第0番 “ロスト・プレリュード”
博士は、ひげを触りながら言う。
『ほほう。それではきみは、失ったものを取り戻しに来たのかね?
――良いだろう。
喪失と奪還の物語は、
何度でも繰り返すということか。
だが、真青き清らの花<リシアンサス>と、君は違う。
彼にはできたことが、君にはできないだろう。
その代わり、彼にはできなかったことが、きっと君にはできるはずだ。
――約束しよう。君は新しい世界の旋律を聴くだろう。
それは、まるで突然流れ出す。
そう、こんな風にね――。
さあ、行って来たまえ、夏芽くん。そしてようこそ、私達の世界へ――!』
わたしの記憶は、更に上部へ向かっていく。
ごく最近の記憶だろう。
まだ新しい、ぴかぴかのガラス玉だ。
『私は探偵なのだよ。探偵伯爵と人は呼ぶ。
朝顔の世界きっての、ホームズとね!
では謎かけをしようか。
行きはよいよい、帰りは怖い、これはいったいなにかね?』
「えーっと……。聞いたことがある。
なんだったっけ……?
確か、山……峠越えの話だよね? 」
『そうなのだよ。
行きは明るくて歩きやすいが、帰りは暗くて心もとない。
夜盗が出るかもしれないし……獣に襲われるかもしれない。
だが、これはつまり、君のこれからの話ともいえる』
「え? 博士、それって……」
『用心することだ。
日のさす昼間と、月の照らす夜では、世界はまったく姿を変える。
みえるものにのみ囚われないことだ。
すでに、序曲<プレリュード>は奏でられた。
きみの存在するこの世界は、
きみが思うように、明るく美しいばかりではない。
常闇の祝福の代償に呪いがあるように、
この朝顔の世界にも……。そう……きみの隣にも……』
……はっ。
気がついたら、わたしはベッドの上にいた。
なぜか、胸騒ぎがする。
わたしは脱ぎ捨てたパジャマを丸めて放り投げると、
下着を変え、制服を羽織り、その場所に向かう。
そう、酩酊博士の音楽喫茶だ……。
「……本日、休業日……」
看板を前に、立ちつくす。
古びた木のプレートには、
“また後日、いらしてくれたまえ”
という風なことが書いてある。
がっくりと肩をおろしたわたしは、店先に置いてある小箱に気がついた。
“夏芽くんへ――”
それだけ書かれたメモをめくると、思った通り、
ワインの木の箱の、ちいさいのが姿をあらわした。
ぎいい。
中を開けると、手のひらサイズのオルゴールが入っていた。
ピアノの形をしたワインレッドのオルゴール。
そっとねじを巻くと、あの時と同じ眠気が襲う。
くらくらと膝を折ると、
懐かしい、優しいプレリュードが耳になだれ込む。
間違いない、これは、<朝顔の世界>の旋律だ……。
――さあ、扉を開け……。