キャッスルババア進撃伝
眼前には緑と色とりどりの花々……その先には、一面に広がる透き通った湖、薄く青みがかった山。この世の楽園を思わせる関東某所のとある老人ホーム。その中では、今日もとある老人と職員の戦いが始まっていた。
「ツ、ツキヨさん! 一人で外出はできませんよ! せめてご家族の誰かと同伴で……というか一体どこに行くんですか!」
「うるさいねェ! どこに行こうとアタシの勝手だろう!」
しわまみれの顔を鬼のように歪ませ、ツキヨは渾身の力で車椅子を進ませようとする。しかし介護職員の中村も負けてはいない。車椅子のハンドルをしっかりと握り、進ませまいと床のタイルに足を踏ん張る。だが、御年99歳とは思えぬ腕力は、中村の踏ん張りをわずかながら凌駕し、車椅子はじわじわと廊下を進んでいく。
「ゴールデンウィークの最初の日に顔を見せるってひ孫から電話が来たのさ! 今年は10連休になるんだろう! 最近の子供は何かと金がかかるからねぇ、銀行で金下ろす必要があるんだよ!」
ツキヨの頭にひ孫娘の顔が浮かぶ。畑仕事で鍛えた肩が、腕力が、想いに呼応し、車椅子をさらに進ませていく。施設内の老人ギャラリーも慣れたもので、今日はどっちが勝つのかと、二人のせめぎ合いを楽しそうに見学していた。
「中村さんがんばってー!」
「ツキヨ婆さん最近負けが込んでるからなぁ! ここいらで盛り返しなよ!」
ギャラリーの歓声は二人の耳には届かない。お互い自分の意思を通そうと必死だ。
「そ、そうだ! ツキヨさん、銀行なら今日は閉まってますよ! 日曜日です!」
「……」
ツキヨの動きが止まる。それに合わせて中村も力を押さえ、ほっと一息……踏ん張るのを止めた。以前ツキヨはATMを使えないと文句を言っていた。今日は4月21日の日曜日。機械が使えないから窓口へ行くしかないが、窓口も閉まっているとなれば"今日は外出する"という理由自体がなくなる。中村の勝利が確定する。
「ふん、そういやそうだねェ……んじゃ、明日また出直すとするかい」
そう言うとツキヨはくるりと車椅子を回し、自分の部屋へ戻っていった。
「はっはっは、中村さんお見事な機転! 珍しく今日も勝ちですな」
「今日はツキヨさんに分があると思ったんだがねぇ。いやあ最近は中村さんもツキヨさんの扱いを手慣れてきているようで」
周囲の老人たちが中村の健闘を称える。中村はそんな老人たちに困ったように言葉を返した。
「もう……これは勝ち負けとかじゃないって何度も言ってるじゃないですか……ああもう、ツキヨさーん待ってくださーい!」
中村はツキヨが車椅子から落とした杖を拾うと、ツキヨの部屋まで駆けていった。ツキヨは杖がなければ歩けない。一人ではベッドに座ることもままならず、杖は必需品だ。そしてツキヨは気難しく、何かをしようと思い立った時、普段と違う状況……今回でいえば、ベッドに戻るのに杖がなかった場合、癇癪を起こす癖があった。中村が部屋に入ると、ツキヨは既にむすりとして、ベッドの横で待機していた。
「ツキヨさん、ほら杖落としてますよ」
「わざと落としただろう? アタシがベッドに寝るのがイヤだから杖を落としたんだろうねェ」
「隠してないですよ。ほら、ここに置いておくので、ベッドに移るときは使ってください」
予想通りの反応が返ってきた。こうなると誰が何を言っても絶対に聞かず、何か不都合がなければ絶対に車椅子から降りなくなる。中村はもう扱い慣れたもので、今日は寒くなるからと、ツキヨの膝に厚手の毛布をかける。ツキヨはふてくされたままそっぽを向いていた。
「何かあればすぐ、呼んでくださいね」
中村はツキヨに声をかけて部屋を出た。廊下に響く足音が聞こえなくなる頃、ツキヨの前のベッドで横になっている老人が、不機嫌そうな声でツキヨに注意するように声をかけてきた。
