夜_屋敷
荷馬車は予定より少し遅れて、景芝へと辿り着いた。
野興での迷子騒動で、越境のタイミングまでに碧流と紅兎が戻らなかったために、馬車は列に並び直す羽目になってしまったのだ。
かと言って、文句を言う朱真でもなく。碧流が話す経緯を聞いて、興味もなさげに頷いただけだった。
大街道に従って、景芝の目抜き通りを進んでいく。
南須国とは、そもそもがこのあたりに広がる須弥 (シュミ) と呼ばれる高原に住んでいた遊牧民を束ねて建てられた国だ。景芝はその北西に当たる。
歴とした都ではあるが、夜闇に沈む景芝からは、なんだか大都という印象は受けない。それは高い建物がないからであり、夜闇を避ける街灯がないからでもある。
それでも、建物は建物であり、書物で読んだようなテントが並ぶ街並みではなかった。朱真によると、他の町では、まだそういう光景も残っているようだが。
「ここは、泰皇の民が作った街だからな」
朱真は南須国以外の泰皇国、主に央香国の民を泰皇の民と呼び、南須国の民を遊牧民と呼ぶが、元を辿れば同じ民族である。この民族が嵩泰半島に現れた頃、比較的早期に分かれて須弥高原に住み着いたのが、遊牧民と呼ばれる者たちだった。
彼らは、雄大な高原で馬や羊を飼いながら、半島の北半分で先住民を相手に勢力争いに明け暮れる仲間たちをのんびりと眺めていたことだろう。そういった戦いから離れたがった者たちが、この豊かな大地に集まったのかもしれない。
南須国の民には、先住民の血が多く混じっているとも言う。遊牧民は争いではなく、融和することで須弥の隅々まで広がっていったからだ。
しかし、経緯はどうあれ、今の泰皇国の領土に、先住民の姿はほぼ見えない。残るのは南の端、九山連峰の麓に住まう孔族といくつかの民族のみだった。
碧流は、ちらりと隣に座る孔族の少女を見やる。昼以降はずっと熟睡していた紅兎も、景芝に入る頃には目を覚ましたようで、硬い表情で床を見つめている。
その街並みを見ることすら、拒否しているのか。
やがて、馬車は大きな屋敷の前に停まった。
「おかえりなさいませ」
家宰らしき男が頭を下げて、朱真以下二名を迎え入れる。
その後ろには侍女が二名。公家の出迎えと聞いて、召使いがずらりと並ぶ様を想像していたが、案外こじんまりで安心した。
「遅くなってすまなかったな」
「ご無事でなによりです。晩餐の支度はできておりますが、先に旅の疲れを落とされますか?」
「いや、馬車に揺られていただけだ。待たせることもないだろう」
二人の間で話が進む。どうやらこのまま晩餐になだれ込むらしい。
ずっと車上だったせいか、空腹感もよくわからないが、さっさと食べて、さっさと寝てしまいたいというのが本音だ。早く終わらせられるなら嬉しい。
ちなみに、馬車は三人を降ろすと、荷物もそのままにどこかへ走り去っていった。どうやら、朱家の馬車ではなかったようだ。本当に荷馬車だったのか。
荷物を持とうと、侍女が碧流と紅兎に近寄る。それを、朱真が止めた。
「いい。部屋は決まっているか?」
仕事を奪われて侍女が困惑するが、すぐに家宰が予定の部屋を朱真に伝える。
「わかった。後はこちらでする。下がれ」
再び頭を下げた家宰の前を、朱真がずかずかと進んでいき、碧流たちも続いた。
本来なら、侍女の世話を拒否するのは非礼にあたるのだろうが、碧流は朱真に感謝していた。侍女が近寄った時に、紅兎が身を強張らせるのがわかったから。
なるべく紅兎の近くにいてあげた方がいいのかもしれない。
少なくとも、この屋敷にいる間はそうしよう、と、碧流は心に決めた。
朱真の案内で、それぞれの部屋へ連れられる。二階の並びの客間だった。
「すぐに迎えに来る。身支度があるなら、早めにしておけ」
そう言われても、碧流は特に着替えるような盛装など持ってはいない。埃を軽くはたいただけで、後はぼんやりと部屋を見回した。
廊下へ出る扉の他に、もう一つ扉がある。方角からいって、扉の向こうは紅兎の部屋だ。それぞれ別の部屋だが、そこを開け放てば続きの部屋にもなるのだろう。さすがに開け放つことはないだろうが。と、思った矢先に。
バン、と。その扉が開いた。
「あ、開いた。あ、碧流だ」
「……どうも、碧流です。」
顔を出したのは、当然のように紅兎で。
「何してんの?」
「こっちの台詞です」
様子見だけかと思いきや、紅兎はこちらの部屋へと入ってきて。
「おんなじだね。つまんね」
じろじろと眺め回してから、吐き捨てる。好き勝手だ。
「お着替えはなさらないのですか、お嬢様?」
