第39章 決別
「──花蝶って確か……!」
「そう。アイツよ」
私が問うと、花理崎 菜那は言った。
「あの娘を……雛乃を殺した影の女──界坂 花蝶よ」
まだ2ヶ月も経っていない……あの日から。
私たちが、信頼しようにもし得ない女──坂巳根 莉央が、
菜那にとって──即ちそれは私にとっても同様である──親友の、稀崎 雛乃を、雛乃自身の自殺という形で殺した事件の裏にあったという真実を語った日から。
「莉央は花蝶の姿を見るなり私に言った。花蝶がいるって。
見た目は中学の時からかなり変わってて判らなかった──」
──ビジネススーツに、カールのかかった茶色のポニーテール、黒縁の眼鏡……。パッと見だと、社長秘書か何かかと思うようなスタイルだった。
けど、首にかかったパールのネックレス、小さいながらも並外れた輝きを放つダイヤモンドのイヤリング、肩にかけたスモールバッグの中心には高級ブランドのマーク……合計すれば何百万もしそうなアクセサリーを密かに、けどだからこそ目立っていた。
私は社長令嬢ですよと誇示しているようだった。
それで莉央も気づけたのかもしれない。
「……あら、貴女……」
そう声をかけたのは花蝶の方だった。
「莉央よね?……坂巳根 莉央。久しぶりねぇ」
まるで長らく会っていなかった親戚のような口振りで、あいつは近づいてきた。
「ええ……」
その時のよそよそしい莉央の態度を見て、アタシは悟った。
──この二人は、アタシの知っているような関係性にはない。
莉央の言うことに忠実に従うだけの花蝶ではないことを──。
「非物体カードをぶら下げていないから、フロンティアの関係者ではないようね。……ひょっとして、今日ここに来ている大学のツアー?」
「そうよ」
短く応える莉央。その目線は、全く別の所を向いている。
「そう言えば、貴女が電脳機学を学びに大学へ行ったって、閑名も言ってたかしら。私も閑名も、そう言ったところにはまるで敵わないわ」
「そうね」
そう端的に応える莉央に、ようやく不快な顔をちらりと見せた花蝶だったけど、すぐに晴れやかな表情に戻ると、私に手を向けて言った。
「その人は?大学のお仲間さん?」
そう尋ねられた莉央だったが、彼女は答えを渋った。無理もないわ。
けれど目の前の花蝶は首を傾げるだけ。
本当に判ってなかったみたい。
だから代わりに答えてあげた。
「久しぶりね……花理崎 菜那よ。……中学以来ね」
って。
驚いた様子だった花蝶は、一瞬硬直した後に、私の身体を、頭の天辺から爪先まで一瞥した。
その後、中学から変わらないアタシの細い眼とか背の丈で、アタシが真に、
かつて、己に刃向ってきた敵の一人である女であることを認めた、そんな雰囲気になった。
で、アタシに言ったの。
アタシを馬鹿にする反面、敵意むき出しと言った眼で。
「随分変わったわね、貴女。てっきり、家でしくしく泣きながら、飲まず食わずで野垂れ死んだと思ってたけど……まさか莉央とつるんでいるなんて、正直言って夢にも見なかったわ」
そう言われたけど、別にアタシはイラつく事もカッとすることも無かった。
アタシはただ、真実を追及したかった。
「……ねぇ、ひとつ訊きたいんだけど」
「……良いわ、何?」
「アンタが……雛乃を殺した真犯人だって、莉央から聞いたんだけど……その点について、話せるだけ話して貰えるかしら」
アタシがそう口にした時、花蝶は一瞬、莉央を睨んだ。
話すべきではない真実を口外した莉央に対する軽蔑と批難の意を、その一瞬に凝縮した目で。
「……確かに真実よ、それは。私は紛れもなく、この『トレイル・ブレーザー』の社長、界坂 風麻の一人娘であり、次期社長候補。
そしてあの頃、我が会社の将来を背負っていく者として、傘下の『サニレゾン』の令嬢だった莉央を、私の影武者に選んだことは、れっきとした真実よ」
「……稀崎 雛乃を自殺に追い込んだ全ての責任を、莉央に押し付けたことも?」
「ええ」
何食わぬ顔で花蝶は言った。
「『横英』は私の母の旧姓。界坂なんて名字はそうそう居ない……だから聞く人が聞けば正体を知られる恐れがあったから、その名字を利用したの」
「……閑名は何の為にそばに居たの?……今は……何をしてるの?」
莉央が、少し恐れたように訊いた。
彼女が訊くということは、彼女らが出会う前の話はされていないのだと私は踏んだ。
「閑名ねぇ……今は私の秘書をしてくれているわ。
……彼女は父の秘書だった女──彩名の娘。だから私と彼女は所謂幼馴染。
けど父の世界にはそんな言葉もない。『幼馴染』なんてヌルい言葉……あるのは『支配』か『服従』か、それだけよ」
ヌルい。
その言葉に私は反応しようとしたけど、その寸前に脳裏を過ぎったある事がそれに勝った。
「花蝶」
「……?」
「……………雛乃を殺したのに……理由はあったの?」
私は声を抑えながら訊いた。
それは周囲に人が居たからじゃなく、
返答次第で、この声がどうなるのか……それを知らしめるつもりだった。
けど……花蝶はまるで気にしていなかった。
「……あの頃……莉央が言っていた──代弁してくれていた通りよ。
飛ぶ鳥を落とす勢い……衰える気配すら見せなかった雛乃の勢いを無くす為。たったそれだけ」
「……それだけで、殺したの……?」
私の感情は徐々に昂ってきていた。
そして、その高揚しつつあった精神を最高潮まで突き上げる言葉を、アイツは言い放った。
「それは誤解。殺すつもりなんてなかった。死んだのは雛乃の勝手。
ただあの時は狼狽えたわね……まさか私たちの脅しをあんなに真に受けるなんて」
「……雛乃が……自分の意思だけで、死んだっての……!?」
私は絶句しながら問い質したけど、花蝶は至極当然、と言った顔で、頷いた。
そこで、私は耐え切れなくなった──。
私は、花蝶の纏っていた白いブラウスの右襟を左手で掴み、そのまま彼女の背後にあった壁に、その身をぶつけた。
「フザケるな!お前ら──いや、お前の!浅はかで、傲慢で、身勝手な言動のお陰で!雛乃は死んだ!
