クリスマス
——家のどこかに、怪物がいるような錯覚。家そのものが、大きな怪物の、口の中みたいな感覚。
ひとりで部屋にいても、落ち着かない。外に出て、雑踏の中に紛れても、遠い遠い場所で、ひとりになっても、あの怪物はどこまでも追ってくる気がした。
結局、逃げ場が欲しかっただけなのだと思う。どこか、ここじゃない場所、ここじゃない世界、自分のことを知る人が、誰もいない世界。
ある日突然いなくなっても、誰も気づかないような存在、そうなりたかった。
けれど——、
電車を降りる。待ち合わせ場所には、夏樹の姿。
「おはよ、夏樹」
「あ、冬くん、おはよう」
こちらに手を振ってくる。寒そうだ。膝丈まである茶色のコートに、厚手の手袋。夏樹が右手の手袋を脱ぎ、ほんの少し、こちらに向ける。その手をとって、握って、繋いだ。
「じゃあ、まずどこから行こっか」
吐く息が白い。夏樹はきょろきょろあたりを見回す。
ここは学校から反対方向に二駅の街。駅周辺はショッピングモールが立ち並び、ビルがひしめいていた。
「とりあえず、中入ろっか」
頷くと、夏樹は手を引いて、ビルのひとつに入る。中はクリスマス用に飾り付けがなされており、並ぶ品々も常とは違う。
手元を見る。自分の手と、夏樹の手。それが繋がっているだけで、他のすべてを断ち切れる気がした。周囲の目、冷たい風、あの怪物。何もかも。
「あ、ちょっとここ見ていい?」
夏樹がなんかきらきらした店に入る。ネックレスだの腕輪だの、桁が5つ以上ある品物が並ぶ。
——自分には縁のない品だ。
思い浮かぶのは、空っぽの部屋。親から与えられた家具と、服。自分で買ったものは、本だけ。装飾品は何もない。
ぽけーっと足元を見ていると、突然ネックレスを突きつけられた。
「うーん、ちょっと違う」
夏樹が首をひねる。
「……なに?」
「んー? 冬くんとお揃いのアクセでも買おっかなーって」
……まあ、そういうことなら。
しばらく夏樹の着せ替え人形になってやる。いくつか見繕って満足したのか、シンプルなブレスレットに落ち着いた。ペアで、二つとも紐部分は同じだが、それぞれルビーとサファイヤだろうか、なんかそんな感じの宝石がくっついていた。本物かはわからないが、151匹集めたい配色だった。あれはもっと前か。
「はい、冬くんはこっち」
と、赤い方を渡してくる。……むぅ、昔やってたのは緑なのに。緑のお得感は異常。
「……なんで、俺が赤?」
手を繋ぎ直しながら言うと、夏樹はうーん、と顎に指をやる。
「……なんとなく?」
「あっそ」
「なんでちょっと不機嫌なの!?」
「別になんでも。じゃあ俺は本屋行きたい」
「はいはい。えーっと、本屋本屋」
「あっち」
「冬くん、本屋の場所見つけるの異常に早いよね!?」
ぎゃーぎゃー騒ぐ夏樹を引っ張って行く。店に入り、とりあえずラノベコーナーを見て回る。
「あ、見て、このヒロイン。夏樹の五千倍可愛い」
「どつくぞ」
「なんで怒るの? 褒めたのに」
「今のどこに褒めの要素あった!?」
「夏樹、このヒロインの五千分の一可愛い」
「……ありがとう」
がくっとうなだれ、すごい適当なお礼が来た。思わずくすくす笑う。
「次、人文見よ!」
「私、冬くんと付き合うようになってはじめて人文とかいう単語覚えたよ」
「俺のおかげでひとつ賢くなったな。授業料くれてもいいんだぞ?」
「もうさっきの買い物でバイト代吹っ飛んだので勘弁してください」
そんな、くだらないやりとりをしながら本を見て回る。
ほんと、夏樹といると、楽しいな。
歩きながらたい焼きを食べる。顔面を消失し、はらわたが溢れ出すタイに、脳内で「まだだ、たかがメインカメラをやられただけだ!」と声をあてていると、夏樹が「あ!」と声をあげた。
「……なに?」
こっちはタイさんに声をあてる大事なお仕事があるのだ。夏樹ごときに邪魔されるわけには、と睨み付けると、夏樹はなんか本当に慌てた様子で腕時計を確認する。時計の下には、さっき買ったブレスレット。ふと、自分の右腕を見下ろした。今は手首の側で赤い石が光っている。
「ごめん! もう六時だった! やっばぁ、今から電車乗っても門限すぎるよね? あー、もー、てかもう真っ暗じゃん。全然気づかなかったし……」
ごめん! と手を合わせてくる夏樹。
通りの真ん中に立つツリー、その隣にある時計台を見ると、確かに時刻は午後六時。空は暗く、冬の乾いた空に星が瞬いている。地上は様々な色のイルミネーションが輝き、通りを照らしていた。
「次の電車、走れば間に合うかなー……?」
夏樹が携帯を見ながら来た道を戻ろうとする。動かずにいると、夏樹がこちらを振り向いた。
「どうかした?」
きょとんと首を傾げて問うてくる。
別に、どうもしない。
ただ動きたくなくて、帰りたくなくて、もっと一緒にいたいだけ。こんなこと言っても、仕方ないのに。それでも——、
——夏樹だけは、特別だから。だから——、
スマホで時刻表を見ながら駅の方へ向かう。歩き出した途端、冬くんに手を引かれた。振り向くと、冬くんは呆然と立ち尽くしている。
「どうかした?」
尋ねると、冬くんはゆっくりと私に目を合わせた。何か、私に言って欲しそうな、すがるような瞳。
——綺麗だ。
って、そんな場合じゃない。たしかにイルミネーションと星空の中の冬くんマジ天使で尊すぎるんだけど今はそれどころじゃない。何か言わないと。いやそれにしても可愛い。
「あのさ、夏樹……」
もう抱きしめて全部ごまかしてやろうかと思い始めた時、冬くんが切り出した。繋いでいた手をきゅっと握ってくる。ああ、そういう態度されると理性がもたない……っ!
