第64章 本能
「──カ……ハッ……!」
彼女の攻撃を受ける準備など全く出来ていなかった私──愛翠 杏紅は、
腹部を貫かれた衝撃に堪えきれずに吐血してしまった。
「気分はどう?……自分の真ん中を奪られた気分は!?」
彼女──夜川 涼美の語気が、今までにないほどに強まっている。
「確かにアンタは悪くない。……“アレ”は所謂正当防衛なワケだからねぇ。
だから今からワタシがアンタにすることは全部、タダの“八つ当たり”だよ……!神様のイタズラってやつに対するイライラを……アンタで発散させてもらうよっ!」
彼女は、私の腹部を通っている腕を、回し始めた。
その動きにより、私の腹部には、表しようのない激痛が走る。
「ぐわぁぁぁっ!」
「教えなさいよ……どんな気分か!どんな痛みか!
それがワタシの中でずっと暴れていた痛みだよ……仲間を2人も、それも自分のいないところで喪って……二度と逢えない痛みっていうのは……!」
全身を駆け巡る激痛。身体が張り裂けるのではないかと錯覚すらしてしまう。
しかしこのままずっと居ては、私に死が訪れるだけ。まずこの腕をどうにかしなければ。
「……ぐぅっ…………!」
私は両手で、彼女の腕を掴んだ。
「無理矢理引き抜こうっていうのかしら?……なら……させないっ!」
彼女の腕がぐっと前に伸びた。何をするのかと思った次の瞬間、
彼女の手が、私の左胸を鷲掴みした。
周囲に比べて豊満な身体が仇となった。
「ぐわぁっ……!」
「縛りかけてやったわ……!これでアンタは逃げられない!……ああ、しかもちょうど良いわね。……このまま、アンタの息の根…………止めてやる!」
涼美は私の胸元に爪を立て、その手首をゆっくりと捻り始めた。その皮膚を切り取って、”動力源”だけを強奪するつもりだ。
「そんな……こと…………させないっ!」
私は再び、彼女の腕を強く握り、彼女の手首に思い切り力をかけ、数秒かけて、
彼女の手首をへし折った。
「ぎぃっ……!」
痛みによって涼美が力を少し抜いた瞬間に、私は急いでその腕を抜いた。そして大きく前に跳び、涼美と距離をとった──
はずだったのに、私が振り返った時には、彼女はもう、
目の前にいた。
「逃がさないって……言ったでしょう……!?」
鋭い眼光で私を睨みつけた彼女は、低い声でそう言いながら、私の身に向かって素早く腕を伸ばしてきた。
それを私は、視界で捉えずに、感覚で認知した。視覚で捉えているようでは、命取りになるからだ。
視覚で捉えた時、私の電脳には、多くの情報が舞い込んでくる。その時に入り込んだ不必要な情報が、私の電脳に、不必要な選択肢を増やしてしまうからだ。
だから感覚で捉える。今まで生きてきた中で得た知識を用いて、最良の選択を百分の一秒の次元で選んでくれる、身体の本能に全てを委ねることに決めたのだ。
身体は、涼美の腕を間一髪で躱した。
素早い動きの所為で腹の大きな傷はひどく痛んだが、そんなことを気にする暇はなかった。
涼美の攻撃が続いているからだ。
精神的ダメージを食らっていただけで体力の有り余っている彼女に対して、私の身体は傷を負っている。“瞬治細胞”による超高速自然治癒も期待されるが、完治にかかる時間はそう短くない。良くて2分と言ったところか。
私たちの戦闘基準を考慮すればお気づきかも知れないが、2分なんて時間は気が遠くなるくらい長い。“長”いと言うより“永”いに近いくらいだ。
そんな永久にすら等しい時の間、私は涼美を相手にしなければならない。
それにこの傷は、私に攻撃の余地を与えてくれないだろう。ある程度の時が経ち、その刺激がやや鎮まったとしても、
この涼美という女を相手に行う行為はそれなりに大きな動きを要するので、そんな無謀とも言える行為をしてしまえば、本来必要だった2分以上の時間を、治療に専念させなければならなくなり、逆効果になってしまうのだ。
その事実を知ってか知らずか、ここぞとばかりに連撃を仕掛けてくる涼美。
それらを私は、傷が開かないように、最低限の動きで回避しなければならない。
彼女が右拳を放ったなら、私はそっと右に逸れるだけ。
彼女が私の足元を掬おうと脚を放って来たなら、私は一瞬その脚を受け止め、流すだけ。
幸いだったのは、傷を負っていても、“武戦機”の機能が働いて、『勇戦状態』時並の動体視力を発揮できたことだ。
お陰で、同じ『勇戦状態』の涼美の連撃を全て把握し、対処手順を正確に見定められた。
しかし、それも長くは保たなかった。
その瞬間は、回避戦一方の状態が続いて30秒ほど経過した後だった。
それまでと変わらず、ひたすらに回避行動をとり続けていた私の、
視界が、
大きく揺れたのだ。
エネルギー切れを報せる『WARNING!!』の文字や、電波をうまく受け取っていないテレビのような視界の途切れは無く、ただ、揺らいだだけ。
まるで私の頭が、大晦日に鳴り響く除夜の鐘のように。
「……『SHAT』訓練学校首席卒業者の実力を、侮らないで欲しいものね」
揺らぐ視界に対応しきれずに倒れる私の耳に、涼美の声が届く。
「手負いのアンタが、『勇戦状態』のアタシの本気の攻撃を全て避け切るなんて話が有り得るはずないでしょう……?
