序(1)
出会わなければきっと、無彩色の世界に生きていることさえ気づかなかった。
正義の剣をふるい、人々からの寄進を得て暮らす戦士たちの集落では、誰もが生と死を極めてシンプルに考えている。生きるときは生き、死ぬときは死ぬ。心は清澄にして無欲であれ。何にも縛られず、死を恐るるべからず。
――すべては星の導きのままに。
天を観測して地の吉凶を予見する星読み師の見立てに従い、世の平安を乱す悪しき者を裁くため、剣を手にして大陸と海を駆けめぐる。そうして、為すべきことを為すまでだ。
他の生きかたなど知らなかったし、だから、リュウにとってその旅の二人連れへと向ける剣先にためらいはなかった。たとえ、魔の領域の妖しい技を使うらしい標的であっても。こちらの仲間がここへ至る道中に次々と原因不明の病で倒れ、標的と対峙できる戦力は己一人きりであったとしても。
「こんなガキに命を狙われるとは、ロクでもないな、あんた」
背中をしたたかに木の幹へ打ちつけたリュウの正面に歩み寄り、黒い髪と瞳の少年が、凍てつくような怒気を孕む視線で見おろしてくる。こっちがガキならおまえもまだガキって年だろ、とつっこんでやりたい。が、声が出ない。
(……い、てぇ……っ)
森の湖のほとり。旅荷を足元へ置いて休息をとっていた銀髪の男に近づき、
『その命、星の裁きにより貰い受ける』
戦いを始める作法として、鞘を払った片刃の長剣を掲げながら用件を告げるや否や、横合いから少年に蹴り飛ばされた。
リュウは、腕にはそれなりに覚えがある。だてに戦士の中で生まれ育っちゃいない。屈強な大人たちとの日々の修行でも、息がつかえるほどのダメージは喰らう前にかわせるのに、こいつ、何というスピードだ。腹へまともに蹴りを入れやがった。
「いきなり現れて、星の裁きによりお命頂戴、って言われても、私には裁かれなきゃならない悪事を働いた覚えが、まるで無いんだけどねぇ」
「だったら、今回のそれ。コレクター情報網だか何だかで聞きつけて、わざわざ買い求めに行った巻物。ヤバい代物でも掴まされたんじゃないですか」
「いやぁ、違うと思うよ。単なる歴史書だから。もちろんコレクターには垂涎モノの、千二百年前に原本が記されたと伝わる、実に貴重な書なんだけどね。解読すれば、われらが母国の建国史にも新たなる側面から光を当てられるんじゃないかって、期待の――」
「師匠」
「きみも読みたいなら貸すよ?」
「あんたの歴史談義はどうでもいい。問題はこいつです。どうする」
「はいはい。どうしようか」
本来のターゲットである青年は、少年の後方で応戦の構えをみせるでもなく、困惑した様子で髪を掻いている。リュウは草むらにグッと突き刺した剣を支えにして身を起こし、打撲の衝撃でくらむ目をあげて、旅人たちを見返した。
少年も、彼が師匠と呼んだ青年も、並外れて美しい容姿をしている。二人とも伸ばした髪を首の後ろでゆるく束ね、前身頃に刺繍のあしらわれた、僧衣とも似ているフード付きの膝丈の上衣と、足首を紐で絞ったズボンを着用し、サンダルを履いている。それだけの軽装で無造作に立つさまが、むだに麗しいのだった。
リュウのほうは榛色の刈りっぱなしの髪、着物は前合わせの布を帯で巻いた上衣と、ズボン、そのズボンの裾は革製ブーツにしまいこんでいるという装いだ。旅の機能性において彼らと遜色ない。しかしリュウやそこいらの凡人とは異なる、華やいだ空気が彼らの周囲には流れている、気がする。
(魔術師ってのは見ためがよくなきゃなれない、とか)
まさか、そういうんじゃねーよな。
青年の足元には魔術師にとっての武器であろう長い杖が、巻物や鞄と同じく放置されている。命の危険にさらされている現状で、のんきすぎないか。
もっとも、抜身の剣をもつ敵を前にしてもとっさに蹴りをかませるような、勇敢な少年を供にしているなら、これくらい危機感が乏しくても支障はなかったのかもしれないが。今までの行程では。
「おい、貴様」
シュ、と至近距離で風を切る音がする。リュウが未だ痺れの残留する体を預けて握っていた剣の柄を、蹴りあげられた。
弾かれた鋼の得物が草むらの土をえぐり宙を回転し、木々のむこうの藪へ消えていった。
「なぜ、このひとを狙う。星の裁きってなんだ」
「……ら……ね」
「ああ?」
上半身をかがめた少年の肩から、結わえた髪がさらりと滑り落ちた。透明感がある白い肌と、凛とした意志を宿す漆黒の瞳のコントラスト。彼がまばたきをするたび、長く密に生えた睫毛の陰がなめらかな頬で踊る。
何というか、これが自分と同じ年頃の男だとは信じたくないイキモノだった。
(女みたいなツラして、度胸あって強いとか……サギじゃねえ?)
