第48章 葛藤
──こいつ……一体何者なんだ──
早房 絢は、常にそればかり考えていた。
眼前で、何の感情も見せずに、首を少しだけ傾げたまま直立する少女──"狂った殺人少女"を凝視しながら。
先刻、この少女にいとも容易に粉砕された右手の痛みなど、とうに忘れていた。
それほどまでに、彼にとっては、この少女の戦闘力が計り知れず、驚愕させるものだったのだ──。
コテージから出てくる何者かの存在に気付き、森の奥に戦場を移してからは、ただただ防戦一方。
日頃、素人の人間を相手にして、その人間に息つく間も与えぬ程の連撃を仕掛ける彼は、防御に関しては不得手だった。
そこに、右腕の負傷も相俟って、万全の状態ならば防ぎ切れる攻撃も、二、三発、その身に喰らっていた。
そう言ってしまえば、軽々しいものに聞こえるだろうが、この"狂った殺人少女"のそれら全てが、喰らうだけで致命傷と言えるものだった。
しかし、絢はそれらを活かして見せた。
彼はその攻撃を、もろにその胴体で受け止めることで、血液を多く流したのだ。
そうして血に塗れることで、負傷しているのを過剰に演出し、
戦闘不能状態を演じる為の材料にしたのだ。
悪く言えば、彼は"死んだふり"をして見せたのだ。
猛禽も獣も居ないこの森に現れた、獲物の『死』だけを求め暴走する"狂った殺人少女"。
彼女に真正面から向かったとて、勝ち目など無い。かと言って逃げようにも、1対1状態の現況では無理難題。
その中で彼は、命を選択し、訓練時代の己に背を向けるのと同等の行為に及んだ。
殺人少女からの、手痛い一撃を喰らったところで、少し足をもたつかせ、よろめいて、背後にあった大木に身を任せた。
暗闇だったので、半目を開いたまま。
紅く妖しげに光る眼が、その闇の中を泳いでいる。
それは着実に、絢の方へと近寄ってくる。
その眼の主が、一歩一歩、歩み寄ってくるのに合わせて。
そして、二つの幻妖な紅光は、木に凭れる絢でも手を伸ばせば十分届き得る位置にまで詰め寄ってきた。
それを視界に捉えてもなお、擬死状態を保ち続ける絢。
しかし、そうもしていられなくなる事態が起こる。
紅い眼の主が、その右腕を振りかぶった際の、空を切る音が聞こえたのだ。
完全なる始末に差し掛かったというわけだ。
擬死状態に欺かれ、隙を見せた時に反撃に転じようという、一か八かの策を練っていた絢だったが、こうなってしまってはそんな悠長なことも言っていられない。
だが反撃に転じるにも、0コンマ数秒の時間が必要になる。彼らにとってその時間は、勝負の行方を左右するには十分すぎるほどの時間だ。
どうしたものかと悩んでいるうちに、制裁を下さんとする右腕は、行動を開始した。
反撃か、死か。
ギリギリまでその選択を渋っている絢と、
決着の右腕を振り翳す"狂った殺人少女"。
彼ら二人を、眩い光が、傍らから照らした。
それが妨げになったのか、少女は手を止めた。
自らの命を救ったそれは何なのだろうと、絢はその方を見た。
その光源は、
一台の車の、ヘッドライトだった。
──よくも邪魔をしてくれたな──。
そんな言葉が、少女の口から聞こえた気がした。
実際に、音として聞こえたのではない。
少女がその車に足先を向け、歩み始めた時に、彼の脳内でその声が響いたのだ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……。
足音が、確かに遠ざかっていく。
絢は、それをただただ聴いていた。
それだけを手がかりに、"狂った殺人少女"に僅かでも間隙が出来る時を窺った。
1秒、2秒、3秒……。
只管待った。
遠ざかり、だんだんと聞き取り難くなる足音に全神経を働かせ、その瞬間を待った。
絢の予断では、恐らくではあったが、少女は車に近づき、それに乗ってきた人物を殺りに行く。
その瞬間、彼女の意識はそいつらに傾くはず。
そこを突く。一瞬と知っていながら。
あの少女にだって出来たことなのだから。
そうして機を窺っていた絢にとって、予期せぬ事が発生した。
ズサッ……。
──!?
