~ 交響曲 第19番 “ラ・カンパネルラ” ~
――それは、救済の調べ。
わたしは、白い道を歩いていた。
ずっとずっと、ずっと。
どれくらい歩いたんだろう。
長い道のりのなか、たくさんのわたしの姿を横切った。
産声をあげるわたし。
よちよちと歩くわたし。
幼稚園の門の前でピースをするわたし。
泣くわたし。
笑うわたし。
すべて、どうでもいい。
何も、感じない。
よくできた映画のフィルムみたいに、繰り返される人生の劇。
これが、神さまなんだ、とふと思う。
自分のことさえ他人事。
でなければ、どうして人の人生を弄べるだろう。
烈火は言った。
あたし達は、この世界を観測する存在、<エヴェレット>の愛し子。
特別に選ばれて、特別に、異なる世界を旅することができる。
多大なる犠牲と引き換えに、選択することができる。
どの世界を生きるのか。
どう生きるのか。
――どう死ぬのか。
鏡の外、自分こそが世界の主役のように、
おかしな悲劇や喜劇に興じる人々を、
エヴェレットは、永遠にみつめる。
無感情に。
あるいは、呆れながら。
それでいて、面白そうに。
いつしか世界は、緩やかに崩壊をはじめた。
観察者が手心を加えた砂糖菓子の世界では、人々は驕り、
やがて、約束という魔法があれば、自分達には何でもできると信じた。
箱庭のなかで、自分こそが支配者だと、
神々などもういらないのだと、思い込んだ。
愚かな人類。
あまりにも、楽天的な人々。
美しいもののみが集められた、朝顔の世界は、
過剰なほど優しく、柔らかく、ゆえにぬるすぎた。
多くの神々は、つぎつぎに消えていった。
人々に望まれなければ、信仰されなければ、
神々など、存在する価値を失う。
最後に残った、真なる神――運命の女神は、とうとう人間たちを見放した。
ついに、この朝顔の世界の内部から、神は消えた。
力の源を失った世界は、もう朽ちるのみとなった。
崩壊間近な世界は、最後の希望――新たな女神を求めた。
人類のなかで最も、愛という莫大なエネルギーを備えた、人柱を。
それがなぜわたしだったのかなんて、ぜんぜんわからない。
ただ、くじ引きに負けてしまっただけな気もするし、
ぼんやりとだけど、それが義務で当然なのだという感覚もある。
どんどん抜け落ちてゆく感情。
このまま歩いて、なにがあるの?
わたしは、なんのために、歩いてきたんだろう――?
死ぬために?
――生きるために?
――いや、理由なんて、もうどうでもいい。
わたしは、きっと、頑張りすぎたんだ。
愛が欲しかった。
与えることの喜びを知った。
それは、無償の愛なんて言うには打算的で、無意識なわがままだった。
ハルピィアさんに言われてはじめて、
わたしは、わたしのほんとうの正体を知った。
それは、遅行性の毒みたいに、ゆっくりと、
でも容赦なく、わたしを蝕んでいった。
なんて、醜いんだろう。
……なんて、厚かましいんだろう。
――知りたくなかった。
願わなければよかった。
『笑顔は、愛は、最強なんだよ!』
……ほんとうに?
それはただ、そう思いたかったからじゃないの?
お義母さんやお義父さんの真似をすれば、褒めてもらえるって、
愛してもらえるって、思ったからだよね?