「俺さ、帰りたくないな」
「えっと……。あー、マジか」
「うん、マジ」
そう言って、冬くんはたい焼きを持ったままの手で、私のコートの裾を掴む。そのまま私の体を引き寄せ、今にも泣きそうな、あの時と同じ瞳で見上げてきた。艶のある髪も、白い肌も、紅い唇も、あの時と同じ。あの時の、続き。
冬は自分の手元を見下ろす。
——なんて言おう。
帰ったら、父と母が出迎えてくる。六時を過ぎているから、きっと根掘り葉掘り聞かれるだろう。どこへ行ってたの、連絡したのに、マナーモードにしてたの、心配したのに、心配なの、答えて。
それだけなら、まだいい。いつものことだ。なら、こっちもまたいつも通り、追求の矛先をそらせばいい。突かれても痛くないところへ誘導する。いつもやっていたことだから、大して難しいことでもない。
けれど。
このブレスレットは、どうしよう。
手をポケットにでも入れて隠すか、いっそ家では外しておこうか。なんで? なんで外さなきゃいけないの? 夏樹がくれたものなのに、なんで隠さなきゃいけないの? 夏樹が、くれたのに……。
いつもそうだ。心配だから、その大義名分で、自分のすべてを開示することを強要されてきた。だから、何もしなくなった。大事なものを作らないようにした。何かを見ても、何も感じないようになった。報告することがないなら報告する義務もない。
けど、何も感じないなんて無理だ。
夏樹がくれたものだから。夏樹との思い出だから。夏樹に関わること全部、触れられたくない。自分だけの秘密にしていたい。この想いも、何もかも。
「……ねえ、夏樹」
「なに?」
「もう門限とかどうでもいい」
言うと、夏樹は目を見開く。
「夏樹の家、行かせて。……てか、泊まらせて」
言い終わると同時、ぎゅっと夏樹に抱きついた。
レンジが鳴る。焼きあがった冷凍ピザを持ち、夏樹は部屋に入った。
「やっほー。ご飯持ってきたよー」
「……うん」
冬はキリのいいところまで漫画を読み、ベッドから足だけ下ろして座る。
「そういえばさっき、玄関の音したけど、なに?」
「ああ、あれ……。なんか、お母さんが、今日冬くんが泊まるって言ったら『じゃあお邪魔虫はこの辺で』とか言ってどっか行った」
「素敵なお母さんだな」
「……そだね」
夏樹はベッドにピザを置き、台所でパスタを用意する。こちらは自分用。
レンジでレトルトのソースを温め、湯がいておいた麺にかける。部屋に戻ると、冬がスマホを見ていた。
「……留守電、40件近くあった……。気持ち悪っ……」
おえ、と本気で吐きそうに口を抑える。
「……お父さんから?」
「ううん。母親。父親は徹底的に子供の心を壊すのが得意で、こういうじわじわ締め付けてくる系は母親の担当」
「……そっか」
夏樹は皿を持ち、冬の隣に腰掛ける。冬はスマホをしまい、ピザを手に取った。
「ほんと、思い通りに動くおもちゃが欲しいならラジコン買えばいいのに」
仄暗い声で言い、ピザを食べ始めた。
夕食をとると、他にすることもない。各々お風呂に入り、適当にグダグダして消灯。
夏樹は使っていなかった布団を引っ張り出してきて床で寝ている。冬は夏樹が中学のころ着ていたスウェット姿で、ベッドに転がっていた。
「……夏樹」
「なーに」
「一緒に寝よっか」
「いや、もう寝てるし」
「……おんなじ布団で」
しばらく、沈黙。やがて大きなため息をつき、夏樹がベッドに入ってきた。
ぎゅっと、冬の頭を抱きしめる。冬も夏樹の腰に手を回した。
「……おやすみ、夏樹」
「おやすみ、冬くん」
それきり、二人の間に交わされる言葉はない。先に冬が眠り、夏樹はしばらく冬の寝顔を堪能してから眠りについた。




