第34章 茫然
第4部開始です!
数々の急展開が待ち構えてます!(自らでハードル上昇)
2116年4月14日──。
桃色の桜が鮮やかに咲いている。
下を見ると、その花びらの何枚かが散っている。
桜という花は、私に二つの思い出を蘇らせてくれる。
一つは、昨年の春。初めての一人暮らしの準備に忙しかった春だ。
今となっては笑い話だが、あの時は本当に忙しくて辛かった。出来るなら二度と過ごしたくない日々だ。
そして、春の名物の強い突風が吹き、可憐に咲く桜の何枚かが空を舞う時、私の中でもう一つの思い出が目を覚ます。
季節外れの桜吹雪を見た、“あの夏の日”の記憶が。
思い出、と言うと綺麗で良い風に聞こえるが、実際のところ、それは未だに私の心身を蝕み続ける悲痛な記憶である。
そんな二つを思い出しながら私は、通い始めて2年になる大学のキャンパスに足を踏み入れた──。
講義なり課題なりを諸々済ませ、気がつけば昼下がりも過ぎていた。もう冬ではないから日も多少長いが、それでも太陽は頭の真上にはなかった。
その頃私は、“ある部屋”に向かう。
“ある部屋”とは言わずもがな、
“人造人間”研究サークルの所有する研究室である。
メタリックなつくりの重厚な扉の向こうでは、女性の笑う声が聞こえる。明るくて、(必要以上に)大きな声が。
私はその声を聞くと嬉しくなって、扉を開けるなり思わず、
「こんにちは!美雪さんっ!」
と、その女性の名を高らかに叫んでしまった。
「ちーっす、キョウカちゃん!ウチの名前をそんなにゴキゲンに言ってくれるなんて、何かあったの?」
そう言う彼女──初葉 美雪さんもまた、たいそう嬉しそうだった。
それは私が珍しくそんなことをしたから、と言うのと、
私が部屋に入るまで、ある人と話をしていたからだ。
「いえいえ!何も変わったことはないです!ここに来れたことが嬉しくて!
あっ、寧音さん!こんにちはっ!」
「……ふぇっ!?こ、こんにちは……」
私はそのある人に向かっても挨拶した。
そして常に臆病そうな彼女──乾 寧音さんは、まさか自分にふってくるとは思っていなかったのか、やや驚きつつも返してくれた。
その動作を恥じて頬を赤らめる寧音さんを見て、私の胸はまたキリキリと痛んだ。
今年の初めの“あの日”以来、彼女は勿論のこと、私の心の痛みもまだ癒えていなかった。
角中 宙音という、一人の──いや、一体の、と言うべきか──“女性人造人間”を前にして、救うどころか何も出来ずに、その上彼女を失うという事件が齎した痛みが。
結果的に残ったのは、心身ともに影響する深い深い傷だけ。
ましてや、乾 寧音の中に眠るもう一人の人格──金子 結由にとっては、親友や家族と言った枠にすら留まらない、自らの身体の一部とまで言えた存在を失ったのだから、それから癒えるのにたったの3ヶ月足らずで事足りたのは奇跡ですらある。
とは言え彼女は一度、興土島に残ると言っていたのだ。大学などどうでもいい、せめて今は、興土島に住む神多夫婦と暮らしたいと。
しかしその神多家の妻、撫子の必死の説得が、彼女を大学に引き戻した。
「アンタを必要としている人はアタシたちだけじゃない。今のアンタを必要としてくれる人は、この島の外にもっといっぱいいるんだ」
と。
彼女をこちらに引き戻さなければならなかったのは、元の生活に戻らないと心配してしまう人──例えばこの初葉 美雪──が居るから、でもあるが、それ以上に、
彼女を捕らえようとする刺客が送られる場所に最も近い場所に住んでいるのが危険だからだ。
刺客の送られる場所──広楽島は、興土島の高台からなら、島に立つ建物すらゆうに見える程の近さだ。
だから次の刺客を送られるのは時間の問題なのは想像に難くない。
