第51章 五人
第5部開始です!
2116年8月20日──。
蝉の鳴き声が、適度な大きさの声で聞こえてくる。
──今日も暑いんだろうな──と、UVを99パーセントカットしてくれる窓越しに太陽を見つめながら思った。
「やっばぁーっ!」
蝉の声とは違って賑やかな声と共に、ドタバタと階段を降りてくる音がする。
その音が止んだかと思うとすぐに、激しく扉を開いて部屋に飛び込んでくる人影が見えた。
「どうしたの、菜那?……またバイト?」
私は尋ねた。
それに対して、こちらに顔も向けないままで、その女──花理崎 菜那は答えた。
「そう、バイト!今日は朝からシフト入ってたの完全に忘れてた!ああ〜もうこんな時間!髪まとまるかなぁ!」
それだけ言い残して、上半身はパジャマ用のTシャツを纏ったままで洗面所に向かった。
私の態度からもお察しかと思うが、この慌ただしさは何も今に始まったことではない。
この家に越してきてからのおよそ2ヶ月の間に、7回は間違いなくあったはずだ。平均すれば週に一度あるペース。なかなかのハイペースである。
一緒に住まないか。
この家に引っ越すに至ったのは、ある男性が提案した、そんな一言からだった。
その男性の名は、黒雨 凛。
私や菜那の属する“人造人間”研究サークルの元リーダーであり、
私にとっては、大切な人である。
私と菜那は初め、マンションの一室を借りて共に住む、という事だろうかと判断した。
しかし違った。
彼の算段にあったのは、そして今、私たちが住んでいるのは、
100年ほど前からじわじわと流行りだし、今でも衰えぬ人気を誇る居住体型である、シェアハウスというやつだ。
2ヶ月前に起こった大事件──その名も『フロンティア無差別大量殺人事件』。
不幸な偶然のおかげでその事件の渦中に巻き込まれ、結果的に3人の仲間を失ったことを、幸か不幸か、ただ一人その渦中に巻き込まれずに後から知った黒雨さん。
事件を引き起こした凶悪犯は未だ捕まっていない。その報道を耳にした彼は、万が一、その殺人犯が、殺し損ねた残りの人々を始末しにかかったとしたら、と考えた。
彼は、不動産会社に勤める父の力を借りて、一昼夜かけて、良好物件を探した。
その時に見つけたのが、築30年という古さと、居住者及び居住希望者が誰も居ないというのを理由に、オーナーが売りに出していたシェアハウスだった。
彼は即断即決の後、将来の為にと貯めていた金を投げ打ってそのシェアハウスを購入し、そこを今後のサークルの拠点とすると同時に、私たち5人の居住空間に変えたのだった。
この2ヶ月、刺客が現れる気配はない。
だが、私は不安でならない。
私だけが、刺客が内部に居たことを知っているからだ。
他の皆には、この事は伝えていない。伝えれば、私が握っている秘密を全て明かさなければならなくなる為だ。
ひた隠しにしている事実が、いつ明るみに出るか判らない不安と、
巧妙な術を使って潜んでいるかも知れない刺客が、いつ何処から襲いかかってくるか判らない不安が私だけを苛み、
うとうとと眠る暇と安息さえも、私から奪い去って行った。
「よし、間に合いそう!行ってくるね、杏紅!」
私の思考が、日頃より積もる疲労を背負いながらあれこれと考えているうちに、遅刻気味の菜那はドタバタとしながら準備を終えたらしい。
玄関でも必要以上に足音を鳴らしながら靴を履いている。音だけ聴いていれば、巨漢がそこに居るような感覚になる。
「朝ご飯要らないの?」
私は尋ねる。
「うん、コンビニで買うからいいや!行ってきます!」
「いってらっしゃーい」
走って10分はかかるバイト先に向かって出発する彼女の背中を見送りながら私は、
我が子が意気揚々と玄関を飛び出して行くのを見送る母親の気持ちを勝手に想像して、勝手に涙を流しそうになっていた。
「……休みでも、彼女はオレたちを寝かせてくれないなぁ」
それと同時に聞こえたのは、私の背後にあった階段を、パジャマ姿で一段ずつ降りてくる、黒雨さんの声だった。
「すみません、菜那のやつがまた……」
「ああ、いいんだ。嫌味に聞こえたのであれば謝るよ」
と言う彼の口角は引きつっている。
「さあて……今日の朝食は……おっ、スクランブルエッグか」
「はい、卵が余ってたので」
「君のスクランブルエッグは完璧なんだ、甘味と辛味の絶妙なバランスがね」
唐突に私の料理を褒め始めた黒雨さん。
彼はこう言っているが、実際のところ定まったレシピは無い。
私の適当レシピが奇跡的に美味なのか、或いは、彼が気を遣ってそう言っているのか……謎が深まるばかりである。
「さて、では頂こうか」
真っ直ぐ椅子に向かい、ストンとその椅子に座った彼は、静かに両手を合わせ、
「いただきます」
と、落ち着いた様子で言った。
まず初めに、完璧だと称えたスクランブルエッグを口に運ぶ。その食べている様を見ていると、こちらも同じ味覚を共有しているような気分になる。
やはり美味だと褒めただけあって、美味しそうに食べる。皆が起きてこない間、先に朝食を頂いていたが、もう一度それを食べたくなってきた。
