第40章 遮断
──赤に染まる、坂巳根 莉央の身体。
首や胸、腹から脚の皮膚は、無作為に切り裂かれ、
辛うじて面影を残す顔も、5年前、絶世のものとして語られたその美貌を、完全に失っていた。
見るも無惨なその屍は、私たちの言葉を奪った。
「莉央……!!」
奪われたモノをいち早く取り戻したのは、先刻、彼女の勇姿を讃えていた、花理崎 菜那であった。
彼女にとって莉央は、かつて友人を殺した真犯人であり、到底容認し難い敵であった。
しかし、先日莉央の口から語られたのは、彼女が、界坂 花蝶という女の欲望の充足と将来設計図の実現の為の道具でしか在らず、
そのために、菜那の親友──稀崎 雛乃を自殺に追い込んだという事実だった。
菜那──そして私も──それは虚構としか思えなかった。いくら彼女が必死の陳情を行っても、それは高度の演技技術にしか見えなかったのだ。
しかし今日、莉央が真の黒幕だと語るその女、界坂 花蝶に偶然出会ったことで、菜那の心の天秤は揺らぎ始める。
己の権力と富を存分に行使し、憎悪の感情のみを菜那に生み出させた花蝶。
彼女の去り際に、莉央が見せた勇敢な言動に、菜那は心を開いたと、先刻私に語った。
その直後に、この光景である。
もしこれが運命だと誰かが言うなら、その運命とやらはひどく無情だ。
「ねぇ……その人って…………リオ……だよね……!?」
声に振り返ると、そこには青ざめた顔の初葉 美雪が立っていた。
1年と少しの間、私は彼女と話したり行動を共にすることは多々あったが、
ここまで当惑している美雪さんを見たのは、今が初めてだった。
「ちょ……何があったの……!?誰か説明してよ……!!」
パニック状態に陥る美雪さん。
彼女に対して、漸く言葉を奪還した私──愛翠 杏紅は応えた。
「私達も来たところで……最初の悲鳴は寧音さんです!」
「ウチもそれを聞いて走って来たの!てっきりニガテなムシが出たんだって思ってたのに……何よコレ……!」
凄惨な光景に困惑するその美雪さんを見つけて、彼女の身体にとびついた少女──乾 寧音は、恐怖と戦慄に満ちた涙によって、顔をグチャグチャにしていた。
「美雪……ちゃん……!」
と、自らより大きな身体のその女性の名を連呼する寧音さん。
その彼女を見て、私は俄に思い出した。
寧音さんの心の中に眠る、もう一つの人格。
この中で唯一、私のみが知る、その人格を。
与えられた名は、金子 結由。
寧音さんに比べて荒っぽく、言葉より拳の方が先に出る性格だ。
自らの正体が“人造人間”であると私に知られた時に明かしたもう一人の存在。それ故、結由を知るのは私のみ。
いくら親しい美雪さんにすら明かしていないのだ。
それを今、ここで解放して、彼等に知られてしまうのも問題だろうし、
拳で解決する派の結由が現れてしまえば、事態はますます困難を極めるに違いない。
「どうしたんだ、これは……!?」
そんなことを考えていた折、結由さんの背後に、虹際 星剛の姿が現れた。
長身から死体を見下ろすその目からは、その醜怪な物体と、
この事態が招く未来に対する恐怖が露骨に見えていた。
傍らには、彼と部屋割りを同じくする早房 絢と、『フロンティア』から派遣された、私たちの宿泊の監視役である増峨 晶の姿が。
彼らも同様に、混迷した表情を浮かべている。流石のハイテンション青年も、殺害現場を目の当たりにしては、一言も発せないようだ。
「とにかく、こうしていてはいけない。すぐに警察に通報しよう」
だがすぐに冷静さを取り戻した増峨さんが、腕取付型携帯電話で、『1・1・0』と入力した。
やけに落ち着いている彼に、私の中で疑念が生まれた。
今のうちに、と、私は寧音さんに近づく。
「美雪さん……寧音さんを部屋に連れて行ってあげてもいいですか?」
今、刺激してならないのは寧音さんよりも、彼女が抱き着いている身体の主、美雪さんだろう。
