第50章 終焉・後編
──ドアを開いたところまでは、明確に記憶が残っている。
けれど、こんな凄惨な光景、
そして、この光景に至るまでの記憶は、何一つとして、私の中に残っていなかった。
何らかの衝撃で傷ついたと思われる、大木。
先ほどまで、人間の一部として正しく機能していたであろう、血に塗れた右腕と、内臓。
そして、腹部の中心に穴がぽっかり空いた、早房 絢の屍。
恐怖した。
それは、この悍ましい場景に対する恐怖ではない。
吐き気を催しても何らおかしくない場に居ても、それなりに大きな恐怖を憶えるだけで、正常に立つことが出来ていること、そして、
人生で一度たりとも見ないのが並一通りであるはずの惨状を、目の当たりにするどころか、自らで創り出しているという事実に対する恐怖だった。
「痛っ……!」
突然、身体に走った痛み。
その源が何なのか、私はすぐに判った。
あれだけ強かった絢を、こんなに無惨な死に様にして殺してしまう程に私の戦闘力は跳ね上がった。
そんな力に、私のこの華奢で凡庸な身体が耐えきれるはずが無かったのだ。
だが、本能だけが支配する私の身体に、“無理をしない”なんていう選択肢は残されていなかった。
そうして戦い続けたツケが今、痛みとして現れたのだ。
痛みを堪えようと、私は眼前に広がる惨状から目を逸らし、その視線を下に向けた。
すると、ある事に気が付いた。
──なんで……こんなに綺麗なの──?
私の右腕、その肘から先が、まるで別の場所から新品を拾ってきて取り替えたように、真っ白だったのだ。
他の部位を見渡すと、この森林の土や、赤黒い血がこびりついていることが判る。
その瞬間、不意に私は思い出した。
つい先刻見たばかりのものを。
地面に転がっていた、あの血に塗れた右腕だ。
てっきり絢のものだとばかり思っていたが、違った。
あれは私の腕。そして今ある、この新品のような腕は、それとは別のものなのだ。
ともすれば、何故そんなことが出来る……?
絢の右腕が分裂されていないところを見ると、本能の私は彼の腕を奪った訳でもないようだし、製造中だった他の“人造人間”の腕をフロンティアから掻っ攫って来たとも考え難い。
それに、取り替えたよう、とは言ったが、大した違和感もなく、前からあったような調和した感覚しかない。
まるで、蜥蜴の尻尾みたいな──。
「──あっ……!」
此処に広がる謎全てを解決できる、ある記憶を取り戻し、思わず声を漏らす私。
それは、『A』が私に告げていた一言。
──手術の結果、お前は、“敵知機”、“武戦機”、“瞳盗機”、そして“全創機”。すべての機能を兼ね備えた“人造人間”……“神童機”になったんだよ──。
容認しようにもし難いその事実を、私は今、否応無しに受け入れるしかなかった。
私が得た力の一つ、“武戦機”には、戦闘に特化した要素がある。
その名も『瞬治細胞』。
今までの常識では説明のつかない驚異的な自然治癒力を持つ細胞だと、初葉 命琴は言っていた。
それが私の中にあったとすれば、腕を切り離されても、すぐに治ったのだと説明が出来る。
地面に転がっていたのと比較すると、その仮説はより真実味を増した。直線状ではなく、ややデコボコしている切断部位が一致しているからだ。
その驚異的という他ない製造科学技術と、“神童機”という力を本当に手に入れてしまったという2つの驚きに支配されていた私を、
誰かが、もうすぐ明けるはずの夜の闇から呼んだ。
「──杏紅……?」
それは聞き慣れた声。或いは、心の何処かで、聞けることを祈っていた声。
声の方を見て、私は安堵の涙を流した。
「……菜那……!」
懐中電灯を手にしたまま立っている彼女の姿が、私には聖母のように見えた。
一方の聖母も、捜し求めていた人物が見つかって、ただただ安堵の表情を浮かべていた。
しかし、紅に染まる私の身体を一瞥すると、
「ひっ」
と小さな悲鳴をあげて、手で口を押さえた。
その様子を見て私もハッとして、必死に、不自然でない口実を探した。