「おいババア、職員さんに迷惑を掛けてんじゃねぇぞ」
「うるさいねェ。迷惑掛けたくないならアンタがとっととこっから退去しな」
「ふん、口の減らねぇババアだな全く」
「一人でトイレにも行けずに迷惑掛けてんのはどっちだい。あんたの世話しなきゃなんない方がよっぽど迷惑だよ」
老人がふん、とそっぽを向くと、ツキヨはガラガラの共用棚から私物の本を取り出し、読み始める。この部屋はいつも、ツキヨと老人の小競り合いが続く。なのでこの部屋は4人部屋にもかかわらず、いつも二人だけだ。他の老人は二人の言い争いに耐えきれず、他の部屋を希望してしまうからだった。
ツキヨは意地でもベッドに寝る気がないらしく、真夜中になってもベッドの横で車椅子に座ったままだった。食事にも手を付けていない。何度か中村が様子を見に来たが、取りつく島もなく、消灯前には居眠りをしてしまったため、中村は老人に一言告げたあと、ツキヨを起こさないようにそっと部屋の電気を消した。
0時に差し掛かるころ、薄青い月明かりが部屋を淡く照らしていた。月の位置も変わり、ツキヨがカーテンの脇から差し込む月明りに照らされる。晴れの夜はよく冷える。老人は寒くないかとツキヨを心配し、声をかける。
「……おいババア、そろそろ起きたらどうだ。今日は寒くなるぞ」
ツキヨは微動だにすらしない。寝ているというよりかは、力が抜けているようには見えないので、死んではいないようだ。例えるなら、ツキヨだけが写真の中に閉じ込められているような。老人がもう一度声をかけようとした刹那、ツキヨは月明かりとは違う淡い光に包まれ始める。老人は驚き何事かとメガネをかけ、ツキヨの様子を伺うと、ツキヨの車椅子の周りに光の陣が作られ……ツキヨ自身は放射状の白い輝きに包まれていく。
「おいババア、どうした! おい! ババア、何かなってんぞ!」
老人の大声にも、ツキヨは全く動かない。その間もツキヨの輝きは増し、まばゆい光に包まれていく。老人は慌てて職員呼び出しボタンを連打する。そして―――
「うわっ……バ、ババアアアァァァァーーーーー!!」
目も開けられないほどの輝きが部屋中を包んだ時、老人の叫びも空しく、ツキヨは部屋から消えた。車椅子ごと。老人は駆け付けた職員に、ババアが光に包まれて消えたとしか言えなかった。起きたことを正確に伝えただけだったが、もちろん、職員は誰も信じなかった。
天への祈りが満ちし時、我らを導く救世の城、絶望の月光とともに現れん
城は東より昇り、希望の夜明けとともに、西の水辺へと沈まん
テオーナは今日も澄んだ星空へ、伝承の言葉と共に祈りを捧げていた。風が淡い黄金色の髪を揺らし、頬を撫でる。今宵も冷える事だろう。砦の外の兵たちには、悪いことをしている。
コーメリア大陸の小国ミルクィン。弱冠15歳で国の主となったテオーナ姫は、王家に古くから伝わる伝承に頼るしかなかった。戦況は絶望的。数日のうちに服従か死か、飢えによる全滅か。戦わずして祈りに夢中であると、嗤う者もいる。しかし、祈る以外に奇跡を起こす道はもはや、ない。愁いを帯びた幼い瞳が、燃え残った森を映す。
「姫様、今夜は特に冷えます。このままではお体に障りましょう。そろそろお部屋に戻られては」
「……兵達が休まずにこの国の護りを固めているなか、私だけ休むことはできません。少しでも祈りを捧げなくては」
「しかし……叶うともわからない伝承です。国の者は皆、伝承よりも姫様の体を案じておりますぞ」
「叶わなければ……この国は滅びるだけです。叶えばまた、平和が訪れるかもしれない。それなら、叶うまで祈り続けることが、戦う力を持たない私に唯一できる、皆への恩返しなのです」
じいやの言葉に、テオーナは不安を払うように目を閉じる。叶うかもわからない伝承。叶ったとしても城とは何なのか……本当にミルクィンの味方になりうる存在なのか。そもそも……祈りとはこれで正しいのか。
