~ 最終楽章 “新世界より” ~
――それは、永遠に朽ちない魔法。
目を開いた。
ぼんやりと、天井が映る。
「……ゆ、め……?」
「――夢じゃない」
わたしの視界に、さらりと、白金の髪が、
朝露に濡れた、若葉みたいな瞳が飛び込んできた。
「……夢じゃない。君は、この世界に帰ってきたんだ」
温かい感触があった。
眠っていたわたしの手を、唯音が握っている。
たぶん、ずっと。
わたしが目覚めるまでの長い時間、隣にいてくれた。
わたしの片翼。
わたしを呼び戻す、唯一の音色。
君島唯音。
わたしの、愛しいひと。
――あ、そっか、だいすき、じゃないんだ……。
唐突に、気づく。
すきとか嫌いとか、そういう感情とは、
ぜんぜん違うものが、わたしの心をいっぱいにしていた。
唯音のすべてを包んであげたくて、おんなじくらい、包まれたくて、
もうなにもかも、あげたっていいし、
……なにもかも、取り戻してあげたい。
いつの間に、こんなにすきになっていた。
すきって言葉じゃちっとも足らないくらい、胸がいっぱいになっていた。
――そうだね。
……そうだよ、唯音。
わたしは、最初からきみに、惹かれてた。
まるで磁石のNとSみたいに……女神さまの定めた運命みたいに。
唯音のすべてが、輝いてみえていたよ。
そのつややかに磨かれた宝石みたいな瞳が、
小鳥のさえずり<トリュ>みたいな声が、
ヴァイオリンを滑る、繊細な指が、
照れて色ずく、さくらんぼみたいな頬が、
……奇跡みたいに澄んだ心が、たましいが――。
ほんとうに綺麗で、言葉をなくしちゃうぐらい素敵で、
心地よくて、あたたかかった。
まるで、魔法にかかったみたいだった。
一生とけない、素敵で無敵な魔法に。
じんわりとあたたかくなる胸が、ふと冷たくなる。
「――唯音。朝顔の世界は……?」
声がかすれる。
胸がつかえて、手足がしびれる。
「……消えた」
「……そっか……」
もう、ヴィオロンが人間の言葉をしゃべることもないし、
ハルピィアさんや、リリカに会うことはできないんだ……。
この世界から愛と芸術だけを取り出した、
あの奇跡みたいにきれいな世界は消えちゃったんだね……。
たくさんの思い出が、わたしの胸をよぎった。
楽しいことばかりじゃない。
辛いことも、苦しいこともあった。
だけど、だからこそ朝顔の世界は、あんなに輝いていた。
破ったら死んでしまう命がけの約束。
それによって叶う、全身全霊の愛の魔法。
それは、エヴェレットという観察者による、
甘やかされた砂糖菓子の世界で、
ほんものでは、なかったのかもしれない。
でも、だからって、
にせものだからって、ほんものよりたいしたことないって、
消えてしまったって当然だって、思いたくない。
わたしが、ただの元気な夏芽じゃいられなかったように。
本当は、ただの欲しがりの、愛されたがりの、にせものだったように。
じわり、と目の端が歪んだ。
「、っう……」
溢れる涙を、嗚咽を、腕でぬぐう。
「ぅえ……っ、……」
ぐっとこらえる。
いつかのわたしが、そうしたように。
ほんとうのパパとママを失ったわたしが、
お義母さんやお義父さんの前で、ふたりの真似をしたように。
笑え。
……笑え。
張り裂けそうな痛みも、悲しみも――。
すべてを包みこんで、もう一度、魔法をかけるんだ。
『笑顔は、愛は、最強なんだよ!』
その、あったかい、やさしい呪文を……‐―。
そっと、わたしの腕に触れたものがあった。
……あったかい。
すべらかな、繊細な、やさしい手だ。
壊れ物を触るみたいな、遠慮がちなその手つきは、
やがて、しっかりとその腕をつかんで、優しくおろさせる。
顔を隠すものがなにもなくなって、
潤んだ目で、不安げに唇を震わせるわたしに、
唯音は、そっと微笑んでみせた。
「……大丈夫だ」
控えめな笑みだった。
なのに、瞳はあふれそうに、力強かった。
あたたかかった。
