第5章 決意
「──ま、そんなこんなで、オレは今、こうして裏の世界から“人造人間”を見守ってる。かつての同僚から、逃げ回ってる」
松月 之親は、ただ天井を見つめながら、そんな言葉で、長い長い自己紹介を終えた。
「長くなっちまったな」
長いと感じたのはさすがに同じだったようで、彼は、座っていたから立ち上がると、そばにあった電動式コーヒーメーカーで、コーヒーを2杯注いだ。1つは彼が飲み、もう1つは私に手渡された。
コーヒーに口をつけた瞬間、今朝の喫茶店のコーヒーを思い出した。
珍しいこともあるものだ、日に2回もコーヒーを飲むなんて。
「……!……そう言えば、オレの名前をまだ言ってなかったな」
彼がコーヒーを飲み思い出したのはそんなことだった。
「オレの名前は、カワカ──」
「出来たぞ」
之親の言葉を遮って、白鷺 京助が、私と之親の間に立った。
「おい、今まだ──」
「情報提供機の除去が完了した。これでもう、警察に常に監視されている、ということは無くなった」
私の心は晴れたが、それ以上に之親の表情が一気に解けた。
「本当か!よかったなぁ!……えーっと……お前名前なんだっけ?」
そう言われてハッとした。まだ私は名前を教えていない。
私がペンを取り、
『皆木 姫花』
と名前を書こうとすると、白鷺さんが咳払いをして、またも遮った。
「そのことなんだが」
彼は私の顔を覗き込んだ。驚いて少し身を引く私に彼は言った。
「君に新しい名前を与えることにした」
「えっ……」
母音だけで構成されたその声は、今の私にも発することが出来た。
と言うより、出そうと思って出した声ではなかった。
「ただしそれは、君がココに住むと決めてからの話だ。
君の名前──皆木 姫花というその名前では、ココで過ごせない。たとえ“人造人間”管理局の目は免れても、警察の目からはまだ逃げきれていないからな」
「ミナキ……ヒメカ……。お、お前、どうやってその名前を……?」
之親が、白鷺さんの方に向き直って問うた。
「チップに情報があった。最近の情報提供機には、氏名の情報まで登録されているらしい。“その手”の人間が欲しがるわけだ」
感心するように白鷺さんは言うと、再び話をこちらに戻した。
「“国民名簿”から名前を削除しない限り、警察はオレたちの行動を監視出来る。……之親、君も名前を変えなければならん」
「ああ、そうだな。あれだけ暴れ回ったんだ、警察も放っちゃおかねぇ」
之親がそう言うと、白鷺さんがまた別の端末を持ってきて、之親に手渡した。
「選んでおいてくれ」
「おい、またコレかよ」
呆れるように之親が言う。
「仕方ないだろ、一刻を争うんだ。子供の名前を決めるんじゃないんだぞ」
「何だよ、そりゃ皮肉か?」
「いいから、さっさと決めろ」
へいへい、と之親が端末をいじくり始めた。
『あれはなんですか』
と、私は書いた。
「アレは“偽名名簿”。“エミリー”が、“国民名簿”に載っている名前を統計して、比較的多かった名前を抽出、並べてくれたリストだ。
あの中から名前を選ぶことで、一般人に溶け込みやすくなる。或いは平凡な名前を選ぶことで、名前を覚えられにくくする」
また小難しい単語が増えた。
とにかく名前が載っているということだけは把握した。
「『之親』というのも、当時多かった名前の一つだった。
『松月』は、その時の彼が好きだった時代劇風SFに出てくる主人公の苗字だ。視聴率は低く、マイナーなドラマだったから、不自然だと思われなかったのだろう」
……いや、どう考えても不自然なのだが。
「ともかく、先に君の答えを聞かなければ」
話題は急にUターンし、私は決断を強いられた。
「君に全てを任せる。君の意見は決して否定しない。君の望む方を選べ」
私は息を呑んだ。言いようのない、妙な緊張感が、部屋を包んだ。
「ここで住むか── 元の生活に戻るか──」
そう問う白鷺さんの目は、優しかった。脅迫の意思はないことを、その目が物語っていた。
そして、
私は決心した。
『なまえを ください』
白鷺さんは微笑むと、
「わかった」
とそう答えた。
「提案ばかりで悪いのだが」
間髪入れず、彼は次の問いに移った。
「この男の、娘、という立場で、生きてもらえないだろうか」
目玉が飛び出そうだった。
それはその肩を持たれた“男”もそうだったようで、
「はぁ!?」
と声を荒らげて驚きの意を示した。
「別にコイツを育てるのはいいが、何故『父親』なんだよ、オレが!」
「そうした方が色々都合がいいからだ」
端的に白鷺さんは答えた。
「ギャンブルに溺れ、妻に見捨てられ離婚した父とその娘。こんな設定なら、何も不自然なところがない。そうだろう」
