~ 詠唱曲 “追想”<カノン> ~
――それは、幸福へと至る悲劇。
お母様には女らしくしなさい、
と女物のドレスやワンピースを着せられていた。
繰り返すが、ぼくは女ではない。だが、男でもない。
先天的な性分化疾患。
<IS>と呼ばれることもある、非常にあやふやな存在だ。
『あなたは女よ。女でなければいけないの。
わたしは女の子を産んだのよ。あなたはわたしの子。女の子よ』
母には、何度もそう繰り返された。
今から思えば、少しおかしくなっていた。
ぼくはしかし、自分を女だとは、どうしても思えなかった。
確かに、身体上は極めて女性よりであり、
母がぼくを女だと思いたかったのも、
それが一番、常識的かつ、
平和的な解釈だと判断したからだろう。
だが、ぼくは、それに違和感を感じていた。
精神的・感覚的に、ぼくは、自分を男だと認識していたのだ。
反発したくなかったと言えば嘘になる。
女物の服も、淑女たる振る舞いも、
ぼくには馴染まなかった。
あえてありふれた言い方をするなら、水と油のように。
しかしぼくは、けして母親を嫌っていたわけではない。
幼いぼくには、哀れという感情は、芽生えていなかったが、
ぼくが、どちらでもない身体で生まれたことに、
一番苦しんでいたひとだということは、なんとなく本能で感じていた。
大人しく、従順な子であろうとしたのも、訳はない。
ぼくは、自分を生み、育ててくれた母に、
せめてそれだけは応えかったんだ。
救いは、父だった。
ヒステリーをおこす母を支え、
優しくたしなめる、紳士であった父は、いつもぼくにこう言った。
『唯音は唯音のままでいい。そのままで健やかに育ちなさい』
それは、気休めのようでいて、なにより心強い、魔法の呪文だった。
その言葉を聞いている間は、どんな辛さも忘れた。
自分は愛されている。望まれている。
ならば、ぼくはここにいていいのだ。そう思うことができた。
運命の日が訪れたのは、7歳の頃だった。
まず母が心臓病で死に、
10歳の頃、後を追うように、父も静かにその生を終えた。
親戚の家で、面倒をみてもらうことになったぼくは、
美しい、紫の瞳の従兄弟に出会った。
今のぼくがぼくとしていられたのは、その彼のおかげだ。
ぼくは、喪失を受け止めるには、あまりに幼く、
しかし、驚くべきスピードで、音楽の世界に溶け込んでいった。
時に、人々の悲しみに寄り添うのが、小説であるように、
ぼくにとってのそれは――音楽だった。
五線譜から生み出される無数の旋律は、
穴の空いた空の心臓にたっぷりの蜜を詰め込み、
やがて、福音のメロディーとなって溢れ出した。
生まれつきの絶対音感に加え、ピアニストである父にはピアノを、
声楽家である母には歌を、たまに家に遊びに来た、
7歳上の才能ある従兄弟にはヴァイオリンを教わり、
とうとう作曲という、神々にも似た遊びを得たぼくが、
神童――神に愛された子……と呼ばれるにも、時間はかからなかった。
やがて、ぼくは、音楽界の真珠とうたわれる、
四音音楽学院の中等部に入学した。
亡き両親の思い出のない、異国の地のなかでも、
最も古き良き音楽を大事にしているこの四音の学院を、
ぼくはすぐに気にいった。
けして世界一というわけでもない。
だが、高度な音楽教育を、
普通の少年少女でも学べる、牧歌的な学院だった。
ぼくの新しい家族のひとり――従兄弟のマルシェは、
もともと放蕩息子……
というより、根っからの旅人で、めったに家に帰ってこない。
公演をしながら全世界を総なめにしている――。
といったら、身内贔屓が過ぎるだろうか。
だが事実、どの国、どの町も、
すべてを包み込むような、マルシェの魅惑的なテノールと、
神がかった、優美なヴァイオリンの調べを愛した。
幼少期から音楽に囲まれていたぼくは、
両親が死んでなお、その音楽から離れられずにいた。
――理由は単純だ。
すでに、ぼくにとって音楽は、
その身体の一部、構成要素となっていたのだ。
体内では、始終、
なんらかの交響曲が、協奏曲が、あるいは独奏曲が……。