……足音が、増えた……!?──
訓練に次ぐ訓練の末に得た人間離れした聴覚を持つ絢には、一定のリズムで刻まれていた少女の足音とは違う、誰かの足音が聞き取れたのだ。
車に乗ったやつは、その奇怪さを恐れ、すぐに引き返すものだと踏んでいた絢にとっては意外でならなかったのだ。
だがその正体は、さすがの彼といえども、視覚で捉えねば判断不能な領域だ。
足音は十分離れている。今ならば、しかとその眼を開いても大丈夫であろう。
そう判断した絢は、それでもゆっくりと、その瞼を持ち上げた。
それから起きたコトの一部始終は、早房 絢という一人の男を、それまでとは異質の迷いに招くものだった。
「うおおおおぉっ!!」
まずその眼に飛び込んできたのは、勇ましい、とはお世辞にも言い難い震える声で吠える、黒スーツを身に纏った、それなりに身体つきの良い男。
同じく震える両手は電強拳銃を握りしめており、絢がそれを認識したと同時、
その電強拳銃から、発射可能な分をめったやたらに放った。
その発射された電光線は、少女には掠りもせぬだろうと言うことは、遠目で見守る絢の眼にも十分判った。
その予測通りに少女は、まるで幼子が悔しくて無闇に放り投げてくる玩具を避ける親のように、半ば呆れた色さえ見せながら、それらの電光線を華麗に躱した。
その際にも確実に、彼女はそのスーツの男に迫った。
そして、ひととおり光線を放ち、エネルギー切れになった電強拳銃を手に握る男の顔面に手を添えたかと思った次の瞬間、
顔面を押し出すようにして、その身から切り離してしまった。
頭という、人間にとって最も重要と言える部位を失った男の身体はいよいよただの肉塊と化し、二秒後には──まるで自ら力加減を調整しているかのようにふわりと──地面に倒れた。
一方、少女に持ち去られてしまった頭にも意識は無かった。
それを不要なもの──つまりはゴミ屑のように、少女は真下に落とした。
整えられたのかと思ってしまうほど近くに捨てられた頭部とその他の身体だったが、不死身男のように繋がってしまうことは、勿論なかった。
これだけであれば、絢の心は微動だにしなかったであろう。
何故なら彼はこれまでにも似たような状況には幾度となく臨してきたし、彼自身、似通った事を行ったこともあったからだ。
彼の混迷の根源は、この光景を目撃して可哀想と思ったとか、醜怪だと思った、などというものではない。
彼の心を揺さぶったのは、この直後に聞こえた、ある声だった。
「メ……メーデー!メーデー!