「そう……だけどよ……!」
之親は歯をくいしばる。
「……くそ」
否定出来る所がなくて、彼はそう呟いた。
「君も、それで良いか?」
白鷺さんが私に問う。
私も、特に否定はできないので、渋々だが、頷いた。
「よし、決定だ」
白鷺さんは、にこやかに笑いそう言った。
「で?名前は決まったのか?」
「ああ、決まった」
訊かれた之親は、まだ不如意であると言った表情のまま答えた。
「名前は『智』。これで行く」
「智か……」
白鷺さんは、その名を反芻しながら、“偽名名簿”を一瞥する。
「確かに多すぎず少なすぎない、いい順位の名前だな。よし、では早速、“国民名簿”を書き換えることにしよう」
彼はそう言うと、“エミリー”と再び対面した。
「苗字はランダムでいいな?」
「ああ、任せるよ」
若干テキトーな対応を見せる之親、もとい智。あるいは、私の第2の父になる男。
「ならば……」
白鷺さんは、“偽名名簿”の中から、ある苗字を選んだ。
「これからの苗字は、海凪だ。海の凪。悪くないだろう」
「そうだな」
この上ない棒読み。
上の空とはまさにこの状態のことだろう。
「さて、次は君だな、姫花」
いつの間にか呼び捨てにされている。
そんなことはあまり気にならなかった。
私は、白鷺さんに差し出された“偽名名簿”を受け取る。
「申し訳ないが、“エミリー”の選んだリストの中には、女性名の枠が少ない。今まで、この男の名前しか選んだことがなかったからな」
彼のいう通り、女性名は少ない。“女性”と銘打ってカテゴリーされたリストをスワイプしていくと、すぐにリストの底に着いた。
「もし君の気に入った名前が無ければ、君自身が決めるのも良いだろう。当然ご存知かとは思うが、カタカナ名とかそれに漢字を当てた名前は好ましくないぞ」
言いながら白鷺さんは、ようやく再起動した“エミリー”に、“国民名簿”を開いてもらい、松月 之親の名前を探している。
良い名前が思いつきそうにないので、リストの最初と最後を行ったり来たりしてみたが、どうもしっくり来ない。
『ユミ』とか『ミサキ』とか、今となっては昔の名前で、正直言っておばあちゃんみたいな名前がイヤ、というのもあるけど、何より『海凪』なんて苗字に似合いそうな名前が見当たらない。
画面とにらめっこし過ぎて、少し目がチカチカしてきたので、不意に智を見る。
まだ納得がいっていないのか、どこから出てきたのかわからないキャンディーを咥え、例の古びたテレビを、細っそい目でみている。
その様を見た途端、私の脳裏に、あるものが舞い降りてきた。
『ラブ・ラビリンス』。
女子向け電子週刊マンガ雑誌『ガーリッシュ』にて連載している、私たち女子小学生に大人気のマンガ、通称『ラブラビ』。
女子高生の主人公、卯沙樹が、同じ高校に通う元オタクのイケメン、斗蘭や、学校一のモテ男で元不良、頼雄と繰り広げる、典型的なラブコメである。
あの会話の少ないクラスですら、その話は盛り上がった。よくみんなで、トラ派かライト派かで論議していた。
智の仕草が──認めたくないが──その頼雄に似ていた。今、全国の半数以上の女子小学生を虜にしているであろうイケメンキャラに似ていたのだ。
そこで私が思い出したのは、卯沙樹の良き友であり、師であり、それでいて恋敵の、
季楽里である。
彼女は天真爛漫、それでいて計算高い軍師。中学でモテた友人を徹底的に研究した結果完成した、モテる為のテクニック、『モテ術』を駆使して、時には友人にアドバイスを与えつつも、自らの恋を成就させんと奮闘する。
斗蘭や頼雄も勿論だが、私は彼らよりも飄々(ひょうひょう)とした口ぶりの彼女が好きだった。
『海凪 キラリ』。
私はその名前をとても気に入った。語感が特に。
当てる漢字は、何故だかスラスラ出て来た。
私は、脳裏に刻まれたその名前をスケッチブックに書いて、まずは父親に見せた。
「ん……?海凪……き……」
「海凪 希良梨」
“エミリー”の前から離れ、白鷺さんが淀みなく読んだ。
「平凡な名前ではないが……いいんじゃないか」
「ああ、悪くねぇ。キラリと光る次世代の星、ってな感じでよ」
……言っていることがよくわからない。この人の発想力はぶっ飛んでいるんだろう。
「……では、“国民名簿”に記入しよう」
白鷺さんが、再度“エミリー”と見つめ合う。かと思うと、今度は私の方に顔を向け、深刻そうな顔でこう訊いた。
「これ以上、引き下がることはできない。……本当に良いな?」
声を低くして、そのコトの重大さをより意識させる白鷺さん。
私はそれに応えるように、ゆっくりと、首にハリガネでも入っているみたいに固い動きで、頷いた。
