第55章 離別
──2116年8月21日、午前11時24分。
私──愛翠 杏紅は、
殺人の容疑での逮捕という形で、
5人で共に暮らしていたシェアハウスを立ち去ることになった。
「──行くぞ」
護送担当の警官2人に、片方ずつ腕を掴まれ、外へと連れられて行く。
私は無駄な抵抗などせず、彼らに連れられるがままに身を任せた。
そのまま玄関に向かい、そこにある赤いスニーカーを履いた時だった。
「姫花ァ!」
と叫びながら、私の身に縋り付く少女が。
彼女の名は花理崎 菜那。
かけがえのない私の親友で、私の正体を知る数少ない人間の一人。
今から連行される私は、言わずもがな、彼女の顔を見ることは二度と無いだろう。
否、無いと祈りたい。何故なら彼女を見るということは、
私は彼女を、拘置所で見てしまうことになるのだから。
「行かないで……!まだ……アタシといるって言ったじゃん……!」
その言葉は、子どもの言うそれだと喩えられてもおかしくないが、その表情は命を乞う者のように見えてならなかった。
「申し訳ありませんが、そこを退いて頂けますか」
冷淡な口調でそう命ずるのは、通報を受けて警察と共にやって来た、“人造人間”管理局の女性、緒張 万李だった。
昨日私たちに見せた、そのエリートという他ない人物像を持つ者らしからぬ、あからさまな怒りを引きずっているのか、彼女の眼は刃物のように鋭く、それで刺すような非情な視線を菜那に送っていた。
もちろん隣には、あのゴツイ秘書──波間部 水零も居る。彼女もまた、射るような眼差しで菜那を見つめているが、それはただ、万李を守り抜くためのみであろう。
「そうして頂けないのであれば……あなたにも、公務執行妨害の罪で連行して頂くことになりま──」
「──黙りなさいよ、この金髪エリート!」
万李の言葉に覆い被さるように声を重ねた菜那。あの冷酷な瞳を見た上でそんな事が出来るのだから、彼女は勇敢というしかない。
彼女はその場で勢い良く立ち上がり、その相手である万李にも劣らぬ鋭い眼で睨みつけた。
「アタシたちの絆は判んないでしょうね、アンタらみたいなカチカチ頭の奴らには!
何が公務執行妨害よ、アンタらの方が私たちを妨害しているじゃない!どんなエリート街道渡ってきたか知らないけど、昨日今日会ったような奴にとやかく言われる筋合いなんて無い──」
──パシンッッ!!
玄関に響く、何かが弾けたような音。
それは、怒れる万李がその感情を昂らせたあまり、菜那の頬を叩いた音だった。
職業柄、そんなことは出来まいと踏んでいた菜那は、叩かれた頬を押さえながら驚き、その直後に、思い出したように再び万李を睨んだ。
「……今の攻撃で、これまでのあなたの罪は全て無かったことにします。
……それでもなお逆らうのならば、今度こそ公務執行妨害を適用させて頂きますからね」
毅然とした態度の万李を前に、菜那は瞬時たじろいだ。
公に務める者としての制限をかけられた万李を甘く見ていたからだ。
しかし菜那はそれでも、その信念を曲げなかった。
『杏紅は離さない』という信念を。
「どんな罪にかかろうとアタシは杏紅と離れない……!杏紅を連れて行きたいんなら……」
菜那は、私を連れる警官の前に立ちはだかった。
「アタシを先に連れて行きなさい!」
何事も恐れていないような眼をする菜那だったが、身体の僅かな震えや声色が、その眼が装いのものであると教えてくれた。
私は、そんな彼女を見ているだけで息が苦しくなって、いよいよ、
「やめて……菜那」
と言った。菜那にだけ聞こえるような、小さな声で。
しかしその声は、恐らく菜那には届かなかった。
私の声に重ねるようにして発せられた、ある声に掻き消されて。
「やめておくんだ、花理崎さん」
冷静で落ち着いた、それでいて力強い声。
制止された菜那に続いて振り向いた先に居たのは、
真っ黒なシャツに身を包んだ、黒雨 凛だった。
「君まで捕まる必要は無い。そんな女の為に、つまらない意地など張るだけ無駄だ」
万李にも匹敵しそうな冷たい声。
日頃なら、低音で柔らかい心地の良い声なのに、今の彼のそれは、聞いているだけで暴力を振るわれている気分になる。
「つまらない意地ですって……!?」
一方、菜那は食い下がらない。むしろ黒雨さんの方に突き進んで行く。
「急に態度変わったと思ったらそんなことまで言い出すの……!?
