32
夜が深まる頃、セイレンは目を覚ました。しかし眠った感覚は無くぼんやりとした頭のままだった。そして不意に、花のあった場所へ目をやるとそれが無いことに気付き、慌てて従者を問い詰めた。事を聞いたセイレンは、急いで捨てられたであろう場所を隈無く探した。雪に塗れ衣類は滴り、手は赤く足先は凍てつきに冷たさを感じ無くなっていた。這いつくばろうとも、茂みを掻き分け血を流そうとも、シアの花は見つからなかった。それからの翌日、城下町では樹国の者とセイレンの婚姻の噂が溢れ、シアは魔法に手が付かないでいた。陰の中から陽向を見ていた彼は、何かを思い立ち影を纏い陽の下へ出て行った。それを見ていたヒスイは、その彼の後ろ姿が気にかかり、シアの後を隠れて着いて行く事にした。
その頃セイレンは、シアに謝りに行こうと支度を整えていた。そして城を出ようとすると、彼女を従者や魔法使い達が引き止めた。それは白王の命令で、婚姻を前に身勝手な行動をさせない為だった。セイレンはそれを振り切ろうとするも適わず、自室へ戻ると窓から身を乗り出して手を伸ばし囁いた。そうすると窓際から地面に向かって、歪ながらも氷の階段が出来上がった。それをゆっくりと降りて行く彼女だったが、地面までもう少しの所で階段が崩れて転げ落ちてしまった。その音に人が来ると恐れて、痛みを堪えながらセイレンは森を通り、遠回りして城から離れた。そして川沿いへ出ると、法院へ向おうとする彼女を誰かが呼び止めた。
「セイレン様。私の事を、覚えていますか」
声を掛けたのは、綺麗な身なりの男だった。セイレンはその男を見ると、「さあ」と直ぐに目をそらして答えた。
「忘れたなんて、酷いな。あの夜は、あんなにも求められたのに」
「急いでいるので失礼します」
「あの夜が忘れられなくてね。お前にとって数ある一回でも、私にとっては王女と一夜を過ごせた、特別な日なんだよ。誰かと結ばれる前に、もう一度とね」
その場を離れようとするセイレンの腕を掴み、その男は嫌がる彼女を無理矢理抱き寄せた。そして彼女の抵抗を抑えて、男はセイレンに口づけた。その瞬間、彼女の中で何かが雪解けたように、力が抜けていくのを感じた。その光景を遠目に見た人々は、セイレンの噂も相俟って別段変わり映えのする物ではなかった。それを偶然に見てしまったシアと、彼の後ろから覗くようにみたヒスイを除いては。
「また、楽しみにしていますよ」
男は人の目もある事に気付き、そう言ってその場を離れた。残されたセイレンは、虚ろな瞳に涙を流して覚束無い脚取りで、歩き始めた。そしてシアは、男が去る前にそれ等に背を向け、引き返して行った。彼がそれ相応に、気が動転しているのは明白だった。呼び止めようとしたヒスイの横を、素通りして彼女に気がつかずに行ってしまったからだ。シアは法院へ戻ると、その場に居た皆へ帰るように指示した。彼の指示を不思議に思う者も居たが、皆それぞれに帰って行った。
「ヒスイ、お前も帰れ」
「私には、そんな暇はありません。奥の部屋で、作業をしますね」
それから陽が陰る頃、セイレンが法院を訪れた。暖炉の前で火にあたっていたシアは、入って来た彼女に気が付くと直ぐに目を反らした。月明かりが差し込む広間で、シアから少し離れた場所まで歩んだセイレンは、そこで暫く立ち尽くした。
「私の。私達の誓は、破られました。ごめんなさい…」
シアは言葉が見つからず、セイレンに何も答えられずに火を眺めていた。静寂には嗚咽を堪える音混じりに、彼女の震える声が響き続けた。
「もう、よい」
「…もう、汚れた私では、触れられませんか。私の願いなど、もう叶わないのでしょうか」
「汚れてなどいない。そなたは、そなたのままだ」
「でも、叶わないのでしょう?!叶うなら、貴方に汚れを払って貰いたい。拭いさり、色付けてほしい。誓は破ってしまいました。でも私の貴方に対する気持ちは、誓い以上のものだと。覚えていてほしい」
そう伝えると、セイレンは深く頭を下げて彼に背を向けた。無言に彼女の話を聞き、去ろうとするセイレンの後ろ姿を見たシアは、入り乱れる気持ちを捨てて立ち上がった。
「もうよいと、言った筈だ」
「でも、誓は破ってしまいました。もう、触れてはいけないと…」
シアは月明かりを背に、振り返ったセイレンの口を塞ぐように口づけた。その時奥の部屋から出てきたヒスイは、その瞬間を目の当たりにした。それを止めようとする彼女の叫び声が響き渡るも間に合わず、口づけた瞬間シアの心臓は大きく鼓動し、その激痛に彼は悲鳴を上げた。駆け寄ったヒスイが倒れながらシアを受け止めると、その身体は痙攣を起こし肌は青ざめ、凍てつくように冷え始めた。
「どうして…、どうしてこんなにも酷い事をするの。出て行きなさい…。出てって…!!」
シアを抱き寄せながら、立ち尽くす彼女にヒスイは泣き叫んだ。苦しむシアを泣きながら抱き締める彼女を見て、セイレンはその場から逃げるように出て行った。