~ 交響曲 第12番 “誕生” ~
――それは、はじめての、約束。
どろりとした暗黒が、唯音の手を血色に染めた。
ああ、あああ。
唯音は声をあげ、ヴァイオリンを落とした。
がしゃぁああああん……。
硝子が砕けちるような音がして、
いたる暗闇から、顔が浮かび上がった。
唯音の音楽によって、破滅した人たち。
唯音は、その記憶を失っていた。
唯音の両親は、神々と「約束」したのだ。
唯音の記憶を封じ、これからは、誰も死なないようにすると。
そう、自分たちの命と引き換えに。
約束を破った者は死ぬ。
それがこの、<朝顔の世界>のルールだ。
でも、唯音の両親は、もっと過酷な約束を選んだのだ。
破っても破らなくても、死ぬ。
神々の力をたとえ一部でも、なかったことにするには、それしかない。
唯音の呪いを解くには、それしかなかったのだ。
どんな悲劇だろう。
唯音が、天才的な音楽の才能を秘めて、誕生していなければ。
<朝顔の女神>に愛されなければ、世界律は狂わなかった。
もしそうじゃなかったなら。
唯音がもっと平凡で、普通だったなら。
たくさんの見知らぬひとを、殺めることなく。
見知ったひとも、大切な家族も、なにひとつ失わずにすんだのだ。
唯音の手がもとの雪みたいな白磁色に戻ると、
唯音は抱え込むように、わたしの顔を抱いた。
「夏芽。ぼくは君を壊したくない。壊したくないんだ……っ」
恐ろしい顔たちは、即座にみえなくなった。
きっと唯音は泣いている。涙を浮かべて、助けを求めている。
ああ――。唯音。
あなたは、こんなに痛くて、苦しくて。
――なのにそれでも、わたしを守ってくれようとするんだね――。
「――大丈夫だよ」
わたしは、唯音の腕を優しくほどいた。
唯音のそれに、力は全然こもっていなかった。
その手はかたかたと、がたがたと震えていた。
「わたしは強いから。そんな簡単に壊れたりしないよ。
わたしは硝子細工じゃない。
――ダイアモンドだよ。それくらい丈夫だよ」
ほんとは、ダイアモンドなんて“硬い”だけで、
金槌で叩けば、簡単に壊れちゃうけれど。
わたしは、優しいうそをついた。
「わたしは壊れないよ。
絶対に唯音の前から消えたりなんかしない。……約束するよ」
わたしは、小指にちいさな光が灯ったのを感じた。
誓約のしるし。
――これを破ったら、わたしはこの世界から消えてしまう。
そっと、頭の端からつま先まで、震えが走る。
これまでのわたしは、ぜんぜんわかっていなかった。
これが、命をかけるということ。
これが、本当の願い。
心臓を丸ごとつかまれているような、恐ろしい恐怖と、
それを上回る、絶対的な満足感。
――そう、朝顔の世界の約束は……命がけの、愛のしるし。
「唯音。一緒に世界を救おう?
……きっとわたしたちならできるよ。
だってわたしたちの―“笑顔は……愛は、最強だから!”
わたしは両手を広げた。
わたしの命が、力の結晶が、カラフルなびい玉のように、
溢れて、はじけ、暗黒だった世界を照らした。
「――もう、唯音は泣かなくていいよ!
……わたしが唯音のヒーローになる!
世界だって、救っちゃってみせるよ!
だから、唯音は隣で笑ってて。わたしの右腕になって!
――わたしだけのヒロインになって!」
「――……そして、一緒に世界を救おう!!」
唯音の世界が、音を立てて砕けた。
閉塞していた暗黒の箱庭は、光のつぶてに壊しつくされ、
そしてあの、懐かしい旋律が聞こえてきた。
「交響曲第1番……“誕生”」
唯音が生まれてはじめて、作った音楽。
津波のように、寄せてははじける、喜びと嬉しさ。
無上のしあわせの交響曲。
ひたすらに雄大で、涙がでちゃうほど豪華で、
でも全然うるさくなくて……。
綺麗で、優しい、熱くてあったかい旋律。
これが唯音の、魂の旋律<アニマ・コード>なんだね……。
わたしは、唯音を抱きしめたまま、
床が木に変わり、壁も、空気も、なにもかも変わったのを実感した。
ここはもう、カフェ・ボンソワールだ。
いつもの場所。そして、わたしたちのはじまりの場所。
驚いたような声が、嬉しそうな声が降りかかる。
烈火、エマ、永遠音ちゃん。
――みんな。
次々に駆け寄ってきて、
最後に、酩酊博士が、穏やかに髭をしごいた。
「――さあ。役者は揃ったようだね。
さて、はじめようか。栄誉ある作戦会議を!」
ラグナロクは、起きない。起こさせない。
わたしたちが、朝顔の世界を、正しい未来へ導くんだ!
黙したまま語らない「彼女」は、
鏡面の世界から、そんなわたし達をみつめていた。
「――気に入りませんわ。
夏芽様……貴方様は、なにもわかっていらっしゃらない。
ご自分の領分を、わきまえていただかないといけませんわ。
わたくしは、貴方様を排除する。
唯音様の因果になど、立ち入らせてはいけない……。
たとえこの世界が滅んでも、それだけは阻止しますわ。
そう、すべては、我が主様のため……」
鮮やかな薄紅色の瞳の奥、真紅の瞳孔が、金色に輝く。
「そのためならわたくしは、
神格を穢し、闇の眷属にすらなりましょう。
奏で、導き、刈り取る者……このわたくしの手で……、
――ただの人間である貴方様は、無残なる屍となるのです」
蠱惑的な笑みをたたえた朱い唇は、
美しいハープのように、破滅のメロディーを奏でだす。
その顔は、嬉しそうにも、悲しげにもみえた。
彼女は、残酷に、優しく、旋律を重ねる。
まるで、聖母のように、妖魔のように、女神のように――……。