第21章 涙雨
「──じゃあ何でその写真、消さないんだ、って思うでしょ……?」
締め括りに差し掛かった話し手──花理崎 菜那は、私にそう言った。
「何で憎い女の映った写真を残してるんだ、って思うでしょ?……答えは簡単なのよ」
彼女は言い、私の足下にあった白い縁のフレームアルバムを取り、それを見つめて言った。
「この写真以外に無いの……雛乃の映っている写真が」
その時、私は初めて彼女の涙を見た。
彼女はそれまで、雛乃の受けていた暴力の話をしても、その末に亡くなってしまった話をしても涙は流さなかったのに、その瞬間、堪えていたそれが溢れ出た。
『目にゴミが』とか『汗が』みたいに誤魔化すことはなく、代わりに彼女は微笑んだ。私に心配をさせまいと菜那がとった、彼女なりの考えだ。
「これを撮る数日前に、メモリがいっぱいだって表示が出てさ。また新しい写真撮ろ、って気軽な感じで全消ししちゃったの。
……しかもこのフレームアルバム、他のカメラから貰った写真を加工出来ない型落ちのヤツなの。だから莉央の映っている部分だけ消す、なんてことも出来ない」
フレームアルバムの画面を撫でる菜那。その姿が、私の切ない感情を煽る。
「……『偶然が重なって今がある』、『不運も幸運も、調味料は偶然なんだ』。……カラキラの曲の歌詞なの。
曲題は『Chance!』。カラキラの中じゃ珍しいバラードの曲なんだけど、実は……私の背中を押してくれた曲はコレ」
その曲なら、私も聴いたことがある。ヴォーカルのカノンの、伸びやかで耳に心地良い刺激を与えてくれる声が、バラードに実に適していたのをはっきり覚えている。
「昼に寝て夜に起きる生活の中で、ふと夜中に点けたテレビでやっていた音楽番組でカラキラが特集されてたの。
その時に発売されたのがこのシングル。その後も何度かテレビで聴いているうちに、いつの間にか好きになってた。
でいつの間にか、カラキラに嵌ってたってワケ」
菜那は、その頬を伝う涙を拭わなかった。
彼女は涙を恥ずかしがっていない。その事実を知って、私は彼女を、『カッコイイ』と思えるようになった。
「昔はこんな感じじゃなかったんだよ、私。小学校じゃ毎年委員長やってたし、眼鏡かけてたのと口調からガリ勉だって男子から言われまくってたし」
安心して、菜那。私はその時のあなたを知ってるから。
「けど『カラキラ』に嵌ってから、自分でも驚くくらい、口調も見た目も『カラキラ』に引っ張られちゃって。母さんに何度怒られたことか」
あはは、と彼女は笑った。
私は愛想笑い程度しか出来なかった。
「……私にはそんな過去がある。過去、なんて言葉で片付けたくないけど。
……私は、“人造人間”を蔑む奴らを見返したいの。それプラス、私は、“人造人間”を愛する人を蔑む奴らをギャフンと言わせたい。
私、高校は、地元では『日本一争いの少ない学校』って有名なとこに行ったんだけど、其処で知り合った“人造人間”を愛する人に、悪い人はいなかった。
少なくとも莉央みたいに、罪も無い人を気に食わないと言って痛めつけるような人はいなかった。
だからって全てを信じるわけじゃないけど、とにかく私は、
罪の無い人が傷つくのを見たくない!
その為に私は、あのサークルで武器をつくる。武器って言っちゃうと聞こえが悪いかもだね……。
そうしていくことが、雛乃、そして居なくなったもう1人の友達のぶんを生きる、ってことなんだと思うのよね」
彼女が決意を固めた顔には、気のせいだろうか、雛乃の面影があった。遊びに懸命になっている時の、雛乃の顔が。
その顔を見て、私の目からは、
大粒の涙が溢れ出た。
「ちょっ、何で泣くのさ、杏紅。アンタが泣く必要ないじゃん」
原因不明の私の涙に慌てる菜那。
しかしその涙は止まらなかった。
私はその涙のワケを、もちろん知っていた。
後悔、そして苦痛だ。
後悔──それは無論、雛乃を救えなかった事の後悔だ。
正しくない考えに対して立ち向かうことは、何も悪くない。
しかし、友である私は、彼女を救えたのではないか。真正面から奮戦する必要はないと、助言することくらいなら出来たんじゃないか。
あの時逃げずに、可能な限り其処に居てやれたのなら、私は彼女の進む道を修正出来たのに……。
そんな後悔だ。
そしてもう一つは、苦痛──。
それは、かつての友を前にして、
失ったと思っている友は目の前に居ると言えない苦痛だ。
“人造人間”であることをバラしてしまうと、菜那にも様々な危険性が付き纏わせることになる。
今でこそ報道は減ったが、それでも私は指名手配者だ。NHFW-1000が生きているということを知ったにも関わらず、それを警察などに知らせないでいると、共犯とみなされ軽罪を科せられる。
それを鑑みると、すんなり自分の正体を明かすことは出来ない。論外レベル。
そんな世界の息苦しさ──苦痛なのだ。
「……大丈夫だよ。私、涙もろくてさ……。菜那の話聞いてると、涙出てきちゃって……」
おばあちゃんみたいだね、と付け加えると、菜那は、何それ、とまた笑った。
彼女がさっき話していた感覚が今、判った。
目の前で笑われていることが苦しい、その感覚が。
私は、胸が張り裂けそうになるくらいのもどかしさを必死に抑え、笑った。
春雨が、窓の外で降りしきっていた──。




