ジショウ
私、いや人間というものは実に不思議な生き物です。生物学的に見れば犬や猫と同じ様な動物の分類であるのにその実、犬や猫はペットと称し自らが上に立とうとしてます。勿論これは一例ですよ。中には家族と称し大事になさるご家庭もいる。他にもお金等道具に支配されてるケースがある。古来物々交換をしてた時に起こる不便さを解決する為に導入したはずが、いつの間にやら「お金が無ければ何も出来ない」と、お金が我々のリードを握ってしまいました。道路等も面白い例ではないでしょうか。車という道具を発明したからにはそれを走らせる場所が必要だ、ならば道路を作ろう。そうした結果都心等都会は道路に沿って発展していきます。電車や馬が現役だった自体もそうです。利便性を求めた道具が何時しか自分たちの生活を制限していきます。これはかの哲学者も言っていたことです。確か、道具によって自由は得られるが、またその逆もあり見たいな事を言ってました。この様に人は相反する物を身に抱いてます。生が多い世の中では死に対する賛美の様な崇拝の様な物が流行り、死が多い世の中では生に対する物が増えます。現に今の世の中の流行りの曲等を聞いてみたらどうでしょか。割と死とは等のテーマが多いです。嗚呼夜と直結してるケースもありますね。後は、外と内の性格或いは立ち居振る舞いの変え方でしょう。会社の自分と家の自分は違う。当たり前の考えですが、疑問に思った事はありますか?それは簡潔に言ってしまえば軽い二重人格です。これを息をする様にやってのけてる時点でもう矛盾。尊敬しますよ。しかし、これが人たらしめる事も面白い点でもあり悩ましい点でもあります。私と言う屑は人から外れてしまったが故にこの人の核とも呼べる矛盾が非常に滑稽で興味がある。私は人が嫌いです。親であるというだけで、子を自らの着せ替え人形にする人。お金の性で苦労する人。偉そうに人の都合を考えない人。底抜けの明るさで人の心にズカズカ入り込む輩。嗚呼考えるだけで嫌になりますよ。皆が皆個人の価値観に熱浮かれ、妄信して生きている。そんな危ういバランスで成り立ってる社会。私から見れば自らボロ舟に乗り込むハッピーな人達ですよ。そして私自身を矛盾を抱えてるという事実が死ぬほどくだらなく、嫌いだ。考えてみてくださいよ、人が嫌いと申す私が逃れられない人の証明を持っている。思わずジショウしてしまう程の事実です。感情が分からないのに、笑う。好きな物が分からないのに繕う。心が分からないのに知りたがる。ひにくですよ、私は人を嫌っていても人である為にその業からは逃げられない。何故って?生物学的に人だからですよ。ほら矛盾。嗚呼疲れたのでこの辺で筆を止めます。全くジショウでもしないとやっていけませんよ