「……もう、この祈りに……伝承に……賭けるしか……私たちに進む道は……っ!?」
テオーナが一層強く祈りを捧げようと両手を強く握った刹那、大きな音と共に砦が大きく揺れる。青ざめた顔でテオーナは砦の階段を駆け降りる。降りた先には、砦の廊下を護る兵士達が……
「……っっ!!」
居たはずだった。北の壁には大きな穴が開き、砕けた瓦礫が飛び散っている。兵士達が待機していたそこは巨大な鉄球と、血まみれの石畳、ほんの数秒前まで兵士だったモノ……
「そ、んな……そんなあ……」
テオーナは絶句し、膝から崩れ落ちる。じいやがようやく階段を降り、テオーナへ早く逃げるようにと促そうとするが、その言葉も、二人を月光から遮る影によって噤まれた。
「ごめんねー? 兵隊さんと遊びたくて近道作るつもりだったんだけど。肝心の兵隊さんを巻き込んじゃったみたいだね」
「ト、トレイシー……!」
影の主は、ミルクィンを含む全世界の国と長年敵対するシヴィカ帝国の歩兵団長トレイシー。残虐で非道なこの男によって、ミルクィンは徐々に領土を奪われ続けている。今この国は既に城も落とされ、テオーナの両親も未だに城の瓦礫の下敷きとなっている。この国はもう、海路を護るために岬の手前南側に立てられた簡素なこの砦と、北の小さな村しか残っていない。
「ここ落としたら皆次はどこに逃げるのか気になっちゃってさぁ、追いかけっこしに来ただけなんだけどね。大砲の当たった先にテオーナがいるなんて、もうこのゲームも終わりかな? まあ、逃げたところでもう東の奥の岬から飛び降りる程度しかできないと思うけど。逃げた先で死ぬか、このまま殺されるか、俺達の奴隷になるか、選ばせてあげるよ」
トレイシーは饒舌にけらけらと笑う。テオーナはそんな彼を憎むような眼で睨みつけるが、手を出すことはできなかった。温室育ちの姫君と兵団長では、実力に差がありすぎる。
「姫様……姫様だけでも逃げてください……ここは私たちがなんとか……」
「黙ってろよ爺さん。でもそうだね、これじゃ選びづらいか。そうだ、君が奴隷になって俺たちの好きなように使われても構わないって宣言してくれたらー……残りの兵士と民は、今の生活を続けられるように俺から陛下に頼み込んであげてもいいけど?」
奇跡は……起きない。だからこそ、奇跡と呼ばれるのだ。テオーナが伝承に縋ったのも、愛する民の平和を願ったからだ。戦禍の中で生まれたテオーナは、それでも、この国の希望として愛され、育てられてきた。民がいるから、自分がいるのだ。
「……そ、それで民が……この国がそのままの形で残るなら……皆が生きられるのなら……私は、喜んで奴隷になります」
「ひ、姫様!」
「……決まりだね」
トレイシーは冷たい目をにっこりと微笑ませ、用意していた木製の手枷をテオーナの両手に掛ける。テオーナはその冷たい感触に、負けを認めてしまった悔しさと、民を護れる安堵から、涙を零した。
「さあ、テオーナも手に入ったことだし……お前たち! 帝国恒例の大掃除を始めるぞ!」
「お、大掃除……?」
「本日をもってこの国は帝国の支配下だ! 好き放題暴れてやれ! もう二度とこの国で暴れる必要がなくなるくらいになぁ!!」
トレイシーの声に、砦の下の帝国兵達は大きな歓声をあげると、街の方へ列を作って向かっていく。
「そ……そんな! 話が違う!」
「話ぃ? 話って何だっけ? 国民はどうなってもいいから私だけは助けてって泣いて懇願したこと?」
「い、言ってない……そんなこと」
「言ったね」
「言ってないっ!!」
「言ったことになったんだよ!」
「い、いやああああっ!!」
テオーナはトレイシーに駆け寄り、嵌められた手枷を振りかぶって殴りかかる。しかしトレイシーには非力なテオーナの攻撃など当たるはずもなく、テオーナの腕は受け止められ、地面に顔面から叩きつけられた。