あまり親交の無い人間から見れば、寧音さんから美雪さんに対する信頼の方が強く見えるだろう。
だが実際は、美雪さんが、過保護とも言えるレベルの愛情を寧音さんに向けている。
今も、まるで産まれたばかりの子を天敵から守る獣のような警戒度である。
なので。
「……限界だと思うんです。こんな現場に居続けるのは、正直」
と告げた。
もう少し現場に──いや、菜那の傍に居てあげたい気持ちを断ち切って。
この際、美雪さんを伴おうと構わない。
とにかく、今は寧音さんをこの場から立ち去らせてあげないと。
「……そだね。ちょい辛そう……。ぶちょー、ウチ、ネネ連れて別の部屋待機しとくね」
美雪さんも、寧音さんの青くなった顔を見て納得したのか、虹際さんにそう告げるとすぐに立ち去って行った。
それを見送っていると、私の耳に、その声が飛び込んできた。
「──花蝶だ」
その声の主は言わずもがな、菜那である。
彼女はこちらも向かずに、未だに、見るも不快な屍をただじっと見つめ続けている。
「……え?」
私が返す。
「……絶対そう。そうに決まってる……!『今夜覚えていろ』……アイツはそう言ってた。その結果だよ……!」
「…………だからって、人を殺す……?」
「殺したっておかしくないわ……!だってアイツは!昔、自分に逆らったヤツの命を奪っているんだから!」
感情が昂るにつれて、彼女の声の大きさが増してくる。
「……許せない……!花蝶にとって……ううん、界坂家にとっては、私たちの命なんてあってないようなものなのよ……!
私たちみたいな一般人は……自分たちのために働く“道具”か何かとしか思ってない……!
……要らない屑は処分するだけ……まして彼等に逆らうモノは……完全廃棄って……!」
顔は真っ赤になり、充血した目からは涙が零れ、額からは怒りの汗が染みだし流れ、床についていた手には力が込められていた。
「許さない……!増峨さん、フロンティアへの道順を教え──」
「まあまあ落ち着け、花理崎」
何の関係もない増峨さんに詰め寄ろうとした菜那の前に、虹際さんが立ちはだかる。
「落ち着いてなんかいられません!警察の電話も済んだんでしょう?ほら早く──」
「それが出来てないんだ!」
激昂する菜那を前に、珍しく吠え、制止する虹際さん。
「出来てない……?」
私が訊くと、今度は増峨さんが答えた。
「何らかの手段で、通信が妨害されているんだ。警察にも、フロンティアにも連絡出来ない。迎えも無いまま、この山道を下るのは危険だ」
「でも……!」
「花理崎……何があったのかは判らないが、今は復讐の時じゃない。まずは身を守ることが先決だ……増峨さん、どうにかなりませんか」
虹際さんが、菜那を抑える。
私も協力し、何とか荒ぶる獣を、一旦眠らせることに成功した。
「今、腕取付型携帯電話の通信ネットワークに入り込めた。やはり遠隔支配されているようだが……解除出来るか試してみるよ」
そう言って、空間鍵盤で作業を始めた増峨さん。
その背中を見た虹際さんが、私と菜那に告げた。
「君たちも部屋に戻っていてくれ。増峨さんには、オレと早房が付き添う」
隣に居る絢も頷く。
その言葉に甘え、私と菜那は、自室に戻ることにした──。
──部屋に戻ってから十数分。
菜那は、
泣いていた。
そのむせび泣く声には微かに怒りも残っていて、その怒りが、彼女の感情の均衡を辛うじて保ち、暴走を食い止めていた。
私はそれを見守るしかなく、声をかけることも、肩に手を置くことも憚らざるを得なかった。
しかしながら、私も何かしてあげたかった。私は彼女に、何度が助けてもらった身。こんな時こそ、何か恩返ししたい、と思うのは人として当然ではなかろうか。
そしてふと、私は考えた。
──こんな時に、私の正体を彼女に明かしたら、
彼女は一体何を思い、どうするだろうか──と。
15という歳にして、親友を目の前で失い、