これは意地じゃない、アタシたちの絆なの!」
「カンケー?……そんなガラクタと?」
貶むような目でそう告げた黒雨さんへの怒りが沸点に達した菜那は、
“杏紅(私)を連れて行かせない”と言う目的も忘れ、彼の顔に向けて、拳を放った。
しかしその手は、 黒雨さんに容易に受け止められ、それを上回る力で、菜那の手は捻られた。
「痛っ……!」
と悶える菜那。
「……一時の感情に任せて暴力を振るい、将来をふいにする……そんな事があっては実に愚かしいぞ、花理崎さん。
今のは無かったことにするから……早くあんなゼンマイ女には別れを告げるんだ」
そう言うと、握り潰してしまいそうだった菜那の手を乱暴に離した。
しかし、言われて素直にそうする菜那ではない。彼女は、歯を食いしばって、その挨拶を拒んだ。
「……早く!言え!」
そんな彼女を、大声で吠えて急かす黒雨さん。
それでも何も言わない菜那を見て諦めた彼は、今度は万李を促した。
「……埒が明かないので、連れて行ってやってください」
と。
「……お心遣い、感謝致します」
万李は深々と頭を下げると、警官の方に向き直り、頷いた。
警官は命令通り、私を連れて玄関を降り私を連れて行く。
私は拒むのではなく、ただ振り返って、ある方を見た。
その時、彼は、
軽蔑するように私を見下していた。
それまでの彼の人物像からは想像できない、憎悪心しか生み出さない瞳。
その瞬間、私は回顧していた。
この事態の発端になった、今朝の事を──。
──午前8時31分。
太陽光が、窓越しに降り注ぐ。
私は、その光に揺り起こされるようにして目を覚ました。
続いてゆっくり身体を起こした時に、落石のようにして疲れが肩にのしかかってくる。
昨夜、夜遅くまで海辺にいたことの疲労のようだ。
加えて、菜那と二人して泣きあったのも、この疲れの原因であるに違いない。
ボーッとしつつ、テレビを点けたり、ベッドの上に転がっている液晶時計を触ってみたりして起きようとするが、結局、何も変わらないまま。
しかし。
コン、コン。
突然のノック音。
それを聞いて、私の身体は目覚め、同時に心拍数が少し上がる。昨日の朝と言い今と言い、ノック音というのはこうも不安を煽るものだったろうか。
「はい」
とにかく私は、ノックをしたドアの向こうの人に向けて返事をしてみた。
少し間があった後、か細い声で、
「……私。……寧音……だよ」
と応答があった。
その声を聞いてひと安心する。確か今日の朝食当番は彼女だったはず。朝食が出来たのを知らせに来たんだろう。
しかし、続いてドアの向こうから聞こえた言葉が、その考えを一蹴してしまう。
「……ちょっと、ドア……開けて欲しいの」
申し訳なさげにそう言う、寧音さんの声。
ドアを……開ける?何故?