「お前はたった今民を裏切って生き延びようとする醜悪な王になった! 数万の命が! お前の選択肢一つで! 一日で炭にされていくのは楽しいだろ!?」
「や……めて、トレイシー……! ごめんなさい、何でもするから! みんなは関係ないから!!」
「お前にも皆にも何でもしてもらうし好きなようになってもらうんだよ! 王がそれを望むなら民だって同じようにならねぇと不公平だろ!?」
トレイシーはテオーナの頭をガツガツと石畳に叩きつけながら笑う。テオーナは涙と砂利と血で顔をぐしゃぐしゃに汚しながら泣き叫ぶ。
「神様! 神様助けてください!! 私はどうなったっていいから! だからお願い! 救世の城を我らにお与えください! お願いします神様ぁ!!」
「……っせぇんだよ! ゴミが騒ぐな! そんなおとぎ話が叶うわけねえだろ! ここは現実なんだよ! ほら、犯されて滅ぼされていく自分の国じっくり見とけ!」
トレイシーがテオーナの襟首をつかみ穴から街を覗かせる。テオーナの目に写るのは、村へと蟻のように進む帝国兵、逃げ惑う人々、燃え盛る民家、そして……
視界の右でぼんやりと映る何か大きなモノ。
炎の熱気が靄になり、月明かり照らされてはいるがよく見えない。大きな何かが上だけ揺れ、徐々に……大きくなる―――いや。
大きくなるのはそう見えるだけで……それはまるで炎に導かれるように、こちらに、着実に、近づいてきている。
「な……なんだ、あれは」
トレイシーは眉を潜める。帝国は強大だ。恐れる者などはなにもありはしない。仮にミルクィンに伝わる城の伝承が本物だったとしても、トレイシーの部隊が持つ100の大砲があれば、陥落できないはずがないのだ。しかし……トレイシーに何か嫌な予感がよぎった。
「……おい、あれはなんだ? すぐに近づいて正体を報告しろ!!」
「は、はい! 近い部隊にすぐに伝えますのでお待ちを!」
トレイシーの側近が先頭部隊へすぐに松明で合図を送り始める。テオーナは涙でぼんやりと映るそれから目を離すことができなかった。
「あれはまさか……あれが、奇跡……? 願いが……叶ったの……?」
「……叶ったってテメェらはどうにもならねえんだよっ!」
トレイシーは不可解な状況に苛立ち、テオーナを蹴り飛ばす。その間も、それは徐々に近づき、地鳴りのような音と揺れが少しずつ感じられるようになってくる。程なくして、先頭部隊からの伝達が側近の口から告げられる。
「トレイシー様! 先頭部隊からの報告です!」
「あれは何なんだ」
「ばっ……!」
「ば……?」
側近は口籠るが……意を決したように、続ける。
「ババア、です……!」
「……は?」
「ババアです! 城よりも巨大いババアがっ……! 地を揺らし、こちらに向かって進んで来ているとのこと……!!」
「……!?」
想像すらできなかった事実が告げられ、3人は息をのむ。恐怖、不安、疑問、希望を混じらせて。
帝国の先頭部隊兵は動けない。あまりにも巨大な老婆が、車輪の付いた見慣れぬ乗り物に座り、地面を抉りながら近づいてくる光景に、思考が行動を許さない。
「っちいいっ! あれがコイツの呼んだ城かはわからんが、こんな砦や村はいつだって落とせる! 総員アレの元に向かえ! そのババアを足止めして大砲で吹き飛ばせ!」
トレイシーはテオーナには目もくれず、他の兵たちと共に砦を掛け降りていく。期待と悲しみの涙にまみれたテオーナに、じいやは優しく寄り添う。
「姫様……あれがもしや、伝承の……!?」
「わ、わかりませんが……たしかに今、私達に希望を与えてくれたのは事実です……! もう少し寄ってこられたら……王家に伝わる疎通魔法を使う、その時かもしれません」
「祈りましょう……今こそ、伝承を史実に刻むときですぞ……!」
ドム!
