廃墟にて(1)
十歳のころ、両親との別れで泣けなかった。それもやむをえないとは思う。父も母も我が子を長年ほったらかしたので。二人にとって息子は魔物か何かの化身で、その忌み子と向き合うのを恐れていたかのように、彼らはジルをまともに眼中へ入れなかった。
人を無視してはいけないこと。言葉を大切にすること。暮らしの中の挨拶を欠かさぬこと。時に怒鳴り時に頬を張り、世を拗ねていた子どもの性根を文字通り叩き直して、俗にいう家庭教育のすべてをジルへ染みこませたのは叔母だった。
おはよう、おやすみ、いただきます、ごちそうさま、いってきます、いってらっしゃい。ただいまにはおかえりを。ありがとうとごめんなさいも。あたりまえの生活をあたりまえに営めるのは、あたりまえじゃないこと。掃除のコツ。炊事洗濯のしかた。買い物の値切りかた。深刻化させない口喧嘩のテクニック。大人は結構大人げないこと。
両親からは教わらなかった全部を、あの叔母は。
(粗暴でおっかなくて……最期までめちゃくちゃな人だったな)
書見台に載せた本の表紙を杖でノックする。位置、順番、回数の組み合わせによって開いたとき内側に記されている巻が変わる。『禁術大全』の名にふさわしく一朝一夕には読破できない重量ではあれど、解術のヒントがないかとページを隅々まで貪り読んで過ごしている。
窓の外に毎日毎日ちらつく光。
降り続ける金の雪。
アネッサが消失して庭へ吹き渡った風の通り道に、翌日の朝陽とともに、星々の数ほどのちっぽけな緑が芽吹いて瞬く間に生長し、皓月の色をして輝く花園になった。その花びらが昇天し、まばゆい雪となり、森へ積もって融ける。大地に還ってゆく。
あの降雪を今からでも止められたら。
もしそれが叶ったとして喪われた命は戻らないと頭ではわかっているのだけれど、打ちひしがれたまま何もしないでいるよりはと、早朝から深夜まで書物に縋って。
あまり眠れず食事も疎かにしている不摂生が祟り始め、無意識にみぞおちへ宛てがっていた手を「そこ」と見咎められた。
「たまに押さえてるけど、どした?」
毎日毎日といえば、こいつも。ひたむきに纏わりつく、濁りのないヘーゼルの瞳。敏捷そうな体つきの短髪の少年。
「今日も来たのか。ほんっとしぶとい」
獅子の関門をどうやって越えているのだか、リュウは連日にこにこと司祭館の居室へ現れ、ジルを構い倒している。何がそんなに楽しい? 鍵の謎解きをするって話はどうなったんだ。どれだけ冷たい対応をしても上機嫌でいる相手は今、逃げ出したくなるくらい真剣ないたわりの目をジルへ貼りつけている。
「お腹、きもちわりぃの?」
「おまえに関係ないだろ」
「なくないようにさせてよ。俺らの関係」
さらりと言いきった彼の腕には、パンや肉類、彩り豊かな青果物の盛られた箱。偶然で片づけるには出来すぎだった再会を果たし、二、三日はいちいち舌をもつれさせて交誼を迫っていたくせに、慣れるのが早い。キテレツに恥じらわなくなった。
「……その食料品の山、なに」
「あーはぐらかされた。ここのパンな、旨いの。こっちのリンゴは味見させてもらって、超甘かった。おまえ細っせぇから、栄養つけさせなきゃって思って買いこんだんだ」
「こんなに? 代金は」
どこから捻出を、と尋ねる途中にまたもさらりと答えられる。
「おごり。俺の」
「……無駄遣いすんなよ」
「してねーよ。だってさぁ、おまえと会いたくて貯めてた金だもん。おまえのために遣わせて」
むしろ恥じらってほしい。さらりとのたまうな、羞恥心に仕事させろ、恥ずかしいやつ。どうやら裏も表もないのだろう笑顔で、胸を張る。ぴかぴかの太陽みたいな明るさを室内へ振り撒くやつだった。やたら適応力の高い彼とは異なり、あけすけな親睦を押しつけられる状況にこちらは全く順応できない。
一方で、リュウの生活スキルは異様に低かった。
おまえに食べさせたくって目玉焼き作ったんだけど難しいのな、としょげて差し出された皿には、目玉焼きにカテゴライズしてはいけない哀れな卵の末路がブスブス燻っていた。黄身は破裂し、ぐちゃっと焼け焦げている全体のところどころに大きめの殻も混入している。