なのに……『勝手に死んだ』……!?
人を揶揄い、嘲り、笑うことの程度も知らない奴が!人の上になんて立てるはずない!」
鼻息を荒くして、大声でそう言った私を、花蝶は見下した目で見つつも、少したじろいでいた。
よく見れば、額には冷や汗が光っていたし、口角もヒクヒクと震えていた。
けど、それを隠す素振りも無く、痙攣しているままの口から、アイツが放った言葉は、
「……いいのかしら?」
だった。
「貴女、自分の立場を判っていながら、この行動に移っているのよね……?
貴女は今、飽くまでもツアーメンバーの一人であり、いち大学生……貴女が軽はずみな行動をすれば、責任を受けるのは……貴女だけではない筈よ」
「くっ……!」
「それに周囲にも聞こえている筈。この研究所の壁は薄い。すぐに研究員たちも集まってくるわ……たとえ私が口外しなくとも、研究員たちが黙っていないでしょう──」
「黙れ!」
私は吠えた。
そして彼女を手放した。
花蝶は少しふらついた後、すぐに立ち上がった。顔も、最初こそは怯えた表情を見せたけど、すぐに勝ち誇ったようなそれに変わった。
「……ふふっ。人って変わるのねぇ、たった5年で。中学の頃は大人しかった記憶しかないけれど……えらく強気になれるのね」
拳を握っているのも含めて、花蝶は私の全てを蔑んだ。
『サークルの仲間』という、“迷惑”をかけてはならない存在の為に攻撃を諦めたその立ち姿も、
彼女の持つそれに比べれば極めて非力な私の権力も。
そしてその直後、彼女が予言した通り、傍の部屋にいた研究員たちが、慌てた様子で私たちのもとに来た。
戸惑った顔をした女性研究員、私を不審そうに見つめる男性研究員、一刻も早く、ここで何があったのかを知りたい、と言った風な研究員も居た。
「大丈夫ですよ、皆さん。少し躓いて転んだだけですわ。お気になさらず」
花蝶はそう言って、彼等をその場から立ち去らせた。
安堵、或いは怪訝の表情を浮かべつつ、研究員は自らの仕事に戻っていく。
「……こうしちゃいられないんだったわ。初葉 海邦社長に会談しにいかなければならなかったのよ」
そう言うと花蝶は、挨拶も無しに去ろうとしたが、二、三歩歩み出したところで、足を止めた。
そして、こちらに顔を向けないまま、今度は莉央に、吐き捨てるようにして言い放った。
「そう言えば、貴女も変わったわね、莉央。何があったのか知らないけど、まさかあんな“人造人間”を研究対象とかほざいている、馬鹿馬鹿しいサークルに入るだなんて……」
「ニンゲンモド──」
私が再び拳を握りしめ、前に踏み込んだのを、
隣に立っていた莉央が手で制止した。
意外だった。彼女はそれまで、一切黙ったままで、歯も食いしばらずに居たから。
まるで中学生の私を見ているようだったのに。
心中は反逆心で満たされているのに、その威圧感と、行動を起こした後に我が身に降りかかる危険性に怯える余り、その反逆心を微かも露わに出来ない様が、あの頃の私にそっくりだったのに。
「花蝶……アナタには明かしていないけれど、」
その次に莉央が言い放ったのは、私ですら、それは禁句だと判断出来る一言だった。
「……私には、切っても切れない関係の“人造人間”──アナタの言うニンゲンモドキが居る」
その言葉を聞いて、花蝶は無論、私も莉央の顔を見つめた。
「……何?……何の話?」
「言葉のままよ。……今は何をしているのか、動向は何も掴めていない。
けど、必ず何処かで、その人は生きている。……その人のことを知る為に、サークルに──」
「隠していたのね」
語気を強めて、花蝶が遮った。冷静に、落ち着きを払って淡々と話す莉央を見ていたのもあってか、花蝶が慌てて見えた。
「言わなくても判っているわよね?私が……いえ、我が界坂家が、あのニンゲンモドキ共を忌み嫌っていることを。
……そんな重要なことを隠していたなんて……しかも、今この場でそれを明かすかしら、普通」
平静を装っているつもりかも知れないが、隠しきれていない彼女の仕草に、怒りも晴れてきているような気がした。
「その事が如何なるモノに値するか……当然それを知っての発言よね……?