誰かのためとか、そんな立派なものじゃなく。
わたしは、ただの、愛されたがりで。
からっぽの、からからの……、
“飢え渇く子”<ロスト>にすぎなかったんだ……。
どこからか、失われた旋律が聞こえてくる。
――ロスト。
――ロスト・プレリュード。
<失われた序曲>。
あの日、音楽喫茶<カフェ・ボンソワール>を訪れたわたしは、
風変りなマスター・酩酊博士に出逢い、
愛と音楽にあふれた、<朝顔の世界>を知った。
昼の世界と、朝顔の世界は、
まるで重なり合うように、同一化していった。
――そう。
……そうだったんだ。
わたしがなんで、朝顔の世界に呼ばれたかは、
考えてみれば、わかりきったことだったんだ。
朝顔の花言葉は、<愛情の絆>、そして、<固い約束>。
愛に飢え渇く子ども達のための世界――……それが朝顔の世界だったんだ。
わかっていた。
わかっていたよ。
わたしが、何を失っていたか。
お姉ちゃん。
――春花お姉ちゃん。
パパとママを失ったわたしの、たったひとりの血のつながった家族。
お姉ちゃんが、交通事故で死んでしまったあの日、
わたしは、ほんとうの“飢え渇く者”<ロスト>になっちゃったんだ。
新しい家族、義理のお母さんも、お父さんも、優しかった。
わたしにも、お姉ちゃんにも、たっくさん、愛情を注いでくれた。
“愛は、笑顔は、最強なんだよ”
そう、言ってくれた。
優しくてあったかい、魔法をかけてくれた。
だからわたしは、まだ幼稚園児でしかなかったわたしは、
“泣き虫の夏芽”から、“元気で明るい夏芽”に戻ることができた。
でも。
でもね。
違うんだよ。
それは、本当は、あの日、
酩酊博士の喫茶店から聞こえてきたあのメロディーによって、
お姉ちゃんの記憶を喪失<ロスト>したから、
忘れていられた、封じ込められていた、
自分も周りも騙せていただけだったんだよ。
でも。
本当は、ほんとはね。
――怖かった。
本当の家族の代わりなんて、どこにもいない。
誰にもなれない。
パパとママの代わりも、お姉ちゃんの代わりも、世界中、一周したって、
一生、探し続けたって、いない。いるわけがない。
もう、わたしに、本当の家族はいない。
だから、朝顔の女神さまは、わたしを呼んだんだ。
失われた愛を、美しい世界を、わたしにくれるために。
喉がからからに乾き、そのまま、膝をつく。
はだしの足にじゃりじゃりとしたものが、まとわりつく。
――砂だ。
わたしは、気づけば、広大な砂漠のなかにいた。
足元が崩れる。
渦を巻くようにして、飲み込まれていく。
目の端から水分が流れ落ちる。
からっぽのはずの胸が軋む。
わたしは、やっぱり、神さまになりたくない。
無理だ。
わたしには、たったひとりで、ひとりぼっちで、
皆を見守ることなんてできない。
――こわい。
ひとりはいやだ。
寒い。
寒いよ。
もう、いやだ。
――助けて……。
おかあさん。おとうさん。
……パパ、ママ。
……――“唯音”。
声なき声で、叫ぶ。
体中で、助けを呼ぶ。
ゆいね。
ゆいね。
……ゆいね。
「 ゆいねえ……!! 」
(あ……?)
ふと、足元の砂の崩壊が止まる。
――どこからか、声が聞こえた。
……涙が出ちゃうくらい、きれいなアルトが。
「~♪」
それは、“ル”
「♪♪~」
それは、“ラ”
「―――」
(( ……カンパネルラ……。 ))
カァァン……ごぉおんごおん……。
耳を打つ、轟音。
「―――」
「―――」
「―――……!」
“なつめ”
“なつめ”
“なつめ……!”
鐘が鳴るほうを、振り向いた。
高い、高い、時計塔。
その最上階には、大きな白い鐘。
そこに、誰かがいる。
絹のようなプラチナブロンド。
雨上がりの若葉みたいな、瞳。
お人形さんみたいなその子が、こちらをみて言った。
「――夏芽!!」
嬉しくて、嬉しくて、たまらない……!
そんな、溢れ出す光のような笑顔。
手を差し伸べて、こちらに何かを投げかける。
導かれるように差し出した手の上に、
きらきらした白金色の何かが落ちてくる。
そっと、握ったその時、温かいなにかが流れ込む。
「……約束しよう!! 君を生涯愛しぬく!
憂鬱な雨も、残酷な嵐も、
冷徹な吹雪も、君には届けさせない!
ぼくが君を守る! この手に掴んだ……名声も!
この身に宿りし神の祝福も! ……全て、君に捧げよう!
“フレデリック・フランソワ・ルートヴィヒ・ヴァン”……」
掌が、どんどん、熱を帯びる。
それに応えるように、身体がどんどん熱くなる。
記憶の洪水が、わたしを飲み込む。
『夏芽。君は本当に婦女子か!』
『夏芽。今日も宿題を忘れたのか。
――仕方ない。ぼくが教えてやるから、今からノートに取りたまえ』
『もっと慎みを持ってくれ!
