朝_景芝
あれから、数日。
碧流は、まだ景芝に滞在していた。
そのうちに、事態は目まぐるしく変遷していた。その多くは、碧流と朱真の想定通りのものだったが、時には、碧流には想像もできなかったものも混じっていて。
中でも、最も大きなものは、大会の優勝祝賀会で、南公自身が、朱真を後継者に指名した、というものだった。
聞けば、そもそも朱真を景芝に呼んだのは、現南公だったらしく。退位を望んでいる、というのは事実だが、高齢と病というその理由は、半分嘘らしい。
南公は、南須国民らしい豪快な質で、古き良き遊牧民の生活を愛し、酒と遠乗りを好んだ。そんな彼に、二十年にも及ぶ在位は長すぎた。宮殿に籠り切りの生活にうんざりしていた彼は、将来有望な若手を探すようになる。そして、優れた後継者候補が現れる度に、さっさと位を譲ろうと、ちょくちょく退位を仄めかしていた。
高齢といってもまだ壮年、病と言っても多少身体が重くなった、その程度のものらしい。そう聞かされれば、紅信の時も、一体どこまで本気だったのか。
「そんなことだから、公位がお飾りになるのだ」
そう言ったのは自分だったろうに、朱真は本気で立腹していた。
実際、祝賀会場でも、自分を後継に指名した南公を相手に、周りが止めるほどな勢いで詰め寄っていた、と言う。なにを言ったのか、碧流は詳しくは聞いていないが、言われれば言われるほど、南公は嬉しそうに笑っていたらしい。
この様子ならば、次の南公は、決してお飾りになどならないだろう。
ちなみに、南公に次いで、紅家も正式に朱真への後見を表明した。
今までも、紅義は朱家への協力は誓っていたが、これからは、それが朱真個人へと向けられることになる。これによって朱真は、次代の南公という宙に浮いたような肩書きだけでなく、紅家という明確な後ろ盾をも得たのだった。
こうなると、急速に立場が弱くなるのは、朱堅を中心とした朱家の面々で。
祝賀会場で、朱堅は、顔を引きつらせながら、朱真に賀を述べることになったが、それに対して、朱真はただ一つ、誰かを騙して利益を得るような、朱家の名を貶めることだけはしないよう約束をさせて、それ以上の口出しを、今は慎んだ。だがそれで、今後の上下関係は明らかになった、と言っていい。
その後、朱家に連なる連中の多くは、ひっきりなしに、朱真へと擦り寄りに来ている。朱堅の求心力は、もはや見る影もなく、朱塊に至っては、その姿すら見せなくなっていた。
朱真が南須の政治と朱家の経営を直接見られるようになるのは、学院を卒業した後となるが、それまでの間も、その怪しい動きには紅家がしっかりと目を光らせるのだろう。ひょっとしたら、慣習など無視して、各家にもガンガン口を出す、厄介な南公が誕生するのかもしれない。
南須国は、これからも、どんどん変わっていくのだろう。
すべてが良い方向になるとは限らないし、反対する人も、切り捨てられる意見も、たくさん出ては来るのだろうが。それでも。
古いもの、変わらないことを、盲目的に是とするよりは、遥かに良いことに、碧流には思える。それは、碧流が、歴史のない、流族だからだろうか。
いずれにせよ、ここで碧流がやるべきことは、今のところ、もうない。
泰陽を出た時にはまだ肌寒かった風も、もう夏の匂いを運んでいた。
「礼なんて、言わないぞ」
「……僕にもですか。まぁ、いりませんけど」
そうと決まれば、善は急げ。
朱真に別れを告げると、たまたま丁度良い馬車の予定がある、と言われた。
「西に、行くんだって?」
朱家の取引の関係で、西柏国へと一台、馬車を出すのだ、とか。
「はい。いい機会だし、ちょっと寄り道してきます。泰陽からよりは近いですし」
碧流の一人くらいならまだ乗れる、と言われたので、一も二もなく飛びついた。
