~交響曲 第18番 “英雄”<ヒーロー> ~
――それは、世界で、たったひとりの。
「怖い……怖いよう……パパ、ママ……」
霧の向こう、少女の声がする。
「夏芽……?」
ねばつくような闇が、足をからめとる。
早く、夏芽を探さないと。
白い闇にとけてしまってからでは、遅いのだ。
朝顔の世界に取り込まれてしまったら、
夏芽はこの世界の女神になってしまう。
それだけは……それだけは、阻止しなければ……!
――向日葵のように微笑う夏芽。
――ぴょこんとポニーテールを揺らす、元気な姿。
――潤んだように輝く、無垢な瞳。
……あたたかい手。
――すべて、すべて、失わせてはならない……!
息がはずむ。
何度も転びそうになる。
目がかすみ、喉が焼け付く。
((――夏芽……っ!!))
――そんな時だった。
急に、霧の濃度が変わる。
さらさらした空気に、開ける視界。
そこは――なんてこともない、どこかの庭だった。
チューリップの花のプランターの近く、少女がしゃがんでいる。
五歳くらいのちいさな女の子だ。
いや、その顔は……!
「夏芽……?!」
愛らしいほっぺ。くりくりとした黒の瞳。ふたつに結んだ髪。
それは、まるで夏芽を、さらに、ちいさくしたような子だった。
「? ……おにいちゃん、なつめを知ってるの?」
「君は……」
まさかほんとうに、夏芽本人なのか――?
――いや、驚いている場合じゃない。状況を把握するんだ。
「――ああ。よく知っている……。……おにいちゃん?」
「だって、おにいちゃんはおにいちゃんでしょ?」
にかっ。楽しそうに笑う夏芽。
「……君は……君だな――」
目を細める。
あたたかい気持ちが、そっとなだれ込んだ。
「パパとママとはぐれたのか?」
「……ううん。パパもママももういないの。
お星さまになっちゃったんだよ」
「……そうか。君は……ぼくと同じだったんだな……」
「同じ? おにいちゃんも、ひとりぼっちなの?」
「……ああ。妹もいるが、ぼくでは、妹を幸せにできない。
だから、ふたりぼっちだな」
「……そっか。一緒なんだ」
夏芽が下を向く。
「……夏芽……」
「――ねえ、おにいちゃん。
なつめ、いいこにしてるから、泣いたりしないから。
……そしたら、なつめのヒーローになってくれる?」
「……ヒーロー?」
「うん。なつめが怖いときも、苦しいときも、
なつめのとなりにいて、おててをぎゅってしててほしいの。
それだけでいいよ。
助けてくれなくても、守ってくれなくてもいいんだ。
そしたらなつめは、誰よりつよくて、しあわせなの」
「……ぼくでいいのか?
だが、今の君にとってぼくは、単なる通りがかりの……」
「……ちがうよ。全然ちがう。
おにいちゃんがいいの。なつめを助けに来てくれたから」
「いや……しかし……」
「……嫌?」
「――そんなことはない!」
慌てて、弁解する。
「なんにだってなろう。
ヒーローだってかまわない。
君が望むなら、ヒロインになってもいいぐらいだ!」
ふいによぎったのは、あのあたたかな微笑みだった。
『――もう唯音は泣かなくていいよ!
……わたしが唯音のヒーローになる!
世界だって救っちゃってみせるよ!
だから、唯音は隣で笑ってて。
わたしの右腕になって! わたしだけの、ヒロインになって!』
『――……そして、一緒に世界を救おう!!』
(( ――そうか。夏芽が本当に望んでいるのは…… ))
ぼくは、足元のシロツメクサを手にとった。
「――病める時も、健やかなる時も……、君のもとに。
君を愛し、敬うことを誓おう。
――夏芽。約束だ。また会おう。
今度は、君のもう少し大きくなった時に。
――それまで、これを託そう」
「……これ……」
草と花で編んだ、ちいさな輪。
「ゆびわだあ……」
夏芽は、信じられないようにそれをみつめると、
そうっと、手のひらにのせた。
「……すごい、おにいちゃん。これ、なつめの宝物にするね」
夏芽が笑う。そのまなじりには、まだ涙のあとが残っていた。
「……これでおにいちゃんも、ひとりじゃないね!」
「……?」
「だって、シロツメクサの花言葉はね、“約束”だから。
女神さまとの約束は絶対なんだよ!
だから、きっと、また会える。ぜったいぜったい、そうだもん!」
そう言って、夏芽は後ろを向いた。
ぴょこん、ぴょこん。
嬉しそうに、跳ねると、そっと目の端をぬぐった。
「じゃあね! --“唯音おにいちゃん”!」
くるん、と振り返った夏芽は、
太陽にとかした蜂蜜みたいに微笑って、駆けていった。
「――え……」
ぼくは、いつ名乗ったんだ……?
ぼくの疑問をよそに、視界が急に歪む。
立ち込める白い霧。
ぼくは、再び異なる世界に飛ばされようとしていた――。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……ちょっとしたサービスですわ」
わたくしは、鏡面の世界から、そんな唯音様をみつめる。
“おわび、だなんて言いたくありませんの。
だって、負けたみたいでしょう?”
声に出さず、そっと唇を動かす。
「……わたくしは、いつだって完璧なんですもの」
そっと、すねるように、繰り返した。
唯音様への想いだけなら、夏芽様にも、誰にも負ける気がしない。
けれど、唯音様をしあわせにできるのは、この世にあの子しかいない。
それを見誤るほど、馬鹿ではないのだ。
「――伯爵……」
急に、さびしくなって、肩を抱きしめる。
“探偵伯爵”。
ばかばかしいあだ名。ばかばかしい容姿。ばかばかしい性格。
けれど、そんな貴方に、今、会いたい。
この穴の空いた心を、埋めることができるのは、きっと……。
――悔しいけど、貴方だけ。
貴方様はいつだって、格好をつけて、わたくしの 前に立ちはだかる。
まるで、誰をも悪者にしない、と粋がるヒーローのように。
わたくしのかぎづめが傷つかないように、
わたくしの心が壊れないように、そっと抱きしめてくる。
いつもは話しかけもしないくせに。
ぬるく生優しい眼差しで、みつめるだけのくせに――!
――なんて、なんて……憎らしいひとでしょう!!
――だから、わたくしは、貴方が大嫌いで、大嫌いで、大嫌い。
――もう一生、許してあげませんわ。
わたくしの……。
愛しい愛しい、憎らしい酩酊伯爵<ヒーロー>様――。




