朝_大通
気づけば年が変わっていて、思えば雪が消えていた。
碧流は、そんな風に春を迎えた。
泰陽 (タイヨウ) の年越しは大人しい。
街中では、朝日に輝く嵩山 (スウザン) を拝む老人を数人見掛けた程度。大挙して大寺院へ参拝するでなく、なにくれと家を飾り立てるでもない。
それぞれの家の中では、日頃見ない家族も集まって、それなりのご馳走を並べ、賑々しく祝ってはいるのだろうが、それも寮暮らしの碧流には縁のない話だ。朝晩の食事に餅は増えたが、ご馳走というなら、碧流にとっては毎日がご馳走だし。
年の変わりを大切にして、村中総出で旧年を送り、新年を迎える流 (ル) 族の正月とは、まるで違っていて、随分と拍子抜けの気分がしたものだった。
だが、それももう前の話。
風向きが変わり、運ばれる空気も暖かくなって、たまに降るのも雪から雨へ。
分厚い外套を脱ぐと、なんだか身体も軽くなったような気がして。
冬の間に葉を落とした街路樹にも、少しずつ、新しい芽生えが見え始めている。
一般に春は始まりの季節だが、碧流にとっては終わりの季節でもあった。
学院へ入学したのが昨年の夏。この春が終われば、一年が経ったことになる。
この一年、学問に明け暮れつつも、予想外のイベントにも巻き込まれ。
それでも、充分な結果は出してきているはず、と、碧流自身は思っている。
それを示すように、都度行われるテストでも問題視されるような結果は出していない。不合格時しか連絡がないシステムには、いつも不満を感じるが。
いずれにせよ、泰陽の、学院での生活も、残るところ一年と少し。
そろそろ、新しい何かにでも挑戦したい、などと感じてしまうのも、やはり春だからだろうか。
そんな気分で晴れやかな空を見渡していると、ふと、見覚えのある、青い髪が。
碧流は、その間の数歩を小走りに駆けると。
「おはようございます、青華 (セイカ)」
声を掛けた背中が、振り返る。
すらりとした長身に、背中に垂らした青髪が揺れた。
「おはよう」
返ってきた挨拶は短く。
いかにも質実剛健を旨とする武人のごとき振る舞い。
「通学時に会うのは珍しいな」
添えられた言葉もやはり短く。でも、少しの微笑み付き。
まぁ、これが微笑んでることに気づくには、なかなかのキャリアが必要だが。
「なんだか、早起きしちゃいまして。春だからですかね」
運が良かった、などと余計なことを言いかけて、慌てて口をつぐむ。
なんだか浮かれているみたいだが、これも春のせいにしよう。
「そうか。早起きは良いことだ」
そんな碧流に気づくことはなく。
青華は道徳の教科書のようなことを言い、後は真っ直ぐに前を向いて歩く。
背筋を伸ばし、両腕も正しく振って、歩幅もほとんど一定に。
碧流がやると、どうしても大げさになるのだが、青華はどこまでも自然だ。
「どうした?」
そんな視線に気づいて、青華が碧流に目を向けた。
感心して、とはいえ、女性の所作をじろじろ見るのは無礼だった。
今さらそれを言うのもはばかられて、碧流はとっさに話題を振る。
「そう言えば、青華は、いつから学院に通っているんですか?」
思えば、青華とこういう話をしたことはなかった。
会うのは、たまに重なる講義の中か、でなければ、いくつか助けてもらったイベントの中でだけ。そもそも雑談らしきものをしていない。
「一昨年の春だから、もう二年が経ったんだな」
青華は、碧流の問いに答えつつ、自らも感慨深げに振り返る。
「私の知っている限りだが、朱真 (シュシン) や四神の四人もほぼ同時期だったはずだ。その一年後に、雪祈 (セツキ) や紅兎 (コウト) が入ってきたと記憶している。紫絡 (シラク) は、私の前からいたな」