それを踏まえれば、私たちが慌てるのも無理はないのをお判りいただけるだろう。
一晩に渡る必死の説得もあり、結由は島を出ることを決意し、そして彼女が船に乗り、数キロメートル離れた時点で、彼女は眠った。
“足掬角”を過ぎるまで、彼女は眠ったままだった。
そして、乾 寧音として目覚めた時、彼女は自らが今置かれている状況を瞬時に理解し、パニックなども起こさなかった。
その現象に私は少しばかり違和を感じたが、それもすぐに収まった。
事件に関しては、警察の勘違いに助けられた。彼らは、戦場のように壊された現場を見て、老朽化の進んでいた地下電線が単独故障を起こし、その所為で多方面に被害が及んだと推測し、それをマスコミに公表したのだ。
つまりそこに人為的な手は加えられていないと考えたわけだ。
結果的に私たちが繰り広げた死闘は、国民に、ライフラインの危険性を教えただけになった。
その後、私と寧音は、その事件に関して一切の情報を口外していない。
身体中にある傷は、交通事故だとか料理中の事故だとか、色んな理由を作って、サークルのみんなに伝えた。
そうして今、私たち二人は、来たるべき戦いの時に向けて準備を進めていた──。
「そういや部長、遅いねぇ」
一息つく為に、私がコーヒーメーカーで一杯作ろうとしていた時、美雪さんが言った。
部長の後に“さん”が付かなくなったのは、お察しの通り、部長が代替わりしたからである。
新年度になるに当たって、前部長──黒雨 凛はその役をある男に引き継いだ。
その男とは──
「オレの噂してたな……ってうわぁっ!」
と、颯爽と入ってこようとしたのに足下にあったゴミ箱に気づかずに躓いて、結果、賑やかにすっ転ぶという、相変わらずのおっちょこちょいな、虹際 星剛という男である。
「アッハハハハ!なにやってんのさ、部長ってば!」
同い歳である美雪さんは抱腹して大笑い。
「大丈夫……!?ああ、ゴミが……!」
その親友の寧音さんは散らばるゴミを見て大慌て。
「アハハ……いやあ、大したことは無いさ。あーあ、また片付けなきゃなあ」
優しく笑ったその大きな図体をした男は、ダンゴムシのように身体を丸め、寧音さんと協働で塵だの埃だのを集め、ゴミ箱に捨てていく。
こんな光景は日常茶飯事。
これが“人造人間”研究サークルなのである。
「んで?今日はあの娘は休み?杏紅〜」
その光景を他所に、美雪さんが私に問うた。
私も助けに入らなければならないのだろうかと考えていたのだが、それを理由に助けないことにした。
「うーん……判んないです。今日は会ってないんで」
「その会ってない娘が来ましたよ」
会話に割り込むように発されたその声は、私たちをその方に向けさせた。
「おー、菜那!噂をすれば何とやら、ってやつだね」
美雪さんがその声の主──花理崎 菜那にも、無垢な笑顔を向けた。
菜那は、床でせっせとゴミを集める寧音さんと虹際さんの2人を手伝った。
「教授に質問してたら遅くなっちゃいまして。黒雨さんは今日も?」
「うん。就活、ってやつだってさ。……遊べなくて残念だねー、キョーカ」
「えっ!?あ、は、はい。そう……ですね」
「あっ、照れてるー」
「照れてるー」
「て、照れてないっ!」
美雪さんのちょっかいに、不本意ながらも頬を赤らめてしまった私。そしてこういう時は決まって、菜那も調子づいて一緒にからかってくる。この感じは嫌いではないが、いいものだけで構成されてはいない。
去年の冬、あのクリスマスの日から、所謂恋仲にある私と黒雨さんを、事ある毎に弄してくる。
それが、私たちの関係を是認してくれている証だということを承知の上だから、私も弄ばれる度に、こうやって恥じらうのだが。