一度は憎しみに満ちた目で見ていたが、それでも信じかけていた女を殺された今、
本来なら、再び逢ったあの瞬間にでも明かしておくべき事実を伝えたら、菜那はどうするのだろうか。
貴方一人でも居て良かった、と安堵するだろうか。
時宜の違う、無配慮な判断だと責められるだろうか。
或いは、何故今まで伝えなかったのだと立腹するだろうか。
彼女ならば、どのケースでも有り得る。
私は頭を抱えるしかなかった。
そんな時、私たちの部屋のドアから、
コンコン、
とノック音がした。
「ウチ。美雪ー」
ドアの向こうからは、普段の彼女の声と比べればかなり低いトーンでそう告げる、美雪さんの声が聞こえた。
「どうぞ」
私は迎え入れた。
彼女は、
「ありがと」
と短く答えた後、ゆっくりと部屋に入って来た。
暗く、沈んだ表情。それでも笑顔は失わないように、と考えているのか、無理をして微笑んでいるのが判る。
今日は彼女の普段見せない顔を見られる、珍しい日だ。
「アンタの言う通り、ネネってば、だいぶ無理してたみたい。ヤバいくらい冷や汗かいてた」
入ってくるなり彼女は話し始めた。
「けど、かと思った途端、寝始めたんだ。今も寝てる。……とりあえず、ウチはあの子を看ておくつもり」
安静であれば良かった。一息つくことは出来る。
私が危惧したあの事態にさえなっていなければ。
「それだけ話しに来たの。あんまり一人にしたくないから、ウチ、これで帰るね。
……ナナのこと、何が出来ることあったら教えて」
「……はい。ありがとうございます」
私はそう返した。微笑みと共に。
それに応えるように、美雪さんもまた、笑顔になった。
いつもの明るい笑顔に──。
それを残し、彼女が帰ろうとした時、私はあることを思い出し、
「あの!」
と、彼女を引き止めた。
「……寧音さんが起きても、今の事件については、何も訊かないであげて下さい。
第一発見者ですけど……何も答えさせてあげない方がきっと……」
「判ってる」
美雪さんは私の言葉に被せながら言った。
「自分で言うことじゃないかもだけど……ウチはネネのこと、誰よりも知ってるつもり。今のことも……ウチに任せといて」
他の人が言えば、薄っぺらくて無根拠な、微かな信頼もおけない言葉だろう。
だが彼女なら、それが真逆になる。
美雪さんの告げるこの言葉ほど、確かなものは無い。
「んじゃ、ウチはこれで!……気をつけてね」
そう言うと、彼女は立ち去って行った。
「……寧音さん、よかったね」
泣き止み、和らいだ菜那が言った。目元も腫れ、声も少し震えていたが、それでも先刻より感情の昂りは収まっていた。
「うん……」
余計なことは言わないように、と、私は努めた。
「……アタシ、もう寝るね」
小さな女児か、とツッコミを入れそうな台詞だが、今はそれどころでもなく、
「……判った。私、起きとくね」
と、穏便に応じた。
「…………ゴメンね」
「何が?」
「アタシだけ……泣くだけ泣いて、寝るなんて」
「……ううん、謝る必要なんかないよ」
「杏紅は優しいね」
「……ありがとう」
私たちの間では珍しい、静かでおっとりとしたコミュニケーションの中、私は一夜を起きたまま過ごす為の、ブラックコーヒーを作ろうとしていた。
部屋に備え付けられていた食器棚から、コーヒーカップを手に取った。陶器製のそれは、触れると冷たくて、梅雨のこの時期には少し嬉しい感覚を与えてくれた。
その瞬間だった──。
折角の、長閑だった空間にまた、
緊張と、戦慄が走ったのは──。
──バンッッ!!
「──二人は無事か!?」
木製のドアが、かしましい音を立てて開く。
開いたのは、
増峨さんだった。
彼の大声は、和やかだった私たちを強引に叩き起こした。
「無事ですけど……!また何か……!?」
私は尋ねた。
すると増峨さんは息を切らしながら頷き、
こう言った。
「──虹際くんの姿が見当たらないんだ!」




