第26章 夫婦
「──だから言ったじゃないか、あいつらにあんな服着せるんじゃないって!」
家の中だというのに被っているミリタリー柄のベレー帽と、同じミリタリー柄のジャンパーにダメージジーンズという、何処ぞの軍隊と見紛ってしまいそうな格好の女性が、
恐らく夫である男に向かって叫んでいる。
耳が痛くなるからやめてほしい。
「だからよ……その、カッコいいんだって、あいつらも言うからよ」
責任の一端を他人になすりつけるというダメ人間さを見せる夫。
虎の絵と、その上に『愛流虎』の文字が入った刺繍が目立つ黒いオーバーオールとは裏腹に、その喋り方は実に頼りない。
「カッコいいだけじゃすまないのよ、世の中は!現にそのせいで、ここに怪我人が出てるじゃないか!」
なるほど、これが世に言う『かかあ天下』というやつか。確か花理崎家もこうだったと、菜那がいつだか言っていたな。
とか考えていると、その軍隊長のような女性は、戦闘で傷ついたので安静にしていた私──愛翠 杏紅の所へと駆け寄ってくれ、言った。
「すまないねぇ、うちのバカ旦那のせいでこんなことになっちまって……。あとでみっちり叱っておくからねぇ」
──目の前で叱っているのを見せられているのですが──とはとても言えず、私は、
「い、いえ!私の早とちりが悪いだけですし。怪我も大したことないですよ」
と返す。が、
「大したことないわけあるかい!吐血なんてそうそうあることじゃないんだよ?……ったくホントに……ホラあんた!あんたも謝んなさい!
この娘に変な気遣いさせてんのも、元はと言えばあんたのせいなんだよ!?ほら頭下げな!」
と、夫に頭を下げられる羽目になった。
よくわかっていないのに謝られると何だかムズムズしてしまうのだということを今知った。
「にしても、帰ってくるなら早めに言ってくれれば良かったのに……って、お前さんに言っても意味が無いね」
彼女はそう言い、遠くから声が聞こえてくるある人の方を見た。今回の事件の発端といえば発端の、少し口の悪い少女だ。
「だーかーら!ここで蹴りだっつってんだろー?今のおれのココは完全に無防備だったんだ、その隙を忘れちゃダメだっての!バカ!」
戦闘術を教えているだけなんだろうけど、罵声に聞こえて仕方がない。
この声が、分厚いガラス窓を隔てているにも関わらず鮮明に聞き取れてしまうのだから、恐らくかなりの大声である。
近所迷惑にならなければいいが。
「今、コーヒーでも淹れてあげるよ。当分此処でゆっくりするんだろ?我が家みたいに思っておくんな」
少女の方を暫く見つめたあと、彼女は再び私に目線を戻し言った。
よっこらせ、と立ち上がると、台所の方に向かった。
さて、今のうちにお家見学に移ろうか。
私はグルリと室内を一瞥してみる。
ざっくりとした雰囲気だけでいえば、白鷺家と似ている。白塗りの壁に、観葉植物がいくつか置いてあり、リビングには縦幅が3メートルはありそうなテーブルが1つ。
逆に違う点は、壁の諸所に飾られてある、カタギ系の男性や、龍だの虎だのと言った強さの象徴である動物の描かれたポスターだ。
家庭的な内観にそぐわぬそれらは、異様な存在感と威圧感を放っている。
そして窓の外には庭があり、そこで今、少女の戦闘術教室が行われている、というわけだ。
「そんなにウチが気になるかい」
低い声が、上から降ってくるように聞こえた。
真上を見上げると、例の旦那さんが私を見下ろしていた。
デカすぎる彼に驚いて、
「ひっ」
なんて情けない言葉を漏らしてしまった。
彼はすぐに上から見下ろすのをやめ、私になるべく目線を合わせるよう、座った。
「……すまなかったな。これからはちゃんと話してから戦うように、ウチの奴らには言っておくよ」
「は、はあ……」
まさかもう一度謝られるとも思っていなかったので、しっかりとした挨拶を返せなかった。
しかし本当に大きな身体をしているな。思わず感心してしまうほどだ。
研究サークルの虹際さんも大概だったが、彼はそれ以上。身長だけで言えば彼より10センチは高そうだ。
日本人じゃないかもしれない。
と、半ば呆れつつ、下から順に見上げるようにして彼を見ていると、彼の顔に到達した所で、妻に頭を叩かれてしまう所を目撃してしまった。
「また格好だけつけて、なーにが『うちの奴らに言っとく』だい!あんたが悪いんだろーが!」
これぞ鬼嫁、という女性を私は今まさに目に焼き付けている。
日頃からそうしているのだろう、スリムな身体に似合わぬ腕の太さである。
「ホントうちのは……バカったらありゃしないねぇ……はいコーヒー」
溜息を吐きながら、彼女はコーヒーの入ったマグカップを私に渡してきた。
ありがとうございます、という礼の言葉にすら申し訳なさが宿ってしまう。
「そういや、まだあんたに名乗ってなかったねえ」
不意にそう言い、私に向き直る女性。
「アタシは神多 撫子って言うんだ。変わった名前だろう?……んでこっちが、うちのバカ旦那、潤さ。……ほら、挨拶しな」
「う、うっす」
嫁、というより母親に近いな。
となれば旦那──潤はちょうど、
外ではヤンチャなガキ大将だが、母の前では大人しくなってしまう男子中高生といったところか。
しかし撫子と潤か。潤はさておき、撫子というのは、彼女の言う通り変わった名前であるな。
だが見た目こそ近づき難い彼らだが、今の会話からもわかるように、どうも悪そうには思えない。
この感覚……覚えがある。
“彼”と何か関係があるのか?