「まあ、直近な予定は特に無いから、黒雨さんには落ち着いて就活してもらおう。オレたちが慌てる必要も無い」
冷静そうに虹際さんは言うが、すぐに、
「それもそうだけどー……一番落ち着くべきなのはアンタじゃない?」
と美雪さんに言われる始末だ。
「私もコーヒー飲もっかなぁー……カプチーノ、っと……」
続いて立ち上がった菜那が、ガラス製のコーヒーカップを手に取り、こちら側にあるコーヒーメーカーのスイッチを押した。
淹れ終わったカップからは湯気が上り、菜那はその中の、香りの良い泡立つそれを美味しそうに啜った。
暦の上では春と言われ、桜の花や土筆も顔を出し始めてはいるが、それでも吹く風は肌寒いし、お陰でコートも手放せない日々が続いている。
そんな中で飲む、程よく温かいコーヒーは、私たちの身体を優しく癒してくれるのだ。
「そーいや、今日からだったっけ」
何かを思い出した美雪さんが言う。
「例のケンって新しい子」
「ああ、あの小騒がしい奴か。正直言ってああ言うのはちょい苦手だ」
虹際さんの眉間に皺が寄った。
“ケン”。その名前を聞いて、私も思い出した。
三日前。入学式から数日が経った日だった。
他の部活にもサークルにも入っていない私たちは、その日も研究室に居た。特にすることもなく、美雪さんは楽しそうに寧音さんと話したり、私は私で課題を済ませたりして、ただ惰性的に過ごしていた。
その何とも言えない、けれども居心地の良い空間を壊すように、扉が音を立てて開いた。
「すみません!ここは“人造人間”研究サークルでしょうか!」
さながら道場破りのような勢いで、彼は私たちに問うてきた。
対して私たちは驚くあまり、互いに顔を見合わせていた。
「う、うん……そうだけど……?な、何か……急ぎの用事?」
美雪さんが戸惑っているのだから、この研究室に居た人間にとってこれは、少なくとも予想できたことではないことは確か。
「良かった……あっ、オレ一回生っす!早房 絢って言います!入部希望、ってヤツです!」
やけに元気がいい。良すぎるくらいだ。
それにこの威勢の良さは、美雪さんのそれと“何か”が違う。得体は知れないけど、決定的に違う“何か”が。
この実態の掴めない違和感を消し去りたかった。
何故って、この違和感はただのムズムズじゃなく、
妙な胸騒ぎを起こしてしまうそれだから。
近く、このサークルに不吉な、良からぬ何かを齎す気がしてならなかった。
「もちろん、オレたちは新入部員は希望だが……君、“人造人間”についてはどれくらい……?」
綿が飛び出ているボロボロのソファで一人休息していた虹際さんが徐に立ち上がり、その図体を見せた。
自らに覆い被さるようなその巨大な身体にも一切たじろがずに、絢は答える。
「二人目の父が“人造人間”でした。母親の連れ子だったオレに優しくしてくれたんですが……例の法律がその父をかっ攫ってしまいました。
それまでの間に、その父から教えて貰ったことをもっと知りたいな、と」
「そ、そうか……すまない、答えにくい質問をしたかも知れないな」
苦手なタイプの人間が来て、やや苛つき気味に尋ねた質問の返答を聞き申し訳なくなった虹際さんは、俯きそう言った。
だが絢は、
「いえいえー!謝られるようなことなんて何も!」
と、明るく返した。
彼が見せるその白い歯に背筋を凍らせていたのは、その場にいた他の誰でもなく、ただ私のみだった──。
そのことを思い出した今でも、未だに私の身体は震える。
それは、4月を過ぎても残る冬の刺すような寒さの所為ではない。
思い出す度に身体中を走る悪寒、その所為に他無い。
「まあまあそう言わずにさ、部長。変わり者も一人くらいは必要、って思いましょ」
美雪さんが発想の転換を虹際さんに促す。
それもそうだな、と容易に彼も受け入れる。
