<恋情編・特別編> “怯える小鹿の前奏曲<プレリュード>”
<恋情編・特別編> “怯える小鹿の前奏曲<プレリュード>”
僕の話をしよう。
マルシェ・オーガスト・ブルーレインの話を。
そして、まだ怯える小鹿だった頃の、その子の話を。
そう……恋情に満ちるには幼すぎた、“はつ恋の前日譚”を。
「僕の名前はマルシェ。こうみえて多忙でね。君と会うのははじめてだが、君とは親戚筋にあたる。いわば従兄弟であると言ってもいい。気軽にマルシェと呼んでくれたまえ」
僕がそう語りかけると、うつむいているやや金に近い白金<プラチナブロンド>の頭が、ぴくりと揺れた。
細く柔らかそうな毛がどこか小鳥の産毛のようだと思いながら、僕は握手を求め、すっと手を伸ばす。
続いて、雪のような、それでいて可憐な花を思わせる薔薇色の頬を、眺めた。
だが、もっとも僕を感嘆させたのは、こちらをみあげたその瞳だった。
朝露に濡れたように輝く、若草色の瞳。
だが、今更気づく。……なにか、様子がおかしい。
この子は恥じらっているわけでも、人見知りをしているわけでもない。
「ぼくに……」
「ん?」
か細い声に耳をこらすと、ブリジットはきんとする声で言った。
「ぼくに触るな……っ!」
ブリジットは手を押しのけた。
いや、その身体に力など入っていなかった。
あまりにも弱々しい抵抗。震える声、身体。
「……触るな、と言われてもね」
ぼくはためらわず、その手に触れた。
こんなに震えている人間を放っておけるほど、非情ではない。
しかし、温かい言葉で安心させてやれるほど善良な人間でもなかった。
びくり、とブリジットは震えた。だが、抵抗はしなかった。
「やめろ……やめてくれ……ぼくは……ぼくには……っ」
そんな資格はない。だから触れないで、とブリジットは言った。
彼女は……。
いや、彼女と言っていいかわからないが、その子は怯えていた。
ぼくに、ではない。
――ああ、そうか。この子は恐らく、自分自身が怖いのだ。
自分が触れたものを、ことごとく壊してしまうと思っている。
その理由もわからないままに……いや、本当は知っているのだ。
自らがたくさんのひとを死なせたこと――。
その記憶を失ってなお、本能は覚えている。
体が覚えている。自分がいかに死を撒き散らしたか。
どんなに尊い未来を奪ったか。
だから、そんな自分は、化け物だと思っている。
優しさや愛など値しないと、自分を責めている。
“こわい。こわい。ぼくは、自分がこわい。こわくてたまらない……”
“でも”
“愛して。ぼくを愛して。優しい手で触れて。ぼくに愛させて”
そう、全身で語っていた。
――なんということだろうか。ぼくは、眉間を抑えたくなった。
この子は、まったく自覚していない。
そんな姿が、相手にどんな嗜虐心を抱かせるかを。
危うい。 ――なんて、危うい子なのか。
きっと、いつかこの子は破滅する。
少なくとも、身体より先に心が死ぬだろう。
僕はおそれた。 この子の未来は地獄だ。このままでは。
誰かが……救ってやらねば。
……いや、その、誰かとは、誰だ……?
両親は、すでにない。家族は、離れてくらす妹のみ。
自分以上に心を閉ざし、人形のように言葉を失った彼女に、ブリジットを救うことはおよそ不可能だろう。
「ブリジット」
誰が、ブリジットを救える?
誰が、この怯えた小鹿に、手を差し伸べてやれるのだろうか?
ぼくは、息を吐き、もう一度、触れた。その頬に。
そして、柔らかですべらかなその輪郭をなぞった。
「…………っ」
羞恥に耐えるように吐息をもらすその姿に、僕は、思わず壊してしまいたくなる感情をおさえ、言った。
「――“ゆいね”」
「…………?」
ぴくりと、震えが止まったのを感じて、ゆっくりと続けた。
「唯音。君島唯音。その名の意味を、僕は知っている」
「……?」
こぼれおちそうに潤んだ目が、こちらを見上げる。
「唯一の音色。この世にたったひとつの旋律だ。君が作った音楽は、誰かを殺すと同時に、生かすこともできる。君は、もう誰も殺さない。盟約は違えることがない。君の両親が命をかけて贈った祝福は、揺らがない」
「だから、これからは、生かすだけだ。この指先で、魂で」
そうして、そのあまりに小さい手を包むようにして片手を握った。
「たくさんのひとと、たったひとりの特別なひとを、救うといい。その時が来たなら、きっとすぐわかる。君のなかで動きだした旋律は、いずれ世界をも救うだろう。だから、それまでは――」
――僕が、君の従者になる。
そう言って、そのか細い身体を抱きしめると、ふわりとすみれの匂いがした。
ブリジットは……唯音は、もがくように動いたが、構わず強く抱きしめると、もう抵抗しなかった。
時計が一刻を過ぎるころには、震えは止まり、後には慎ましい静寂と、鼻をすするような音のみが残った。
唯音は泣いていた。
だが、やがて泣き疲れたのか、すやりと寝てしまった。
身体を丸め、ちいさく寝息を立てるその赤子のような姿に、僕は静かな心臓の音を感じた。
とくり、とくり、と胸が鳴る。
この子を、守ろう。
やがて恋をし、たったひとりをみつけるまで、
僕は、この子のそばにいよう。
それは、誓いに限りなく近い、気まぐれだった。
そして、ぼくは……かの女神に出会う。
すべてを奪っていった女神と、すべてを与えようとする女神、そしてすべてを包みこむ女神――。
朝顔の3柱のうちのひとり。 愛の女神、メリーアンが、世界に与えた……、もっとも愛すべき、<美しき愛の娘>に。
そして、僕は唯音に再会する。
鳴かない鳥、臆病なる小鹿は、果たして何になる?
そう、これは、そんな物語でもあったのだと。
ブリジット・スワンは、この少年ではなく、少女でもない美しき子は、きっと恋をする。
その恋は、どんな愛らしい旋律を奏でるのか。
僕はまだ知らない。だが、それもいい、と思った。
いまだ咲かぬ花の色を想像すると、この凍れる胸にも、熱にも似た鼓動を感じた。
――重ねていおう、これは、恋ではない。
だが、恋するには、幼すぎるこの小鹿を、ぼくは妹のように、ちいさな恋人のように、愛することになる。
――僕は知る。
それは、運命の前奏曲<プレリュード>であり、ささやかな口づけの物語なのだと。
まだ、春にはほど遠い。
だがその足音は、確かにその耳に、掌に、聴こえていたのだと。