口に出しては呼べないが、紅家の義娘だ。それなりのおめかしもあろう。
彭交の宴席では、橙琳も杏怜も華美でない程度の盛装に着替えていたが。
「いいよ、めんどくさい」
そう言われては、碧流には返す言葉もなく。
ただ、無駄に揉めないことを、深く祈った。
そこで、ノックもなく、廊下側の扉が開いて。
「行くぞ。ん、紅兎もいるのか」
「いちゃ悪いか! いつでも帰るぞ!」
反射で噛みつく紅兎を抑える。そろそろ手慣れた自分が悲しい。
「悪かった。行くぞ」
こちらもすっかり慣れた様子の朱真が、心の籠らない謝罪を残して、踵を返す。
「ほら、行きましょう。ごちそうですよ」
まだ収まらない紅兎のご機嫌を取りながら、碧流も続く。
何やらぶちぶち言いながら、それでも紅兎も後ろに続いた。
「……いいんですか、紅兎の服?」
一歩近づいて、朱真の耳元で問う。と言っても、縦方向はどうしようもないが。
朱真も真っ直ぐ前を向いたまま、こちらにだけ聞こえる小声で。
「旅先で、遅れた手前だ。多少のことは、目をつぶってもらおう」
なるほど。だから、すぐに晩餐にしたのか。
「……朱真って、こうして見ると、公子っぽいですね」
景芝についてから一層感じるようになった感想を伝えるが。
「できれば拒否したい印象だな」
さらりと却下された。
それもまた、朱真らしくはあったが。
やはり朱真は、公子である自分が好きではないのだ、と改めて感じた。
「お待ちしておりました」
大広間の扉の前に控えていた家宰が、頭を下げてから、扉を押し開く。
中は、着座形式の宴席に仕立てられていた。
それを見て、自分が、床に直接座る、いわゆる遊牧民の宴を想像していたことに気づく。南須国風と銘打って、そんな紹介をしている書物があったのだ。テントではない時点で、そんなイメージは捨てたと思っていたのだが。
「おう。遅かったな、若殿。道中になんぞあったか?」
入るなり、正面に座る壮年の男性の、朗々たる声が響く。
若殿と呼ばれた朱真は、一瞬うんざりとした表情を浮かべるが。
「なに、ちと人助けを一つ」
さらりと返す。
冗談と思われたのか、席上に笑声が飛んだ。
朱真はそのまま歩き出したが、碧流は脇から侍女が近づいてきたので、その場で待機。紅兎の前に立つようにして、促されるまま進む。
朱真は、正面の長テーブルの、最初の男の二つ右に空けられた席に着いた。碧流と紅兎の席は、右側に並べられたうち、最も朱真に近い位置だった。
どうやら扉から正面に見えた席が主席で、その左右に客席が並ぶ形らしい。顔ぶれから察するに、向こうの方が上席か。
中央は大きく開けているから、客と話そうと思えば、自然と大声が必要になる。泰皇国のマナーでは会食中の大声は厳禁だが、その辺りは遊牧民っぽかった。
そこで、しばらくは朱真の近況報告が続いた。
と言っても、主に話しているのは最初の男の方で、朱真は相づち程度に話すのみ。響き渡る声量も変わらず、他の席の人たちも同じタイミングで笑っているところからすると、会場中でこの話をしている、という体らしい。
碧流も紅兎も、別におもしろくはなかったので、ただ黙々と食事に専念する。辛い麺ばかり出て、水はない、なんてことはなかったので助かった。今のところ、事前情報は嘘ばかりである。
挨拶も紹介もなかったので、後で朱真から訊いたところによると、あの大声の男が朱家の当主である朱堅 (シュケン) だった。声量と整えた口髭には、いかにも当主といった風があるが、テーブルの陰から覗く腹には、もはや遊牧民の面影はない。血縁上は、朱真の伯父にあたるらしい。
ちなみに、朱堅と朱真の間に座っている青年は、朱堅の息子の朱塊 (シュカイ)。そうは見えないが、武芸に秀でているらしい。が、朱真から挙がった長所は、それだけだった。今も、朱真の話ばかりで、さもつまらなそうにしている辺り、当主の息子に相応しい容儀は見えない。当主が世襲でないらしくて、本当に良かった。
その他、朱真の右に並ぶのが朱家の方々。また、朱堅を挟んで反対側に座っているのが、現公家である赤家の方々。そして、碧流たちの向かいに居並んでいるのが、紅家の方々らしい。わかってはいたが、三公家の重鎮が勢揃いである。さすがに南公はいらっしゃらないようだが。
「ところで、伯父御。南公のお加減はどうなのだ?」
自分の話に区切りをつけるように、朱真が話題を変えた。
ふと、場の笑声が途切れた。
「なんだ、お客様もいらっしゃるというのに、病の話など」
朱堅がさりげなくその話題を避けようとするが、朱真はそれには流されず。