朝食完成のお知らせだけならドアなんて開く必要などないのは当然。
大したことでなければ良いが……そう思った途端、胸騒ぎが始まる。
「……ちょっと待ってくださいね」
とにかく着替えなければ。そう考え、私はそう応えた。
数分後、私は着替えを終えると、意を決してドアノブに手を伸ばす。
ガチャリ……。
いつになくゆっくり、丁寧に開く。
その向こうには、もちろん寧音さん。
そして、壁に凭れて立つ黒雨 凛がいた。
彼の顔には、いつものような微笑は無く、理由不明の険しい表情だけがあった。
「……朝早くゴメンね、杏紅ちゃん。実はその……黒雨さんが、用あるんだって」
こちらは相変わらずの申し訳なさそうな態度。
「ありがとうございます」
と私が礼を告げると、
「うん……」
と短く応えて去っていく。
私はそのときにやっと気付いた。
彼女の仕草の中に、寂しさが漂っていることに。
その理由を聞く暇もくれず、リビングに向かう寧音さん。
それによって、私と黒雨さんの二人きりになった。
「……どう……したんです?」
とにかく普通ではない、何かあったことを察していた私は、依然険しい顔の黒雨さんに尋ねる。
それに対しての答えは、私の期待していたものとは大違いだった。
「……愛翠 杏紅……
今すぐ荷物をまとめろ」
耳を疑った。
私の知る彼なら確実に発することのない、棘だらけの言葉。
今まで彼の隣に居る時間は長かったが、彼が命令口調になったことは、私の記憶が正しければ一度たりともなかった。
なのに、その口調には心做しか、慣れたような雰囲気すらある。
「……ど、どういうこと……ですか?」
理解不能なため、私はもう一度尋ねる。
「……もうあと数時間ほど経てば……君はこの家を退去しなければならない。その時に慌ただしくなってはいけないから、今のうちに片しておくべきだと言っているんだよ」
退、去……?そんなことにならなければならない心当たりなど一つもない。そもそもあるなら自ら進んで片付ける性分であることは、私が誰より知っている。
そんなことをあれこれ考えて迷っていると、それを見て痺れを切らしたらしい黒雨さんが言った。
「だいたい察しがつかないものか?……つまりだな」
その次に彼が放った言葉を、私はより注意深く聞き取った。
しかしその言葉は、幻聴だと言い張りたくなるような、
現実の中で生まれた言葉でないと言い張りたくなるような言葉だった。
「君は、逮捕されるんだ」
嘘だと思いたかった。
彼はジョークを言っているのだと。
だが私は知っている。
彼はそんなことを言う人ではないと。
ましてや彼の声色が物語っていた。
彼は真実を言っている、と。
「だからほら……荷物」
だんだん彼の態度が乱雑になってくる。
一方私は、未だ現実を受け入れられぬまま困惑中。
とうとう我慢の限界とばかりに黒雨さんは、朝にも拘らず足音を立てながら私の部屋に入ってきた。
そして何の躊躇いもなく、私の服やら化粧道具やらに手を触れだした。
男子である黒雨さんが、女子の命とも言うべきそれらに触れることにも嫌悪感を抱いたがそれ以上に、
何故、こんな事態になっているのか把握出来ないでいるせいで、私の足は動かなかったのだった。
「……あ、あの、荷物なんかより……何で、こんなことになったのか……」
混乱するあまり、言葉が途切れ途切れになってしまう私。
彼は面倒そうに身体をこちらに向けて言った。
「……君が“狂った殺人少女”だったとはな」
その発言で、私は全てを悟った。
「あなたが……通報を……!?」
「して何が悪いというんだ?君はれっきとした殺人鬼で、世間にとっての危険因子なのだよ。私は人として当然のことをしたまでだ」
「それは……そうですけど……」
「反論がないのなら早くしたまえ」
そう言って、所有者の意思など関係無しに小物をまとめていく黒雨さん。
「でもどうして、それをあなたが……」
「あんな夜遅くにどこかに出て行ったら、心配で追いかけてしまうものだろう?」
「それって……盗み聞き……!?」
「盗み聞きとは人聞きの悪い……偶然聞いてしまっただけだ。
しかし知ってしまった真実が真実だ。誰にも伝えぬままというわけにもいかないだろう」
「……でもせめて、報せるなら私に一言くらい……」
「悪人の君の為にそんなことをしなければならない必要性が俺には解らないな」
「でも……でも……」
「ゴチャゴチャゴチャゴチャうるさいな、“人造人間”の分際で!!」
鬼気迫る表情と、響き渡る怒声。
獣の鋭い爪を左胸に突きつけられたかのような気分になり、身体が完全に硬直してしまった。
その中で、電脳自体が、聴覚機能を疑っていた。
「準備しろって言ってるんだよ、さっさと荷物まとめろよ……君のものなんて本当は触りたくないんだよ。君たち“人造人間”の物なんて以ての外だ。
自分の物は自分で片するのは当たり前だ。ほら、早く取り掛かれ」
「黒雨さん……“人造人間”のこと…………嫌い、なんですか?」
答えは判っていた。その上で訊いた。
しかしそれ以上の答えを、私は予期していなかった。
「オレは、君たち“人造人間”のことを、
研究対象としか考えていない。
研究対象になるモノとよろしくするなんて考え難いだろ?