ドゴォッ!
けたたましい爆発音がミルクィンの街外れで響く。トレイシー率いる大砲部隊が、迫り来る巨大な老婆に向けて何発も砲弾を打ち付ける。しかし高度差があり、上半身には砲弾が届かない。また、下半身は分厚い毛の壁に阻まれており、傷一つ付けられていない。
「ちいっ……! 何なんだよこいつは! 何が城だ、城より全然でけえじゃねえか!! そして何でよりによってババアなんだ舐めやがってぇぇ!!」
トレイシーが再び一斉射撃を命じた刹那、この世のものとは思えない重低音が一帯を包みこむ。
「ヴァァァァァァァァァエェェェェェェェェェアァァァァァァ!!」
ビリビリと空気が揺れる。老婆が咆哮をあげながら、天を貫かんばかりに長く太い柱を背から取り出した。柱の先が降りた地が大きく抉れたかと思うと、物凄い速度で大地を削りながら横薙ぎに迫り、大砲部隊を散らしていく。巻き上がる土煙の中から月光に浮かぶその老婆の顔は―――ツキヨだった。
「バ……ババア……!!」
ツキヨは大砲部隊を一瞬にして吹き飛ばすと、杖を仕舞い、車椅子を再び進めはじめる。
(あ、あのっ……聞こえますか、救世主様……!)
「……!?」
若干を進んだ直後、透き通った少女の声がツキヨの頭の中に直接響き、何事かと手を止める。
(思うだけで結構です……この声が聞こえていたら、返事を思い浮かべてみてください)
(……なんなんだい全く、ここはどこだ! アンタは誰だい、さっさと言いな! さっきから周りにジオラマしか見当たらないんだよ! アンタはどこにいるんだい!!)
テオーナは枯れた老婆の声が響き、本当に老婆だったのかと少し戸惑いはしたが、老婆が現状を呑み込めていない事をすぐに理解し、疎通魔法を続ける。
(お、落ち着いてよく聞いてください! ここは救世主様の住む世界とは異なる、異世界コーメリア。私はその世界の、ミルクィンという国の王を勤めています。救世主様をこの世界に呼び出したのは私なんです。申し訳ございません。でも……今我々は助けが必要なのです、お力をお貸しください!)
(絵本みたいなよくわかんないこと言ってんじゃないよ! アタシは忙しいんだ、助けが必要なら他の奴に頼みな!)
(で、でも……! 私たちの国を、この世界を救って欲しくて、私は救世のお城が現れることをずっと夢見て、祈りをささげてきたんです! そうしたら……あなた様が来てくださいました!)
救世主であろうと、やはり突然召喚してしまえば驚きもするだろう。しかし、目の前にいる老婆が必死であろうと、それ以上にテオーナも、国王も、必死なのだ。この者に見限られては国は滅ぶ。抵抗した見せしめに地獄よりもつらい苦痛を味わうかも知れない。そう思うと、テオーナは、絶対に引くことはできない。
(アタシは城じゃないよ!読みが違う! 城だ!城ツキヨ! 二度と間違うんじゃないよ! というかアンタは何処から喋ってんだい!)
(ええっ、城じゃなくてタチ……ど、どういう……ううん、えっと、ご無礼をお許しください、ツキヨ様! 私は今、ツキヨさまの目の前の砦にいます!)