次に彼の右手にある箸はご飯に伸び、そして味噌汁に移る。その後またスクランブルエッグに伸びたかと思うと、ご飯、味噌汁の順に回っていく。その食べ方から、彼の育ちの良さが見て伺える。
「……ふぅ、ごちそうさま」
二十数分ほど経ったところで、彼は再び静かに手を合わせて言った。
「美味しかったよ。……さて、着替えるか」
間髪入れずに、彼は洗面所に向かった。
その姿を見送ったあと、私は食器を片付ける。
そこでふと、私は思った。
──何か、夫婦みたい──と。
俗に言う“カレカノ”の関係にある黒雨さんを相手にしていた、と言うのもあるが、
朝食を振る舞って、それを黙々と食す夫を見守る妻の気持ちが、何となくであるが理解出来た気がする。
だがそれと同時に憶えた、もう一つの感情があった。
それは、どうにも言葉に表し難い、懐古と喪失の入り交じった感情だった。
9年前まで、毎日無感動に目の当たりにしていた、
皆木家の朝の光景に対する、感情だった。
私があの日常を、“迷惑”をかけたくない、という自分勝手な理由から放棄して、はや9年が経過した。
これまで、息をつく間すら真面にないような日々を送ってきていたので考えついたこともなかったが、最近、私に乗っかり続けているストレスが教えてくれたことがあった。
捨て去ったあの日々に戻りたいという思いを、私は心のどこかでずっと持っていたということだ。
布団が恋しい気持ちを堪えて毎日通っていた学校、
休み時間や放課後に笑いあった菜那たち友人とのひと時、
そして、BGMのように聞き流してしまうほど何気ない、両親の声。
失ってしまって漸く分かる、“当たり前”。
その“当たり前”を、自分の抱えている秘密のために手に入れられないもどかしさ。
出来ることなら、秘密なんて全部曝け出して、見えない鎖から解放されたい。
けれど私には約束がある。
その約束のために、秘密を明かすなんてことはしてはいけないのだ。
けど、このままじゃ……気がどうにかなりそう……。私……本当にやっていけるのかな──。
「おはよう……」
ちょっとしたことから葛藤の渦の中に巻き込まれていた私を現実に引き戻したのは、遅れて起きてきた乾 寧音が発した挨拶だった。
「おはようございます」
私はぎこちなさげに応えた。
「……美雪ちゃん、多分起きるの遅いよ」
どこか落胆した風にそう告げる彼女に向かって、私は尋ねる。
「……昨夜もまた……ですか?」
対して彼女は頷いて、まるで自分のせいのように縮こまりながら、先刻の黒雨さんと同じく、スクランブルエッグを口に運んだ。
美雪さんの起床が遅れている理由は、簡単に言うなら夜更かしだ。
しかしその夜更かしは、テレビを観ていたとかゲームをしていたとか、友だちとネットチャットしていたとか言う、中高生のようなことが原因ではない。
責任を背負っているような態度を見せている寧音さんのせいでもない。
彼女もまた、例の事件に苦しめられ続けている。
彼女の父、そして祖父は、あの夜に命を奪われた。後の話によれば、2人の身体の至る所に斬られた跡があり、水溜まりが出来上がる程の量の血がそこから流れ出ていたそうだ。
更に、かけがえのない2人を命を奪った殺人魔は未だその尻尾すらも掴ませない。
それら2つの事実を受け止めきれない美雪さんは時折、悪夢に魘される余りに目覚めてしまい、その後なかなか眠れなくなるのだ。
戻らない2人に対する悲哀と、殺人魔から間接的に与えられる恐怖から彼女が解放されるのは、夜も明け始める午前5時。それまでのことが嘘だったように、どうしようも無いほどの睡魔に襲われるらしい。
だがそうしたとしても、本来得るはずだった休息は十分に得られない。ましてや、悪夢のお陰で背負うことになった不要な疲れを取り除くには、より多くの睡眠をとらなければならない。
結果、そんな日に彼女が起きて来るのは早くても正午を過ぎる辺りになり、目元にはくまが出来上がってしまうのだ。
「……美雪さん、身体壊さないと良いんですけどね……」
私はそう告げた。
「うん……」
寧音さんは頷くと、一定のリズムで料理を口に運んでいた箸を置き、私の目を見て、ねぇ、と尋ねた。
「……菜那ちゃんがどうして立ち直れたのか、知ってる?」
「……え?」
「……莉央ちゃんって、あの子の友だちだったんでしょう?初めはなんだかいがみ合っているようだったけど、あの夜、少しだけ仲が良くなっていたように思うの。
……その莉央ちゃんを失ったのに、今はあんなに溌剌としている。
……友だちがいなくなったのにヘラヘラ笑うなんて、とかいうつもりはないけど、一体どうやって立ち直れたんだろう、って時々思うの。
ねぇ、杏紅ちゃんは何か知っている事は無い?」
言われてみると、確かにそうだ。
こっちに帰ってきてすぐの頃は、皆と同じで沈んだ様子だった彼女も、2週間もした頃には、何か吹っ切れたようにイキイキとしていた。
それ以降も、莉央を偲んだりする言動は、私の知る限り見られない。
まさか……慣れ、なのか?
