第4話
インキュベーターから取り出した培養ビンを、教授はまず、安全キャビネットや無菌箱ではなく、中央テーブルにある顕微鏡の台の上にセットする。
教授から「観察してみなさい」と促されて、私たち学生も、一人ずつ順番にレンズを覗き込む。
すると、肉眼ではわからなかったものが、びっしりと広がっているのが見えてきた。教授は細胞ビンの底面に焦点を合わせたはずだから、これが『細胞が培養ビンに付着している』という話の実態なのだろう。
学生たちが顕微鏡で確認している間に、教授は、今から行う細胞継代の手順を説明していた。
まずは古くなったオレンジ色の培養液を捨てて、トリプシンという別の液体を入れる。全体に行き渡ったら、余分なトリプシンは取り除く。タンパク質分解酵素なので細胞の付着因子に作用してガラス底面から剥がしてくれるのだが、多すぎると細胞そのものにもダメージを与えるからだ。
細胞が剥がれてきたら、新しい真っ赤な培養液を入れて懸濁させる。この細胞懸濁液を三等分して、それぞれ新しい培養ビンに移し替える。
……これが、大まかな流れだった。
培養ビンを一本ずつ与えられた学生たちは、安全キャビネットあるいは無菌箱の中で、言われた通りにオレンジ色の液体を取り除き、トリプシンを入れる。細胞を満遍なく浸してから、トリプシンをピペットで吸い出して捨てる。ただし、一滴残らず、ではなく、少し残る程度で。
この時点で、ビンの中身は、細胞と微量のトリプシンだけになるわけだが……。オレンジ色の液体が消えたことで、ようやく「ガラスの底面に何か存在しているらしい」というのが見えてくる。ただし、まだ「透明なガラスが曇りガラスに見える」という程度であり、「はっきりと細胞が見えた」というほどではなかった。
続いて。
トリプシンにより細胞が剥がれたことを確認するために、細胞ビンを少し斜めに傾けて、軽くトントンと叩いてやると……。
おお!
この瞬間、私は、不思議な感動を覚えてしまった。
溶け剥がされた細胞がスーッと滑っていくのは、それまでとは違って、白く集まった物体として、はっきり肉眼で確認できるのだ!
その様は、まるで熱したバターが溶けていくかのようだった。
いや、バターの場合は、もともと黄色くて目に見えるものだから、これでは私の感動も正しく伝わらないかもしれない。バターで例えるならば、最初は見えないくらいに薄く塗り広げられていた、と想定してもらえば良いだろうか。
薄く広がったバタートースト。熱せられて、表面のバターが白く泡立つように溶け始めたら、「ああ、本当に、このトーストにはバターが塗られていたのだな」と実感できる……。
そんな感覚だった。