(目の前もなにも周りにはジオラマしかないって言ってんだろうが! 砦と言ったらあそこにある崩れかかったぼろい石の建物が見えるけどね。アンタが言うここがその異世界ってんなら、さっきから足元でぱらぱら動き回ってる米粒みたいなのがアンタたちかい?)
(ま、街の外にいるのは全て敵です! 私たちを苦しめるシヴィカ帝国の兵士です! お願いです、彼らを追い払ってほしいんです……伝承によると城……いえ、ツキヨさまは西へ、帝国の方へ向かうとあります。帝国の領土内に、ツキヨさまの世界へのヒントがあるのかもしれません)
『城は東より昇り、希望の夜明けとともに、西の水辺へと沈まん』
ツキヨがこの世界から戻るには、西の水辺の存在が不可欠だと考えた。テオーナには思い当たる節が一つあった。帝国領のさらに西にある森の奥にある湖だ。テオーナはイチかバチか、ツキヨが帝国を敵と見なす動機を植え付け、無理やり帝国に進撃させる作戦を考えた。
(ジオラマはねェ、昔じいさんと若い頃によく見に行ったもんだ。壊しゃしないから安心しな。このさっきからパンパンパンパン五月蝿いのを追い払えばいいのかい?)
(は、はい!ドーンとやっちゃってください!)
ツキヨは長年の感から、鬼気迫るテオーナの背後にあるものを汲み取ったのかもしれない。中村には見せないような協力的な姿勢で、一役買って出てくれた。
「……ババアが、止まった」
ツキヨはテオーナと疎通をしている間、進むのを止めていた。帝国からすれば奇妙な時間に思えただろう。トレイシーはテオーナと疎通しているツキヨの動向を気にしつつも、大砲の手を休めない。なるべく高い個所を狙い、少しでもダメージを与えようとした。しかし、中村が用意したツキヨ専用の冷え防止毛布は、燃えもしないし衝撃など微塵もツキヨに与えなかった。
「く、来るぞ! 柱の横薙ぎだ!」
―――歩行補助杖乱舞
テオーナとの疎通が終わったツキヨは再び杖を手に取り、取っ手の広い部分を地面に当てると、一帯を慣らすように、左右に滑らせる。
砲撃部隊は恐怖する間もなかった。自分達の身長の10倍はあろうかという巨大な柱が地面を抉り、横凪ぎに向かってくるのだ。後ろに退避したとしても踵を返すように戻り追ってくる。逃げることすら許されない。槌に直撃した兵も大砲も呆気なく右に左に吹き飛び、彼方へと消えていく。
テオーナはツキヨの無双を、砦からしっかりと見届ける。血と涙で頬は荒れ、額は鈍痛が続く。風が細身を撫で、通り過ぎる。寒さに耐えるように、希望を身に受け止めるように、テオーナは身を強張らせた。
「姫様……いかがでしたか、救世主様との会話は」
「救世主でした……間違いなく、私たちを導いてくださるはずです」
「ま、まことですか……! 姫様、やりましたな……!」
「でも、ただのお婆さんでした。あまりにも巨大なだけの、ただの異世界のお婆さん……」
確かに、願いは叶った。帝国の事も圧倒している。しかし、ツキヨはただの老婆だ。いろいろと不安定な存在であることは変わらない。それよりも、テオーナの守るべきこの国にも、数多の老人がいて、そんな罪も力もない人をもし呼び出してしまったのだとしたら……そう考えると、罪の意識を、感じざるを得なかった。
「奴等のいう通り、本当に老婆だったのですな……心の底から喜ぶべきか否か……何と申し上げればよいか……」
「で、でも! お婆さん……ツキヨさまは元の世界に帰りたがっていますから……伝承の通り、西の水辺……果ての湖へ、導く必要があります」
「果ての湖ですか……あそこは今や帝国軍に阻まれて、我々ではたどり着くことすら……」
「はい……ツキヨさまにはこのまま帝国領に進撃していただき、果ての湖まで向かっていただく過程で……帝国の手から世界を救ってもらいましょう……」
