7.光る流れ[5]
サークル室へ向かう途中、目の前を伊知恵と正樹が歩いていた。
うち解けた微笑みを交わしながら、時々伊知恵が声を立てて笑う。
恭一は黙って速度をゆるめた。
声をかける気にもならず、気づかれるのも面倒だった。
ふと思い立ってスマートフォンを手に取り、受信箱を見ると、いくつも香苗からのメールが残っていた。
その中に一つだけ、未読のマークがついていた。
香苗の死んだ日の昼頃のものだった。
背筋がすっと寒くなる。
立ち止まりおそるおそる開いてみて、恭一は体中の力が抜けそうになった。
「たすけておねがいたすけてくださいおねがいおねがいどうかたすけて」
香苗の悲鳴が聞こえてきそうだ。
香苗はいったい、何におびえていたのだろう。
何が香苗を死に追いやったのだろう。
自分はどうすれば良かったのだろう。
恭一は踵を返してキャンバスを後にした。
その日を境に、恭一は旅研のサークル室を訪れることはなくなった。
「・・・最近、恭一どうしたんだろうな」
智志が口を開いた時には、同期の面々はもちろん、そう思っていた。
こんな時真っ先に屈託なく本音を口にするのが、智志のいいところだ。
試験前とはいえ、卒業する先輩の追い出しコンパの企画や何かで、どのサークル室も活気が絶えることはない。
「やっぱりあれかな、かなちゃんのこと・・・」
弘文が口ごもる。
「あいつら、いい線行ってたもんな」
正樹が神妙な顔でうなづいた。
「って、いっちゃんはどうだったのさ?」
智志に問われて伊知恵は肩をすくめた。
さて、どうしよう。奈良で会ってからずっと伊知恵が恭一と育んできた絆を、彼らは知らない。
「ううん、別に。いい友達だよ」
きっと恭一も彼らに知られたくないだろう。そう思って、伊知恵は言わずにおいた。
「そうかなあ、俺たちどっちかというと君ら二人がくっつくんだとばかり思ってた」
弘文が言うと、正樹は少しこわばった表情でぼそっとつぶやいた。
「どうでもいいじゃんか、そんなこと」
「・・・もう少しそっとしておいてあげたら?」
伊知恵はそう言うのが精いっぱいだった。
「なんかあの事件、昔亡くなった親戚の人と関係あるみたいだしな」
智志がすかさず指摘した。
「・・・痛てっ!」
薄暗い厨房の棚の上からうっかり取り落とした刺身包丁は、すらりとしたその刃先で恭一の左手の甲をなぞった。
鋭い痛みと共に鮮血がさっと手の甲に広がった。
「大丈夫か?」
副店長が驚いてのぞき込んだ。
「すみません、うっかりして・・・」
そばにあったキッチンペーパーを畳んで傷口を押さえたが、まるで効果がなかった。
傷はどくんどくんと波打つように痛んだ。あふれる血が点々と床に血だまりを作った。
とりあえず裏の休憩室へ行き、救急箱からガーゼと包帯を手に取った副店長が、不器用な手つきながらもしっかりと包帯を巻いてくれた。
「今日はもう病院空いてないし、とりあえず止血したら帰っていいよ。あんまり血が止まらないようなら、救急病院にでも行った方がいいな」
副店長がそう言ってくれたので、好意に甘えることにした。
どのみち、この手で今日はもう仕事は無理だろう。
恭一は何とかコートを羽織り、店を出た。
家に帰る途中も、脈打つような痛みは続き、しっかり巻いた包帯の上にも血がにじんできた。
父も母もすぐに診察して貰った方がいい、と言って、父が車で最寄りの救急病院まで送ってくれた。
「こういうのは、縫った方が早く治るから」
と、当番の若い外科医は軽く笑ってさっさと処置室に恭一を招き入れた。
麻酔を一本打ってからすいすいと手際よく傷口を縫合するのをこわごわと横目で見ながら、恭一はふと、あの病院や手術室の映像がずいぶん遠のいたように思った。
意識して思い出そうとしても、目の前の自分の手の甲の傷の痛みと、これから不自由するであろう様々なことばかりが頭に浮かぶ。
現実は、どんな幻想よりも強い。
怪我のおかげで、恭一を苦しめていた得体の知れない闇が少し薄まったような気がしていた。




