~交響曲 第15番 “メサイア”―“清らかな女神よ” ~
――それは、喪失へ贈る答え。
「ひとつ、言っておきますわ」
ハルピィアが、振り向いた。
「わたくしは貴方が嫌いですの。
救いがたいほど甘ったれていて、見がちで――……気軽に命をかける。
まるで、約束を――自分の命を、自分だけのものだと思っているかのよう。
貴方様は、裏切られ、
失意に染まる者の気持ちがまるでわかっていらっしゃらない。
そう、それ以前に、想像すらできない。
自分が、とほうもない罪を犯していることを。
あなたは、自らの浅はかな行動の責任を、まるで気にかけず、
まるで息をするように、他人を愛する。
愛された人間は、当然期待します。
ずっと、愛されることを。
約束を、守ってもらえることを。
でも、貴方様は、あまりに軽々しく、
自分の命をかける、などとそらぶく」
磨き抜かれた薄紅色の瞳のなか、
黄金色の瞳孔が、さっと真紅に染まる。
「もう、わかっているでしょう?
貴方様の本当にしたいことは、
愛することでも、救うことでもなく……
愛され、救われ、低俗な自らを慰め、甘やかすことだと……!」
「…………」
夏芽は、黙る。
そして、口を開く――。
「…そうだよ。」
ぼくは、目を見開く。
夏芽の表情は、驚くほど静かだった。
「わたしは、愛されたがりだよ。
甘ったれているし、甘やかされるのもだいすき。
誰かに愛されたくてたまらなくて……だから、わたしは愛する。
まるでそれが当然みたいに」
ひっそりとしたその声は、
心を濯ぐ、一陣の風のようだった。
森の奥へと吹き込む、涼やかな風。
それまで見下したようだったハルピィアが、わずかにその空気を変える。
嘲るように、罵るように浮かべていた笑みが、
かすかに、疑問の色をあらわす。
「……そうなんだ。
ハルピィアさんの言ってることは、まるで正しいよ。
わたしは、これまで、わたしを騙してた。
そんな事実、つらいし、呼吸を失うくらい、認めたくなかったから。
きっと、本当のパパとママを失った日から、
わたしの体は、からからに乾いて、砂漠みたいに……、
愛情欠乏症になっちゃったんだ。
苦しくて、悲しくて、誰かに助けてほしかった。
……お義母さんとお義父さんは、最初からそれに気づいてた。
なのに、優しい手で触れてくれた。抱きしめてくれた。
“あなたは、愛される価値がある。
素晴らしい子だよ、私たちの子どもだよ”、って……。
『きっと大丈夫。
すべては、女神さまの言うとおり。
あなたは、すぐに、愛することができる。
――だって私たちの……“愛は、笑顔は、最強だから!”』
「……そう、そう笑ったんだ」
夏芽は、言葉をつまらせながら言った。
その瞳は、いまにもこぼれ落ちそうなくらい潤んでいた。
「だからね。わたしは決めたんだ。
もう、子どもみたいにだだをこねて、欲しがるだけのことはしません。
してほしいことがあったら、自分からします。
愛されたいから、愛します。
優しくされたいから、優しくします。
だけど、その代わり、
相手にしてもらうのを待つんじゃなくて、自分からします、って――」
『だから神さま、わたしに愛をください。
わたしは、やっぱり、愛されたい!