この世界で誰より、なにより、あたたかかった。
「マルシェが、最後の瞬間、世界の一部を結晶化した。
ほんとうにぎりぎりだったが……。
――おかげで、酩酊博士は大忙しだ」
「……え……?」
「朝顔の世界は滅亡した。
代わりに、その奥底にあった、種……。
<朝顔のかけら>が手に入ったんだ。
時間はかかるが、充分復元は可能だ。
なにせ、ぼくたちは、管理神のひとり、
観察者<エヴェレット>の愛し子だからな……」
そういって、わたしの手を、その白磁みたいな頬に寄せて、
頬ずりするように、そっとすりよせた唯音は、
とってもしあわせそうな笑みを浮かべていた。
つむったままの目。
長い夜の世界を旅したツバメが、やっとお日様にたどり着いたような、
そんな、おだやかな至福。
唯音、きっときみは、悲しみや苦しみへの答えをみつけたんだ。
エマがみつけたのとはまた違う、唯音だけの答えを。
唯音の歩んできた人生の、意味を。
「……よかった」
わたしは、たまらないほど優しい気持ちになって、
息づく胸の温かさのままに、唯音の体を抱きしめた。
「よかったね……っ」
「――ああ」
唯音は、安心したようにそうつぶやくと、
ふんわりとその腕をからませ、抱きしめかえした。
その瞬間、抱えていた、重い、重すぎる悩みなんて、どうでもよくなった。
押し込めていた闇は、蝶みたいに羽ばたいて、
“飛翔”してゆく。
別に、消えたわけじゃない。
闇も、影も、何度だってわたしを襲って、苦しめるだろう。
でも、それには、いつか終わりが来る、と思った。
それは、ただの気の迷いよりもずっと確かな、ひとひらの予感だった。
ふと、思い浮かんだ記憶があった。
『ペルソナって知ってるか』
『――え?』
『心理学用語だ。
人がなにかを演じようとする時の、仮面のことを言う』
『何回演じようが、きみの本質は変わらない。
取るに足らない、つまらないものだ――……、……そう思うかもしれない。
だがそれは嘘だ。それこそ嘘なんだ。
嘘どころじゃない、大間違いだ』
『君の仮面も、また君自身なんだ。
人は美しい表現を口にすることで、自らも美しくなる。
いや、美しいと感じる、その感性こそが、美しいんだ。
人は他人のなかに、自分自身をみつける。
そして、自分自身のなかに、他人をみつける。
そう、君の演じたものは、君の作りだしたものは、
すべて君自身という材料からできているんだ。
君は明るい自分を、元気な自分を、本当の自分ではないといった。
――でも、そんなわけはない。
材料がなければ、家は作れない。
食材がなければ料理はできない。
君は、明るくて、元気な種を持っている。
だから花が咲いた。
いつも明るくて元気な、君という花が』
『……だから、悲観するな。嘆くな。
君はいつだって、君だ。君自身だ……。
君の嘘など、君の隠し持った真実の前では、ちっぽけなものだ。
たとえ君がどんなに落ち込もうとも、日は登る。
君がどんなに暗くなろうとも、光はさす。
――そう、多くの影を取り除くのは、
一筋の日光でじゅうぶんなんだ』
そう言って、唯音は、泣きながら助けを求めるわたしに、
その白磁みたいな、やわらかな手を差し出したんだ。
『“笑顔は、愛は、最強!”なんだろ?
――それを、君の手で証明してみせてくれ』
……そうか。
そうだったんだね。
答えは、ぜんぶきみが知っていた。
あの時のわたしは、ぜんぜんわかっていなかった。
今だって、完全にわかっているなんて、いえない。
だけど、澄んだ水が岩に染みるように、
ゆっくりと、わたしの心は、色を変えてゆく。
少しずつ、すこしずつ、わたし達は、わかりあってゆくんだ。
わかりあって、とけあって、ゆけるんだ。
たとえわたしのなかに、どんな暗闇があっても、
それを照らしてゆける、きみがいるんだ。
ずっとそばにいて、受け止めてくれて、許してくれて、包んでくれるんだ。
それが永遠に続くわけじゃない?