だから、手を握るなと何度言ったら……!』
『夏芽。今日の君は……いや、今日は太陽が眩しいな』
『……言わせてくれ。ぼくは、君のことが……!』
最後に、ちらりと頭を掠めた記憶……。
『なつめ。大人になったら、ぼくはきみをおよめさんにする。
きみはどうせわすれるだろうが、ぼくはおぼえているぞ。
――やくそくだ。ぼくはきみを……』
「“フランツ・ペーター・ヴォルフガング・アマデウス……ショパン”!
4つの生を奏で、女神の福音を宿せし者……、
この名に誓い、君を守ろう!!
……夏芽――、受け取ってくれ……!
――これがぼくのすべての旋律だ……!」
唯音の喉から、音の洪水が溢れ出す。
たくさんの、知らない曲。
そのなかに散りばめられた、あまりに有名すぎる曲たち。
雨だれ。
飛翔。
運命。
英雄。
――熱情。
――……そして最後に奏でられた曲……――。
唯音の魂の旋律、
( ( (( ――“誕生”――。 )) ) )
ああ、とわたしの両目から、熱い雫が溢れ出す。
そうだね。“唯音”。
……きみが、わたしの、“片翼”だったんだ。
この世界で、唯一、わたしを呼び戻す音。
“祝福の鐘<ラ・カンパネルラ>”
飛べないわたし達は、いつだって、誰かを求める。
一緒に大空を飛んでくれる、唯一無二の、誰かを。
そう、自分だけの、“片翼”を――。
こくり、とわたしはうなずいた。
世界が、切り取られたように縮小していく。
唯音が展望台から飛び降りる。
ゆっくり、ゆっくり縮んでゆく視界のなか、
すべての音が小さくなってゆく。
とうとう、ひとつだけになった旋律が、
わたしの中に吸い込まれる頃、唯音はふわりと舞い降りて、
わたしの手にその繊細で、すべらかな指を絡めた。
「――帰ろう。世界の音楽はすべて君のために。
4つの魂は、今、君に捧げられた。
これからは、君が奏でてくれたまえ。
――新世界を彩る、新しい交響曲を」
「唯音、わたしは……」
「――わかってる。神様になんてならなくていい。
ぼくがなんとかしてみせる。
……いや、ぼく達が、なんとかしよう」
少し恰好をつけすぎた、と唯音は笑う。
そして、涙をぬぐい、最後に、こう言った。
「“世界よ、止まれ”。
ぼくも、夏芽も、神にはならない。
――朝顔の女神様。もう気はすんだだろう?
もう、ぼく達は、あなたを忘れない。
あなた達を、ないがしろにはしない。
だから、ここで打ち止めだ。
ぼくには五つも魂はいらない。
この余った四つの魂と、彼らが奏でたすべての音楽を譲ろう。
<楽聖>でもなく、<詩人>でもなく、
<神童>でもなければ、<王>でもない。
ぼくは、ただの“唯音”でいい。
夏芽を救う、それだけの音がいい。
だから、朝顔の女神……誰より美しく尊い、夏芽のお母さん。
――ぼく達を許してくれ。
ぼくらは愚かで、すぐ調子に乗り、同じ過ちを繰り返す。
だが、あなたの夫がそうであったように、
ぼくらも、新しい世界を欲している。
こんな甘やかされた世界ではなく、時には苦い、本当の世界を。
……ぼく達に必要なのは、
エヴェレットの慰みの箱庭ではなく、
もっと苦く、苦しく、ゆえに尊い、本物の世界だ。
女神“メリーアン”。
空橋……芽守さん。
どうか……この世界を、終わらせて欲しい。
ぼく達に、新たな世界を託してほしい。
……そして……」
まどろみのなか、わたしは、懐かしいあの子の夢をみる。
賢そうな若葉色の目をした、可憐な子だ。
失った記憶は、いつか返ってくる。
ほんとうに必要なその時のために、大切にしまわれているんだ。
ロスト・プレリュード。
約束の旋律。
辛く苦しい現実を忘れさせてくれる、魔法の音。
そうだね、酩酊博士。
わたしは、神さまには、ならないよ。
だって、わたしは……。




