上がる。
ふざけんな、ふざけんな、ぶざけんな、ちくしょう。
心配くらいさせろ!
「ぜんっぜん大丈夫じゃねーだろ、おまえ!!」
細い肢体だった。同じ年頃の男にしてはいっそ華奢なほど。
ガァガァガァガァッ、カラスがリュウの髪を毟る。あなたがふがいないせいですよと詰られている気分だった。本当にそうだ。不自然に胸を押さえるのを何度も目にはしていた。食も進んでいない様子だった。先刻、魔術でリュウを阻まなかった彼。きっと術を練るだけの体力を欠いていたのだ。
固く瞼をつぶって唇までまっしろにして、苦痛に耐えるみたいに硬直していた体が、不意に、弛緩する。
「ジ、ル?」
くたりと全身を委ねられ、後頭部を支えて表情を確かめる。うそ。嘘だ。精緻な人形めいた顔に生気はない。瞼は閉ざされたきり反応を示さない。嘘だろ。どうしたんだ、こいつ。嫌だ。こんなのは嫌だ。俺は嫌だぞ!!
「ジル!! おい、目ぇ開けろ、こっち見ろって……、頼むよ、なあ、俺のこと見てくれよ!!」
門前の従者も主命にそむき馳せ参じるほどの大音声がほとばしった。喉が潰れたってよかった。無言でいる彼に、ひどい声だなと呆れられたかった。おまえうるさいよと、玲瓏たるあの黒い黒い瞳で睨んでくれりゃ本望だ。なりふり構っていられなくて、掻き抱いて、懇願した。
腕の中のぬくもりと重みによって未知なる情動をまざまざと学ぶ。
頭で理解するのじゃない、脳ではないどこかの中枢神経で体感している。
命の儚さ。かけがえのなさ。
喪う怖さを。
「リュウ」
手袋に包まれた指がおそるおそる肩へ触れた。
「不用意に動かしてはだめ。我が家の専属医を手配させます」
リュウは不躾にさぐる目つきで公爵夫人を貫いた。
「ミリアーヌに聞きました。仲良くしてくれているのですね、彼と。わたくしに言えた義理ではないのだけれど大切に想ってくれてありがとう。わたくしを信じて任せて……、幼少のみぎりより、この子のことはよく知っているのです」
意識のないジルの髪を痛ましそうに一撫でし、従者のほうへドレスの裾をひるがえす彼女の声調には、常の夫人らしさが蘇っている。今しがたまでの怯懦の色は薄れ、病がちな娘を育てた母の叡智が滲んでいた。




