妻の歌
「人の入浴を覗くのは、そんなに楽しいのかしら」
背後から浴室の扉が開く音、同時に妻の声が聞こえた。完全に油断していた。
しゃがんだまま身体の向きを変えた僕は、バランスを崩して前のめりになり、膝と前腕を床に強く打った。
ずれた眼鏡を中指で元に戻し、目線を上げると、妻が裸のままこちらを見下ろしていた。
「ここ最近ずっと、私がお風呂に入っている時、こうして扉の前にしゃがんでいるわよね」
終わった。とっくにばれていた。
僕はゆっくりと頷き、目線を妻に戻した。妻のチャームポイントである肩まで伸びた黒髪のボブは、濡れてぺしゃんこに潰れており、髪の毛の先からぽたぽたと水滴が滴り落ちていた。僕は胸から下に視線を向けないように細心の注意を払った。
「ご、誤解だよ。これは、あの、性癖とかじゃなくて、その…」
ここでうまく説明できなければ、妻の怒りは増すだろう。しかし嘘はつけず、どうも言葉に詰まってしまった。
妻はため息混じりに続けた。
「じゃあ一体、何が目的なわけ」
それを即座に答えられたら、こんな趣味の悪いことは初めからしていない。しかしいつまでも妻の濡れた裸体をまじまじと見るわけにもいかず、どうにか出た言葉で勝負に出た。
「とりあえず、出てから話そう。身体、そのままだと冷えちゃうから」
*
入浴時の妻が気になり始めたのは、ちょうど一ヶ月ほど前からだった。
ある晩、いつものように仕事から帰った僕は、家のどこからか女性の歌声を聞いた。
初めは疲れからくる空耳だろうと思った。
廊下を歩くと、浴室に妻の影が見えた。パートから帰った妻はいつも、先に夕飯を食べてシャワーを浴びていた。
妻が、シャワーを浴びながら歌っていた。
妻は入浴中に、口ずさむよりも大きな声で歌っていた。
透き通っていて、かつ、包み込むような優しさ。
考えてみれば、この家で妻の歌声を聞くのは初めてだった。僕は心拍数が少しずつ上がるのを感じた。
僕は、妻が歌い終わるまで、その声にすっかり聴き入ってしまった。
*
「まずは、おかえり。お仕事お疲れ様」
妻の柔らかい声に、少しばかり拍子抜けした。てっきり説教でもされるのだろうかと思っていた。
それどころか、生活リズムがバラバラな僕らは、二人でまともに会話するのすら久しぶりだった。
僕は誰かと向き合って話すことが正直苦手だ。とりわけ、妻と向き合うときはいつになく緊張してしまう。
付き合って間もない頃のデートでは、向かい合うのを避けたくて、レストランはいつもカウンター席を予約した。
そういえば、デートなんて長らくしていない。一緒に住み始めてから、恋人らしいことをあまりしなくなった。
仕事を終えて待ち合わせた夜の駅前、手を繋いで歩いた路地裏、遠くに見えた東京タワーの灯り、立ち止まって聴いた路上のフォークシンガー。そのどれもが、二人にとって最後の、恋人としての思い出なのかもしれない。
「まさかあなたが入浴フェチだなんてね」
妻の声で、ハッと我に帰った。思い出に浸っている場合ではない。
今は妻と向き合って話さなければならないのだ。僕はゆっくりと目線を妻に向けた。
「うん。ごめん、怖かったよね。あの、なんでも聞いて、嘘偽りなく答えるから」
「わかった。とりあえず、こうなった経緯を教えてちょうだい」
妻の目は笑っていない。僕は深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
*
初めて妻の歌を聴いた日から変わらず、妻は毎晩、浴室でひとり気持ちよさそうに歌っていた。
歌われていたのはいつも同じ曲だった。
三日目。携帯でAメロの歌詞を検索したが、何もヒットしなかった。