で、私の口から飛び出した答えというのが──
「──絢を……助けてたんだ」
だった。
言いながら──何言ってんの、私──と困惑したが、最も先に見つけた答えをそのまま言えと、思考のどこかで命じられたものをそのまま言っただけだった。
もうあとには引き下がれない。私は意を決したが、
「……絢……!」
と、残酷な屍を照らした彼女は、私の言葉を信じてくれた。
事が上手く運ばれたことに胸を撫で下ろしながらも、親友を前にして大きな嘘を吐いたことの罪悪感と、途中で事が悪い方に向かないかという心配でいっぱいだった。
「……そうだ!救助車、もう来てるよ」
菜那は気を取り直すと言った。
「……絢も、載せて帰ってあげよう?」
そして彼女は言った。
「早く帰らないと……私たちも殺されちゃうよ?」
「え?……何に?」
血液が少し固まって、流れる紅が少なくなっている絢の身体に向かって歩く菜那の背中に、私は思わず訊ねてしまった。
「……何言ってるの?まだ居るはずでしょう?殺人鬼」
冷静に考えれば当然のことを見失っていた。
そして、謝りたかった。
嘘を吐いたことを謝罪して、正しい答えを告げたかった。
あなたの恐れている殺人鬼は、いま抱えているその屍の本来の持ち主で、
その脅威を排除する為と言えども、そんな見るも無惨な結果に変えたのは、私なのだと、伝えたかった──。
──早房 絢、そして、最初の被害者である坂巳根 莉央の亡骸を連れて、残された4人が帰ったその日、歴史上稀に見る大事件は公に報された。
『フロンティア無差別大量殺人事件』と名を冠されたその事件は、死者376名、重軽傷者654名の、フロンティアに勤める社員の3分の2を失うという、一夜での犯行とは考え難い量の被害者が発生した。
殺された者の中には、フロンティア研究所会長の初葉 命琴と、その息子で現所長の海邦氏も含まれていた。
この事件の生み出した恐怖はそれだけではなかった。
事件を行ったと思しき犯人──メディアはグループだと発表した──について警察が、逮捕どころか、手がかり一つ掴めていないことを発表したのだ。
公開されたセキュリティカメラには犯人の姿は一切映っておらず、また尻尾を掴むための証拠も埃一つほども残っていなかった。
これでは捜査のしようもない。人々は警察を責めることは無く、代わりに、嵐のようにやってきて、嵐のように去って行く周到な犯人──たち──に恐れ戦くのみであった。
しかし、事件直後に捜査に駆けつけた刑事の一人から、貴重な情報が提供された。
──犯人は、”狂った殺人少女”ただ一人である──。
供述を聞いていた調査官たちの中には、あまりの衝撃的な答えに唖然として、あんぐりと口を開いたまま塞げなくなった者が居たり、馬鹿にするなと怒鳴りつけた者も居た。
だがその刑事は断固としてそう言い張り続けた。
見かねた周囲は、その刑事を精神科送りにするかまで考えたが、彼と同じように、現場捜査に向かっていた警察官全員が、その噂を聞きつけて擁護に回ったお陰で、半年間の休養命令のみが下った。
そしてもう一組、この事件によって恐怖を味わうことになった人々がいる。
過去にフロンティアを買収、合併し、今は事実上、親会社状態にある『トレイル・ブレーザー』である。
現在のトレイル・ブレーザーにとって、無類の生産力と開発力を誇るフロンティアは貴重な資金源であった。数字にして、約20パーセントの財源を握っていた。
その会社の3分の2の労働力と、研究の支柱を担っていた会長と所長を失ったフロンティアは、もう再起不能と考えても行き過ぎではない。
それに加え、トレイル・ブレーザーの次期社長候補であり、現社長、界坂 風麻氏のご令嬢である花蝶氏も殺されたので、風麻はご乱心。
とても正常な経営が出来る状態ではない。
トレイル・ブレーザーは、倒産とは行かないまでも、経営危機に立たされたことは間違いなかった──。
経済情勢が大きく揺れる中で執り行われた坂巳根 莉央の葬儀に、私や菜那、そして寧音さんは参加した。