し、森林内部にて、犯人と思われる人間を発見!応援願う!オーバー!」
裏声。実に頼りない声だ。
男のものであったその声の方に、絢はなるだけ身体を動かさないようにして眼だけを向けた。
自らを照らし続ける車のヘッドライトの向こうで、
“狂った殺人少女”の照準が自分に合わせられ、震え戦く男が居た。
首無し死体と化した男が着ていたのと同じ黒スーツを身に纏う彼は、痩せて頬がこけているせいか顔色が酷く悪く見えた。
彼を見て、まず絢の中で揺れ動いたのは、少女に出来る隙を待ち望んでいた彼であった。
あの男を殺しにかかっている今、少女の注意と身体は──完全ではないが──男に向いていると考えていいだろう。
であれば、仮に絢が襲い掛かったのに気づいたとて反応を示すのには僅かながら時間がかかる。
よって今、この状況は、彼にとって千載一遇ともいえる好機なのだ。
だが、彼は躊躇っていた。
彼が訓練生の頃から、他よりも抜きん出ていたのはその跳躍力だった。垂直跳びで凡そ940cm。訓練生平均が530cm前後であることを考慮すれば、彼が化物じみた脚力を持っていることは瞭然だ。
しかし、それ以外の基本身体能力は平均と同等、物によっては他より劣ることもあった。
瞬間的な走力はあまりよろしくない。
よって今、10メートルはある少女との距離を一瞬で詰めるには、その跳躍を用いるしかない。
しかしながらご存知の通り、跳躍するというのは、自身を空中に放り出す行為である。
そして人間と言うのは、地に足を付けて生息する生き物であるから、元々空中での活動には向いていない。
何故こんなことを言うのか、それは、
空中に浮かんでいる間は、身勝手が少しばかり利かなくなるということを伝えたいからだ。
もし少女が絢にだけ注意を向けていて、
つまりあの黒スーツの男など眼中に無くて、
絢が行動を開始した瞬間、そちらの対処に動いたとしたら、それまで辛うじて存在していた一縷の望みも潰えてしまう。
今を一度きりの好機と考えるか否か。
絢は迷った。
だがそれは、飽くまでも躊躇した原因の内のひとつに過ぎない。
彼を迷いに引きずり込んだもう一つの要因。
それは、政府に勤める者として、引いては、この世に生きる人間としての人道的感情だった。
無論、彼も他人の事を言えた立場には居ない。
自らに課せられた任務が、特定人物の排除だったということを踏まえたとしても、その方法は実に猟奇的で、凶暴だった。
つい先程も、彼はこの森の中で3人の罪無き人間を殺したばかりだ。
コテージホテルに居た人間が、自分の犯行に勘づきかける頃だと、急いで森林を駆け上っていた折、
彼は、そのコテージから発信された救援依頼の為に駆けつけていた警察官3人と、偶然出会した。
当然警察官は、絢を不審な人物として判定する。
「おい、君!こんな所で何を──」
警察官の1人が、優しくそう尋ねようとした瞬間だった。
門番のように横並びで立っていた2人の警察官の左胸を、絢の両手が、容易に貫いた。
「──しているのだ……うっ……!?」
あまりに刹那的なことだったのか、尋ねていた警官は少しの間だけ痛みを感じなかったのだが、激痛が左胸を襲った瞬間、真正面から地面に向かって倒れ、悶えることもなく、
逝った。
ほんの一瞬、あまりにも呆気のない仲間の死を目の当たりにしたのは、残ったもう1人の警官。
しかし絢は、彼に言葉を発する間も与えず、
その喉諸共、頸動脈を掻っ切った。
「がっ……ああ……!」
喉元を押さえながら、必死に手を伸ばしてくるその警官。
そんな彼の死に様も見送らず、絢は再びコテージに向かい走った──。
そんな事をこれまでにも沢山してきていた、という事が、彼が“狂った殺人少女”の凶行を目の当たりにしても、微塵も恐怖を憶えなかったことの理由だ。
なので彼も、一般常識からすれば狂っていると判断されるのは間違いのないこと。
だが、だからと言って、完全に善悪の区別がつかなくなった訳でもない。
やって良いこと悪いことの区別もつかぬのでは、そもそも政府から課せられた任務など遂行することもないだろう。
何故なら、任務を果たさないことが悪だろうと関係ないのだから。
それに、今日まで、あの“人造人間”研究サークルとかいう、身体中を掻きむしりたくて仕方なくなるような集団でバレずにいられたのも、
常識の範疇においての人道を把握していたから、と言っても過言ではないのだ。
彼の中にはまだ、
他人を殺める術など、欠片も知らない頃の彼が、残っていた。
その純粋だった頃の彼が、木にもたれかかり、少女と男を見守る彼に向かって叫んだ。
──彼を助けなければ──と。
──あの男の命や人生など知ったことではない──と絢は無視した。
──なら、あそこに居るのが──と、純粋だった頃の絢は、とうとう切り札を投入するのだった。
──“ラン”だったとしても、君は助けないのか──!
今回も、何話かに分けて投稿させて頂きます。
コテージ編、間もなく完結!