随分と学院から離れているが、今の碧流には旅が必要だ。勝手に、そう決めた。
「紅兎は、どうするんですか?」
見送りは、紅兎だけだった。朱真は、なんだか忙しいのだろう。
問われた紅兎は、真っ直ぐな瞳で。
「アタシは、もう一回、村へ行ってくる」
紅兎も、もう長く景芝にいる。
その間に、詳しくは聞いてはいないけれど、紅家にも一度、顔を出した、とか。
「村へ。族長宣言ですか?」
「バカ! それは、まだ、早いから。今回は、謝りに」
そこで、ちょっとだけ、俯く。
「何について?」
「それは、まぁ、いろいろだよ。あんの、いろいろと!」
照れ隠しなのだろう。紅兎が赤い顔で怒鳴る。
こんな調子で謝られても、きっと、村の人も困惑するだろうけど。
そうしたいのであれば、そうすればいいと思う。
そうやって、紅兎という人間を、もっと知ってもらえばいいのだ。
「がんばってくださいね」
そう、励ます碧流に。
「――――早く、帰ってこいよ」
紅兎は、なぜか、ぶっきらぼうに。
そんな、予想もしなかったことを、言われると。
「そうですね」
つられて。碧流の応えも短くなる。
だが。
「じゃないと、アタシが困るんだ」
途端に、身勝手なことを言い出した。
「勉強、教えてもらうんだから」
「は?」
……それは、全くの初耳ですが?
「なにを教えろっていうんですか。学院なら、紅兎の方が先輩でしょうに」
ひと季節ほどではあるが。
しかし、紅兎は悪びれることもなく。
「なにを、とかじゃなくて。なにから勉強すればいいのかを、教えて」
「……そこから、ですか」
確かに、学院には、そういうことを教えてくれる人はいないけど。
そして、意外と、それこそが重要だったりはするけど。
「でも、僕も、そんなの教わったことないですよ?」
やんわりとしたお断りは、開き直った紅兎には通じない。
「いいじゃん。碧流だって、流族の使命とか言って、そういうこと、こそこそ勉強してるんでしょ? 一緒だよ。少数民族同士、協力してよ」
こそこそ、て。
仲間意識を強調しつつ、一方的な協力を強制してくる、未来の族長。
「僕が何をやってきたか、なら話せますけど。正しいかどうかは知りませんよ、まだ結果も出てないんですから」
結果が出るのは、次の次の夏だ。
それまでは、正しいと信じて、やり続けるしかないとは思っていたけれど。
そんなしぶしぶな諒解にも、紅兎は、飛び上がらんばかりのガッツポーズを。
「やっりぃ! じゃあ、アタシが族長になれなかったら、碧流のせいだからね!」
さらに、もはや勝ったも同然な笑顔を見せる。
「……は? いや、なんでそうなるんですか!」
「大丈夫、そういうつもりでがんばりたまへ、ってことだから」
もう、上からポジションを確保してるし。
だからって、言質を取られたつもりになられては、こちらが堪らない。
「なんにも大丈夫じゃないですよ。なれるかどうかは、すべて紅兎の努力次第ですからね!」
「そこは、任せといて!」
自信満々に、親指を立てる。
「……そこが、一番信用できないんですってば」
対照的に、碧流はげんなりと肩を落とす。
「じゃ、次は泰陽でね!」
なぜか、すっかりと肩の荷を下ろしたような顔で微笑む紅兎と。
「は、ははは。少しでも、やっておいてくださいね、予習」
その荷を丸ごと載せられたかのような顔で手を振る碧流。
早くも、泰陽に戻る気が失せてきた。
やがて、馬車は走り出す。
ひとまず、次は西だ。案内人もいない旅になるけれど。
碧流の胸は、期待と好奇心に膨らんでいる。
「早く、帰ってきてね〜!!」
そんな、無邪気な声を背に。
碧流は、一足早く春を終えようとしている、景芝の街を後にした。