美雪さんは自らの父と祖父の葬儀に向かわなければならなかったのだが、それ以前に、父を失ったことから立ち直れないままでいる、と彼女の母──桐那さんが、涙ながらに伝えてくれた。
部屋で泣いているのだろう、それを想像する度、胸が傷んだ。
そしてもう一人の被害者──と同時に加害者──である早房 絢だが、家族葬を営んだとの報告が入った。
「──杏紅」
葬儀が終わってから、ただ遠くをボーッと見つめながら、最近新フレーバーのキウイ味が発売されたばかりの、缶に入ったフルーツジュースを飲んでいたところに、菜那の声が飛び込んできた。
莉央の葬儀と聞いて集まった中学の級友との話に花が咲いているようだったので、邪魔をしないようにと避けていたのだ。
「……帰ろうか」
「えっ?もういいの?」
私は問うた。
「うん。……もういいの。みんなとも十分話したし」
菜那は珍しく、私に顔を向けないままそう答えた。
そしてこう言うのだった。
「それにさ……これ以上、昔のこと話したら……辛くなっちゃうよ」
と。
「……つら……いの?」
「……だって……グスン……これ以上、話したら……莉央が可哀想になってくるから……!」
涙声でそう訴える菜那の気持ちを、私はこの時やっと理解した。
彼女は今、哀れんでいる。
ある女の将来の為、ただそれだけに己の身体と人生を売り、表向きにおけるクラスの女王になるという手段で、自らを孤独に追い詰め続けた、坂巳根 莉央という少女を。
なので私は、余計なことは何も言わずに、
「そっか」
とだけ呟いて、
「……じゃあ、帰ろっか」
と優しく告げた。
菜那はまだ私に背を向けたまま。けれど、両手でぐしゃぐしゃと涙を拭うと、大きく頷いて、駐車場に停めてあった、青色の車に向かって歩み始めた。
私もそれについて行こうとした時、
「……うかぁー……りさきさーん……」
と、遠くから声がするのに気が付いた。
小さくて聴こえにくいなりにも、私たちを呼んでいることに気が付いた私は、声の方を向いた。
「杏紅ー!花理崎さん!」
その声の主は、久方ぶりにその姿を見る、あの男だった。
「「黒雨さん!」」
私たちは、同時に彼の名を叫んだ。
喪服に身を包んだ彼の名は、黒雨 凛。現在、就活真っ盛りでサークルにも、或いは恋仲である私の前にもあまり姿を見せなくなった人だ。
「すまない……どうしても外せない面接があって……遅れてしまったんだ」
それでも来てくれただけうれしい。
「……今回の件、本当に気の毒だった。全部、乾さんから聞いたよ。
坂巳根さんに早房くん……会ったことはないが、良い人だと言う噂はかねてから聞いていたんだが……会えなくて残念だ」
葬儀場の方を振り返り、胸を押さえている。
「そして虹際……彼は行方不明なんだってね。不安だが……彼ならちょっとやそっとじゃへこたれないだろう」
そう言う彼の目に、冗句を言ったふうな意思は見られなかった。
彼が最も仲良くしていたと言っても過言でない程の存在を、失うでもなくその行方を知らないという、完全に喪失するよりも重く辛いその状況で、笑っていられるはずもなくて当然だ。
などと考えていると、彼の手が、私たちの肩の上にポンと置かれた。
「とは言え、君たちが無事で居てくれた事は、神様に感謝してもしきれない幸運だ。本当に喜ばしいことだよ」
一言一句を噛み締めるようにして、私たちは彼の言葉を聞いていた。
「……それで、こんな時になんだが、一つ提案があるんだが……聞いてくれないか」
唐突の頼みに私たちは瞬時戸惑ったが、断る理由もないのは2人とも同じだったので、
「何でしょう?」
と訊ねた。
そうして、次に彼が提案したのは、私たちが全く以て予想だにしなかったことだった。
「一緒に、住まないか?」
突然の提案に私たちは、お互いの顔をじっくりと見た後に、
「……えっ──?」
と言葉を残すだけしか、出来ることが無かった──。
第4部、完結です!
次回からはいよいよ第5部となります!