まだ世に出ていないアマチュア歌手の曲だろうか。ラブソングのようだが、ストレートな言葉を使わない点で非常に好感を持てた。
七日目。メロディーを全て覚えた。自室で歌って録音してみたら、思いの外歌いやすい曲だった。
妻の声は女性にしては少し低い。となると、元の曲は少し声の高い男性が歌っているのだろうか。
十五日目、録音したメロディーに合わせてコードをつけてみようと、自室でギターを鳴らした。いわゆるカノン進行のコードだった。
ラブソング、男性ボーカル、カノン進行。
引っ掛かるのはこれが世間に出回っていないという点…ひょっとすると、妻が過去に誰かから贈られた歌なのかもしれない。悔しいけどいい歌だと思う。贈り主はバンドマンだろうか。
二十二日目、仕事帰り、信号待ちの車内でハモリのパートを完成させた。僕は一体、何をしているのだろう。
これがバンドマンから贈られたものだったら、僕はそれに正面切って対抗しようと熱を上げていた。
部屋に戻ってすぐにノートパソコンを開いた。明日はリズム隊をつけてみようか。
ここまで来ると、見知らぬバンドマンへの嫉妬というより、もはや共作の域である。
そうしていつものように浴室の前でしゃがんでいた時、とうとう妻に見つかってしまった。
*
妻がここまで高らかに笑う人だということを、僕はこの瞬間まで知らなかった。
目を丸くする僕に、妻は笑い泣きをしていた。
「歌を聴いてたってことは、覗きじゃなかったのね。それより誰よ、バンドマンって。生まれてこの方バンドマンと交流したことないんだけど」
「いや、バンドマンは僕の妄想だよ。それだったら悔しいなと思って」
「ほんとバカ。昔、一緒に夕飯を食べに行った帰りにさ、路上シンガー見たの、覚えてるかしら」
もちろん、覚えている。待ち合わせの駅によくいたフォークシンガーだ。
おそらく三十代前半であろう、短い黒髪を風になびかせていた、色白で痩せた男。
空色のパーカーの袖を肘まで上げ、やたら細い手首を懸命に動かしながらギターを鳴らしていた男。
ディナーの帰り道、僕らは一度だけ立ち止まって彼の歌を聞いたことがあった。
他にも何人か観客はいたが、なぜかその日は立ち止まらないといけない気がした。
「あの人が私たちに歌ってくれた歌なの」
「僕らに?嘘でしょ、そんなことあったっけ…」
妻は目を閉じ、はぁーっと長いため息をついた。妻の目線は頭を抱えて必死に過去を巡っている僕に戻された。
「まあ、あの状況であの歌は、私たちのために歌われていたようなものよ。私はずっとあの歌を覚えていたんだけど、時間が経つにつれて、忘れていくのが怖くなったの。だから歌って思い出すようにしてた」
「なんだよそれ。じゃあさ、今から二人で歌ってみようよ。僕がハモるから、君がメインで、どう?」
「もう、本当にバカ」
甲高い笑い声が、マンションの一室に響く。
満月の明かりは静かに、人々の暮らしを照らしていく。
東京タワーから遠く離れた街に、秋の優しい風が吹き始めた。
*
大きなくしゃみをして、夏が終わり、秋が始まったことに気づいた。
今日の観客は、三人。うち二人は並んで立っている男女だ。彼らにはなんとなく見覚えがある。
彼らがよくこの道を通っているのであれば、無意識のうちに覚えていたのかもしれない。
並んでいる二人のうち、女の方と目が合った。よし、今日は不器用そうな君たちのために歌おう。
ふと目をやったビルの隙間から、オレンジ色に光る東京タワーが見えた。
腕まくりをし、ギターのネックに手をかけ、身体を揺らしながら、アルペジオを奏でる。
金木犀の甘い香りがする空気を、思い切り吸い込んだ。今日はいい夜になりそうだ。




