終幕 “アメイジング・グレイス”
――それは、永遠の愛。
「ええ、そうよ。しばらく反省するがいいわ。話はそれからよ」
私はそういうと、踵を返し、いまだ沈黙するふたりを後にする。
私のお節介は、ここまで。
お互いに思いあっている、あの兄妹のことだ。
ここまで、本音を引き出ししてやれば、
あとは自力で、なんとかできてしまうだろう。
もしそれでもダメなら、夏芽がいる。
誰より、お人好しで賢いあの子なら、
きっといちばんの解答にたどりつける。
私は、ふたりを甘やかさない。
あの日の私を、甘やかさない。
過去の私。
私の命を救い、その代償により、
私以外と会話するすべを失った、リリカを、わたしは憎んでいた。
感謝だってしていた。
だけど、その献身は、私には、重すぎた。
相手を思ったはずの犠牲が、時に相手のなによりの負担となり、
その心を死なせてしまうことを、私は世界で一番、知っていた。
――だから私は、これからリリカのもとへと行く。
夕暮れのカフェ・ボンソワールからは、あの懐かしい旋律が流れてくる。
ロスト・プレリュード。
<喪失の調べ>
リリカがあの日千切った片翼が、私の胸から目を覚ます。
思い出す。
あの残酷な、穢れきった世界を。
焦げ付くような、赤黒い夕日のなか、
血まみれで倒れていた朱い鳥。
<リリカ>
わたしを救った、朱雀であり、
鳳凰でもある、眩いあなた。
凍りついたように息を止める、私の心臓は、
今、ひりひりとした痛みをはらみながらも、脈打つ。
一瞬後、私の背中から、赤黒い翼がはためく。
片方の翼。
血まみれの翼。
わたしの前も、後ろも、右も左も。
360度、万華鏡(まんげきょう9のように変化してゆく視界。
そう、ここはもう、朝顔の世界だ。
『 エマ 』
ほっとしたような、嬉しそうな声が聞こえてくる。
瞬間、私は優しく抱き締められる。
背に片方だけの朱金の翼を咲かせ、リリカはその身体を現す。
『わたしのことを、おぼえていてくださっていたのですね……』
柔らかな微笑みを咲かせ、リリカは涙をにじませる。
慈しむような、感じ入るような、穏やかな表情。
凛とした切れ長の瞳は、これ以上なくとろけそうに細められていた。
「――忘れるわけないわ」
忘れられるわけない。
愛しいリリカ。
私のために全てを捧げてくれた、リリカ。
「リリカ、私は、あなたにずっと言いたかったことがあるの」
『なんですか、エマ』
優しく私の頭を撫で、目をつぶったまま、
寄り添うように首を傾け、リリカは言う。
――ああ、リリカは、きっと、ぜんぶ、わかっている。
わたしが、これから何を言うか、何で苦しんでいていたか。
「あなたは、酷い悪人だわ」
『…………』
続きを促すように、リリカは黙る。
「あなたこそ、大罪人だわ。
あなたはそうやって、私からすべてを奪って、善人面するのね」
リリカは、そっと身体を放し、微笑みながら、私の瞳をみつめる。
「もう、わかってるんだから。あなたは四つの世界を渡る聖霊。
いくら傷ついていても、
その身体を修復するのはたやすかったはずよ。
私の胸の刻印を消し、世界を渡るのに、
いくらなんでも、私としか会話できないなんて代償は、大げさすぎる。
あの時、あなたの躰がボロボロに傷ついていたのは、
偶然だったかもしれない。
だけど、自分にそんな代償をかしたのは、わざとでしょう?