そこで私は、
「それは間違ってます」
と言う勇気を絞り出すことは出来なかった。
得体の知れない以上、そのモヤモヤした疑念を他の人に伝えるのは気が引けた。
確証もない持論を用いて他人を止めようとすることは愚かしい。実に。
その愚行を恐れた私は、コーヒーカップに残っていた、少し冷えかけた、白みがかった茶色のコーヒーを啜ることしか出来なかった。
「っこんちはーっ!」
そう叫び、ドアを激しく開いて入ってきたのは、絢だ。
驚くあまり、口に含んだばかりのコーヒーを危うく吹き出しそうになった。
「ちぃーっす。元気なのはイイけど、ちょい優しめでお願いねー、ドア開くの」
美雪さんの応対があからさまに冷たい。さっきは虹際さんに対しああ言ったが、実際彼女も絢のことはあまりよろしく思っていないようだ。
「早速なんすけど、一人、紹介したい人がいるんすよ」
唐突に絢が言う。
「ほう。……で、その人は?」
「今、別件があるみたいで遅れて来るとか。同じ学部の女子なんですけど、かなり頭良いらしくて。何でも首席と一二を争うんだそうです……お、来た来た!」
こっちこっち、と絢はドアの向こうで、こちらに向かってくる誰かを手招きしている。
その時、私の胸は、今までにないほど激しく鼓動した。
これから約数秒先、その瞬間に起こることに対する私の胸騒ぎは最高潮に達した。
しかしそれを、
私の“本能”というやつが必死に警告しているのを、
私の“思考”は、まるで嘲笑うかのように、
スリル、として受け取った。
いうなれば、怖いもの見たさ、という感覚だ。
しかし、その瞬間、
その行為こそ実に愚かしい事だったということを、
私の思考は思い知ることになる──。
「ほら、早く来なって」
絢が手招きしている女の影が、窓越しに見えた。背丈はちょうど私たちくらいだろうか。
すりガラス越しに見ても判るような、理想的と言えるプロポーションの持ち主と伺える。
彼女はドアからその姿を覗かせることの出来る一歩手前で立ち止まった。相当な引っ込み思案、或いは心配性なのか、絢に改めて訊いているようだ。
「大丈夫だってば!ほら、『初心者大歓迎』って書いてあったっしょ!」
そういえばそんなことを掲げていたポスターも、キャンパスの何処かにあったなぁ。何年か使い回しているようだ。
「ささ、入って入って」
言いながら、絢が研究室に足を踏み入れる。
それに付随するように付いてきたその女の姿を見た時、
隣に居た菜那の手から、コーヒーカップが滑り落ち、ガラス製だったことが災いして、粉々に砕けた。
パリンッ……!
という音ともに、床に零れるカプチーノ。
「ちょっ、どうしたの……!?菜那って……ば……?」
私はコップの破片やカプチーノを掃除しようとした。しかし私は、その位置から彼女を見上げた。
そして私は、彼女にかけるべき言葉を見失った。
菜那が、顔面蒼白の状態で立っていたから。
こんな彼女は見たことがなかった。私が彼女の隙を見て部屋を探った時でさえ、こんな顔はしなかった。
衝撃を受けると同時、私は、菜那をそんな状態にした、その女を見てやった。
下から順に一瞥する。
スラリと長い脚に、引き締まった尻と腰。悔しいまでに豊かな胸。細長くも華奢ではない首。
そして、妖艶な雰囲気を放つ、眉目秀麗という熟語を具現化したような作りの顔。
見覚えは無かったが、しかし判断出来る。
こいつは……この女は……!
私が正体に気付いたまさにその瞬間、
女は私たちに向かって深くお辞儀した。
そして、平然とした表情のまま、彼女は下に向けた頭を上げ、口を開いた。
「……はじめまして。早房君と同期の──」
私はこの時、この瞬間を恐れていた。
私の本能は──。
「──坂巳根 莉央、と申します──」