「……ザケやがって……」
ツキヨの杖に蹂躙されていく自軍の兵を目の当たりにしながら、トレイシーはキレた。
バチ、バチッ……
トレイシーはゆっくりと浮かび上がり、体を少しずつ青い光に包み、帯電させる。トレイシーは近接兵としても優れた力を持つ傍ら、コーメリアでも希少な魔法使いという一面も持つ。ツキヨの胸元付近と同じ高さまで浮かぶと、まばゆいイカズチの塊となる。
「もう容赦しねえ……城だろうがババアだろうがこの力でブッ潰してやる!」
眩しい。青みを帯びた豆電球のような光の玉を目にしたツキヨは杖を止め、目線をそれに向ける。
「今度は青い蛍かい。夏にはまだ早いじゃないか。いや、電気の光かねェ。静電気は嫌なんだよ。ホームでも乾燥で忘れた頃にバチバチ来るから。春になったんだからしばらく引っ込んでな!」
ツキヨは杖をブンブンとトレイシーに向けて振る。幸い杖は木製で電気を通さない。
「ちっ! ふん、当たるかよそんなノロマァ! もうすぐで溜まるから覚悟しろババア!」
体の何倍もの直径のあるこの杖が直撃すればひとたまりもない。トレイシーは迫り来る杖をギリギリかわしていく。
「今だ! くたばれババア! 破壊の雷砲!!」
「オオオアアアアアアアアアアアアアアアアアッヴン!!(ちょこまか逃げるんじゃないよまっンボッ!)」
トレイシーが雷砲をツキヨの顔面にめがけて飛ばす。ちょろちょろと杖を避けるトレイシーに苛立ったツキヨは怒りの咆哮をあげた瞬間、口から入れ歯がすっぽ抜け、雷砲とトレイシーを迎え撃つ。
―――咀嚼補助器具噴出
「なっ……うおおおおおおおあああああああああああ!!」
入れ歯は容易く雷砲を受け止め、荷電入れ歯となりトレイシーに激突する。トレイシーは突然の反撃に驚くも両手で入れ歯を受け止めるが、質量が違いすぎる。トレイシーは為す術なくそのまま地面に叩きつけられる。入れ歯は街の半分ほどの距離を転がり、海の前の崖で漸く止まった。
「ば……バカな……」
トレイシーは入れ歯と地面に挟まれ、倒れた。その様子を遠くから見守るミルクィンの兵士たち。
「か……勝ったのか……我々が、いや……あの救世主様が……帝国を……!」
「やったー!! 伝承は本当だったんだ!! 姫様、救世主様、ばんざーい!」
一人の兵の叫びを皮切りに、他の兵も歓喜の声をあげる。テオーナもじいやも涙を浮かべ、初めての帝国からの勝利にミルクィンは沸いた。ツキヨは入れ歯を杖で掻き寄せてから拾う。
「また落ちちまったよ。最近合わなくなってきたねェ。あとで向こうの海で洗うとするか」
(ツキヨさま……この世界に来てくださり、本当にありがとうございます)
(来たくて来た訳じゃないよ。アンタが呼んだんだろうが)
(……そうですね。元の世界への扉は、帝国領土の先にある果ての湖というところにあるはずです。そこへ行くためには、帝国の脅威を追い払い、帝国領を抜ける必要があります)
(ふん、都合のいいことばかりいうんだねェ。アタシはあんたらを助けるつもりはないよ。でもアタシ自身が金曜日までには銀行に行かなくちゃならないからね。その帝国ってのがアタシを邪魔するなら、追い払ってやる)
(ぎんこう……異世界にはそういうのがあるんですね、是非ツキヨさまの世界の話も聞いてみたいです。その、じおらま? というものについても)
(その湖まで数日は掛かるんだろう? そこに着くまで暇だから、責任取って話し相手になりな)
(は、はい……ついていきます、ツキヨさまが元の世界に戻るまで……そして、この世界に平和が戻るまで……!)
平和を取り戻したいテオーナと、銀行でお金を下ろしたいツキヨの冒険は、まだ始まったばかり。