探ってみる価値はあるかもしれない。
「あぁ、ダメだ。ちょっとお前ら休んどけよ。……おーい、ジューン!」
遠くの峰に立っている誰かを呼ぶように、窓の向こうの少女が大きく手を振った。
ご教授は気まぐれで始まり気まぐれで終わるようで、当の黒スーツの男たちは、可哀想な言い方だが、少女の玩具状態であった。
そして、呼ばれた潤の方は、
今まで下ばかり向いて無口だったのが嘘のように、
「おうっ、一戦交えようか!“ユユ”!」
と張り切って出て行った。
弾かれるように飛び出て行った潤を見送って、撫子は大きな溜息を吐いた。
「見ての通り、喧嘩バカなのよ、あの人は。……昔、地元の不良いグループに入ってたの。アタシと潤は。
そのグループは他のそれとは一風違ってね。
アタシは13の時にそこに入ったんだけど、その時のリーダーが、“ある人”の教えを忠実に守ってたの。
“差別だけは絶対にしない”って言う教えを」
その台詞に、私は聞き覚えがあった。
不良集団のリーダーを務める、教えを宗教的に守る男……。
そんな人はもしかすると他にもざらにいるのかもしれないが、私の脳裏に浮かんだ人と、何か関係があるのかもと思い、躊躇いもせず問うてみた。
「そのリーダーの人の名前……川上 頼斗……って言うのじゃないですか?」
「えっ……!?」
口をポカンと開き、予想だにしなかった展開に対する驚きを隠せない撫子。
「な、なんであんた……その名前を……!?まさか、あんた、アタシらの後輩……!?」
──類は友を呼ぶ、というやつか──と、自分なりに何とか処理をしようとしている撫子。
その彼女の混乱をさらに助長するようなことを、私は口にしてしまう。
「……父さん、なんです。私の」
「は!?」
と、破裂音にすら似た驚きの声をあげると同時に、私の肩を掴み、私の身を激しく揺らし始める撫子。
「どういうこと!?あんたがむ、娘!?アタシ、あの人に子供が出来たなんて聞いてないよ!?ま、まさか、隠し子……!」
私の身から手を離し、今度は自分の身を遠ざけていく撫子。
「ちっ、違うんです、その……うーん……!しょうがないか……!」
私は悩んだ末に、『完治には最低2ヶ月は必要だから、これは取るな』と白鷺さんに言われていた右手の甲に巻かれている包帯を外して見せた。
その下に隠されている、私の正体を証明するそれを。
「“堅構骨”……!」
それが何たるかを知っていてくれてとても助かった。
「あんた、一体何者……?」
撫子は、訊いて当然の質問を私に放った。
「実は──」
──私は約数十分に渡って、川上 頼斗という男との関係性、そして、ここに来るに至った経緯を説明した。
その間撫子は、私の顔に何か付いているのかと問いたくなるくらいに顔を見つめながら話を聞いていた。
「……なるほど……世の中ってもんは狭いんだねぇ……。
“人造人間”であるあんたを、まさかあの頼斗さんが救っていて、その意思を継ぐ人が訪ねてきてくれるなんて。
ただ心残りなのは……あの人の死を見送れなかったことかなあ……」
そして虚空を見上げた彼女の目には、うっすら涙が浮かんでいた。
彼女と父さんの間に、一体どんな関係があったのかは今の所定かではないが、悪い繋がりでなかったことは十二分に判る。
その関係性も気になるが、今はそれよりも大事なことがある。
「……だから私は、彼女の……寧音さんの身に何があったのか、知りたいんです」
撫子は、そうだね、と涙をぬぐい、私に話をしてくれることになった。
「アイツは……二重人格ってやつなのよ。そして寧音は、本来第二の人格。本当の彼女は、自分を“おれ”呼ばわりする今の状態、
金子 結由なんだよ──」