生まれてははじけ、また生まれてははじける。
筆が追いつく暇もない。
この空の心臓は、いつかは失われる愛より、
永遠に受け継がれてゆく、音楽を欲し、その中身を満たしたのだ。
――そんなある日、ぼくは、少女に出会った。
ひだまりのような笑顔。ぴょんぴょんと跳ねる後ろ髪。
元気で、やかましく、天真爛漫で、
ほんの少し頭の足りないその少女は、
奇矯なぼくを避けることも、
距離を置くこともなく、まっすぐに触れてくる。
触れているのは頬や手だというのに、
まるで、凍てついた心臓そのものに、触れられている気分だった。
温かくて、柔らかいその手がなぜるたびに、
なんともいえない感情が、ぼくを満たす。
はじけては消えてゆく儚い命たちのなかで、
彼女だけは強く輝き、こう語りかける。
『それでも、愛は、なくならないよ。
すべて消えてしまっても、必ず残るものがあるんだよ』
“それ”がなんなのか、ぼくにはわからない。
だけど、彼女は――夏芽なら、こういうだろう。
『“こころ”だよ!!』
すべてのなかにあって、すべての命を燃やす、小さな炎。
触れ合うことで、分かち合うこともできる、“無敵で素敵な魔法”。
“それ”を夏芽は取り戻してくれた。
凍てついた心臓は、ゆっくり溶けていき、やがては新しい音楽を奏でた。
そう――ぼくは彼女に、恋をした。
男でもなければ、女でもない。
身体も、遺伝子すらも中途半端な、
不遇で、異端で、
あまりに孤独なこの身体が、いまや熱を持ったように彼女を欲する。
おかしいだろうか。間違っているだろうか。
彼女を幸せにする自信もないのに、こんな想いを伝えたいと願うなんて。
――いや。そうじゃない。
ぼくがおそれているのは、傷つくことだ。
従兄弟が音信不通となって幾年が過ぎ、
以来、誰からも距離を置かれてきたぼくが、
唯一の光である夏芽に、拒絶されたら。
これまでのぼくに戻るだけだと思うには、あまりにもあの手は温かすぎた。
もう、夏芽なしの人生なんて、ぼくには考えられない。
“愛は、笑顔は、最強なんだよ!”
――ああ、そうだな。君は、ぼくに教えてくれた。
頭で考えるより、身体で感じる。
全身で伝えよう。
たとえ次の瞬間、“すべて”を失うとしても、ぼくはもう後悔しない。
君のくれたものは、永遠になくならない。
――それが、君の、“最強の魔法”だから。
一呼吸し、ぼくは、君の腕をつかむ。
――体が熱い。
――鼓動が、脈打つ。
……喉が乾く。
雨が、降っていた。
まるで、からからに乾いた砂漠に降り注ぐ、
君のような、甘やかな雨が。
――伝えたい。
それは今しかないと、もうわかっていた。
「き、きみがすきだ……夏芽。ぼくと付き合ってくれ……」
震える声。
色ずく頬。
ぼくは、どんなに大人ぶっても、結局、ただの中学生でしかなく。
どれだけ格好つけても、背伸びしても、
<君島唯音>でしかなく。
不安で、未熟で……――。
――でも、それすらも君は、あの向日葵のような笑顔で、
抱きしめるように……肯定してくれた。
『……わたしも唯音がすき。
男だろうと女だろうと、どっちでもなくても、そのままの唯音がすき。
――これは絶対!!』
――ぼくは、それに応えたい。
いつか、そう、遠くない未来。
すべてを脱ぎ捨て、羽化し、
七色の橋の架かる大空へと、羽ばたいてゆく、蝶の物語が、
ぼくの中に、溢れるように満ちてゆく。
いや、そういう言い方は、いささか夢みがちだろうか。
だが、君をみつめていると、
そんな絵空事も、叶うような気がしてしまう。
夢のなか、ぼくは、その手に、ちいさな銃を持つ。
トリガーに指をかけると、君の悲しみが、手を取るようにみえる。
哲学者は言う。
悲しみは“飛翔”する翼だ、と。
ならば、撃ち落とせ。
撃ち落としてみせる。必ず。
その銃に込めるべき愛は、ぼくが求めていた渇きへの答えは、
そう、誰でもない、君がもたらしてくれたのだから。
そっと、ひと呼吸する。
――救いたい。
君が、ぼくにそうしてくれたように。
そのためなら、ぼくは――。




