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斎藤家

——わからなかった。

父の正しさが、母の愛が。

言葉の上でだけ存在するそれを、実感したことがなかった。

父の言葉は矛盾に満ちていて、何より父がそれを実行していない。だから、それを理解するために、ありとあらゆる言葉を尽くした。

けれど、父の正しさを説明する言葉は、どこまでも詭弁じみていき、それに対する反論反証もまた、同じくらい正しく思える。

愛というものが理解できなかった。母から与えられるそれは、洪水みたいに恐ろしくて、自分を呑み込む。——ああ、これは、ただの一方的な想いだ。こちらの都合などお構い無しに自分の感情を押し付けているだけ。

拒絶したい、拒みたい、ひとりでいたい。

けれど、少しでも嫌がるそぶりを見せれば、母がヒステリーを起こす。それを聞きつけた父が自分を殴る。どうしてそんなことをするのか、母さんが大事じゃないのか。

わからない。当時の自分に、そんな詰問に答えるだけの言語能力などない。一方的なお説教は耳を通り抜けていく。——これは、ただ、綺麗な言葉を並べて、善人な自分に酔っているだけじゃないのか。

もういい、面倒だ、どうでもいい。

理屈しか解せない自分は、きっと人間として失敗作なのだろう。失敗作は、失敗作らしく、彼らに逆らわず、人間の真似をして、母の感情を拒まず、父の言葉に従順で、彼らの望む通りの息子を演出する。

自分の意思などどうでもいい。ただ、彼らの正しさに従うだけ。正しい正しい、正しいだけの、お人形。人間たちを怒らせると、恐ろしいから。

けど、夏樹だけは違った——。


目覚ましが鳴る。六時。いつも通りの時間。

——眠い。

もう少し寝ていたい。けれど、この時間に起きなきゃ……。寝坊するのはいけないことだから、正しくないから。

寝足りないと訴える体に鞭打って、布団から抜け出す。ぼんやりした頭で日付を確認。今日だ。

夏祭り。夏樹と一緒に行くんだ。

口元が緩む。とりあえず第一声で浴衣姿をからかってやろう。そしたら怒るだろうから、火に油を注いで、口論になって、適当に言いくるめてやろう。

けれど、きっと台本通りにはいかない。夏樹に会うと、準備していた言葉なんてどうでもよくなる。理屈も何も抜きに、楽しいと思える。

鼻歌を歌いながら、部屋を出る。階段を降り、最後の四段で一呼吸置いた。

——悟られるな。面に出すな。夏樹のことを思うとつい気が緩む。いつも通りにしろ。

祭りのことを頭から追いやる。楽しみな予定なんてない。いつも通り、いつも通りの自分。

リビングに入ると、父が朝食をとっていた。

「冬、おはよう」

「うん、おはよう」

笑顔を崩さない。けれど、堅苦しすぎてもいけない。それは暖かい家庭を壊すから。柔らかい笑みで、優しい言葉で、正しい挨拶を。

顔を洗い、朝食の席につく。母はまだ寝ているので、自分でご飯を用意した。

いつ切り出そう。

それが問題だ。直前ならこの人の介在を避けられる。けれど、あまり引き伸ばしすぎても「どうしてもっと早く言わなかったんだ」と詰問される。それは、面倒だ。

だから、当日の朝くらいがちょうどいい。

「お父さん、今日、夕方からお祭り行ってくるから」

「そうか。じゃあ一緒に行くか、ひとりだと危ないからな」

「いや、友達と行くから」

「もしかして、この前の女の子か?」

「…っ、うん」

動揺を隠しきれただろうか。

「そっか。じゃあまた挨拶だけしよかな。お菓子かなんか持っていくか」

——やめろ、触れるな。夏樹との関係に入ってくるな。

反抗心が芽生える。それを必死に押し殺す。もし少しでも、この気持ちを悟られれば、この人の怒り、それはいかばかりか。

考えるだけで恐ろしい。こうなったのも全部夏樹のせいだ。夏樹と出会うまでは、父から何をされようが、反発心など生まれなかった。

それが当たり前だ。

失敗作の人形に、感情なんてないのだから。


長い長い食事の時間が終わる。夏樹と食べる時間は、一瞬に感じられるのに。もっと続けと、いつまでも続けと、そう願えるのに。

待ち合わせの時間は六時。それまでどうして暇を潰すか。

いつもなら異世界ものの小説でも読んでいる。けれど、夏樹と会ってからはあまり読んでいない。

夏樹といるほうが楽しいから。

夏樹と話しているときだけが、幸せだから。

浴衣でも探してみるか。確か押入れかどこかにあったはず。でもあんまり楽しみにしてたって思われるのも癪だ。夏樹ごときに振り回されている感じがする。

それから迷った末、結局いつものジャージ姿で行こうと決めた。動きやすいし、楽だし。浴衣を着て行って夏樹とお揃いになるとか、なんかちょっと恥ずかしいし。

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