第一幕 “魔法使いの娘”
――それは、聖なる領域。
私は、孤独だった。
別に、不自由ではなかった。
誰にもとらわれず生きてゆくのは、気安かった。
例外はいた。
たったひとり、私を愛してくれたひと。
――リリカ。
あなたは私の胸の焼き印をけしてくれ、
私の守護者になってくれた。
でもそれは、幸福な結末を生まなかった。
残酷な子どもたちが大人達を支配する、昼蝉の世界から、
抜け出した私は、翼となってくれたリリカから、声を奪ってしまった。
私以外の誰とも話せない。そんな対価があると知っていたら。
いや、それでも私はきっと、リリカに甘えてしまっただろう。
リリカにとっての私は、命の恩人で、唯一の存在だった。
それは、ちっぽけな私には重すぎた。
私にはきっと、誰も愛せない。
その資格がない。
リリカ以外に愛されることすらも、罪だと思った。
私は、もう、なにも奪いたくないのだ。
地獄のような、昼蝉の世界から、解放されただけよしとしよう。
この朝顔の……美しい世界にいられるだけで。
彼らをみつめているだけで、じゅうぶんに、私はしあわせだ。
そんな世界に、その子は現れた。
――小麦色の肌。
――くりくりとした瞳。
――ちっちゃくて、元気で。
……お日様に溶かした、蜂蜜のような、甘い笑顔。
夏蜜柑のように爽やかで、
甘酸っぱいにおいのする子だった。
空橋夏芽、という名を聞いた時、納得してしまった。
人と人との深いへだたりに、いともたやすく橋をかけてしまう子。
大空の虹のように、希望にあふれていて、夏のようにまぶしい子。
みずみずしい若葉のように生き生きとしていて、宝石のような涙を流す子。
そんなイメージが、全身からあふれて、私の心は揺れた。
そしてそのわずかな隙間から、
そよ風のように、なんの不快感も与えず、その子はやってきた。
「……その本、面白い?」
好奇心と無邪気さの固まりのような笑顔で、
“空橋夏芽”は見上げてきた。
二択で答えられる、気軽な質問だった。
「……興味深い内容よ」
「きょうみ……エマって頭良さそうなしゃべり方するね!」
「――そうかしら」
「――そうだよ!」
ストレートにほめてくる。
しかも、なんのてらいもなく、本心から言っている。
しっぽをふる子犬並みに、あからさまな子だった。
(……可愛い)
どれだけ純粋培養すれば、
こんな子に育つのだろうか。
「よかったら、あなたも読む?」
するりとその言葉が出たのは、自分でも意外だった。
「いいの?やった!!」
言って、ぴょん、と飛び跳ねる。
(……大げさな子。)
でも、不思議とばかにする気にはならない。
むしろ、胸の奥がくすぐったかった。
「ええーと、なになに……。
多世界解釈についての……。
こぺんはーげん解釈が……、
波動関数で……、
……?? なんだこりゃ! さっぱりわからん!!」
目をぱちくりしてから、ぎょっとした表情で、文字通り丸投げする夏芽。
「『エヴェレットの多世界解釈』……あなたには難しすぎたかもね」
くすくすと笑い出す私に、
「いや! 気合い出せば読める! ねばーぎぶあっぷ!
今日貸して! 明日までに読んでくる!!」
と鼻息を荒くする夏芽。
「……え……400ページあるけど……」
「大丈夫! たぶん! 太陽は必ずのぼる!」
よくわからないやる気をみせて、
こぶしをにぎった夏芽は、意気揚々(いきようよう)と帰った。
翌日、目の下にくまを作ってふらふらする夏芽は、
「よくわからなかった……。
ぎゃくせつ的に、エマがすごいのは、よくわかった……」
とちょっと賢くなっていた。
微笑ましい、と素直に思った。
私はもうそれだけで、夏芽のことが好きになった。
こんなに簡単に、人を好きになることができるのだと、わたしは驚いた。
夏芽が特殊なのだと気づいても、
少しも失望しなかった。
愛によって織られた美しい朝顔の世界においても、
夏芽はとびきりだった。
なんて美しい、なんて可愛らしい、なんて愛おしい。
私は、羨望と共に、あらためてこの世界をまぶしく思った。
自分とは違いすぎる、
けれど、絶望よりも甘く、やさしいこの世界。
こうしてその、産毛のようなあたたかさにくるまれていれば、
それだけでもう、じゅうぶんだった。
……はずなのに。