「別に気にすることもあるまい。客と言っても、流族だ」
まるで流族をないがしろにするかのような発言だが、朱真の本意はわかっている。例えこの場で次の南公の選定が始まろうと、流族には全く関係のない話だ。
「まぁ、須弥を離れていたお前が、気にするのもわかるがな」
朱堅はなおも言い淀む。
それに合わせたのか、場の雰囲気が硬い。が、朱真は委細構わず。
「赤家の方にお伺いした方が早いだろうか。赤緯 (セキイ) 様は、最近どうなされておられる?」
この時、碧流は初めて南公の名前を知った。軽々しく呼ぶのは不敬に当たるということもあるが、民にとっての公などそのようなものだ。考えてみれば、現在の泰皇の名前も知らない。
「病、と言いましても、重大なものではありません。以前と比べれば、あまりお出かけにはならないようになりましたが、御食事も御酒も変わりはありませんよ」
朱堅の左に座る、白髪の老人がやんわりと説明した。髪も眉も髭もすべて白くなっているが、彼が赤家の当主なのだろう。
ようやく回答がもらえて、朱真も満足そうに。
「それは重畳。なにせ、南公の身に不安でもあれば、と思いながらでは、泰陽での学問にも思うように身が入りませんので」
いけしゃあしゃあと。
講義室での朱真など見たこともないのは、碧流だけではあるまい。
ともかく、その話題もこれで区切りがついた。
にも関わらず、その後も、なんとなく白けた雰囲気は消えることがなく。
碧流にも、腑に落ちないなにかが残った。
あの回答で終わる質問を、朱堅はなぜ、執拗に避けようとしたのか。
長い眉と髭に隠されて、赤家当主の表情は窺えなかったが。
「――――さて、腹も充分に満ちた。後は心ゆくまで呑みましょうぞ」
最後の食事の皿も下げられて。
その宣言とともに、朱堅が酒杯を掲げた。
各席からも、次々に杯が上げられて。
侍女がそれぞれの席に酒壺を置いていく。
何が始まるのか、と見回す碧流の前には、デザートの杏仁豆腐が置かれた。
「……なんですか?」
隣の紅兎に助けを求める。
紅兎は、つまらなそうに杏仁豆腐を掬いながら。
「馬鹿が踊るの」
と、わかりやすい嘘を吐いた。
それに、どうツッコむべきか迷った、碧流のところへ。
「おう、流族のお客人。遥々ありがとう。酒は?」
唐突に現れたのは、主席に収まってはずの朱堅で。
「あ、いえ、僕は……」
「なんだ、呑めぬ齢でもないでしょうに。遠慮はいりませんぞ」
笑いながら去っていく。
見れば、朱家の席は朱真を残して空いており、席の主たちは酒壺を片手にうろうろと、杯を空けた酒呑みを探しているようだった。
「……嘘じゃなかったんですね」
「でしょ」
これも文化なのだろうが、知らぬ素面からすれば謎の行動だ。誰の手元にも酒があるのに、わざわざ会場の反対側へまで、同じ酒を注ぎにいくのだから。
これまた後で聞いたことであるが、個人の繋がりを大切にする南須国民は、宴の間に話ができなかった相手へ、酒を注ぐという名目で話をしに行くものらしい。結果、もてなす側は酒壺片手に客全員を回るのが礼儀になった、とか。立食にしろ。
あちらこちらで、酒を注ぎ、注げば乾杯し、乾杯すれば杯を干し、干せばまた酒を注ぐ、そんな輪廻が回り続けている。終いには会場の中央で壺から直接呑み合う輩も登場し。ただでさえ豊かな声量も、酒の力で増量中。そんな阿鼻叫喚の最中。
隣から、穏やかな声がした。
「――――よく、帰ってきてくれたね」
紅兎の前で酒壺を下げていたのは、壮年の男性だった。歳の頃は朱堅と変わらないが、押し出しの強さというか、脂ぎった感じがない。むしろ、頭髪の薄さも相まって、どこか奥ゆかしさを感じさせる。
彼が、紅家の当主である紅義 (コウギ) であり、紅兎の義父だった。
「……うん。」
紅兎は、俯いたまま、小さく頷く。
好きで帰ってきたんじゃない、くらい言うかと思ったけど。
「泰陽の暮らしはどうだい? ちゃんと、食べているか?」
「……うん。大丈夫」
「そうか。泰陽の冬は寒いと聞くが、風邪など引かなかったかい?」
「それも、大丈夫」
ぽつり、ぽつり、とではあるが。
差し出される幾つかの質問に、紅兎はきちんと答えていった。
紅兎は、思っていたよりも、遥かに冷静で。
そこにあるのは、感動の抱擁ではなかったけれど。
これもまた、父娘の再開の形の一つではあるように見えて。
でも。
「そうか、良かった。できれば、うちにも顔を見せておくれよ」
「…………」
去り際のその言葉にだけは、紅兎は答えなかった。