~ 練習曲<エチュード>第1番 “人形姫<スノー・ドール>” ~
―それは、雪解けの旋律。
「……わね。とわねって呼んで」
無表情で、ぼそっと、呟いた。
機械的な棒読み。だけど確かに彼女は呟いた。
唯音が目を見張る。
「……驚いた……。永遠音がしゃべるなんて。
もしかして君は、夏芽を気に入ったのか?」
……再び沈黙する永遠音。
俯き、棒立ちのまま、微動だにしない。
白く輝く、なめらかなブロンドが、さらりと音を立て、
銀色の瞳は、もうなにも映さない。
まるで、こときれたアンドロイドのよう――。
「彼女のバッテリーは、もしかしたら夏芽なのかもしれない……」
唯音は、後に語る。
それは、未来へと続く、虹色の練習曲<エチュード>。
心を凍りつかせた、バレエ界の星<エトワール>、
“人形姫”……<永遠音>の物語。
「ココロ、それはわたしにはわからない……」
永遠音は無機質な笑みを浮かべた。
張り付いたような薄い微笑だ。唇をわずかに歪めたような。
永遠音は、自分のことを、いつものように、“永遠音”と呼ばなかった。
それは、まるで、いくら表面上で個性を取り繕うと、
しょせん、自分には個性なんて、人格なんて存在しないと、
軽蔑して、落胆しているふうにもみえた。
「……ううん、だいじょうぶだよ」
わたしは永遠音ちゃんの手を取った。
すごくひんやりとした冷たい、手。
青白く、透き通ったちいさな手。
だけど……。
「永遠音ちゃんにはココロがある。
それは、永遠音ちゃんのなかに、ちゃんと生きてるよ」
そっと、力を込めて、握る。
「自分にココロがないって暗くなるのも、
不安になって、心細くて、わかってほしいって口を開くのも、
それでも否定されるのが怖くて、口を閉ざしちゃうのも……。
みんな、永遠音ちゃんにココロがある証拠。
――ねえ、永遠音ちゃんの手は冷たいけど、こうすると――」
脈をはかるように、
そっと、その華奢な手首に指をあてる。
「……ね。とくとくって、ちいさく感じるでしょ。
それが生きてるってこと。
どんなにちいさい鼓動でも、どんなに冷たく感じる体でも、
“生きてる!”って叫んでるの。
みんな、叫んでるんだよ。
声に出さなくても、気づいてもらえなくても。
“わたしはここにいるよ!”って。
“誰かわたしに気づいて、わたしの声を聞いて……!”って」
わたしは、一呼吸して、ゆっくりと、その手を包み込んだ。
「でも、わたしは気づいたよ。
ちゃんと気づいた。永遠音ちゃんの声に。
ちゃんと聞こえたよ、永遠音ちゃんの“助けて”が」
囁くように、歌うように、
わたしは、静かに断言する。
「――だから、もうだいじょうぶだよ。わたしが聞いてあげるから。
わたしが受け止めてあげるから。ねえ、だからここまでおいで――」
後の言葉は、ぜんぶ微笑みに込めた。
両手を広げて、お母さん直伝――
――最強で最高の、“ひだまりの笑顔”を浮かべる。
……ねえ、これでいいかな、永遠音ちゃん。
ここは、あったかいよ。
ここは、うれしいよ。
楽しいし、すてきなところだよ――。
時に冷たくても、厳しくても……。
(世界は、ほんとはね。とってもとっても、すてきなところなんだよ――。)
溢れた。宝石が。
駆け出した。
飛び込んできた……。
永遠音ちゃんの涙が、星屑のように零れるのを、
永遠音ちゃんの足が早まるのを、わたしは感動と共にみた。
ゆっくり、ゆっくり。
世界が止まってみえるぐらいの時間が、わたしの中をたゆたった。
そして――ぶつかるように飛び込んできた永遠音ちゃんを、
わたしは、思いっきり抱きしめた。
そうだよ、永遠音ちゃん。
あなたは全然、ひとりぼっちなんかじゃないんだから――。
いくら心を閉ざしていても。
そのせいで、疎外感と、孤独を、
そのちいさな胸がはちきれそうなほど……、育ててしまっても。
わたしがいるよ。永遠音ちゃん。
夜空で輝く、星<エトワール>。
あなたはこれまで、ずっと寂しい思いをしてきたよね。
でも、その冷たい夜が、孤独が、あなたにバレエという、
ひとつの表現形態を教えてくれた。
バレエ界のヒロイン――<エトワール>にしてくれた。
それは、きっと無駄にはならない。
これからの永遠音ちゃんを支えてくれる、素敵な力だよ。
永遠音ちゃんの、生きた証。
がんばってがんばって勝ち取った……素敵な素敵な、一番星。
ねえ、だからこれからは、一緒に頑張ろう?
がんばらなくていいなんて、わたしは言わないよ。
がんばるのは、悪いことなんかじゃない。
もっと早くに気づいていれば、なんて、
がんばった過去を悔んだりしなくていい。
失敗も、成功と同じ、これまでの永遠音ちゃんの、
大事な大事な、足跡だから。
ただ、その重い荷物を、少しでも分けてくれたらいい。
“奪い合えば足らない。分け合えば、余る”
そんな言葉みたいに、ちょっとずつ分け合えば、きっとずっと、軽くなる。
ねえ、だからこれからは、三人で。
わたしときみ、唯音。
三人で、辛いことも、痛いことも、
楽しいことも、嬉しいことも。
――分け合って、共有していこう?
怖くてもいいよ。
そっと、その背を押してあげるから。
だから、歩きだそう? そして、思いっきり走ろう?
駆けて、駆けて、駆け抜けて。
そしたら、きっとたどり着くよ?
永遠音ちゃんの望む、すてきな未来に――。
「――だから、家族になろう?
……一緒に、“明るい家族計画”しよう!!」
「……あ……」
永遠音ちゃんの雪のような頬に、ほんのり色がさした。
桜みたいな、柔らかくて、あったかい色が。
まるで――永遠にも思えた、長い長い冬に訪れた、
ちょっと早い、春の足音みたいに。
“四季”を生み出したヴィヴァルディさんみたいな、
華麗な音楽は、奏でられないけれど。
わたしは、<夏芽>だから。
温もりも元気も、暑くるしいほど、分けてあげられる。
分厚く積もった雪もとかせるし、
いつか実る種だって、いくらでもあげるよ。
だから、約束するよ。
家族になろう。――みんなで、しあわせになろう。
当たり前の命を、愛しく思えるぐらい。
怖いことも、悲しいことも、辛いことも、苦しいことも……
ぜんぶぜんぶ、乗り越えて――
いつか必ずたどり着く人生の終着駅に、
大事なものを残せる、そんな旅をしよう。
それが、わたしに使える、唯一の、でも最高の魔法だよ――。
――それは、バレエ界の星<エトワール>と呼ばれた彼女が、
最初に演じることになる、オペラ……。
『人形姫』に秘められた、真実の物語。