あなたは、ただ人間達を観察するだけの人生に飽いていた。
誰かを愛したかった。そのうえ、愛されたかった。
それだけじゃない。自分だけ、みていてほしかった」
目を細め、沈黙を通すリリカ。
その面は、愛おしい我が子をみつめるような、
どこまでも美しく、穏やかな微笑みに縁取られている。
わたしはため息をつくと、顎を引き、
まっすぐリリカの瞳をみつめる。
「――でも、私は、あなたを責めない。
これ以上、あなたの好きにはさせない」
そう言い放つと私は、リリカから、距離を取る。
リリカが、たった一瞬、
ほんのわずかに首をかしげるのを、私は見逃さなかった。
リリカに、突撃する。
全身で、リリカにぶつかる。
衝撃で、リリカの身体が傾ぐのを確認して、わたしは笑う。
『エマ……?』
私は、泣いていた。 泣きながら、リリカに抱きつく。
抱き締められたリリカの、不思議そうな顔に、私は笑う。
「あなたがすきよ。大悪人のリリカ。
私を愛するためだけにバカな賭けをした、
バカみたいな大罪人の、バカリリカ。
……だいすきよ。今更、嫌いになれるわけないじゃない」
『……エマ、わたしは……』
「いいの。真実なんて、どうでもいいわ。
私が信じるのは、私の気持ちだけよ。
あなたの本音なんて、聞きたくない。私は、そんなもの、ほしくない」
『エマ……』
リリカは、私を抱きしめ返した。
おずおずと、そして、力強く。
『……わたしは、あなたを、愛しています。
これまでも、これからも。昨日も明日も――過去も、未来も、いつまでも。
……それだけは、誓わせてください』
リリカの身体が、朱金の輝きを放つ。
<朝顔の約束>。
命がけの、誓約。
破ったらこの世から、リリカは消える。
最初から最後までリリカは、ずるいまま、優しいまま、
卑怯なほど、私を愛するのだろう。
それだけはきっと、嘘じゃない。
それだけはリリカは、嘘をつけない。
私は、一呼吸すると、身体を離した。
「バカなリリカ。
私は、もうあなただけのエマじゃない。……烈火の物になったのよ」
そうして、世界で一番、意地悪な顔をしてやった。
「――残念だったわね、バカリリカ」
涙を浮かべながらも、憎たらしく、笑いながら、繰り返す。
これが、私がリリカにできる、最初で最後の仕返しだ。
そうよ。私は、物わかりいいただの良い子じゃない。
あなたのことを、一生許さない。
「……ええ」
それだけ言うとリリカは、そっと微笑んだ。
花開くような、控えめな笑みだった。
それは間違いようがなく、嬉しそうな、笑顔だった。
<それでいいのです、愛しいエマ。>
口に出さなくても、わかった。
私達は、最初から最後まで歪だ。
でも、それでいい、と思った。
果てしなく不幸だった私達は、こんな風にしか、互いを愛せないのだ。
けれど、烈火が私に恋をして、私が烈火に恋をした今でも、
リリカは、私を嫌いになったりしない。
永遠に、私だけを愛する。
それがリリカの愛、そして<贖罪>なのだ。
それからしばらくたった、6月の夕暮れ。
烈火の妻となったわたしは、美しい赤毛の女の子を産むことになる。
名前はもう決まっていた。
“凛々花”。
凛と咲き誇る、どこまでも愛に満ちた朱い鳥。
――私は、あなたを忘れない。
どれほど時が経ち、狂おしいほどの渇望から解き放たれ、、
朝顔の世界にゆけなくなった今でも、私は、時々あなたを思い出す。
その優しい青い瞳を、柔らかな抱擁を、
残酷なほど、身勝手な愛のすべてを。
朝顔の世界。
<ロスト・ワールド>。
――愛に飢え渇く、子ども達の楽園――。
約束という命がけの愛で、満たしあう美しい世界。
――あなたにふさわしいのは、そんな甘ったるい世界だわ。
四つの世界を渡り、
ただ機械のごとく、人々を見つめ続けた、孤独なあなたは、
たったひとりの少女に、永遠を誓い、
最期までその少女を愛しながら、眠りについた。
「――永遠の愛。……永遠の眠り。
どこまでも、あなたはバカだったわね」
揺り椅子に座り、私は、過ぎた記憶にまどろむ。
朝顔の世界は失われたが、きっとそれは消えてしまったのではなく、
永遠となったのだ。