睨みつけられる視線の冷たさがなければ、やたら偉そうに喋らなければ、あるいは軽くほほえんでみせたなら、少女と見まがうかもしれない清楚に整った顔だちなのだ。そんな場合ではないのにリュウはつい感心してしまった。別に、顏なんて目と鼻と口がついていればいいと思うけれども、本当にきれいな顔だ。
儚げなつくりに反して瞳ばかりが鋭いきらめきで凄みを撒き散らしているのも、悪くない。かえって、美少年っぷりを冴えざえと比類なく仕上げている。
「知ら、ねーよ、俺だって」
「……もう一発蹴られたいのか?」
「そりゃ遠慮、しとく……っ」
「そうかよ」
言うが早いか少年は両手でリュウの胸倉を掴み、背後の大木へ叩きつけた。幹から振動が広がり頭上の梢をざわめかせ、春の初めの小雨のように枝葉を降らせる。マジ、サギじゃねえの。汗くさい筋肉鍛練とは無縁そうなこの細っこい体の、どこに、そんな力があるって。
痩せた腕がギリギリ襟元を締めあげてきて、気道を塞ぐ。
「おまえさっ……ちょっと、落ちつけ、落ちつこう、な……? 俺は、ほんと詳しいこととか、知らねーし……星読みの総巫に、災いの相を絶ってこいって、そんだけ指示されてんだっ、……んで、こっからが大事なとこだけど……っ、俺な、おまえじゃなくて、あっちの人に、用が、あんだって……!」
「指示を与えられれば、詳細を確かめもしないで他人に剣を向けるのか。星読みだの災いの相だの、あいにく俺は聞いたこともない。要は占いの類なんだろ?」
「占いじゃ、ね……っ……星の、定め」
「どっちでもいい。んな曖昧なもののために、命を狙われる身にもなれ!」
「おまえの命は、狙ってねーじゃん? ちょちょ、タ、タンマ、どうどう! 怒んなっつの……ったく……、しゃーねえな」
にい、とリュウは笑みを浮かべた。ああもぉ、せっかく反撃しないでおいてやったのに。こいつが聞く耳持たずに邪魔してくるんだから、しゃーねえよな。
それまで無抵抗に垂らしていた腕を持ちあげ、少年の両手首を握り返した。掴まれている上衣の布地から引きはがすと、彼の顔色が変わった。やたらきれいなくせに男で、サギみたいに腕っ節が強かろうと、触れている手首は予想とたがわず簡単に骨を砕き折ってしまえそうな細さだ。そこを支点にして力ずくで押しまくり、二人の間にスペースをひらいていく。
「手加減されていた、ってわけか」
改めて視線を近く交わしあうその角度で、リュウは、相手の身長が自分よりも幾分高いことを知る。
「シロウトに必要なく怪我させられねーもん。遠慮してやってたの」
「……舐められたな、俺も」
「俺の斬るべきなんは、今日この森を通りかかる“銀色の魔術師”で、まっくろな髪と目ぇした、おまえじゃねーからなっ」
「……っ……」
苛だたしげに眉根をしかめた少年がリュウの手を振り払い、数歩後ろへ飛びすさった。同時にリュウも、背面の大木の幹を駆けのぼる勢いで蹴りつけ、軸足をバネにして木立の奥にしげる藪へと跳躍した。
着地点からすぐの場所に転がっていた武器を、回収する。
左手になじむ重さの愛剣を携えて草むらを振り返れば、少年は、腰紐にさげているホルダーから短い杖を取り出したところだった。二本の小枝をひとまとめにして固く捩じったような杖、それを、耳慣れない言葉を唱えながら宙へかざす。
森、が。
不気味にうごめいた。