喩えるなら……“マウス”だ。
薬やらウイルスやらの効果を試すためにだけ存在するマウスと、君は戯れるか?」
そう言われて、私は記憶を探る。
そうして記憶を検索してみると、確かに彼は一度も、“人造人間”のことが好きだ、とか“人造人間”を愛してる、なんて類のことを言ったことがないのが判った。
「だからモノのくせに人を殺した君を、オレはガラクタとしか思えない。
そんなガラクタの機械に愛情を向け、交際関係まで持っていたことを思うと、反吐が出そうで仕方ない」
そんな風に思われても仕方の無いこと。
しかしそれを本能が否定している。
彼はたとえそう思っていても、そんなことは言わない人だと。
「……早くこの嫌悪感から逃れたいんだ。さっさとしてくれないか。
……ああ、そうだなぁ」
宙を見上げた彼は、何か思いついたようだ。
「…………君たちは人間様の言うことを聞くよう造られているんだろう?じゃあオレが今からするこのことも、聞いてくれるよな……?」
彼の巨躯が、私の華奢で小さな身体の上に覆い被さってくる。
その私を覆う影が、右手を上げた。
そのとき、本能が、違うと判断した。
彼はそんなことを言わない人──そんなのはただの理想だと、本能は知った。
彼もまた、”人造人間”嫌悪派という部類に入る人間で、
それもただの嫌悪派ではなく、
過激嫌悪派であることを、機械の本能ながらに悟ったのだった。
バスッ……!
拳が、私の頬を掠めた。
勢いで、私は床に手を突いた。
「いきなり殴るなんて酷いじゃないか、なんて言わないよな?”人造人間”なんだから。
ましてや君は大犯罪者……何をされても文句なんて言えた立場じゃ、ないよなぁ……!」
彼はそう言って、私の腹部を蹴る。何度も何度も。
彼の足が腹部に刺さる度に、彼との思い出が一つずつ砕かれていく。
このまま私が意識を失ったとて、彼は蹴るのを止めないだろう。歩くのと同じくらい当然のように、彼は足を前に蹴り出し続けていた。
しかし、騒ぎを聞きつけてやってきた誰かの階段を上る音に反応して、彼はそれを中断した。
舌打ちと共に。
「命拾い、ってやつだな。だが……どのみち君は逮捕される。オレの前から消えてくれるんだな。助かるよ」
慌てて立ち去りながらも、彼は私を見下して言った。
「さあ、準備しろよ、ガラクタ」
それだけ言い残して、彼は部屋を去った。
痛む腹部を押さえて横たわる私の中にあったのは、怒りでは無かった。
1年前のあの日、”人造人間”研究サークルに入ることになったあの日からずっと信頼し続けてきた彼でさえも忌み嫌ってしまうのが私という存在なのだと、
心底絶望するのみだった──。
──私が荷物をまとめてから数十分後に訪れた万李たちと警官たちに伝えられた事実に唖然とする菜那たち3人の顔は、玄関を出て、護送車に乗ったとしても忘れることは出来なかった。
美雪さんの額を伝う冷や汗、
寧音さんの口が震える度にカクカクと鳴る歯と歯のぶつかる音、
そして、菜那の瞼の痙攣する様。
それらは皆、奮起した暴徒のように、私の感覚全てに訴え続けていた。
そんなことにはお構いなく、警官たちは私を連れて行く。
対面して座るのは万李と水零。厳しい顔でこちらを見つめている。
「では、出発します」
「はい」
運転手の警官と万李の短いやり取りのあと、ゆっくりと車が発進する。
その数秒後──。
「杏紅ァーーーッ!」
車の駆動音に重なるようにして聞こえる、
菜那の声。
「絶対、何処かで逢えるって、アタシ……信じてるから!
待ってるから……だから、そんな頭ばっかりのヤツら、全員言い負かしてきなさい!!」
彼女の声に応えるべきだと、応えて振り向くべきだと頭では思っているのに、私は振り向かなかった。
振り向けなかった。
何故だかわからないが、今の私の身体は、頭で思っている感情に追いつかなかったから。
だから、頭の中で応えた。
──元よりそのつもりだ──と。
「……やっぱりあの女も連行しますか」
低い声で、水零が万李に問う。
しかし、万李は呆れた風にして、
「放っておきなさい。連れて行ったところで、さっきみたいに喚かれるのがオチよ」
と手で制止した。
その台詞を聞いた後ですら、私は頬の筋肉一つも動かさないままでいた。
大事なものを失った気がして辛かった。
その辛さのあまり、私は、何かを頼るように、鉄製の網越しに窓の外を見た。
100パーセント当たると評判の天気予報とは違って、
朝は快晴だったはずの青空に、
黒々とした雨雲がもくもくと浮かんでいた──。