――そうだね。
ひとは、簡単に死んじゃうから。
パパとママがそうだったように、唯音だって、いつかは消えちゃうよ。
でも、この事実だけは、永遠だよ。
唯音が、わたしにしてくれたたくさんのこと。
やさしさ。
あたたかさ。
それは、うそじゃない。
にせものじゃない。
だから、このしあわせだけは、
きっと、ぜったい、一生わたしを生かしつづけるよ。
この胸のなかで、消えない魔法となって、生き続けるよ――。
ながいながい時間、わたしと唯音は、無言で抱き合っていた。
ふわふわした嬉しさと、あったかい幸せが、
唯音の体温越しに、胸をいっぱいに満たす。
“ああ、もうなにもいらないかな……。”
――そう、本気で思っちゃうぐらいに。
やがて唯音は、ぽつぽつと語りだす。
「……これから作ってゆく新しい世界では、
ぼく達七人が、一丸となり、
観察者<エヴェレット>の力を借りて、
秩序を保つ」
「――え……?」
「実は君を探しているうちに、彼に……エヴェレットに出会った。
彼は、最初から、こうするつもりだったらしい」
『呪われた力で支配するのは、
常闇の世界の専売特許だ。
その長い夜に、たったひとりの少年が、
蝋燭を灯して回ったように、
この世界でも、同じことが行われるべきだ。
だが、あいにくぼくは、人の真似が嫌いでね。
オリジナルの要素として、軽く世界を滅亡させ、作り直すことにした』
『軽く……? それじゃあまるで』
『ああ。まあね。
でも、<十字架の人柱>なんて、
今流じゃないだろ?
だから、根本的改革として、
神様という基礎概念と、
マンネリ気味な世界律を、一新してみた。
新しい世界では、愛という電池で、すべてをまかなう。
低コストで、最大のパフォーマンス。
代わりに、ファンタジックな力はほとんど使えないが、
まあ、それで充分だろう』
くくっ、と明るく笑う彼は、
容姿こそ俳優のように整っているものの、
まるで普通の男だったが、
その体は信じられないほどまばゆく光輝いていた。
『――あなたは、一体……』
『ああ、ぼくは、4つの鏡面の世界の観察者にして、
朝顔の世界の顧問。
まあ、管理神と呼んでくれてもいいよ。
――名を、<エヴェレット・ヴァシュレンタイン>。
どっちも名字なのは気にしないでほしい。
名前など、ぼくにとっては無意味だからね』
『……?』
『それでもぼくを呼ぶというなら、
気軽にエヴェレットと呼んでくれてかまわない。
君たちは、いわばぼくに選ばれた、特別な子どもたちだ。
この世界を、君たちに預けよう。
――だが、夏芽、といったかな?
彼女は朝顔の女神にふさわしい資質を持っているが、
彼女の母親……愛の女神<メリーアン>は、
最初から女神にするつもりなどさらさらなかったようだ。
君も、破壊と創造の神となるには、優しすぎると言っていたね。
君たちに、神の真似事はできない。
終わりきったぼくたちの二の舞も避けたい。
ゆえに、君たちの役割は、さしづめ中間管理職だ。
言い換えれば、
ぼくから受け取ったエネルギーを行き渡らせる、運び屋だね。
それには、夏芽君の、<なにも奏でないのにすべてを奏でるタクト>と、
君の、<共鳴と増幅のヴィオロン>が必要だ。
世界をあるべき形に調律し、正の感情を集め、増幅させる』
『あなたと愛の女神は、いったい……』
『――どんな関係だと思うかい?
だが、真実など、俯瞰すれば、たいしたことはないんだよ。
君をがっかりさせるのもなんだし、もうしばらく、秘密にしておこう。
――だが、夏芽の父親に関してなら教えよう。
――空橋四季。
四音音楽学院の理事長にして、
音楽の父<バッハ>の魂を継ぐ者。
まあ、ぼくからすればただの子羊にすぎないが……。
君にとっても、尊敬すべき人間なんじゃないかな。
――四つの魂の後継者よ』
『え……』
『てっきり、もう失ったと思っていたかい?
あの人はそう狭量ではないよ。
ただ、君たちを試したかっただけだ。
一応、神だからね。たまにはちゃんとしたかったらしい。
だが、愛の女神なんていうが、
彼女もまた、一児の母にすぎないんだ。
ただ、人一倍、欲しがり屋で、人一倍、甘えん坊で……、
人一倍、愛たるものを知っているだけの人だ。
まあ、誰かに似ているなんて、わかりきったことは言わないでおくよ』
ああ、それから……と、振り向いたエベレットは、
にやり、と満足そうに笑った。
『夏芽に伝言だ。
ぼくは顔を合わせるわけにはいかないから、君から伝えてくれたまえ』
「――え? 結局、なにがどうなったの?
