夕_客室
山の朝は、清々しかった。
空気が澄んでいるからか、風がまだひんやりとしているからか。
昨日の夕方に馬車を降りた場所に立ち、迎えに来てくれる馬車を待つ。
「あんた、もう帰るのかい」
昨日と同じ御者さんに呆れられながら、最初の客として荷台へ乗り込んだ。
「ああ、こっちこっち。こっちの方が景色がいいんだ」
適当に座ろうとする碧流の手を引いて、紅兎が反対側のベンチに押し込む。
「……こっちは昨日も見たんですけど」
碧流の不満など、紅兎はとっくに聞いていない。
早速、今日の先行きが不安になってくる。
紅兎へは、あの後に、一通りの事情を話したのだが。
「なんで、碧流が苦労してんの? バカなの?」
と、一笑に付された。
その結果、どういう理屈かはわからないが。
「アタシも行く」
と、なった。
まぁ、孔族の問題ではあるのだし、断る理由もないのだけれど。
「お昼は碧流のおごりね」
やっぱり、断ればよかったかもしれない。
ちなみに、昨夜は、あのまま紅兎と同じ部屋で眠った。
だが、朱家の屋敷で感じたような、気恥ずかしさや申し訳なさは感じることなく。ただただ、ぐっすりと熟睡することができた。
布団を並べただけの雑魚寝形式がよかったのかもしれない。
長たちはやはり昨晩の遅くまで話し合っていたようだったので、見送りはお断りした。それでも、昨日から何度も案内をしてくれた女性だけは、見送ってくれて。
「ヤン、碧流のこと、気に入ったみたいよ」
と、紅兎に耳打ちされた。
「長にも、碧流と恋仲なのか、とか訊かれたけど」
そこで、不覚にもドキッとしてしまうが。
「そんなわけない、って言ったら、安心してた」
予想通り、あっけらかんと言われて、ほっと一息。
なんの一息かはわからないけど。
「また、ヤンに会いに来たげて」
「……機会があれば」
なんとなく、紅誠のことを思い出して、後ろめたくなったり。
もちろん、碧流には妻子はいないので、後ろ暗いことはないのだが。
そんなこんなで、昨日も通った道を、逆へ辿る。
通る景色も、過ぎる町も、時刻が違うと、見え方も微妙に異なるもので。
思ったよりも退屈せずに、馬車の旅は流れていった。
紅兎は、眠っていたかと思えば、乗り合わせた客と盛り上がってみたり。
昼食の時には、本当にたかられて、驚かされたりもした。
所持金がない、というんじゃ仕方ない。後で、朱真にでも請求しようか。
ちょっとだけ楽しみにしていたが、昨日と同じ乗客には巡り会うこともなく。
夕方には、景芝の街に帰り着いた。
また出かけているかと思ったが、予想に反して、朱真は屋敷にいるようだった。
案内を断って、与えられた部屋へと入り、旅装だけ解いて、朱真を待つ。
丸一日、会っていないだけなのに。
どこか緊張が抑えられないのは、この前に話した内容のせいか。
朱真の気持ちは、正直、わかるとは言えない。
簡単に、わかる、なんて言っていいことじゃない、と思う。
でも、そこに留まっていていいわけではない、とも思う。
時間に解決してもらうのが、一番良い方法なのかもしれないけれど。
残念ながら、刻は待ってくれなかった。
なにより、これ以上、民を待たせるわけにもいかない。
――――こんこん、と。
軽いノックの音が響いた。
「どうぞ」
碧流の返事に応じて、扉が開く。
入ってきたのは、当然ながら朱真だった。
なにも言わず、この前同様、長椅子へ座る。
「お忙しいところ、すみません」
こちらも同様に椅子を引いて、あえて簡単な謝辞から始める。
嫌味と取ったのか、朱真が苦笑した。
「忙しいのはそちらの方だろう。二日で孔族まで往復するとは」
苦笑は、呆れているだけだったのかもしれない。
「特に予定もありませんでしたし、これも良い経験ですよ」
こちらも、笑って交わす。
紅兎は、今のところ大人しく、寝台に座っていた。
「で、どうなったのだ?」
本題に入ったのは、朱真からだった。一応、興味はあるらしい。
