1.十四年目[3]
伊知恵はすぐに眠りに落ちたが、耳元でしきりに何かがささやくような夢を見ていた。疲れすぎたんだ、と眠っている自分に警告する自分の意識があった。
やっぱり、無理しないで先に休ませてもらえば良かった。こうなると、しばらく続くのは幼い頃からの経験でわかっていた。
伊知恵は、何も「見る」能力はなかったけれど、聞こえないはずの音を拾うことはしばしばあったのだった。たいてい、ひどく疲れているときか、体調の悪いとき、どこから来るとも解らない気配や音を耳が拾ってしまう。厳密には、耳ではなく頭の奥のどこかに直接響いてくるのだが。
その声は、まるで周波数の合わないラジオのように、雑音を含みながら、はっきり聞こえたかと思うと遠ざかり、途絶え、また少しずつボリュウムを上げてくる。聞き取れそうになると再び何かにさえぎられたかのようにふっと途絶えてしまう。誰かが遠くで叫んでいるようでもあり、すぐ近くでささやいているようでもあり、懇願するような、怒声のような、男の声のようでもあり、女の声にも聞こえる。いったん音の波を拾ってしまうと、それを自分の意志で遮断することは出来ない。
やがてそれは次第にはっきりした一つの音に集約された。悲痛な、やり場のない怒りと哀しみに満ちた途切れることのないむせび泣き。泣き声がはっきりして来るにつれ、伊知恵は拍動する頭痛も感じていた。
(ああ、おばあ、助けて)
伊知恵は半分眠りの中で、垂直に切り立った崖に左腕だけでしがみついている。左腕が力つきる前に、何とか右手で岩のくぼみを探さなくちゃ。そんなイメージがいつの間にか悪夢になって伊知恵を包んでいた。石のように重く感じる右腕を何とか動かして、指先で目の前の岩のくぼみにすがろうとした。あと少しなのに、届かない。
(もう、少し・・・)
伊知恵の右手が、ざらざらした岩をつかんだ。
と思ったら、それは左手のブレスレットだった。
はっと気がついて伊知恵は目を開けた。
信じられないほど間近に、自分をのぞき込む女の顔があった。じっと自分を見つめる黒々とぬれた双眸が、闇の中なのに何故かくっきりと伊知恵を見つめているのがわかる。
悲鳴を上げたつもりだったが、地の底からオーンと響くようなうめき声だけが聞こえた。
翌朝、香苗が眠そうにあくびをしながら、伊知恵に不平を漏らした。
「いっちゃんたら、昨夜は一晩中うなされてたよ。うんうんうなって、うるさかったぁ」
「ほんと?私、全然覚えてない」
伊知恵がびっくりして目を見開くと、香苗は
「怪談、苦手なんでしょ」
と、にやっと笑った。
「そりゃ、得意じゃないけど」
「いっちゃん、あのタイミングで先に寝るぅ、なんてひどいよ」
香苗はさらに不平を募らせる。
「もうちょっと引っ張っときたかったなあ」
「何が?」
伊知恵が首を傾げると、香苗は意味深な表情で伊知恵の肩に手をかけると、耳がこそばゆいくらい口を近づけて、キョウイチクン、とささやいた。
「ああ・・・」
伊知恵は曖昧に笑ってうなづいた。怪談になってから話はとぎれとぎれにしか聞いていなかったけれど、恭一の話だけはすっと入ってきた。だから、香苗の意図することが解る。
(かなちゃんは、恭一くんを彼氏にしたい。今回のキャンプで恭一くんを自分に惹きつけるために、いろいろプランを立てていたんだろうな)
伊知恵にもそれはよくわかっていた。香苗は自信にあふれ、欲しいものは欲しいとはっきり言うし態度にも示す。強引なようでもその屈託のない押しの強さが、ついつい皆に譲らせてしまう。それは香苗の魅力と言ってよかった。従妹の真由がもう少し大人になったらこんな感じになるかもしれない。入学して、同じサークルに入ってから、香苗は伊知恵に積極的に接近してきた。そして、伊知恵は香苗に引っ張られる形で、すんなりとサークルや大学に溶け込んだ。香苗がいなかったら、いっちゃん、などと愛称で呼ばれることもなかっただろうし、こういった仲間内の旅行に参加する機会もなかっただろう。その点では、伊知恵は素直に香苗に感謝していた。
だが、恭一に恋愛感情を持っているにしては、恭一に対する思いやりや献身的な態度などというものはまるで見あたらないように見えた。そもそも、香苗が恭一を彼氏にしたいのは、周囲の女子達の人気が高い男子を自分の彼氏にするためであって、つまりは恭一というアイテムを手に入れて、さらに自分を輝かせて見せたいからに過ぎない。
(東京の人って、恋愛もそんな風にクールなのかなあ)
伊知恵は今ひとつ納得できない。それでも、そんな香苗に時々嫌悪感を持ってしまうことを、伊知恵は恐れた。自分の感情が香苗と共鳴して醜く崩れていくようで、自信がなかった。実のところ伊知恵も密かに恭一に惹かれていたのだった。