わがままでごめんなさい、でもそれがわたしなんです……!!』
うなだれるようにうつむき、しかしきっぱりと夏芽は言った。
口元は、夏芽らしくなく、自らへの皮肉を感じさせるものだった。
わずか数秒、沈黙が下りる。
目を上げた。
ハルピィアをみつめた。
その瞳はまだ潤んでいたが、
決意を感じさせる、しっかりとした目つきだった。
「――わたしは、そう約束しました。
それがわたしの、生まれてはじめての約束でした。
わたしは、なんの力も持っていません。
唯音みたいに作曲やバイオリンの才能があるわけでも、
烈火みたいに周りを魅力するプリマドンナでも、
エマみたいに賢くて毅然としているわけでも、
永遠音ちゃんみたいに、
バレエ界のエトワールとして認められているわけでもない。
無力だけど、無謀だけど、でも、恥ずかしいなんて思わない。
だって、だからこそ、自分のすべてをかけられるから。
――約束できる。命がけで。
――だってそれだけしかできないから。
それが、わたしに使える、たったひとつの魔法だから……」
「……そうですか」
ハルピィアは、それきり黙った。
やがて背を向け、言う。
「……ならば、貴方は貴方にできることをしてくださいませ。
わたくしは謝りません。その代わり、貴方様にこれを託します」
ハルピィアが、自らの両翼を大きく震わせた。
きらきらと、朱金の鱗粉が散り、
それを凝縮させたような、ひとつの鍵が姿を表した。
「これは、わたくしの管理する、
<アカシャの図書館>の書架に至る鍵ですわ。
これを持ちいれば、この世のありとあらゆる知識と真理のうち、
ただひとつを手に入れることができますの。
いいですか、繰り返しますが、選ぶことができるのは、一度きり。
それが、最初で最後のチャンスですの。
よくお考えになり、そして……必ず唯音様をお救いくださいませ」
くるくると回りながら落ちるそれを手にした夏芽は、
ぎゅっと胸に抱きしめた。
「……うん」
そして、笑った。それは、晴れやかな笑顔だった。
目の端には、輝く朝露。
……ああ、とぼくは鳥籠の柵を握りしめた。
君は人も、運命も、呪ったりしないんだな。
どんなに痛めつけられようとも……けして、恨んだりしない。
それがたとえ、悪意でできたものだったとしても……、
その底に、一片の善や、意味があったならば、
あるいは、自分に至らないところが少しでもあったなら、
すべてを受け止め、飲み下し、襲いくる闇ですらも、糧とする。
君は……なんて強く、尊く……美しいのか。
ぼくは、ぎゅっと柵を握る。
いつか、そう遠くない未来、
君はぼくの前から羽ばたいていってしまうだろう。
世界の調律者……女神として。
ヴィオロンは、夏芽を選んだ。
<なにも奏でないのにすべてを奏でるタクト>……。
世界を調律する神器を、託した。
そう、君は……ぼくの手の届かないところへ、行ってしまうんだ―。
ぼくの背中から、燐光が舞う。
この体に宿る、残酷な女神の祝福が、銀色の翼に形を変える。
“――ならば、ぼくにできることは……”
きぃいいいん……。
耳障りな音と共に、
ぼくを閉じ込める鳥籠が震え、砕けてゆく。
金色の破片が、雪のように、桜のように舞い散り、
ぼくの周囲をまわりだす。
――愛することが怖いか?
――失うことが怖いか?
……自らのすべてを、解放することが、恐ろしいか?
―すべてイエスだ。
それでも、君がたったひとりで、
世界のすべてに立ち向かうならば。
ぼくは君の片翼に――<翼>になろう。
君の、守護者に。
生まれながらに、呪いにも似た祝福を受けたとはいえ、
ただの人間であるぼくが、
ハルピィアやリリカのような人ならぬ存在になろうとしたら?
きっと、もう、後戻りはできない。
それでも、君が女神という名の孤独に身を浸すとしたら、
ぼくにできることは、ぼくがすべきことは、ひとつしかない。
――破壊する。
破壊と創造の神に、ぼくはなろう。
呪いと祝福に満ちた夜の夢の世界、<常闇>の神々も、
もとは人だったという。
世界は違えど、彼らにできるなら、ぼくにもできないはずがない。
神々になる条件。
それは、多大なる祝福の代わりに、
途方もない呪いを戴くこと。
――茨の冠を被り、運命に列すること。
きっと、神々すらも、そのさらに上の存在に支配されるだけの、
操り人形にすぎない。
それでも、君が、
人々のために<十字架の人柱>となるなら――。
ぼくも、その痛みを引き受けよう。
君だけを、<メサイア>にはしない。
君が苦しむなら、ぼくも、一緒に苦しもう。
君が喜ぶなら、ぼくも、喜ぼう。
もう、ぼくたちはひとりじゃない。
ふたりでひとつの存在、一柱の両翼だ。
……これが、ぼくなりの覚悟。
……――そして、ぼくにできる、最初で最後の<約束>だ――……。