「……でも、優しかったわね。
最初から最期まで、変わることなく、愛し続けてくれた」
私はふと、空になった鳥籠に目を移す。
娘のリリカが拾ってきった、傷ついた赤い野鳥。
ある日いつの間にか、いなくなっていた麗しの小鳥。
鳥籠が、空になっているのに気づいたその瞬間、
よぎったたくさんの想いを、今でもすべて鮮明に思い出せる。
落胆、諦め。
喪失感、悲しみ。
そして、震えるほどの、歓喜。
あの日、あの時、あなたが私を助け、救い出してくれなかったら、
私は、烈火の妻でも、夏芽の友人でもなく、
ただの家畜として、
昼蝉の世界に閉じ込められたまま、
むなしくのたれ死んでいただろう。
「だから、あなたは、きっと、これでよかったんだわ」
言い聞かせるように、そうつぶやく。
――愛してくれて、ありがとう。
……救ってくれて、ありがとう。
――出会ってくれて……、ありがとう。
そう。リリカ。
あなたは、もう自由。
永遠の翼を得たのよ。
だからもう……私を愛し続けなくて、いいの。
「ごめんなさい、リリカ……」
あふれだしそうな、嗚咽をこらえる。
――憎んで、ごめんなさい。
……許さなくて、ごめんなさい。
あなただけを愛せなくて、ごめんなさい。
でも……。
あなたは……きっと。
笑いながら、こう言うんでしょう。
(――大丈夫。)
(わたしは、あなたを愛しているんですから)
(いつだって、悪いのはわたし、そして、あなたが、わたしの正義です)
(――だからエマ)
(……愛しいエマ。)
(――わたしと出会ってくれて、ありがとう。)
(……わたしを救ってくださって、ありがとう。)
(……わたしを愛してくれて……、)
(それだけで、わたしは、
もう一生飛べなくても、この先一生、誰とも話せなくていい)
(だから、何度だって、言いましょう)
(あなただけが、わたしの希望。)
(わたしのひかり。)
((そして、わたしの、わたしだけの、救世主<メシア>です))
――ええ、そうね、リリカ。
あなたがそうであったように、
私にとってのあなたも、そうだったのよ。
バカなリリカ。
愛しいリリカ。
私の、私だけの、リリカ。
あなたを愛しているわ。
いつまでも、永遠に、限りなく。
近いうちに、あなたに会いにいきます。
心配しないで。寿命よ。
あなたのためではないのよ。
私は、私のために、
あなたがそうであったように、
私のためだけに、あなたに会いにゆくのだわ。
だから、待っていてね、リリカ。
あなたに言いたいこと、言ってやりたいこと、たくさんあるのよ。
でも、今は……これだけ。
( ( リリカ。私はね……。 ) )
fin.
ねえ、リリカ。
あなたは、しあわせだったかしら。
私は、しあわせだったわ。
これまでも、きっと、これからも。
だって、あなたがいてくれたもの。
あなたが私を救ってくれたあの日、
あなたが私を愛してくれたあの時から、
きっとすべてははじまっていたのね。
ええ、そうよ。
あなたは、常闇のものがたりの、<紫のしっぽのあの子>みたいに、
永遠に朽ちない魔法をくれたのだわ。
そうして、わたしはようやく気づいたの。
展覧会の絵を眺めていたわたしは、もうとっくの昔に、
ものがたりのなかに入ってしまっていたのね、って。
そう。あなたは、わたしに覚めない夢をくれたのだわ。
P.S. 最後まで嘘をつかなかった、憎らしい、あなたへ。
“ねえ、私は、いいヒロインになれたかしら?”
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(( ――ええ、エマ。
あなたこそ、
わたしの最高のプリンセスです―― ))
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恋愛ではなかった。姉妹愛でも、親子愛でも、
ましてや友愛ですらなかった。
それでも、ふたりの間の絆は、
永遠の愛としか呼ぶしかない、究極的な感情だった。
その果ては、悲しく、愛しく、切なく、苦しい。
物語が閉じるとき、ふたりははじめて、本当のふたりに出逢うのでしょう。