「孔族の総意として、鉄鉱脈の情報は売らない、と決まりました」
ほう、と、驚いたような、感心したような顔が見える。
「では、お前の言う、孔族の危機は、免れたわけだ」
「朱家の大きな取引を、潰す形にはなってしまいましたが」
申し訳なさそうな顔を見せる。しかし、朱真はそれにも苦笑して。
「最初からその気だったくせに、今さら言われてもな」
ごもっとも。
「若殿の面目まで潰れないといいのですが」
「元々、オレの面目などロクなものではないさ」
「……放蕩だしな」
脇から余計な声が飛び、碧流がじろりと視線を向ける。
そっぽを向いて、鳴らない口笛を吹く紅兎。
一つ咳を払って、気を取り直し、碧流は朱真へ向き直った。
「ただし、すべての危機が去ったわけでも、面目が守られるわけでもないようです。いえ、朱家の面目に関しては、ますますひどい状況に追い込まれるかと」
「……ほう」
今度は声に出して。朱真が小さく反応した。
「今回の売買取引、成立したものはまだ一つもありませんが、すでに朱家側に渡ってしまった情報があります」
わずかに、眉に怪訝な色を乗せただけで。朱真の表情は動かない。
「手付け、という形で要求されたようですね。全体からすれば、ほんの一部ですが。取っ掛かりにするには、充分なものだとか」
九山連峰は、古くから孔族が住まう土地だ。部外者が勝手に手を出すわけにはいかないが、一部でも孔族から譲られたことで、朱家はそこに手を出す名目を得た。
いかに、九山連峰が広くとも、取っ掛かりさえあれば、そこからいくらでも広げることはできる。金と人とを突っ込んで、強引に掘り進めてしまえばいいだけだ。
孔族は村ごとに鉄鉱脈の所有権を定めているようだが、それも孔族内での取り決めに過ぎない。もし、それを盾に文句の一つでも付けてくるようならば。
ただで済まないのは、どちらか。
恥も、外聞も、ないものならば。もはや、やりたい放題だった。
「――――手付けだろうとなんだろうと、正式な契約であれば、仕方ないな」
諦めたようなその言葉は、さすがに、ため息とともに。
だが、仕方ない、で済むならば、碧流も二日で往復するような強行はしない。
「手付け、というには、随分と過ぎたモノかと思いますが。それも、まだ正式に成り立った契約ではないですし」
契約を破棄して、取り戻せる手付けなら問題はない。
ただし、モノが情報である以上、取り戻せるものではないのだ。
「だとして、どうする。どれだけ偏っていようと、民間の商取引を裁判所に持ち込むか?」
それも正論。どれだけ一方的で、騙したに等しい内容だったとしても、両者が納得して取り交わされた契約は、正義だ。裁判所では裁けない。
それは碧流も百も承知だった。だから、無理やり論を曲げる。
「それは、商売人の論理でしょう。政治家の倫理ではない、と思いますが」
これには、朱真も鼻白む。碧流は続けて。
「まさか、三公家の一つである朱家が、政治家ではない、とは言わないでしょう。まして、旗を振っているのは当主の朱堅だという。知らないでは済まされない」
朱真は、苦々しげに。
「これは、政治ではあるまい」
「私財を稼ぐためならば、庶民の弱みに付け込んで、何をやっても構わないと?」
痛いところを突かれて、口を閉ざす。
「そんな家の者が政治に携わって、どこの誰に信頼してもらえるでしょうか。これは、国自体の信用問題に関わることだ」
都合が悪くなると黙る癖は、もう身に染みついてしまったのか。
「単なる一商人が相手なら、隠しようもあるかもしれませんが、孔族を相手に鉄を奪ったとなれば、それはできない。噂が広まるのも早いでしょう。他国からも、白い目で見られるでしょうね。南須国の、南公も担うべき、あの朱家が、と」
碧流は煽っている。
朱真の、朱家としての誇りを。南須国への想いを。
しかし。
「――――それだけのことをしでかすのだ。すべて覚悟の上なのだろう」