今夜……!今夜、それは現実になるわ……私は断言出来る!
覚悟しているといいわ……!」
負け犬の遠吠えのような雰囲気の残る台詞だけ吐き捨てて、花蝶は背を見せて去って行った。
「……今のが証拠だとは言わない……けど」
花蝶の背を見送りつつ、莉央が呟いた。
「私はあの女とは違う……“人造人間”を、心の底から愛しているわ」
こちらを向かずにそう呟く莉央の表情は、初めて逞しく、勇敢に見えた──。
「──私だって、その一部始終だけで、莉央のことを完全に信頼したわけじゃない。やっぱり莉央が最高位に在って、アイツらが仕組んでやっていることかも知れない。けど、」
そう語る彼女──花理崎 菜那が、私──愛翠 杏紅に向ける眼差しは、過去に見たことがない程、真っ直ぐで、澄んでいた。
「あれが仮に演技なら、私は彼女を、もう一度女優復帰するべきだと推薦してやるわ」
口先ではやや冗句混じりな事を言っているが、その眼は至って真剣だった。
笑顔でも、逆に怒っているわけでもない。本当に誠実な眼。
私はこの瞬間、
彼女を友人に選んだことは、決して間違いではなかったことを改めて実感していた。
「……とまあ、アタシの話はこれで一段落したんだけど」
菜那は突然、話題の切り替えに入った。
「杏紅は何かあったの?遅れてたみたいだけど」
困った。
私はここで、昼にあったことを話して良いものなのだろうか。
私が、自らの不完全な進化形と対面を果たしていた時に、菜那の身に何が起こっていたのかを、ありのまま聞いたのだ。
それに対して、私が答えずにいる、若しくは虚偽の過去を提示するのは、あまりに不義理なことではないか。
しかし、私が知ってしまったのは、この国、引いてはこの世界の未来を揺るがしかねない事実。
その事実に手を伸ばしても届かない連中が、どんな漏洩を狙っているか解らない。
それを考えれば、恩義だけに従い、あられもなくその事実を曝け出すことは、愚かな行為に思えてくる。
私は困った。この僅か2秒にも満たない時の間に、思考は──電脳は懸命に働いた。
その結果、私はこう答えた。
「……“人造人間”の……歴史を見てきた」
と。
真実とも虚偽とも受け取れる、曖昧な言葉。これ以上問われれば後のない危険な賭け。
否、賭けどころか、圧倒的に危険性の方が高い。
その危険性に怯えている様を見せないように、と努めた。
すると。
「へー!博物館みたいな感じ?」
と菜那が問うてきたので、
「そうそう!」
と、何とか通常を装って答えた。
「楽しかったろうな……見たかったなあ」
何とか、バレていないようだ。
このままやりきれれば──。
──キャアアアアアアアァァッッ!!!
奇獣の叫ぶ様な、甲高い悲鳴。
今時珍しい、木製のドアの向こうからであることは確かだが、この部屋の中で叫んでいると錯覚してしまいそうになる程、大きな声だった。
「──どうしたんだろう……!?今の誰かな……!?」
菜那が勢い良く立ち上がる。
「解らない……とりあえず女の人だよ!」
私は応える。
「とにかく急ごう!……あ、“腕取付型携帯電話”、忘れないで、杏紅!」
「判った!」
私は、宿泊用のバッグの中に入っていた、腕時計型の電話を取り出し、
先に現場に向かった菜那を、慌てて追った──。
──金切り声の主は、普段ならそんな声を出せるなど想像もつかないような、1人の女性だった。
名は乾 寧音。
常日頃から、涙の水分によって潤っているその両目からは、身体中の水分という水分を集めたのではないかと思う程の、多量で大粒の涙が溢れていた。
「どうしたんです!?」
日頃なら、ゴキブリですか、とか、怪我でもしましたか、なんて気さくな声をかける筈の菜那だが、
流石にコトの異常さに気づいているのか、それらは避け、単刀直入にそう訊いた。
訊かれた寧音さんは、床に転がるソレを、小刻みに震える右手で指差した。
私たちは絶句した。
恐怖、戦慄、不快感……それらの簡潔的な言葉に収まらない感情に、苛まれるあまりに。
その感情を引き起こした源。
寧音さんの指差したソレ。
それは、
猟奇的、とも言える程に、身体中の皮膚という皮膚をギタギタに引き裂かれ、
その奥から、ダラダラと、赤黒い血液を流す、
坂巳根 莉央の、
死体だった──。