女神様がわたしのママだとか……それって嘘じゃなくて??」
「ぼくもそう思った……だが、あの時空から舞い降りた女神様は、
確かに君そっくりだった。
髪が長くて、うら若い女性だったが、
君が成長したら、ああなるのかもしれないな」
「えーっ。いやいや、ないよー!
きっと、エヴェレットさんのジョークだよ!
わたしが神様の血をひいてるとか、絶対ありえないって!!」
「だがな……」
「本当に違うって!
だってわたしはただの……。
<元気だけが取り柄の、普通の女の子>だもん!」
「君が言うか」
ぼくは、苦笑する。
世界で一番強くて、けなげな、ぼくのヒロイン。
ぼくを守ると言ってきかない、困ったヒーロー。
ああ。そうだな。
君は世界一特別な、普通の女の子だ。
この先なにが起ころうと、そのことだけは守ってみせる。
あのとき、あの瞬間、ぼくは、ぼくの生まれてきた意味を悟った。
ぼくが歩んだ、短い、まだ始まったばかりの人生の意味を。
大げさだろうか。
――いや、とんでもない。
夏芽がいれば、ぼくは、ヒーローにも、ヒロインにもなれるのだ。
この半端な性も、そのために与えられた、女神様の祝福だと、
今なら信じてもいい気がした。
苦難は続くだろう。
ぼくは、どちらの性にもなれない。
だが、夏芽は、ぼくたちは、そんなことで、不幸になったりしない。
互いの翼を重ねて、どこまでも飛んで行けるだろう。
守ったり、守られたり、抱きしめたり、抱きしめられたり、
与えたり、もらったりしながら、愛という光の魔法を、奏で続ける。
不思議と、失える気がしない。
たとえどちらかが潰えても、きっと、この魔法は永久に解けないだろう。
君のくれた奇跡は、ぼくが消える最期の瞬間まで、この胸で、息づく。
ただひとつだけ願うとしたら、
やはり、看取るのはぼくでありたい。
けなげな君は、きっとぼくという喪失すらも、
受け止め、抱きしめながら微笑うのだろうけど、
強くたくましい君の、真実の涙をみてしまったぼくは、
やはり君からは、もうなにも失わせたくないのだ。
これだけは、絶対に譲る気はない。
エヴェレット(あのひと)の言った通り、
ぼくは結構、いやかなり狭量で、わがままな奴なのだ。
『“――そして、貴方の娘さんをぼくにください”だって?
どさくさにまぎれて、ずいぶん大胆なことを言ったものだ。
まあ、あの人のことだから、くすくす笑って、
はい、どうぞどうぞ、と冗談めかして答えただろう。
おっと、伝言だったな。
こほん、――伝えておいてくれたまえ。
“君が持つ闇など、しょせん大したことはない。
多くの影を取り除くのには一筋の陽光で十分なんだよ”とね。
まあ、あの子なら、簡単に持ち直してしまいそうだな。
自分が悲劇的な主人公<ヒロイン>だなんて幻想、
すぐに捨ててしまえるだろう。
君という、ほんとうに自分を特別扱いしてくれる片翼さえあれば、
あの子はついには、自分の影<シャドウ>さえ、
受け入れることができるようになるだろうからね。
そう、“笑顔は、愛は最強なんだ”と、
もう一度魔法をかけることができる。
今度は永遠に解けない、<最強の魔法>をね。
今回の出来事は、そのためにあったと思ってもいい。
……この世に、偶然などなにひとつないのだから。
まあ、教訓だと思って、これからも励みたまえ。
人生という、儚くも長い、美しい道のりをね』
世界は、回る。
運命の女神と、観察者の御手で、何度でも繰りかえし、
進化と変化を紡ぎながら、消滅のその時まで、輝きつづけるだろう。
――空橋夏芽は、この先、一生、女神にはならないだろう。
だって、彼女は、自分は特別じゃない、と気づいてしまったからだ。
唯音だけの特別でいたい、と思ってしまったからだ。
そして、自分は普通だと、最後まで思いこみながら、死んでゆくだろう。
それが彼女の、なによりの願いであり……。
きっと、最上にして、最高の人生、なのだから――。