全て“演技”よ。速度も全て遅めに調整した。攻撃力も低めに抑制した。アンタは感づいてないでしょうけど、攻撃する手足の順番もパターン化していたわ」
作戦が上手くいったからか、涼美の声は少し明るくて、妙に優しくて、艶やかであった。
「……その隙を突いて、ワタシはアンタの視覚を支配している伝路を故障させた。それだけの事よ。いまアンタの身に起こった全ては。
……相手が悪かったと思いなさい。ワタシは広楽島での実戦経験の量が違う」
倒れていた私は、必死に起き上がろうとした。揺らぐ視界を何とか修正しながら。
しかし無駄であった。
涼美の両手が、私の肩を押さえつけ、そのまま私の身体は、乱暴に地面に叩きつけられた。
「……今更無駄なことしないで……もう見苦しいわ」
涼美は、軽蔑と言うよりも同情と言うべき言葉を私に放った。
「おとなしくワタシに殺されるのが身の為というものだと思うわ。圧倒的に体力差があるワタシとアンタの闘いは、単にお互いを疲れさせるだけよ」
「……だからって……死ねは……しない……!」
私は、涸れきったはずの体力を何とか振り絞る。
その私を見て、涼美は確かに、溜め息を吐いた。
「アンタの意思に任せようとしたワタシが間違っていたのね……コウキさん……シュウさん……!
ワタシはコイツを……殺さなきゃならない……!」
そう言って彼女は、ワタシの首を、それまでの中で一番の力で絞めた。
「がっ……!ぐっ……!」
私は息をしようと必死に藻掻く。が、単純に力で押し負けている私が勝てるはずもなく、動くことによって寧ろ体内の酸素が薄れていく。
「アンタの負けよ、愛翠 杏紅!死に際くらい……素直に認めなさい!」
まるで子を叱りつける母親のように叫ぶ涼美。
彼女の声を聞いていて、私は思ったことがある──。
──確かに……いっそ、このまま死んでもいいのかもしれない。涼美は高貴と秋柊の意志を受け継いでいるし、何より彼女が一番、
人間との共存を願っていた。
彼女に総て委ねるのも、間違いではないのかもしれない──と。
──けれど、
本能が、
それを認めていない。
私を死なせまいと、私の身体を勝手に操って、
生き延びて涼美を殺せと、私の電脳に、乱暴に訴え続ける。
「……ぐっ……!」
朦朧とする思考の中、私の手は本能に操られ、涼美の肘にスーッと伸びて、
その肘の関節を支えていた人工筋肉を、皮膚ごと切り裂いた。
「なっ……!」
涼美は痛みよりも先に、その手に力を入れられなくなり、結果、私の首を押さえられなくなったことに驚いていた。
酸素を大きく吸い込み、次の攻撃に備える私。
──と言っても、肘から先の腕が使い物にならなくなった今、涼美が行うことの出来る攻撃はごく僅かになった。
対して私は、十分な時間が経過したので、腹の傷も完治。破損している部位も少ないので、100パーセントのパフォーマンスを期待できる。
形勢の逆転に次ぐ逆転。しかも彼女には、“瞬治細胞”も他の治療道具も存在しない。
事実上、逆転は不可能。万事休す、という他ないのである。
「……それでも…………ワタシはアンタに……負けるワケには……!」
辛うじて皮一枚で繋がっている腕をぶら下げながら立ち上がる涼美。
「うぅぅがァァ!」
四面楚歌に追いやられた獣が如き吠え声と共に、打開不能と判った状況に無謀にも突っ込む涼美。
それを私は、真正面から受け止めようとした。正々堂々と、その両手を用いて。
しかし彼女は、私がそうすると読んでいたのか、
その手に、喰らいついた。
『SHAT』トップの有する武器は、手脚だけでなく、“口”もその一つなのだと思い知った。
指の付け根あたりが、強く噛み締められているのが判る。
噛み締めている当人の鼻息はひどく荒れている。「逃がさない」という気持ちがひしひしと伝わってくる。
ハイエナの噛む力はおよそ300キロだそうだが、今の彼女の顎の力は、冗談でなく、それに匹敵するのではないかと思われる。
しかし、だからといって黙って噛み千切られていいわけがない。
私の手を噛むために屈んだ彼女の身体に、私は──
否、私の本能は目を付けた。
手も足も使えない状態のままでいる彼女の鳩尾は、がら空きだった。
「ガフッ……!」
気が付くと、私の脚は、涼美の鳩尾に刺さっていた。
そう、気が付くと、だ。
私の意思とは全く関係なく、脚だけが勝手に動いていた。
私の、
私の身体の、
”生きたい”という本能が、私の身体をいつよりも速く突き動かしていた。
確実に、彼女の身体にとっては大打撃。決め手になっても何らおかしくない一撃に違いなかったのに、
ほんの少しも、彼女の眼は、死んでいなかった。私を睨む瞳は全く揺れ動かず、攻撃的でありながら、復讐心とはどこか違う感情を孕んでいた。
「絶対に…………殺す……!」
息も絶え絶えの状態で彼女は、諦めるどころか戦意と殺意をより露わにしていく。
しかし、ボロボロの彼女の、悪足掻きと言っても過言ではない姿を見ても、
「見苦しい」とか「可哀想」とかいうことは、全く思わなかった。
私の本能が、思うままに私の身体を動かしている中で私は、
必死で私を殺そうとする涼美の姿にどこか、
憧れていた。
「そこ……動くなよ……!」
涼美の、正真正銘、最後の攻撃が来るかと思われたとき、
”彼”は、やって来た──。
パチパチパチ…………!
私たち以外に音が一切存在していなかったはずの、私たちの周囲の世界に、
一つの、物寂しい拍手が響いた。
「素晴らしいよ、君たちは……」
その拍手と、声の主は、
純黒のローブを、頭まで纏った、
一人の男だった──。