ようやく口から漏れた言葉は、やはり諦観に満ちていて。
碧流は、殴りつけたくなる気持ちを、なんとか抑えた。
「……朱真は、本当に、もうどうなってもいいんですか?」
それでも。視線には、強くその思いを込めて。
「朱家がどうなろうと、南須国がどうなろうと、もうどうでもいいんですか?」
碧流は立ち上がっていた。
「三年前、あなたは孔族を、無辜の民を救うために立ち上がったはずだ」
「それは違うと言っただろう」
「違わない! ……いいえ、違っていたっていい。結果としては、同じことだから」
言葉とともに、一歩だけ、踏み進めて。
「あの時、あなたが止めたことを、また、今度は朱家が行おうとしている。それは、あなたにとって、見過ごしてもいいことなんですか」
朱真までの距離は、あと一歩。
「皆が求めているのは、文武に優れた、品行方正な、完璧な英雄なんかじゃない。嘘を吐かず、誰も騙さない、ただの人なんです」
それは、碧流が踏み越えられるものではなく。
「――――朱真」
それが今、こんなにも遠い。
「……話は、終わりか」
朱真が大きく息をつく、その寸前。
「終わってない!」
跳ねるように。紅兎が立ち上がった。
思えば、ここまで大人しくしていたとは、紅兎にしては驚くべき忍耐力だ。
碧流も紅兎がいることをすっかり忘れていたほどに。
だが、ここに出てきて、一体なにをしようとしうのか。
まさか、本当に殴るわけでもないだろうが。
そんな心配を他所に、紅兎は真っ直ぐ、朱真の目前に立つと。
「お願いします!」
勢いよく、膝に額をぶつけそうなほどに、深々と頭を下げた。
「……紅兎」
「孔族を救ってください。お願いします!」
何度も、何度も。繰り返し。
「お願いします! アタシでできることなら、なんでもやるから!」
「紅兎、お前はもう――――」
「アタシは孔族だ!」
それは、そこだけは絶対に譲れない、紅兎の誇り。でも。
「アタシは、いつまでも、孔族だ。名前はもう、紅家だけど……」
そこで、ぶるぶると頭を振ると。
「もっと、ちゃんと、紅家にもなる! 紅家の娘らしくする!」
突然、威儀を正して。
「紅家の娘、紅兎として、心より御願い申し上げます。何卒、孔族を御救い給われますよう」
改めて、静々と、頭を下げた。
それは、孔族のために、仕方なく、だったとしても。
初めて、コトが、紅兎と向き合った瞬間だった。
ただ、それも、すぐに解けて。
「ほら、ちゃんとするから。できるから。だから、だから……」
それ以上、出てくる言葉はなく。
「お願いします!」
もう一度。深く、深く、頭を下げる。
渾身の思いを込めて。
これが、今の紅兎にできる、すべてだった。
「――――――――」
朱真が、呆然と、その、紅い頭を眺めている。
でも、碧流にはもう、わかっていた。
碧流が届かなかった、あと一歩。
それを縮めてくれたのは。
「……そうまでされては、仕方なかろうよ」
やれやれ、と。
朱真が肩をすくめた。
「朱真」
顔を綻ばせる、碧流に向かって。
「できる、とは言わん。だが、やれるだけのことは、やってみよう」
「朱真!」
やっぱり勢いよく、顔を上げた紅兎だったが。
すぐに、その場にうずくまってしまう。
両腕に、その顔を隠して。
その頭に、朱真の大きな手のひらが載せられて。
「……触んな!」
すぐさま、振り払われる。まだ、完全に和解したわけではないようだ。
だから、今度は碧流が、ぽんぽん、と。
「……叩くな」
こちらは振り払われることなく。
「ありがとうございました。紅兎」
小さく、お礼の言葉を掛ける。
人を動かすのは、やっぱり、理屈じゃなくて、気持ちなんだ、と。
もう一度、気づかせてくれたから。
「礼を言われる筋合いはない」
両腕の陰から、口を尖らせる横顔が見える。
そして、ほの紅く染まった頬を伝った、一筋の線も。
碧流が顔を上げて。
朱真と目が合う。
同時に、苦笑を交わして。
さぁ、反撃を始めよう。