「殻……は論外にしろ、火力が強い。ポイントは二つ。弱火にする、卵を鍋底すれすれで割って落とす。そこを守ったら初心者でもふっくら焼ける」
基本の範疇での助言をしたにすぎないのに、両眼を丸くされた。きまり悪さに耐えながらジルは焦げと殻を取り除き、わずかな可食部を口にした。不味かった、普通に。リュウはますます双眸をまんまるにしたマヌケ面をさらしてきた。饗された一皿も食料品そのものも粗末にできないたちなのだ、記憶の中の叔母に怒りちらされるような刷り込みが根深くて。残りの食材は自分で調理するほうがゴミが減るな、と嘆息まじりに判断した。一応、料理の素養はある。叔母仕込みの。
にわか曇りの天候の余波で屋内も陰ってくると、お節介なそいつは、書見台にランプを灯そうとしたらしい。「おわぁ!?」との奇声がして禁術書から顔を跳ね上げれば、
「燃えッ、燃えて、る、あっつ」
めらめらっと立ちのぼる火焔に呆然と鼻先を炙られていた。
「に、やってる! 付木の火、ランプの芯じゃなくて油へ直移しにしたろ!?」
「し、した。……俺、夜目が利くし、ばあちゃんも早寝だしで、ランプの扱いわかってなくて」
でも本読んでるおまえに明かりをって。
ごにょごにょ悠長に弁解しているのを急いで火元から離れさせ、濡らした布で覆って消火した。常識的な経験値がごっそり不足しているからこそ「おまえ何でも詳しーなぁ」と純朴に感激してみせたリュウは、今度は本棚にしまわれていた図鑑を引っ張り出し、ジルの足元の床へ広げた。
「この葉っぱ、懐かしー。里でしょっちゅう食ってた。ニラ」
目線のみを動かしたジルはリュウの手が固定しているページの精密な博物画を視認し、胃ではなく頭が痛くなった。こめかみへ指を押し当てたい、が、さっきと同様に小うるさく心配をされても面倒なので我慢して、聞き捨てならない点は訂正しておく。
「その葉は食えない。水仙だよ、毒性の。ほら……太字で書いてあるよな、どこに目ぇつけてんだ。網膜にただ映すんじゃなしに対象をしっかり見る訓練をしろ。薬草師には適切な用量用法の学び以外にも、観察眼が必須なんじゃないのか」
「用量? いっぱい吞んだらすぐ治るんじゃねーの?」
「お、まえ……っ、それでよく薬草師の見習い名乗れるな!? 薬も毒も紙一重だぞ。んな認識と心構えじゃ、人を」
殺しかねない、と言いかけ、床に置かれているものを一瞥して口を噤む。座る際に自然な所作で腰帯から抜かれた、グリップの革が褪せて使い込まれている風格の、剣。
あるんだろうな、人の命を奪ったこと。後ろ暗さとは縁が無さそうな澄んだ瞳、朗らかな気性が、リュウという少年の全容ではないのを知っている。けれど、人殺し、とは呼んでしまいたくない気持ちが日増しに強くなる。そういう自分自身にジルはとまどっている。
「俺、文字の読み書き、ほとんどできねぇの」
「ああ……」
そういえばロンヌ文字の発行物だ、この図鑑。創世の神話に謳われるとおり言語は世界共通、話す分にはボーダーレスな国際語なのだが、表記体系は各地それぞれに発展を遂げた。トゥールガルドが属するロンヌ連合公国もしかりである。
ジルの考えを汲み取った様子でリュウがかぶりを振った。
「じゃなくて全般。里じゃ武術の稽古ばっかしてたからさぁ」
無学でごめんなー、と意味不明に申し訳なさがっている。
「おまえは教養あってかっけぇなって、思う」
「別に……生まれ育った環境がそうだっただけで、おまえのせいじゃないだろ」
生活経験の乏しさも、読み書きが不得手なのも、剣士としての一面を持つのも。
リュウの隣へ膝を折り、図鑑のページを覗きこむ。抜粋して音読する。
「水仙はヒガンバナ科の多年草。皮膚炎や嘔吐を引き起こす有毒植物。東方にて食用とするニラと葉が似ているが誤食した場合は吐きくだし、重篤化するケースも。根の形態やにおいで識別すべし。……薬草師をめざすなら、この程度は暗記しとけば」
「……ん、うん……!」
リュウは驚喜に溢れたまなざしでジルを包み、そして、とろけるように破顔した。本当に身になじまない反応をされて頬が引き攣る。いたたまれなくなる。そんなふうにこっち見るな、笑いかけんな、何がそこまで嬉しいんだよ。