「……よし、“エミリー”頼むよ」
白鷺さんはそう呟くと、文字消去キーを長押しし、
『K』
『A』
『I』
『N』
『A』
『変換』
『K』
『I』
『R』
『A』
『R』
『I』
『変換』。
キーボードの位置さえ覚えていれば、遠くからでも視認できるほど、遅く、重く、丁寧に入力した。
確定キーを押す前に、彼は再びこちらを向いた。
──しつこいようだが──
そんな目をしながらも、彼は私の返事を促してくる。
だが、私は一欠片もしつこいだなんて思わなかった。名前というものの重大さが、そんなことをさせなかった。
彼があのキーを押すことで、この世から、1人、皆木 姫花という人間が、物理的には消滅する。
彼女は、父や母、クラスの親しい友だち、その他にも数知れぬ程いる私を想ってくれる人──彼らの記憶にしか残らない。
だが、その記憶の中からも、いつか彼女は去るに違いない。
だって、最初は覚えておこうと努めていても、別に覚える人やモノが増えて来て、物理的に存在しない彼女は、優先事項の中で下位になっていく。
そして──。
頬を、何かが伝った。
伝った何かは、私の顔の上を滑っていって、
私の下半身を包む布団に、
シミを作った。
それを見て、いや、見ずとも、私は、その何かの正体を知った。
だが何故それが出てきたのか、わからなかった。しかしすぐに悟った。
姫花を失うことを拒んでいる、
私がいた。
『心』という、私の中に存在する空間の中で、
希良梨が、
姫花を、
消そうとしている。
凶器でも持ち合わせているのだろうか。
姫花が必死に抵抗している。
希良梨も、出来れば殺したくない、そう思っている。
姫花と、希良梨──。
その空間の所有者である私と同じように、その2人も、泣いていた。
けれどその時、希良梨が、口を開いた。
「あなたは、“迷惑”をかけてきたのよ」
と。
「この三日間だけでも、あなたは沢山“迷惑”をかけてきた。 家出をした。誘拐犯に連れ去られそうになったところを助けてもらった。あなたがかけたわけじゃないけれど、一般道で逃げるために危ない方法で走った。
他にもあなたは、いろんな人に迷惑をかけているのよ。
“迷惑”って字をバラして……。
人に“迷惑”をかけるってことは、
人を“迷”わせ、“惑”わせているのよ。
ねぇ、姫花。あなたは“迷”い“惑”うことを、ひどく嫌がったよね?
考えれば、もっと他に選択肢があったことも、悩むのが嫌だから、そう言って、一番最初に思いついた選択肢だけを選んできた。
けれどその結果が今、多くの人を“迷”い“惑”わせているに違いない。
“迷”い“惑”うことを好む人なんて、そう多くいないわ。その行為はまるで、自分の首を自分で絞めているみたいに、苦しいのだから。
そんな彼らに、あなたは詫びることは出来る?たとえそれが、自分の意思では可能であったとしても、姫花のままでは、認めようとしない人がいる。
大丈夫、希良梨は姫花の意志を、無駄にはしない。希良梨が、姫花の成し得なかったことを、必ず成してみせるわ──。
だから、姫花……。
ゴメン、
いなくなってほしい」
溢れた涙を拭って、私は顔を上げた。
眼前には、怪我した小動物でも見つけたみたいな顔の智がいた。
「…………おえん……ああい……」
『ごめんなさい』。
たった6文字すらもまともに話せない自分に、憤りすら感じた。もしかするとこれもまた、一つの“迷惑”なのか……?
けれど智は、いや、“お父さん”は、私に対して、何も言わなかった。
その6文字は、理解した。
そんな顔つきで。
その向こうに、椅子に座ったままこちらを見つめる白鷺さんが。彼もまた、心配そうな表情でこちらを見ている。
そう言えば、彼に対する返事がまだだった。
というより、その為に、あの2人は葛藤っていたんだった。
私は、今度はまた、スケッチブックに文字を書いていく。その間も、ポロポロと涙は溢れるけど、私は書き続けた。
よくもまあこんなことを、この男はあんなにあっさりできたものだ。
そんなことを考えながら、私はようやく返事を書き終え、彼に見せた。
『おねがいします』
白鷺さんは、待たされたことを怒ることもなく、かと言って大丈夫かと声をかけることもなく、ただ微笑み頷いて、
確定キーを押した。
私の中の水分を全て使い果たすくらいの涙と、
私の中の苦しみを全て吐き出してしまうくらいの嗚咽が漏れたのは、
僅かに、2分後のことだった──。
作者の彩葉です!
これにて“第1部”完結といたします!
次章からは“第2部”という形で投稿しますが、登場人物、設定など、大きく変わるところは特にありません!(笑)