大切な友を失うことに、もう慣れてしまったのか?
だとしたら人間の“慣れ”というのは実に恐ろしい。
死というものに対する恐怖、という人間として欠かしてはならないものを失っているのだから。
私は一瞬、答えに迷った。
頭の中で見つけてしまったことをそのまま口にすることは、不安に駆られている彼女の心を嘲るのに等しい。
「……また、訊いておきます」
結果的に私が発した答えは、逃げる為としか考えられない、そんなどっちつかずなものだった。
「……ありがとう」
と言いながら、食事を再開する彼女を見て私は、この場をしのげた安心感と、露頭に迷う寧音を救ってあげられない無力感と罪悪感に包まれた。
その折だった。
「もうこんな時間か」
どこかで聞いたような台詞が、私の耳に飛び込んできた。
声の主は黒雨さんだ。掛け時計の差す時間を見ている。
いつの間にか私服に着替えており、これから出かけるところのようだ。
「おはよう、寧音さん」
と彼は今更ながら挨拶をした。
彼女が挨拶を返すと、時間もないから行くよ、と、黒雨さんらはそそくさと家を出ようとした。
玄関に置かれてあった靴を彼が履いたのを見て、行ってらっしゃい、と私が声をかけようとした、その時──。
──ピン……ポーン……。
ドアベルが鳴った。
家中に走る、静寂。
皆が感じている。
──おかしい。こんな時間に訪問者なんて──と。
さっき黒雨さんが見上げた掛け時計の短針は、「9」の数字が記されているところまで達していない。
宅配便なら早くても10時頃だし、来客なんて滅多にない。
そんなことを思考のうちに駆け巡らせながら、皆動かないままでいると、ドアの前に立っていると思しき訪問者の、
「ごめんください」
という声が。
居留守を使うか考えたが、さっきまでのやり取りを聴かれていたとすれば逃れようがない。
急き立てる声が聞こえている以上、もう考えている時間もない、そう判断した黒雨さんが、
「オレが出るよ」
と私に伝えて、ドアの向こうに居る来客に気をつけながら、ゆっくりとドアを開いた。
そこに立っていた人間は、ドアが開いた途端に襲いかかってくる──ことはなく、ドアが開ききるまでじっと待機していた。
オフィススーツを身に纏った女が二人、そこには立っていた。片方は女性にしてはやや屈強な身体つきをしており、武道に明るそうな雰囲気を醸し出していた。もう一方はいかにもエリートそうな、縁なしめがねをかけた女性。お団子ヘアーにまとめられた金髪が一際目立っている。
「……どちら様……でしょうか」
不安げな表情で、黒雨さんが訊ねた。
それに答えたのは、金髪エリートだった。
「突然、失礼いたします。私、緒張 万李と申します」
どこか可愛さが残っている声色。
「秘書の波間部 水零と言います」
その奥から、ガタイの良い女性がそう言った。
その間にエリート──万李は、スーツの胸ポケットから、2枚の小さな紙切れを取り出し、黒雨さんにそれらを手渡した。
「我々、こういった者なのですが……お時間よろしければお話を伺えないでしょうか?」
彼女のその台詞に、私たち3人の胸中のざわつきがいっそう強まった。
黒雨さんと、その背後に寄り添うようにして立っていた私は、その紙切れに書かれている文字を読んだ。
そこに書かれていたのは、私たちの予想とは違っていたが、それとは決して遠くない身分を表す言葉だった。
「“人造人間”管理局の方……ですか──」