意外、と言っては失礼だが、すらすらと他のメンバーのことも教えてくれた。これまでも濃厚な思い出を作ってきた仲間だが、入学時期を聞いたのは初めてか。
「よく覚えてますね。何か、きっかけでも?」
「いや、なんとなく覚えていただけだ。知り合ったのは、あの模擬戦の時だな」
碧流が青華と出会ったのも、昨年の夏に行われた模擬戦のことだった。
では、知り合う随分と前から記憶していたことになるが。
「……まさか、入学者全員覚えてるわけじゃないですよね?」
「そんなことはない。四神は目立つし、四方国からの入学者は数が少ない。だから、たまたまだ」
言い訳するように言い、照れたように微笑う。
いつも通り朴訥に話しているようでも、碧流には少しずつそこに込められた感情が読めるようになってきている。
そう思えば、なおのこと気になってしまうのは。
「ひょっとして、この二年で卒業、なんてこと、あります?」
その質問は、つい、恐る恐るになってしまう。
だが青華は、初めて、わかりやすく笑うと。
「いや、そんなことはないさ。まだまだ学ぶことはある」
それは、良かった、というか、一安心というか。
せっかく知り合ったのだし、こんな早くに別れるのは淋しい、というか、物足りない、というか、なんというか。
碧流がそんな葛藤と言い訳を胸中で繰り返している間に。
「――――卒業、か」
青華が小さく呟いたその言葉には、らしからぬ迷いが、強く絡みついていた。
「碧流は、里帰りはしないのか?」
青華がそう問いかけてきたのは、もう学院が間近になった頃。
「里帰り、ですか。予定はないですね。いろいろ忙しいですし」
忙しい、というのは言い訳だ。
遠いし、費用もかかるし、特に用事はないし。
ただ、それらの理由を挙げるのは、少し薄情に思えただけだ。
「そうか。忙しい、な」
青華の呟きは、そんな碧流の気持ちに気づいたかのようで。
「青華は帰ったりしたんですか?」
誤魔化すように、碧流が問い返す。
それに、青華も小さく首を振って。
「いいや。私も、忙しかったんだ」
その答えは、明らかに、碧流に合わせたもので。
青華の微笑みにも、なんだか苦いもの混じっているように見えた。
「青華の家は武家なんですよね。そういうの、厳しそうですが」
やっぱり、余計なことに首を突っ込むのは、自分の悪い癖だ。
そう気づきつつも、碧流はその問いを止めることができない。
案の定、青華は苦い微笑みを浮かべたまま。
「武家の教えにも、厳しい点と、そうでない点があるさ」
この辺でやめておいた方がいい、それはわかっているのだが。
「青華の家は、東公家なんですか?」
どこまでも、単刀直入に。
青華は、一度、驚いたように、こちらを見たが。
すぐに、視線を正面へ戻し、眼前に聳える学院の正門を見据えると。
「学院生の氏素性を探るのは、学則違反だぞ」
と、たしなめた。
「……すみません」
そう言われてしまうと、碧流は謝ることしかできない。
先の碧流の問いは、失礼を通り越して無礼だ。
それは、わかってはいたのだが。
碧流は横目で青華の横顔を見上げる。
どこか、少しだけ、聞いて欲しがっているように。
もし、何か重いものを抱えているのなら、話を聞くだけはできる、と。
そう、思ってしまったのだ。
だが、今の碧流は、ただ、後悔に襲われている。
だからと言って。お前に何の資格があって。ああ、やめておけば良かった。
そうして、うなだれる、碧流の頭に。
「――――私は、東公にはなれないよ」
初めて聞いたような、優しい声音で。
青華はそっと、呟いて。
そのまま、学院へと消えていった。
その言葉は、少しだけ嬉しくもあったのだけれど、それ以上に。
言いたくないことを、言わせてしまった、と。
余計に後悔を募らせる一言でもあった。